「生存する脳」(Descartes' Error)アントニオ・R・ダマシオ
      第1部は一連の不思議な患者達の話から始まる。前頭葉前野の特定の領域(腹内側)を損傷した人は知覚、記憶、言語、運動や通常前頭葉の機能と見なされる知能について何の異常も無いにもかかわらず、推論や意思決定力が無くなる結果、社会的行動に纏まりが無くなる。仕事に厭きっぽかったり、一つの作業から抜けられなかったり、不利であると分っていることを避けられなかったりする。こういう人達には情動や感情が無くなっている。前頭葉前野の他の部分が損傷してもこれらの症状は現れるが、その場合にはもっと他の知性も衰退する。他には右半球の体性感覚野、扁桃体の損傷でも同様な症状が出る。チンパンジーによる実験では更に前頭葉前野の損傷がちょっと前に示された餌の在り処を忘れてしまうという障害を引き起こすことが分った。社会的行動も失われる。この部分と扁桃体に共通する神経学的な特徴として、セロトニンレセプターが多い事も注目される。これは感情の抑制に重要であることが分っている。この推論・意思決定と感情・短期記憶の不思議な取り合わせの持つ意味はなにか?

      第7章:情動は基本的には扁桃体で指示される。扁桃体にある決められたパターンの神経活動が伝えられると、顔や四肢の筋肉へ、また自立神経系へ、更には視床下部を介してホルモン分泌が起こり、また脳幹中の一連の核と前脳基底が情動の内容に従って神経活動の効率を支配する物質を放出する。操や鬱の状態はその極端な例である。この情動反応それ自体は情動を起こした原因刺激と結びつけて意識される事が多い。これが1次情動であり、生得的な物である。高等動物は更に学習された情動反応(2次情動)を示す。これには前頭前野が関与する。刺激は分析され扁桃体と前帯状回に送られる。
      笑いというのは2種類あって、情動反応としての笑いは唇の周りの頬骨筋だけで無く目の周りの眼輪筋も動かす。ところが意識的に笑おうとするとせいぜい頬骨筋しか動かせないので作り笑いになる。神経経路が異なるのである。
      情動は身体的反応であり、それは脳にフィードバックされている。神経的には体性感覚野で統合され、ホルモンやペプチドといった化学物質も脳で検知される。その意識が感情である。感情にも種類がある。1次的な感情(喜び、悲しみ、恐れ)は経験と結びついて、2次的な感情(幸福感、憂鬱、パニック)更には自責の念、当惑、復讐心等に発展する。普段感情とは認識されないが、通常の状態の身体を感じている時には、「背景的感情」が存在していると考えるべきである。それが無い患者(病徴不覚症)は現在の自分の身体状態を感じることが出来ないので、過去の記憶によってそれを補っている。言葉や眼で確認したとしても直ぐに忘れられてしまう。感情を伴なわない記憶は残らないから。患者は自己を統合することが出来なくなっている。自分が変わらないということを基準にして周囲の変化を感じるのであるが、それが出来なくなる。

      彼の仮説に入る前に心についての彼の考え方を引用しておく。<<有機体が心を持つと言うことは、その有機体が、イメージ(広い意味)になり得る、そして、将来の予測、計画、次なる活動の選択などを手助けすることで最終的に行動に影響を及ぼし得る、そんな神経的表象(neural representation)を形成する、と言うことである。>>脳は身体に起きていること、脳自体に起きていること、そして環境に起きていることを知らなければならず、その結果有機体と環境との間に生存可能な適応が達成される。脳が進化する過程で働いたこのような淘汰圧を無視して脳を解釈することは不自然である。脳はあくまで身体無しには存在し得ない。

      第8章:「ソマティック・マーカー」というのは、somatic(身体的)な注意付けと作動記憶の活性化をもたらすような神経表象である。それは遺伝的にも経験的にも蓄積され、特定の神経表象に対して快・不快・安心・恐怖等の情動をもたらし、われわれの決断の初期段階を左右する。全ての可能性を考慮して論理的に決断することは出来ない。決断するときには必ずソマティック・マーカーによるバイアスが働いている。この章の最後のところで言語と関わる記述があるので引用する。ここで「・・・」は比喩的に使われているが、同時に言語の起源が運動に由来していることも暗示している。

      <<思考を構成しているイメージは「語句」で構造化されていなければならない。そしてその語句は、[文章的」に秩序だてられていかなければならない。それは、われわれの外的反応を構成している運動の枠組みが特定の形で「語句化」されていなければならないのと同じであり、また運動が初期の効果をもたらすには、その語句が特定の「文章的」秩序に置かれていなければならないのと同じである。われわれの思考と運動の「語句」と「文章」を構成する枠組みの選択は、並列的に表示されたいくつもの可能性の中からなされる。そして思考と運動はどちらも協調的処理を必要としており、いくつかの秩序だてられた手順が、継続的に進行しなければならない。>>

      ここで幾つかの表示された可能性にランク付けをするための基準がソマティック・マーカーによって与えられる。ソマティック・マーカーはあくまでも生物学的衝動や社会的動機付けに根ざしているので、いつも正しい選択を保障するわけではないが、どうでも良いような判断で長時間悩むようなことは避けられるようになっている。直観といわれている作用もソマティック・マーカーの働きである。

      こう言う風にまとめてしまうと何となく当たり前の様であるが、このような作用が脳の特定の場所で行われていて、そのプロセスが解明されつつあると言うことが重要である。中心となるのは前頭前皮質の内側部であり、ここには脳内のあらゆる情報が集約されている。これは「爬虫類の脳」で同様な働きをする扁桃体が「類人猿の脳」につくった前線基地のようなものである。ソマティック・マーカーの源泉である身体の状態は特に体性感覚野で統合されるので、情動はそこで意識されて感情となるが、われわれは学習の結果として、身体を介することなく、直接体性感覚野を活動させることが出来る。これはソマティック・マーカーを効率的に発現させるのに役立っている。

      第10章:自分が自分であるという確信は何処から来るのか?その神経的基盤は何か?これが自己の問題とその主観性の問題である。自己の意識は単なる意識そのものではない。少なくとも2種類の表象の連続的再活性化(想起といった方が分り易い)である。第1のものは我々のアイデンティティに関する最新のイメージの際限ない活性化である。私が見ているもの、つい先ほど受けた感情、これからまさに為そうとする行動、、、、。これはまあ常識的な考えである。第2のものは私の身体の原初的背景的表象である。これは余り意識されることがないが、病的に阻害されると奇妙な自己喪失(病徴不覚症)が起きることで分るのである。この様に自己の意識(イメージ)は2重構造になっている。ところで私がまさに対象を感じているという主観性はどこから来るのか?対象が脳の中に神経活動として表象されると、その信号は前頭皮質内側部を介して(介さない場合もあるが)扁桃体に送られ、そこでの判断(指示的表象)によって身体の状態を変える(情動)。この有機体としての変化は体性感覚野で総合的に表象となる。この一連の表象の関連に注意が向けられることで主観性が生まれる。対象の表象やそれに反応する身体の表象とは別な第3の表象であり、その場所は視床と基底核にある。

      最後の第11章はデカルトの心身2元論の批判である。心は身体から独立した存在であるとすることによって、西洋医学が発展した訳であるが、それは同時に心の問題を正当に扱うことを遠ざけたと言える。心という厄介なものを捨象したとき、世の中は何と単純に見えることだろう。多くの技術や学問が実験や経験の集積から統計的処理によって生まれ、それを人間の欲望に従って利用することによって、自然をそして社会までも征服しようとする。しかしそれら全てのプロセスに心が関わらざるを得ない。その結果破綻すべきものは破綻するのであるが、心の身体的基盤が少しでも理解されていれば、あるいは人間の心の脆弱さに気遣うことが出来れば、破綻が防げることは多いと思われる。

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