2023.02.28
戦時における大衆文化の記述については、以前、平凡社の雑誌『こころ』に連載された半藤一利『B面昭和史』がなかなか良かったのだが、『日本のカーニバル戦争』ベンジャミン・ウチヤマ(みすず書房)はアメリカの大学の学位論文らしく、なかなか鋭いように思われる。まずは序章を読んだ。

・・・この間の戦争については1931年の満州事変からとするのが通例であるが、著者は日本社会の分析をするので、1937年の日華事変からと考える。またこの戦争をファシズムという視点で整理することは連合国側からの一方的な見方になってしまうので、「総力戦体制」という、より広い概念で整理する。その特徴はその当時すでに確立していた階層社会の在り方が変わり、戦争遂行目的の為に社会が均一化されたということである。ただ、政治社会体制という観点からだけだと、そこに組み込まれた大衆は単に受動的に巻き込まれただけということになってしまって、とりわけそこで見られた大衆文化の活力が見逃されてしまう。そこで、戦争目的に動員されていく過程を追いかけながら、その過程において大衆が採った態度を分析する。

・・・大衆は「臣民」であろうとしながらも「消費者」でもあった。つまり広く「帝国主義下の大衆文化」という視点に立つ。「精神主義」(天皇親政派、皇道派)と「技術合理主義」(革新官僚、統制派)とのイデオロギー的なせめぎ合いの中で、アジア諸国の現実は把握されることなく、「事態」は思いもかけない方向に泥沼化し、メディアは「戦争/暴力」を「欲望/娯楽」に結びつけて、さまざまな大衆的エネルギーの発散を促した。その様は「カーニバル戦争」というにふさわしく、まことに罪深い。

・・・カーニバルというのは普段の社会秩序を一旦白紙にして、自由で無遠慮な人間同士の接触が見られる状況である。その中で主導権を得た者を「カーニバル王」と呼ぶ。この本では以下の5種を採り上げる。

・戦争報道を娯楽に変えた「従軍記者」、
・法外な報酬を得て贅沢な浪費をした軍需産業の「職工」、
・表向きもてはやされながらも怒りを抱え込んで社会の厄介者となった「兵隊」、
・戦前の開放的なモダンライフを体現しながらもナショナリズムに自らを追い込んだ「映画スター」、
・大衆の希望の星として登場しながらも、最終的には理不尽は特攻隊員となった「少年航空兵」。

それらは、公式イデオロギーを茶化したり抵抗したり称賛したりしながら役割を演じ、大衆が総力戦体制を理解するための表象として機能した。戦時、大衆は国家の公的イデオロギーに「洗脳」されたわけではない。むしろそれを利用して自ら楽しんだのである。そこには人間本来の罪深さがある。

(1)従軍記者
・・・従軍記者達の暴走は 1937年の上海市街戦ー南京攻略戦の時に生じた。(それまでの記事は将兵の英雄的な戦いと戦死を扱った真面目なものであった。)

・・・「スリル」という言葉が使われるようになったのは1930年代であった。大宅壮一が解説している。現代人は大衆社会の息苦しさからの逃避として「スリル」を求めるようになった。現代人はもはや自然発生的なスリルでは飽き足らなくなって、メディアの作り上げた人工的なスリルを消費するようになった。従軍記者たちは戦場にスリルを見つけて、殺戮と暴力とユーモアを織り交ぜて読者に提供した。読者は自ら劇中の人となり、戦の目的や本質を忘れ、戦争はまだこれからだというのに、早くも戦勝気分に酔いしれる。総動員の深刻さはスリルを消費することで忘れられる。それはまた、近代という時代の危険性を受容するように消費者を訓練する役割も果たした。

・・・「スピード」という言葉もまた流行していた。大陸での戦争は大量の記事を生み出し、読者は消化する暇がないほどであったから、記者たちは次々と新たな手法を開発し、その過程でニュースの地域性や人間性が失われた。中国はどこでもない場所となり、中国兵は「敵」という概念で括られてしまった。報道と娯楽の境界線が曖昧となり、やがて、政府やメディア評論家からも批判されるようになった。

・・・記者達は読者受けを狙い、現場の将兵たちは自分達の活躍を世に知らしめることを願い、場合によっては機密が記者に漏れることも厭わなかった。百人斬り競争とか、上海の宮本武蔵とか、煽情的な表現が多用され、女性兵士に対する妄想的な記事も多数書かれた。これらは検閲の対象とはされなかったので、新聞の娯楽欄に掲載された。

・・・大本営の命令を無視して退却する中国軍を追撃して南京を目指した前線部隊について行った従軍記者達は百人斬り競争の記事を書いている。陸軍省はお祭り騒ぎのような記事に不快感を示したが、国民は先走りする記事に狂喜した。戦時国債を買う人も増えて、結局の処、戦果の娯楽化は戦争遂行に有効であることが実証されてしまった。皇族達までが従軍記者を称える歌を詠んだ。

・・・1937年12月に南京大虐殺が始まり、戦線は膠着し、カーニバルは終わった。1938年3月には国家総動員法が成立し、新聞報道は規制され、政府に任命された作家達の「ペン部隊」による統制された記事が書かれるようになった。戦場のグロテスクは記事ではなく、娯楽的な文芸の領域に居を移した。

(2)職工
・・・国内の労働力不足により、武器弾薬製造業の職工達の賃金が上昇し、一種の特権階級となった。職工は国を愛する産業戦士を自任しながらも、国の推進する質素倹約精神を軽蔑していた。

・・・戦地に多くの兵士を送り込んだために、国内産業労働者が不足し、厚労省が設置されてさまざまな労働力補給策が行われたが、最終的には新規小学校男子卒業生が主要な労働力源となった。徴兵年齢に達していないからである。一般人からの徴用が始まったのは対米戦争が始まった1941年であった。女性労働者を積極的に活用した英米とは異なり、女性は子供(兵士の卵)と農産物生産を主務とされたので、女性の徴用が始まったのは戦況がいよいよ行き詰まった1944年であり、それでも既婚者は除外された。結果的には賃金水準に日用品分野との大きな開きが生じた。軍需産業の賃金は数倍までになり、不公平が問題となっていた。分不相応な高給により、少年層の遊興と非行が問題となった。

・・・1939年に至って、政府は価格等統制令、1940年には第二次賃金統制令を出した。しかし、職工たちは不法に転職し、工場主は闇賃金を支払っていた。中には工場の道具類を盗んで売りさばくものも居たのだが、それでも軍需品の需要を満たすために解雇できなかった。ひまし油が軍需用に統制されていたにもかかわらず、それを使った若者向けのポマードの販売量が増加した。作業服に不満を持つ職工はしばしば学生服を着て遊びまわり、警察に補導されるケースが多かった。

・・・萩原朔太郎の観察は面白い。「職工達が学生やサラリーマンの恰好をするのは単にカフェで女給にモテたいということではない。恰好を真似することで、合理性や倹約や規律を重視するサラリーマンの近代的な人生観の空虚さを暴き立てているのだ。また、中身の伴わない知識人を愚弄し、世の中が労働者によって主導されていることを思い知らせている。」

・・・中流層の子供たちは中学校に進学するのであるが、小学校卒の職工の方が裕福であるために、中学生を悪の道に誘惑することが問題となった。

・・・元々中流男性のファッションは、大恐慌からの回復過程において、1930年代から1940年に至るまでに進展し、男性ファッション誌がカタログ販売の媒体となって全国に普及したものである。職工達はそれを真似たのであるが、その批判はやがて、1940年より贅沢品の規制が始まり、「国民服」運動の中に取り込まれていった。

・・・1941年対米戦に入って徴用が始まると、職工のイメージは180℃転換して、産業戦士として美化された。政策として、労働者を健全な娯楽へと導き、生産性を向上させることになった。正しい「勤労文化」が提唱され、愛国劇や国民歌が作られ、「勤労顕功章」が設けられた。ただ、職工達の不良行動が無くなったわけではない。1942年には9900人が検挙され、800点あまりの凶器が押収された。偽刑事による強盗事件も発生し、1944年には1万人以上が検挙された。兵器の不足はますます深刻になり、それに比例して職工の賃金は上がる一方だった。

・・・結局の処、総力戦体制は職工を統制できなかった。統制を強めれば武器の生産に支障をきたすからである。職工は自らの役割を演じる舞台として、からかい、破壊し、再生させる自分の引き立て役として、権威主義的な政府を必要とした。国は総力戦の為のルールを打ち出し、職工は即座にルールを破り、「生きられた経験」としての総力戦のイメージを描きなおした。

(3)兵隊
・・・将兵たちは日中戦争初期には英雄として崇められていたのであるが、戦争が泥沼化する中で物資が不足する中に帰還してきた傷病兵達は次第に同情されるようになってきて、慰問袋も激減し、帰還兵達は銃後の国民を批判するようになっていった。

・・・1905年の日露戦争において、弾薬不足の日本軍は無謀な接近戦を採用せざるを得なくなり、1909年以来、それまでの火力を重視するドイツ式から白兵主義(夜襲や奇襲)へと転換した。白兵戦で勇敢に戦って戦死した将兵は、メディアによって「軍神」として扱われるようになった。自ら点火した弾薬筒を持って飛び込んだ「爆弾三勇士」が有名である。将兵数も1930年には30-40万人、1937年には63万4千人、1941年には240万人と増加し、1945年には700万人にもなった。雑誌では日本兵の心身の強靭さと自己犠牲称揚されていた一方、科学技術の議論が脱落していた。

・・・1938年以降、蒋介石が中国深奥部に撤退し、戦線が膠着状態に達し、戦死者も10万人となって日露戦争を超えた。メディアの描写には勇猛果敢な姿が影を潜めて、むしろ忍耐強い兵士の姿が描かれて、国民の同情を誘った。あらたな「軍神」の姿は政府の肝いりで映画の中に作りこまれた。『西住戦車長伝』や『土と兵隊』がある。人間ドラマが描かれている。しかし、現場を知る帰還兵からは事実とかけ離れていると批判された。結局南京攻略戦の記憶だけが使われた。中山正男の『脇坂部隊』という本が有名である。映画化もされた。これは南京攻略に一番乗りをした部隊の活劇である。

・・・慰問袋は満州事変の時から戦地への励ましの物品と手紙等を新聞各社が地域が募集して送っていたものであるが、日中戦争の頃には、慰問袋の「商品化」が進み、現地の兵隊達からは嫌がられるようになっていた。不要なものや壊れたもの、梱包が拙いものが多かったのである。それよりも個人個人の心のこもったものが求められていた。政府や軍は指導を繰り返したがうまくいかない。1939年には戦況の悪化や銃後経済の悪化もあって慰問袋の数が激減した。何万人にも及ぶ負傷した帰還兵によって銃後の雰囲気は更に悪くなった。

・・・南京攻略での日本軍の蛮行に国際的非難が高まると、軍は軍紀回復と秩序維持に注力し始めた。慰安所の設置もその一つであったが、将校と兵との間に格差があり、不満が絶えず、かえって一般女性に対する暴行が多くなった。長引く過酷な戦場での生活は兵隊達を追い詰めて、中国人をもはや人間とは見なせなくなっていった。1940年には、「砲弾神経症」によるトラウマからか、反戦反軍的言動も報告されている。ヨーロッパでは、第一次大戦の経験から、軍隊の休暇制度が設けられていたが、日本ではまだなかった。1938年には千葉県に陸軍の精神病院が設置され、1945年までにそこに収容された兵隊は1万人を超えた。元々ソ連との戦争に備えて現役兵を温存し、中国戦線には予備役兵を配置していたのだが、軍紀崩壊に直面して、1939年には予備役兵を引き上げて現役兵を投入するようになった。1940年には帰還兵が14万人に達した。しかし帰還した兵士達は死線を超えた安心感と殺伐たる経験からか、極めて快楽主義的退廃的な傾向を示し、一般人の反感を買うようになっていた、と報告されている。

・・・帰還兵は政府から手厚い公的支援を受けていたが、市民からは同情の目で見られていた。戦争がまだ続いていたからである。軍の上層部は、表向き彼らを称えながらも、帰還兵が戦場の真実を知るが故に問題を起こす可能性が高いことを警戒していた。帰還兵達は「軍神」でもなく、慰問袋を送られる心優しい兵隊でもなく、今や政府の支援に頼る弱い人間であった。戦場と銃後の間の垣根が帰還兵によって壊されてしまうと総力戦の負の側面が民衆に伝えられてしまう。憲兵隊の監視対象の56%が帰還兵であった。

・・・帰還兵自身も自分達を正当に認めてくれないことに怒りを持った。多くの威嚇的暴力的行為が見られ、人々との間に亀裂が生じた。火野葦平は『兵隊』という雑誌で帰還兵の気持ちを代弁している。「メディアの記事によって、人々は大都市が陥落し兵隊はたたこれといった事件もなく警備をこなしているだけだと思い込んでいるが、警備や掃討戦こそが危険な任務である。帰還兵達は銃後の国民が熱狂的に迎えてくれるという期待を抱いて帰ってくるのである。しかしそこには彼らの居場所は無かった。」

・・・1941年、「戦陣訓」が作られたが、その最後には「万死に一生を得て帰還する時にも言動を慎むべし」とある。経験から来る帰還兵対策である。独ソ開戦により、55万の私服軍隊が満州に派遣されたときにはもはや壮行会も禁止された。太平洋戦争に突入すると、その6ヶ月後には前線との兵隊の移動すら難しくなり、表象としての帰還兵も兵隊も無意味となってしまった。

(4)映画スター
・・・1930年代からトーキー映画が始まり、日本でも映画スターが大衆の支持を得始めた。政府はその大衆動員力に着目し、何とか戦争遂行に利用しようとした。ただ、他方で彼女達は大衆との間の親密な一体感を作り出しており、そこに国家の都合を介入させることに困難を感じてもいた。1937年の日中戦争を境にして、本格的な統制を始めた。映画の内容への干渉や検閲は勿論、「理想的な女性像」(子供を産み育て銃後を守る)としての女優を作ろうとした。1939年にはナチスドイツに倣った「映画法」を制定し、俳優を国家資格化した。しかし、実際には現存の女優達や映画スタッフについては資格試験を免除せざるをえなかった。しかも新たな俳優候補募集は兵役義務から困難となり、特定専門学校卒業生を兵役免除としたため、映画各社が俳優養成所を作った。しかし、入所する俳優の卵達は政府の求める時局の勉強や映画法の勉強で忙しく、俳優としての資質に欠けていた。

・・・既存の映画スターは依然として輝いていた。水戸光子は政府の求める日本的な女性の慎ましさと力強さと共に、国際的に通用する洗練された姿態を兼ね備えていた。1941年2月の李香蘭の歌謡ショーには10万人を超えるファンが集結し、150人以上の警察官が出動したが、現場の騒乱が収められなかった。政府は水戸という名前が水戸藩の水戸と重なる為に改名を命じたが、メディアはそれに応じなかった。

・・・1943年に日本映画学校が開校したが、入試の結果は芳しくなかった。付け焼刃の政府の情宣をオーム返しにするばかりで、俳優としての創造性のかけらもない応募者ばかりとなり、政府のプロパガンダが表層的であることまで露呈してしまった。結局の処、軍国の母もモダンガールも難なく演じ分けることのできた従来からの映画スター達が政府の情宣に協力しただけに留まり、やがてフィルムの供給もままならなくなった。

・・・戦後フィリピンの山奥から帰国した小野田少尉が好きな女優を訊かれて、水戸光子と答えたのは有名である。彼女は戦後私生活を明かさずひっそりと生きていたが、小野田少尉には豪華な花束を贈った。

(5)少年航空兵
・・・空軍が世間の注目を集めたのはアメリカとの戦争が始まる直前で、政府が航空兵の養成を目的として少年たちに航空隊の夢を宣伝しはじめたことによる。少年航空兵は通常のエリート養成機関からは外れていたのであるが、航空学校に入ることで、英雄となる道を約束された存在だった。大衆の意識には、国の為に身を捧げることへの憧れと自らの身代わりを夢見るファン(消費者)という二重性があった。

・・・1943年にアッツ島で採用された「バンザイ攻撃」の先例は、戦争末期には航空隊にも適用され「神風特攻隊」の悲劇を生み出した。彼らの心情は残された手記によって分析されることが多いが、これらは切羽詰まった状況で半ば強制的に特攻の意義を残すように誘導されたものである。特攻作戦の初期には手記も無く、また大卒エリート以外では殆ど手記が残されていない。中村秀行は、手記ではなく、残された映画や刊行物などの記述を分析した。当初1944年10月のレイテ沖戦で「勇者」として称えられた特攻隊がやがて「憐憫」の対象として描かれるようになっていた。

・・・大衆文化としての航空には「科学ナショナリズム」の側面がある。勝利の為の科学技術礼賛でありながら、科学技術の普遍性はナショナリズムとは相容れない。航空ファンの科学技術志向が非合理な国家目的と矛盾する。

・・・20歳の徴兵年齢前に、14~19歳の少年は予備訓練課程を受けることで兵役義務に替えることができた。少年航空兵はその中でも一番の人気だった。1941年12月の真珠湾攻撃は、それまで英米の文明を取り込んできた日本の国家戦略が「大東亜共栄圏」という反英米に固まったという意味で、ある種の解放感を国民にもたらしただけでなく、それまでの中国戦線での陸軍の泥臭い戦いに対比して先端技術と融合した航空戦の華々しさを際立たせた。政府もメディアも航空機産業や航空隊の重要性を国民に訴えた。誠文堂新光社の『航空少年』という雑誌はその典型であった。そこには「武士道精神」として、降伏よりも死を選ぶべきであるということが求められている。メディアに描かれた少年航空兵の表象は大人ではなく永遠の少年であった。素朴で無邪気でありながも知的で専門知識も併せ持つ。また彼らには軍国の母がついていて、子供を航空兵に育て上げるという使命感も描かれていた。貧困層の少年にとっては、通例の教育課程を経た出世とは別の出世コースでもあった。雑誌でも盛んに航空学校合格のための独学教材が提供された。

・・・『航空少年』には多くの敵機を含めた戦闘機の写真などが掲載され、航空ファンを魅了した。アメリカ軍の戦闘機の性能については認めざるを得なかったが、それでも日本人パイロットの技術と精神力がそれを補ってあまりあると考えていた。模型作りも推奨された。航空ファン同士の「隣組」も作られて、技術的なアイデアを交換していた。しかし、戦争末期1944年になると紙の不足から雑誌のページ数が激減していった。

・・・サイパンが陥落し、フィリピンで最後の徹底抗戦が命じられた。1944年10月20日、レイテ湾で、ついに「特攻」が行われた。以後終戦までに4600人以上の自殺攻撃が行われた。雑誌も読者も特攻に対しては神がかった存在として崇めていたのであるが、特攻隊員には醒めた者も居た。

俳句例

「特攻隊神よ神よとおだてられ 特攻のまづい時世を記者はほめ 死ぬ間際同じ願いを一つ持ち 父母恋し彼女恋しと雲に告げ アメリカと戦う奴がジャズを聞き ジャズ恋し早く平和がくればよい」

彼らは国家の公式イデオロギーに支配されていたわけではない。西洋・モダンの消費者文化を捨ててはいなかった。むしろ、そのことによって大衆の文化的共感を呼んだのである。彼らはカーニバル戦争の最強にして最後の王であった。

(終章)
・・・1945年米軍が大都市を壊滅させ、大衆文化の基盤も無くなった。公的イデオロギーもどこかに吹き飛んだ。総力戦のカーニバル王達も永遠に脱冠された。坂口安吾の「堕落論」(1946年4月)に様子が記録されている。占領軍による「封建制度」に関わるシンボルやイメージの禁止と指導者層の公職追放の反作用として、戦争を支持していた芸術家や作家の大部分は自由を謳歌し、「エロ・グロ」文学を始めとする「カストリ文化」が登場した。特殊慰安所の娼婦、戦時中の闇屋が変身したギャング。これらは、公的イデオロギーとは質的に異なる大衆の欲望の発露であり、その意味で戦時カーニバルと同質のものである。

・・・最初のカーニバル王「従軍記者」は、侵略戦争の大規模な暴力と発達を遂げつつあった日本のマスメディアとの接点から生まれた。戦争の中から消費者受けする話題が切り出され、それを楽しく描写して銃後の大衆に消費させることで前線での暴力が正当化され、むしろ大衆が暴力を求めるようになった。職工は産業戦士として特別扱いを受けたことを利用して不敬と反抗を持ち込み様々な社会階層に変装した。兵隊は英雄から人間味のある普通の人へ、更には居候のような帰還兵へと変身を続けた。その原因は、彼らが中国人達を愚弄し、自由に殺し、物質的に扱ったからである。映画スターはジェンダー規範に抵抗した戦前の文化的実践を継続した。政府の計画した映画改革は失敗し、彼女達を変えることができなかった。少年航空兵は高度な技術を身に着けていたために、映画スターのようなオーラを持っていた。近代性、個人主義、科学技術。しかしこれらは特攻によって全てが虚無となった。

・・・総力戦が大衆側のカーニバルを引き起こすのは日本に限らない一般的な現象である。旧ソ連での「スティリヤギ」は若者たちが復員軍人風の武骨な男らしさに抵抗したものであった。戦時下のアメリカの都市には「ズートスター」と呼ばれる若者たちがぶかぶかズボンを穿いていた。米軍兵士は日本人の頭蓋骨等を集めてスリルを楽しんだ。1980年代の中央ヨーロッパでは共産主義体制への反発がデモだけでなく挑発的な文化運動として楽しまれて、革命にまでつながった。

・・・各国の状況は日本と異なる。イギリスでは軍需産業の主役を女性が担っていたため、高齢男性の職工たちは女々しいイメージを持たれていて、仕事にも熱心でなく、しばしばストライキに訴えた。王立空軍のパイロットは、称賛されはしたが、年長であったためか、一般的な人間として描かれている。

・・・カーニバル戦争は国と社会の力関係を描き出すための最適な視点である。その文化的実践は国家の公的イデオロギーを呑み込んで膨らませ、捻じ曲げる。戦争への大衆の共犯を暴き出す。不服従も場合によっては補完的役割を果たす。このようなダイナミクスを分析することで初めて我々は、何故モダンな大衆社会が他国民に対する残虐な行為を許したのかが理解できるだろう。

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