マイケル・コロスト「サイボーグとして生きる」(ソフトバンククリエイティブ)

    音が内耳に届くと有毛細胞が共鳴して、その場所の神経が興奮する。共鳴する音の高さが順に並んでいる。著者は生まれつき難聴であったが、ついにその有毛細胞が死んでしまった。そこで内耳に電極を入れて直接神経を刺激する装置を埋め込んだ。人工内耳である。駆動部は頭蓋骨に内部から固定され、そこには強い磁石が付いていて、外側に磁力で固定された発信機から電力と信号を受け取る。発信機にはプロセッサーが繋がっていて、マイクから入った音を聴覚神経がうまく受け取るように処理してくれる。問題はその処理方法のソフトウェアーであるが、これはバージョンアップされていく。ひとりひとりに対してソフトウェアーは異なるので聴覚師が患者の応答に従って調整するのである。電極は16個しかないからもともとの神経細胞の数に比べて複雑さが足りないと思われるかもしれないが、実際に並列処理される経路は6〜7チャンネルなので、あまり問題にはならない。時間軸方向の刺激数(周波数)で補える。もうひとつの重要な要素は刺激を受け取る脳の側で、これも過去の記憶と視覚とに助けられて、音の判別の回路を組み直していかねばならない。訓練が必要である。そのプロセスがどんな感じなのか、現実の音がどんな音に化けるのか、という体験が克明に書かれてあって、興味深い。この装置の普及と共に手話コミュニティーが縮小しつつあるが、残念ながら人工内耳は高価なので手話コミュニティは貧困層で占められつつあるということである。

    それは兎も角、こういう体験をすると感覚に対する絶対感がなくなる。世界は自分がみているとおりなのだが、それはどのように見えるかということだけであって、真実の姿は存在しない。何か本当の姿があって、それがいろいろな姿として見えているのではなくて、そもそも本当の姿というものは存在しない。しかし世界は存在しないのではなくて、そのような存在の仕方をしている、ということなのである。問題は世界との関わり方であり、関わろうとすることによって初めて世界が見えるのである、というようなことが身をもって判る。見えるというのは勿論聴こえるという言葉と置き換えてもよいし、この場合はまさにそうであるが、視覚と聴覚とはその心に対するインパクトが異なる。視覚は意識を世界の外側に置く。現実世界を外側から眺めさせる。聴覚は意識を世界の内部に取り込む。意識は世界で包まれることになる。しかし人との関わりや物との関わり、つまり動物としての存在を維持するためには聴覚の視覚化が必要となる。言語化と言ってもよい。このようにして聴覚は一方では自分を世界の中に感じさせ、一方では世界を背景として存在する物や人を操作する手段(感覚)となる。この2重性こそ聴覚の最も重要な心理特性であり、触覚、臭覚、味覚とも共通するが、それらに比べると(人の場合)緻密性が格段に高い。音楽と言語の2重性といってもよい。
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