「コペンハーゲン」 マイケル・フレイン(小田嶋恒志訳;ハヤカワ演劇文庫)は、既に天国に居るニールス・ボーアとその妻マルグレーテとその弟子ハイゼンベルグが、自分たちの生きていた頃を回想するという設定である。20世紀初頭(1920〜1940年代)、背景としては、アインシュタインの相対性理論によって、これまでの古典物理学的測定による絶対的な空間と時間という確信が覆され、光と電子の相互作用などの多くの実験結果の矛盾を理解するためにボーアを中心とした物理学者達が不確定性原理による量子論を確立し、ここでもまた古典力学的に完全な測定という確信が覆され、その展開として原子核現象の理解が進み、ついには原子核エネルギーの解放という技術に繋がった時代。それは同時に二つの世界大戦と並走していて、その間に原子爆弾が開発され使用された。これは、現代という時代全体をその始点から眺望するような戯曲である。3回読んでやっと味わえる段階に達した。相当な予備知識が必要であるが、確かに傑作である。

      第1幕は、1941年、ナチスドイツがデンマークを占領しながらある程度の自治を認めていた頃、ボーアの弟子であるハイゼンベルグがコペンハーゲンのボーア宅を訪問したときの回想である。ハイゼンベルグがボーアに出会ったのは1923年。既にボーアの原子モデルによって、電子の奇妙な振る舞いを理解するための原理的な基準を示して前期量子論を主導していたボーア。その誰もが尊敬していたボーアの講演において計算の間違いを指摘したハイゼンベルグをボーアが認めて、1924年にコペンハーゲンの研究所に呼び、その後3年間でハイゼンベルグは不確定性原理を見出し、ボーアはその数学的な記述を相補性原理によって物理的・哲学的に補完した。これによって、ハイゼンベルグは、当時最有力だった波動力学のシュレーディンガーを出し抜いて、ドイツで教授職を得た。

      ナチスが政権を取り、アメリカに渡ることを勧められたにも関わらず、ハイゼンベルグはドイツに留まる。1932年にオットー・ハーンによってウランの核分裂が見つかり、その理論的解析もまたボーアが主導した。分裂したのは微量成分のウラン235であるから膨大なコストと時間のかかる濃縮無しには利用できないこと、しかし主成分ウラン238は中性子を吸い込んでやがて核分裂しやすいプルトニュームに変化すること。。。ユダヤ人を追い出してしまったドイツに残った最も有能な物理学者ハイゼンベルグは当然ながら核開発に携わるが、量子論をユダヤの学問として嫌ったドイツにはサイクロトロンが無かった。

      こういう彼が突然ボーア宅を訪問する。マルグレーテは、ボーアを利用するだけの秀才として見て彼を嫌っている。二人は政治的会話を避けようとするがどうしてもそこに行き着いてしまって、マルグレーテが興奮する。ユダヤ系のボーアを保護するためにドイツ大使館とのコネを強調したり、アメリカに渡った物理学者達の核分裂研究の様子を探ろうとしたり。しかし、盗聴の恐れがありマルグレーテの居るボーア宅では来訪の本当の目的は語れない。しばらく二人は量子力学誕生の頃の思い出話に興じるが、ふとしたことから、ボーアが二人の息子を失った事件を想い出す。子供にボートの舵を取らせたのが拙かった。再び無言となり、二人は灯火管制の暗闇の中を散歩に出る。昔は二人で何時間も散歩をして議論が続いたものだが、この夜の散歩は10分で終わって帰ってきた。ボーアは興奮している。何があったのか?

      ボーアは核分裂の連鎖反応を爆弾に利用するには何トンものウラン235が必要だと考えていた。だから、ハイゼンベルグが核分裂エネルギーが利用可能だと言った段階で興奮してしまった。ハイゼンベルグの本意はウラン235を分離して爆弾として利用することは実際上不可能に近いのであるが、それを低含量のまま原子炉という形で利用することは可能であり、彼は実際それに邁進していた。しかし、それはやがてプルトニュームを生み出して核兵器に利用されることになる、そのことへの倫理的問いが目的であったのだが、盗聴を恐れて直接的な表現が出来なかった。

      今や天国に居る二人は冷静に話すことができる。もしもボーアが止めろと言えばハイゼンベルグは止めたのか?その場合、彼には二つの憂慮があった。一つは独立に原爆開発を進めていたナチス党員のクルツ・ディープナー(最近彼は小規模の原爆実験に成功していた、というニュースがあった。)に予算を奪われること。もう一つはアメリカで原爆が開発されているだろう、ということ。ドイツの原爆開発は遅らせるから、ボーアにはアメリカに渡った物理学者達の原爆開発を止めてほしかった。しかし、そもそも当時ボーアはアメリカですら開発しているとは思っていなかった。実際には原爆は開発されていて日本に対して使用された。ボーアはその後アメリカに渡り、開発には参画しなかったが、開発グループの精神的贖罪師の役割を果たした他、核兵器の国際管理を訴えた。一方ハイゼンベルグはドイツに帰って中性子増殖の手がかりを掴んで原子炉開発の予算を獲得する。もはやプルトニュームの抽出が出来る前にドイツが降伏することを予想していたから、彼は原子炉を抱えてドイツの田舎に隠れた。彼は中性子の増殖を670%まで達成したが、制御棒を用意していなかったから、もしも連合軍に見つからなかったら危険であった。結局ハイゼンベルグはボーアが何と言おうと計画を止めるつもりはなかった。それなら、何故ボーアに会いに来たのか?

      第2幕は1924年に遡る。ボーアは息子たちと散歩して機雷を見つけて石を投げる。ハイゼンベルグは日本のお寺の屋根に登ってバランスを取る。こういった馬鹿な行動、人間の闇の部分を「エルシノア」というらしい。ボーアの研究には対話の相手が必須であった。最初はクラマースだったが、すぐにハイゼンベルグがその席に着いた。量子力学はこの二人が指揮棒を握り、その周辺、ゲッチンゲンのボルンとヨルダン、チューリッヒのシュレーディンガー、ローマのフェルミ、イギリスのチャドウィックとディラック、パリのジョリオとド・ブロイ、ロシアのガモフとランダウ、という布陣との情報のやり取りで進んでいた。勿論アインシュタインは別格として。

      重要な理論的飛躍はお互い一人の時に訪れた。まずハイゼンベルグが、ヘルゴランド島の孤独の内に頭が整理され、苦手な行列計算を克服して、行列力学の体系に必要なただ一つの原理として不確定性原理を見出した。シュレーディンガーが波動方程式を提案したとき、それが古典的なイメージを引きずっているが故にハイゼンベルグは猛反発し、ボーアはそれに加勢した。そしてシュレーディンガーを消耗させた後で、今度はハイゼンベルグの数学的枠組みが物理的直観を備えていないことにボーアは噛みついた。ボーアはノルウェーにスキーに行って一人で相補性理論を完成させて、不確定性原理を包み込んだ。

      マルグレーテは怒り出す。「ボーアの意図はかわいいハイゼンベルグを出世させるためだった。ドイツで成功したハイゼンベルグはナチスの威光を借り、秘密研究の要職にありながらも、それ故に倫理的問題に直面している、という自己宣伝の為にここに来たのかもしれない。」ハイゼンベルグは反論する。「それではドイツで原子炉開発を引っ張って迷宮入りさせるよりもレジスタンスをやって殺された方が良かったのか?ボーア先生だって、ボートで子供が溺れかけた時敢えて自分で飛び込もうとはしなかった。結果的にはこれらの決断は正しかった。」ハイゼンベルグはますます自分の意図が判らなくなる。エルシノア。

      ドイツ降伏後、ドイツの物理学者達はケンブリッジ近くのファーム・ホールに閉じ込められ、全て盗聴された。広島に原爆が投下された事を知って、ハイゼンベルグは仲間にそれまで秘密にしていた原爆の原理を説明した。ただ、問題はウラン235の臨界質量だった。それには中性子拡散の計算が必要なのだが、彼は既に行われていた天然ウランにおける拡散計算を使った為に、臨界質量を1トン位と説明した。どうして拡散の計算をウラン235についてやり直さなかったのか?アメリカでペランとフリューゲがやったように計算していたら500gという答えが出た筈なのに。ただ、無駄だと決めていたという。ボーアが1941年の散歩の中でハイゼンベルグの誤りを正すだけの時間を取らなかったことがハイゼンベルグを原爆開発という罪から救ったのかもしれない。ボーアもまた1943年にナチスドイツがデンマークのユダヤ人を一斉捕縛しようとした夜、ドイツ大使館のゲオルグ・ダックウィッツの情報漏洩とノルウェーへの脱出手配によって助けられた。ハイゼンベルグといえば、敗戦後、疎開していた家族に会うために、連合国軍の飛行機をかわしながらドイツを自転車で横断する。夜間、自暴自棄になったゲシュタポに捕まり、咄嗟にたばこを差し出して逃げ去る。戦後は仲間の物理学者たちからの非難を受ける。連合国の監視の中、ボーアの元を訪ねて飢えている家族の為に食料を乞う。

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