Karen Barad について先日来調べている。著書「Meeting the Universe Halfway」
 https://smartnightreadingroom.files.wordpress.com/2013/05/meeting-the-universe-halfway.pdf
は多分読み切れないだろうと思いながらも読み始めると、マイケル・フレインの「コペンハーゲン」という戯曲が出てきて、彼女はこの戯曲を評価しながらも不十分であるとしているようである。物語は、ユダヤ系の物理学者ニールス・ボーアの元をドイツの原爆開発のリーダーとなった彼の弟子ハイゼンベルグが訪問する話である。ボーアは包容力のある人だったらしい。劇中には彼の妻も登場する。さて、この劇が世間で高く評価されている理由は、二人の話が何であったのかが結局は判らないままに、様々な可能性が提示されて終わる、というその<不確定性>にあるらしい。まあとりあえず読んでみようと思い、翻訳本を注文しておいた。

      彼女の思想については、インターネット上の記事で探る。まずは、素粒子論−場の量子論の研究者である。ニールス・ボーアの思想に影響されている。もっともニールス・ボーアという人は書くことが苦手だったようで、論文以外の評論などは残っていないらしい。周辺の人達の話から類推するしかない。現在の素粒子論では<粒子>というのは(勿論波も)現象であって<場>が存在として先行している。光は電場によって、電子は電子場によって生じる現象であって、それぞれの場(空間の各点に与えられた自由度)の一時的な励起状態(この計算に量子力学が使われる)の一種にすぎない。この考え方は日常的な自然観をひっくり返すようなものではあるので、それを日常世界に適用してみることには意味があるかもしれない、というのが現在僕に理解できている範囲での彼女の思想である。世界は(人間世界や社会も全て含めて)複雑に入り組んだ絡み合いであり、その絡み合いというのは、個人が先に存在してその個人同士が絡み合うのではなくて、絡み合いが先に存在していて、個人はその中から浮かび上がっては消え、変化する現象に過ぎない、というものである。ただし、我々は言葉(というか行為一般)によって絡み合いの世界を切断して2項分類を行うことで世界を認識して生きている。そのような生成消滅する2項分類として全ての概念を再点検する、というのが多分彼女の<方法論>なのだろう。

      それぞれの概念がどんな絡み合いを切断しているのか?例えば男と女という2項分類はどういう風にして現実の曖昧さを消去しているのか?消されたものに意味は無いのか?と問うのである。自然と文明についてはどうか?人間と非人間はどうか?彼女は全てを問い直す。彼女の思想は方法論であって、体系とはなりえない性格のものである。この点、ニールス・ボーアが体系を嫌ったという話と符合する。最近のインタヴュー
 http://www.academia.edu/1857617/_Intra-actions_Interview_of_Karen_Barad_by_Adam_Kleinmann_
の中で、「私を動かしているのは、正義に対する最終的な解答を求めたりすることではなくて、正義に対する疑問そのものなのである。」と語っている。

      さて、「コペンハーゲン」を読んでみたのだが、これを読むにもニールス・ボーアのついての予備知識が足りないことに気づいて、なるべく要約してあるような本を捜して、 「現代物理学の父ニースル・ボーア」西尾成子(中公新書)を見つけて借りてきた。

      この本はこれまでのボーアに関する情報を項目的に網羅していて、まあ年表を見る感じであるが、科学的内容についてはあまり解説されない。僕はこの辺の顛末を朝永振一郎の教科書で勉強して、仮説と検証のダイナミズムに感動したのであるが、実際はもっと複雑な経緯であったらしく、理解できない所も多々あった。ボーアという人は中立国デンマークのコペンハーゲンの研究所を守り発展させることで、国際的に開かれた人間関係を作り上げ、前期量子論(原子のボーア模型)の提唱者であったばかりでなく、紆余曲折の内に量子論が完成していく過程の中でいつも中心に居た人である。彼は一人で論文を纏めることが出来ず、いつも話し相手と討論することで自分の考えを口述筆記によって定着させていたらしい。彼はいつも正しい理論の側に立っていた訳ではないが、議論に対してはいつも開かれていたから、多くの天才的理論家達の考えを物理的解釈において納得できる形に統合できたのである。ハイゼンベルグが悩んだ末に観測理論を編みだし、「不確定関係」の表現を見出した時も、それを相補性という概念で大きく包んで<人間的=古典的>解釈に結び付けた。それが無ければアインシュタインとの論争に勝利することは出来なかっただろう。

      ボーアの原子模型は古典的な電子軌道のイメージが使われていていながら、その古典的な軌道運動が電磁波を輻射してエネルギーを失うことはなく、軌道間遷移によって輻射する、というモデルである。エネルギーが大きくなるとこの記述方法は古典的な電子の運動による輻射理論と統計的に一致する。逆に正しい理論はこのような意味で古典論に対応する必要があるという「対応原理」を提唱して、それが指導原理となった。ハイゼンベルグはボーア模型の様な想像上のイメージ(電子が軌道運動している)を使うことなく、得られた実験データだけを使って説明できるような方法(行列力学)を考案した。他方、それとは独立にシュレーディンガーはド・ブロイの物質波理論を使って行列力学と同等の波動方程式を考案した。大方の物理学者は直観的な波動のイメージを持つこの理論を歓迎した(電子の軌道は電子の定常波に置き換わる)。ボーアは彼の理論の欠陥を厳しく追及して追い払ったのだが、イメージを持たない行列力学をボーアは認めたくなかった。ボーアとハイゼンベルグは議論に疲れ、ハイゼンベルグが辿り着いた解決方法が、「実験の状況の記述に理論がいかに適用できるか、と考えるのではなくて、何を実験的に観測できるのかを理論が決めると考える」ということである。彼の得た不確定性関係は理論から導出されるものではなくて、無前提に与えれた原理であり、彼はその背景には古典的装置による観測という事情があるだけであり、それ以上の哲学的議論は無用と考えた。しかし、ボーアはそれでは不完全であるとして相補性原理を追加した。

      ボーアの相補性原理は単に不確定性関係に基づく認識一般の限界について語っているように見える。世界を認識するということは世界に関わる(観測する)ということであり、観測手段を限定すればいくらでもその精度を上げることができるだろうが、観測には世界の擾乱が伴うから、この擾乱される方の物理量について他の観測手段で同時に測定しようとすると精度を上げることが不可能になる。しかし、ボーアはこのような関係にある二つの観測手段は世界の二つの側面をそれぞれ正確に認識できるのであるから、同時測定に限界があるということを認めた上で、むしろ積極的に、認識という意味ではお互いに補い合っている、と考える。つまり、ハイゼンベルグが、認識の限界を強調したのに対して、ボーアはむしろ多面的観測による認識の可能性(高次の認識)を主張したと考えられる。ハイゼンベルグは不確定性関係によって古典的な時空による記述の限界を明らかにしたのであるが、それによって実は量子力学が因果性を担保したのである。逆に古典的な時空記述に拘れば力学が因果性を失うから力学でなくなってしまう。ボーアはこの両面性を「相補性」として積極的に評価した。

      1941年にハイゼンベルグがコペンハーゲンを訪れて散歩によってボーアと二人だけで話そうとした内容についてはハイゼンベルグ自身が記録に残している。<ウラン235による原爆は可能であるが、莫大なコストがかかるのでドイツでは無理だろう。しかし、アメリカではできるかもしれない。我々物理学者はそのような開発に手を貸すべきだろうか?>。崇拝する師に倫理的な助言を求めるつもりだったのである。しかしボーアは可能性に言及されただけで興奮してしまって、話の結論を聞こうとせずに話合いが決裂したらしい。ハイゼンベルグは当時ドイツに占領されていたコペンハーゲンの「ドイツ会館」でこのことについての国際的会合を持つことを提案したらしいが、これはボーア夫人を激怒させたという。ハイゼンベルグは極めて優秀であったが、祖国を占領されたデンマーク人の気持ちを汲み取れるほどには人間的共感力を持ち合わせなかった、ということらしい。ただ、これはハイゼンベルグの戦後の回想であるから、本当かどうかは判らない。ボーアは何も書き残していない。

      ボーアを中心とした物理学者達は多くのユダヤ系の物理学者を亡命させるために手を尽くした。連合国側の研究所や大学にポストを準備して次々と亡命させたのである。ウランの核分裂が莫大なエネルギーを解放するとはいっても、それは微量のウラン235であるから濃縮するのが難しく、重水を減速材にでもしないと爆弾にならない、というのがボーアの考えで、実際ドイツに残された物理学者の知恵とドイツの工業力では無理であった。

      アメリカでは一年前からマンハッタン計画が進行していて、もはや原爆開発の余力がなかったイギリスは物理学者達をアメリカに派遣した。ボーアはその中でも目玉であった。ボーアは核兵器が現実的なものになりつつあるという話を聞かされて驚いたのであるが、<核エネルギーの利用は世界に開かれた技術として管理する必要がある>ことを説いたという。アメリカに渡ってからも、<先行するアメリカが技術を管理して、過度な軍備競争の対象とならないようにすべきであり、核兵器開発計画はソ連にも伝えておくべきである。秘密裡に開発された結果をソ連が知れば、ソ連もまた独自に開発するだろうから>、といったことを政治家達に説いて回った。また核兵器開発に不安を覚えていた物理学者達にもそういう考えを伝えて心理的安堵を与えていた。ルーズベルトは核エネルギーの管理についてのボーアの考えに同意し、秘密主義を主張していたチャーチルに手紙を書いた。それを知って、1944年4月にボーアはイギリスに戻り、チャーチルに会ったが、仲介者とチャーチルの口論となり、成果は得られなかった。アメリカに戻ったボーアはルーズベルトと会って、ルーズベルトはソ連を仲間に入れておくべきだという考えに再度同意したのであるが、その後のチャーチルとルーズベルトの会議(1944年9月)においては、ボーアの提案は無視され、<核兵器の使用対象が日本であることと、ボーアがソ連に情報を漏らさないように手を打つ>、という覚書が交わされた。チャーチルはボーアを監禁しようとしたが、物理学者達はボーアを護った。しかし以後ボーアは政治家に近づくことができなくなった。

      1945年3月、核兵器の開発が完成に近づきつつあることを知ったボーアは、<核エネルギー管理の為の専門家の国際組織を作るべきであり、その為にはまだ信頼関係の残っているこの時期にソ連に対して働きかけるべきである。>という覚書を、国際連合組織のための会議に向けて、ルーズベルトに提出しようとしたが、それは叶わず、ルーズベルトは死去した。新大統領トルーマンの元で開かれた委員会にボーアの覚書は提出されたが、ソ連への早期アプローチの項目は削られていた。開発担当の物理学者は動揺し、プルトニューム抽出を担当していたシカゴ大学の科学者達はボーアの提案に沿った意見を述べ始めた。6月11日には「フランク報告」が纏められた。<核兵器は使用すべきではなく、広くその存在を公表し、それによって得られる(ソ連との)信頼関係によって国際管理体制を作るべきである>、という内容である。

      戦後のボーアは研究所を拡張したり、欧州の研究センターCERNの設立に協力したりしている。原子力の平和利用を目指して、その基盤となるべき研究を推進した。ただ、デンマークには結局原子力発電所は導入されなかった。不確定性を巡るアインシュタインとの論争も延々と続いている。
ボーアの思想を知るにはもう少し勉強する必要があるだろう。
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