最近は京都の街並や人の表情を観察するのも飽きてきて、電車の中で本を読むことが多くなった。広島に帰る機会が増えたということもある。そういう中で菊地成孔と大谷能生の「憂鬱と官能を教えた学校」(河出文庫)はなかなか面白くてすいすいと読めたのだが、読み終えてからまとめるまで1ヶ月以上空いてしまった。なかなか素晴らしい本である。以前読んだ「東京大学のアルバート・アイラー」で出てきたバークレーメソッドの話を敷衍して20世紀ポピュラー音楽の根底となった理論を説明しているのである。

    西洋音楽はバッハの時代に基本的調性としての長調と短調が確立し、自由な転調をするための鍵盤楽器の調律法が次々と工夫され、やがて平均律となった。調律技術が確立するまでは厳密には中全律であったが、概念的には平均律と言っても良い。合唱や弦楽器は今でも純正律である。長3度の音程が正確になっている。12個の主音に対して純正律を保つのは不可能であることから、誤差をばら撒く形で均一化したものが中全律や平均律である。どうしてこういう方向に進んだのか?それには教会音楽という世俗音楽とは一線を画した統治の道具の洗練化、というヨーロッパ独自の要求があった。グレゴリア聖歌の時代は聖歌の単旋律であり、そのメロディーには拍が無い。その必要がない。2声のオルガヌムの発展と共に、2声間の音程として完全5度が意識され、それをあわせるタイミングとして一種の拍が必要となった。長3度が俗謡から取り入れられて、人々がその美しさに惹かれはじめると、今までギリシャ伝来とされて重用された音階が整理され、イオニアン(今日の長調)が主人公になった。(同時に対立する感情表現としての短調3種が作られた。)職業音楽家(教会や宮廷で作曲演奏する人たち)の仕事の効率化のために同時に鳴る音同士の関係の在るべき規則として和声法、同時に流れる旋律間の関係のあるべき規則として対位法が、まとめられていって、作曲家の基本知識となる。

    新大陸に出来たアメリカが豊かになるにつれて当然ながら大衆の音楽への欲求が高まり、ダンス音楽や何やらがそのような技法に基づいて作曲されたのである。和声法と対位法を組み合わせた大家は勿論バッハであるが、アメリカまでその精神が引き継がれたわけではなく、特にアドリブを取り入れたジャズにおいては、和声法だけが遵守されるようになる。対位法は演奏者の感興任せという次第である。とりわけ、兵役を免れた黒人達によってそれまでの整然としたスィングジャズの一部としてのアドリブが発展し、和声進行だけを取り入れて、あるいはそれをどんどん変えていってゲームのようにアドリブを続けていくスタイル(Bebop)が生まれてくると、その方法論としてより効率的な記号化が必要となった。その要請に答えたのがバークレーメソッドであった。今日ポピュラー音楽では当たり前となっているコード記号が発明された。従来の西洋音楽では和声として同じであっても、その構成音からどれを選択するかは正に対位法を考慮しなくてはならず、縦と横の緻密な構造を作り上げる事こそが作曲や編曲という仕事だったのであるが、コード記号で表現されてしまえは、そのコード内の音は何でも良いのである。そして、コードはコード自身の牽引力によって発展していく。つまりコード進行である。これは勿論西洋音楽の基本的在りかたでもある。

    さて、具体的にコードやコード進行についてこの本ではエッセンスだけであるが解説してある。短調の3つはややこしくなるのでとりあえず無視して、基本的に長調の7つの音の上に3度づつ音を4つ積み重ねると、7つの4声のコードが出来る。それらは音程間隔によって分類される。最初の3度音程が長3度であればmajorであり、何も付記しない。短3度であればminorであるのでmまたは-を付記する。次は5度であるが、完全5度であれば何も付けないが、増5度であればaugmentedで+5を付ける。減5度であればdiminishedということで-5を付ける。最後に7度については長7度の場合aug7あるいはΔ7、短7度の場合 7 と書く。こうして、例えばハ長調の7つの音だけを使った4声のコードは下から順に、CΔ7、Dm7、Em7、FΔ7、G7、Am7、B-5m7、ということになる。音程間の協和性については、心理学的にも物理学的にもある程度整合性のある説明が可能であるが、もっとも不協和な音程は減5度あるいは増4度である。その次が短2度(つまり半音)あるいは長7度、次が、長2度あるいは短7度、完全4度や完全5度やオクターブは無機的であってあまり機能が無いとされる。協和音程は勿論長3度あるいは短6度、または短3度あるいは長6度である。この最後の音程感覚こそが西洋音楽を特徴付けるものであり、音階が長調と短調に整理された原因でもある。(逆に音階が整理されたからそういう感覚が醸成されたのかもしれないが。)また、必ずしも物理学的な根拠があるわけではなく(物理学的にはオクターブや完全5度の方が調和しているし、中世ヨーロッパでもそうだった)、むしろ歴史的文化的な背景によって獲得されてきたものである。実際世界各地の民族音楽は必ずしもそういう感覚を持っていないので、長調や短調ないしは和声進行に支配されていない。

    G7→CΔ7というコード進行には、増4度→長3度という強力な不協和から協和への推進力が含まれているので、ドミナントモーションといって、西洋音楽のコード進行の代表格なのである。具体的には、G7 (ソシレファ)の中のシファが増4度であって、CΔ7(ドミソシ)の中の、ミシが長3度である。これと根音の動き(ソ→ド)が完全4度であることが、ドミナントモーションの定義となっている。4度乃至5度で根音が進行することを強進行という。これを繰り返していくと12個全ての根音を辿ることが出来る。また、行き先のΔ7を7に変える(第7音を半音上げる)と忽ち不協和となり、今度はFΔ7に動く。こうしてちょっとした転調で緊張→弛緩の繰り返しを永遠に続けることができる。これが西洋音楽の仕組みである。資本主義が無限のサイクルで欲望と充足を繰り返しながら発展していく、あるいは発展していくことしかできない、ということと見事に符合している。根音が3度で進行すると構成音があまり変わらず、12個の内4個しか巡る事が出来ない。これを弱進行と呼んでいる。停留感がある。このように音階内部の音しか使わなければ増4度は限られているが、ちょっと半音上げ下げした音が使えるようになると、結局全てのコードはそこに解決するようなコードを呼び出すことが出来る。例えば、G7が解決する先はCΔ7だけでなく、F#もある。シファがラ#ファ# と開いて長6度、つまり長3度になり、根音はC→F#という半音下に動く。これを使うと、例えば D→G→C という典型的な4度進行は D→D♭→C という半音降下進行に置き換えることが出来る。これを裏コードと呼んでいる。そもそも音階の中には減4度は一つしかないから、ドミナントを作ろうとすれば音階の外に出ざるを得ない。こうして呼び出したコードをセカンダリードミナントと言う。どの程度音階から離れるか、あるいは転調してしまうか、あるいは更に無調性まで行くか、という風に事態は極めて複雑になってきて、巧妙にコードを繋げる事でいろいろな表現が可能となる。これがビーバップ運動で起きた事の少なくとも和声的な意味である。チャーリー・パーカーはその天才であった。結局のところこのバークレーメソッドでは、そこで実現されたことの理論的説明のために体系化をするわけである。しかし、キチンとロジックが組めていないコードもあって、ブルースで使われるコード(調がC とすると FΔ7)などはその代表格である。

    さて、以上が第7講までのまとめである。調律、調性、旋律、和声、といった音高とその序列、組織を主として説明している。実際バークレーメソッドというのは基本的にその範囲に限定された体系なのである。第8講が律動の最初である。ヨーロッパにおいて律動が生まれたのは教会音楽が多声化して同期する必要が出来てからである。そこではまだ拍子というものはなくて歌に付きまとう区切り(呼吸)に沿ったものであった。いわば言語に沿っていて、その言語の特徴がアクセント言語(強勢拍言語)であった。アクセントの時間的な位置に決まりはない。西洋音楽はバッハの時代に計量的な時間の概念を音楽に持ち込んで、アクセントからアクセントの間を同じ時間となるように整備したのである。3拍子とか4拍子とか、そいういったリズムの概念は既に世俗的な舞踊として既にあったものであるが、教会音楽の中に取り込まれたのである。言葉はそれに合わせるために引き伸ばされたり縮められたりしたが、基本は最初にアクセントがあり、そこからコードが変わる、ということである。本来がそういうものであるから、西洋音楽においては曲の盛り上がりでしばしば時間が引き延ばされる。西洋音楽のリズムはあくまでも合奏の手段なのである。それに対してアフリカの言語はグルーブ言語(音節拍言語)であって、全体の拍数の整数的な秩序を重視する。拍を数えていってどこかで合わせる、といういわば積分的な音楽が最初からある。一定の周期を守りながらそれを自由に分割していって合わせるのである。ヨーロッパとのこの著しい相異は、教会という閉じた空間での反響を利用したヨーロッパと、草原での部族内交流のための踊りと音楽を必要としたアフリカという地理的なものであろう。ともかく初期のアメリカ音楽はヨーロッパ的な律動感であり、およそリズム音痴というに相応しい。カントリーミュージックとそれを高速化したロックンロールも例外ではない。強勢が最初に来るというのがその特徴である。アフリカから強制的に連れて来られた黒人達によって、このような西洋的なリズムが変容していく。ジャズで言えば、ダンスミュージックであったスウィングが踊れない音楽ビーバップに変わる。一見4拍子のように見えるけれども、細かい複雑な旋律を詰め込むために拍の中での時間的な辻妻あわせをやっている。勿論西洋音楽でも5連譜のようなものはあるのだが、その意味合いは逆である。ここでは出来るだけ細かく刻んで拍合わせすることそのものが目的(喜び)となっている。この違いは勿論聴いても意識的には判らないのであるが、白人のジャズと黒人のジャズの違いというものは感覚的に判るものである。(少なくとも50年代のジャズではそうだった。)極端に言えば、細かいリズムのための材料(音符)としてコード進行が利用されたのであり、バークレーメソッドというのはその残り滓を一生懸命に体系化したものなのかもしれない。この傾向が明確になってくるのは、ジャズの次の時代、モードジャズからである。マイルス・デイヴィスによって切り開かれたコード進行からの解放である。そこではコードが停滞して黒人的な律動が支配する。解決に向わないコードで提示されるのはモードである。ハ長調の音を使うと、Cから始まるのがイオニアン、Dから始まるのがドリアン、Eから始まるのがフリジアン、Fから始まるのがリディアン、Gから始まるのがミクソリディアン、Aから始まるのがエオリアン、Bから始まるのがロクリアンである。音階として同じでもコード進行が異なる、というかコード進行しない。2つの特性コードが行ったり来たりする。モードには独特のカラーがある。コーダルに落ちないように4度重ねの和音も使われる。こうなるとバークレーメソッドでは記述できない。モード技法はやがてモードを次々と変えていく方向に発展して極端には従来のコードの替わりにモードが使われるようになるが、違いは進行しないということである。つまりやたらと色彩感が変化する音楽である。リズムの話の発展として第9講のモード技法まで進んでしまった。

    第10講でまた律動に戻る。今度はアフリカ音楽のリズムの話である。ヨーロッパの音楽はコード進行によって動いていくからコードの変わり目というものがあって、そこが拍の始めにならないと気持ちが悪い。しかし、アフリカの音楽にはコード進行はないからリズムの取り方が自由になるし、またそれによって音楽を進行させていく。進行させていく、というのは要するに飽きさせないということである。拍の表裏に対して自由であるし、一周期の時間分割についても自由である。これがアメリカ音楽の中に入ってきたのはマイルスのモード技法のようなコードが進行しない音楽からであった。その方法の基本は12=3×4=4×3 と表現することが出来る。つまり、4拍子というのはいつも3連譜が4つであって、3拍子というのはそれぞれが4分割されている。そういう風に演奏されなくても身体はそのように動いている。これを交代させるとコードなんかが進行しなくても面白いのである。減速感や加速感が出る。(ヘンデルの曲に見られるヘミオラは3拍子がそのまま2拍子に変わって減速感が出るのである。ヨーロッパでもこういうのがあった。)まあ、こういうのが基本であって、更に、実際には5拍子として、3,3,4,3,3 とか 3,4,3,3,3とかいう分割の仕方がある。近似値として分割されるから、訛りのような感じがする。この訛りこそが実はアフリカ音楽の味わいなのである。同様な意味で、音階としての訛りの代表がブルーノートであろう。長調でも短調でもない、平均律の調律から外れた音程である。こういう次第で、現在の若い人達の音楽にはポリリズムとブルーノートと停滞するコードが山盛り一杯なのである。

    第11講がまた旋律と和声であるが、これはモード音楽が記号体系の中で分析できなくなった状況を具体的なサンプルで示している。ヨーロッパ音楽でもワーグナーの有名なトリスタン和音は解釈がさまざまであって、きちんとした解析が出来ない。ドビュッシーとかシェーンベルクとか、どんどん記号の枠組みを超えていった。モード音楽もそうである。ただ、新しくポリリズム、更にはノイズの要素が加わる。

    最後の12講は質問に充てられた。最初の質問は具体的な曲の解釈であって、モーダルというけれどもコーダルとも解釈できるのではないか、ということである。使っているコードやその並べ方によって判断するわけであるが、実際上はどちらとも言える場合が多い。次はノイズミュージックの話。抑圧してきたノイズに気付いてそれを利用する、という無意識の発見みたいな話。これは良く判らない。

    次は音韻と音響の話。バークレーメソッドというのは音韻の話である。コードに「意味」が張り付いていて、記号として成り立つのだから。これに対して音響という側面が必ずあるのであって、響きの美しさに浸る、ということである。こういう立場での作曲というのも考えられる。20世紀が音韻の時代だったのは録音、再生機器が充分音響情報を伝え切れていなかったからかもしれない、という。マスメディアとしての音楽を考えるならば、記号化を徹底させて音韻情報としての作曲というのが効率が良かった。いまや町中に音韻情報が溢れかえっていて、逆に静かな環境で水のせせらぎを聴くという音響派が台頭しているともいえる。ノイズ・ミュージックもそのような立場である。

    最後にリディアン・クロマティックの話になる。バークレーメソッドが西洋音楽の長調(イオニアン)を基本として展開しているのに対して、リディアン(長調のファを半音上げる)を基本として展開する音楽理論である。こうすると主音から5度づつ上っていくと残りの6つの音がでてくる。イオニアンだと7番目の完全5度を増4度にしなくてはならない。聞き比べるとリディアンの方が澄んだ音階に聴こえる。実をいうとそのイオニアンに含まれる最後の増4度(シファ)こそがドミナントモーションの原因なのである。イオニアン(長調)ではこのドミナントモーションによって永遠に欲求不満とその解消が繰り返されるのである。リディアン・クロマティック理論を提唱するジョージ・ラッセルはその事こそ近代の不幸だというのである。勿論20世紀に限るならばこのようなジョージ・ラッセルの主張は全く無視されたわけであるが、記号体系としては同じ程度の価値を持っていると考えられる。
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