Karen Barad "Meeting the Universe Halfway"
https://smartnightreadingroom.files.wordpress.com/2013/05/meeting-the-universe-halfway.pdf
の  Part I "Entangled Beginnings" のIntroduction

      この Introduction の前半は Michael Frayn の 戯曲 "Coppenhagen" の批評に充てられている。彼女の文章はインテリらしく込み入っていて、しばしば構文解釈を考え込まなければならないほどであるが、まあ仕方ない。

      Heisenberg の不確定性原理は勿論量子力学の話であって、生物システムや人間・社会システムにそのまま応用することはできない。けれども、比喩的には如何にも応用できそうな魅力を持っているし、この戯曲にも巧みに応用されている。しかも、Heisenberg という人物が、ナチスドイツにおいて、核エネルギーの研究(具体的には原子炉だったようであるが)をしていたことから、戦後、アメリカで核兵器を開発していた物理学者達から非難・糾弾された、という経緯がある。戦後の Heisenberg が自らを釈明しなくてはならなかったことから、彼が1941年に 師の Niels Bohr を訪問した事の「意図」についても謎に包まれることになった。彼自身の説明では、「<原子炉開発によってプルトニュームを生成することになる事への倫理的問い>を意図したが、盗聴や密告の恐れがあり、ストレートな表現が出来ず、ボーアは私が核兵器の開発を行っていると誤解して会話にならなかった。戦争中私は兵器開発をむしろ遅延させた。」他方、彼を非難する物理学者達の考えでは、「彼はドイツへの愛国心から核兵器開発を目指したのだが、計算をきちんとしなかった(これは証拠がある)為にウラン235を諦めて原子炉によるプルトニューム生成を目指して開発していた。ボーア宅訪問の意図はアメリカでの核兵器開発状況の情報入手と、ボーアを使ったその遅延策であった。」というものである。フレイン自身はハイゼンベルグに同情的であるが、戯曲の結論としては、「意図は知りえない。」ということである。不確定性原理の主張を拡張して、「この世のこと全ての判断は<観測可能な事実>のみに依拠すべきであって、知りえない<意図>については倫理的判断の根拠とすべきでない。」という考え方を持ち出して、それが<救い>になる、と登場人物に語らせている。最後には、もしもボーアが会話を打ち切らずに、ハイゼンベルグに<何故核兵器開発が可能なのか?>と質問していたら、彼は計算をやり直してウランによる核兵器を開発しただろう、という考察を入れた上で、人は<知らない>ということで救われる、という教訓を引き出している。

      僕自身は戯曲の仕掛けとして面白いと思っただけなのだが、Karen Barad はフレインのこのような教訓の引き出し方に異議を唱えている。物理学が曲解されては堪らないということなのだろうが、それについては以下にまとめる。僕自身がやや違和感を覚えたのは、ここでの議論で、「ナチズムに協力した事は絶対悪である。」とか、「一般市民を無差別に殺戮する原爆を使用したことは絶対悪である。」とか、やや単純化された倫理基準を採用していることである。これらは今日的な倫理基準ではありえても、その当時の普遍的な倫理基準ではない。そのような絶対悪の想定によって、見えるべき歴史の事実が見えなくなるのではないだろうか?また、それらの絶対悪を否定すればそれが絶対善である、という過去の正当化=<救い>への誘惑が生じてしまうだろう。もっともこういう事はこれから論じられるのであろうが。

      (p.18) Barad はまず、ハイゼンベルグの不確定性原理とボーアの相補性原理の相違を説明する。前者は量子論的世界を認識することの限界を語る。観測によって系は必ず乱されるから、という彼の証明方法の通りである。(これだけだと、例えば粒子は位置と運動量を同時に持っているのであるが、我々はそれらを同時には測定できないという考え方が成りたつ。)しかし、ボーアはそれでは不十分であり、量子力学は存在論を語るべきであると考えた。つまり、不確定性関係は単なる測定の限界なのではなくて、量子論的世界の存在形態そのものである、と考えた。それは測定装置に依存してしか確定的な存在にはならない。(例えば、粒子は測定されるまでは位置も運動量も不確定なまま(確率的なまま)である。)フレインが彼の戯曲で比喩的に使ったのは不確定性原理ではあっても相補性原理ではなかった。

      (p.20) それでは、相補性原理を拡張して戯曲を書き直してみよう。マルグレーテが手本を示している。「集中して行動しているときにはそれについて考えることが出来ず、それについて考えているときには集中して行動できない。」これのフレインによる応用は「ハイゼンベルグがボーア邸を訪問したという行動とその意図とは同時には開示されない。」であるが、これは浅薄な解釈である。まずは行動を思考に置き換えてみよう。「何かを集中的に思考しているときには、その思考を反省、つまり思考の意図を考えることができないし、その逆も言える。」(これはまあ意識というものが常に統一された一つの意識でしかありえない、という事に拠る。)意図というものはどこか頭の中に存在していて我々が知ることができないものだ、と思い込んでいるのだが、そうではなくて、意図なるものを測定する装置が無いのであれば、意図はそもそも存在しないのである(存在論への踏み込み)。逆に測定することができたとき、そこに「意図」が生じる。ハイゼンベルグの意図を存在させるためにはその背景となったあらゆる物的条件(material)を揃えなくてはならない。ハイゼンベルグがナチスの核兵器開発をコントロールしようと足掻いていた間、適切にも劇中のボーアは<彼が核兵器開発をコントロールしていたのではなく、核兵器開発が彼をコントロールしていたのだ>と指摘する。このような状況で彼の「意図」や「責任」に存在意味があるだろうか?それらは果たして「個人」に帰属すべきものだろうか?そうではない。複雑に絡み合った人間的非人間的 agents のネットワークに帰属すべきものである。

      (p.23) これは、ボーアの考え方によってものの見方がどう変わるかを例示したに留まる。つまり、道徳的判断は行為にも意図にも拠るものではないということであるが、それではどうやって判断できるのか?それは本文で述べることになる。本文では、例えば因果律、Agency、倫理、科学、等々、全てがボーアの考え方によって組み立てなおされる。ボーア自身、彼の考えを生物学や人類学に誤って応用している。彼の考えは彼の論文の中にヒントとしてあるだけであるから、それをこの論文では厳密に展開する。粒子と人やミクロとマクロ、科学と社会、自然と文明といった関係相互の類似性には興味がない。客観性の可能性、測定の性質、自然の性質、意味の生成、記述的行為と物質的世界の関係、等の量子力学が我々に強いる認識論的・存在論的問題に興味がある。物理学が語ることが全てではない。その還元主義は極めて適用範囲の限られた方法にすぎない。必要なことは、我々の物理的世界の理解の基盤となっている概念の再編、同様に社会現象の理解の仕方そのものの再編である。例えば社会的と自然的というカテゴリーに世界を分けるという事への反省。物質と意味を別々のカテゴリーとして記述し、それらを個別的な専門によって分析し、複雑な事項を簡単な物の組み合わせとして分割する、という方法自身が基本的な過ちの原因である。かといってそれらを区別なくまとめて考えるということではなく、あらゆる統合の方法を許す、ということが必要とされる。

      "Over View of the Book" では、まず彼女の "Diffractive Method”が説明される。相補性原理の安易なアナロジーで考えるのは危険であるので、現在各分野(量子力学、科学論、物理の哲学、フェミニズム、人種論、ポスト植民地主義、ポストマルクス主義、ポスト構造主義)において最先端と思われる「方法論」を網羅的に検討し、それらを統合する。これが第2章ということらしい。そこでは、学際的アプローチを余儀なくされることで、物質的−言説的、あるいは自然的−文明的と言った対立概念が、協力し合い、それぞれの意味を変容しあう様を観察することになるだろう。経験的に正確な科学実践を検討すれば、認識論と存在論と倫理とが不可分に結びついていることが示されるだろう。その枠組みとして、"agential realism" を提案することで、これまで論争の題目となった全ての二元論を克服することになるだろう。そのための出発点がボーアの認識論的枠組みであり、これを多分野に亘る研究成果を批判的に検討することによって発展させ、一部は改変する。ボーアの哲学−科学は社会との接点を持っているために、出発点として適している。ボーアは自然の本質と科学の本質の両方を理解しようとしたことによって、量子物理学から最良の教訓を学ぶことができた。つまり「我々は我々が理解しようとしている正にその自然の一部である。」敷衍すると、「科学的実践とは、自然の(自分も含む)各部分間の相互作用なのであり、我々の知識創造活動が我々の記述する現象そのものに貢献しつつ且つその一部でもある、という現実を理解すること無しには、我々の世界理解はあり得ない。」しかし、ボーアはあまりにも人間中心主義者であったが故に、そこから先において、量子物理学の整合的な理解の為にもその含意を検討するにも障害となった。

      Introduction の最後(p.28-38)には各章の概要が纏めてある。用語を理解するにはどうも現代哲学の勉強が必要なようであるが、誤訳を承知の上で主要な文章を翻訳してみた。何しろ英語のままではどうにもならない。

      第1章では主要な問題点を論じる。それは discursive practice (言説行為)対 material world (事実としての世界)の関係である。ここでは「表象主義」が批判される。表象主義では、人間の頭の中に生じる(意識されるかどうかは別として)表象と対象物そのものとの独立性を前提とする。この考えの限界を乗り越えるために「遂行的アプローチ」(performative approach)を取る。つまり、表象と事物が対応するかどうかというのではなくて、表象するという遂行の「実効性」を問題にする。近年、科学論者も社会学者も構築主義を遂行主義的に乗り越えようとしている。これは現実の記述から行為への視点の移動である。

      第2章では回析的(refractive)方法について説明する。これは光学のアナロジーで、類似した概念としての反射的(reflective)方法というのは現実との対応として思考を捉えるのであるが、回析的(=干渉による)方法というのは、現実における微小な差異を拡大して、そこに通底する原理を探るという意味である。ひとつひとつの学問分野に精通するよりも、むしろ、異なる学問分野を比較検討する。例えば、最新の科学理論から自然の本性を考えるのと同時に、自然の本性についての最新の思想と最新の社会学理論から自然科学の実践について考え、また同時に、自然の本性についての上記理論と科学理論から社会学の理論を考える、といった方法である。

      第3章ではボーアの哲学を論じる。ボーアは量子物理学の理解において、科学者が「もの自体」(人間の認識枠組みの外にある存在)に触れる事の不可能性を語ったのだが、かといってカント流の本性vs現象の2元論を認めたわけではない。また、彼は物質に対して現実的な方法で接していながらも、観測対象と観測装置の間の相互作用は決定不可能であり、そのことから、相互作用を捨象することで人間とは無関係に存在すると考えられる世界だけを残すことは不可能である、と考えた。ボーアが量子物理学に見出したこの認識論的枠組みは、知る主体と知識、測定の役割、意味生成と概念使用、リアリティの本性、といった哲学の基本問題に新しい光を与える筈であるが、彼自身はあくまでも認識論の枠内に止まり続けて、存在論には踏み込まなかった。この章ではボーアに代わってそれを試みる。ボーアは科学的実践を前(proto)−遂行的に捉えている。測定の理解において彼は表象主義を否定している。具体的には、言語と物、言い換えると行為の言説的本性と物質的本性を、別々のものとしてではなく、同時に考慮している。物理学者として物の本性について論じるのは当然としても、彼は更に言葉の本性、意味の本性、意味生成の実践、知ることを可能にする条件、また知ることが不可能な領域についてまでも問題にしている。更に驚くべきことに、これらの事項、象徴的に要約すれば「言葉と世界」、それらがお互いに分かちがたく結びついていることを理解していた。知的活動とは実体を伴う行為であって、それはその対象に寄与すると同時にその一部でもある。そういう事実を理解することなしには物理的世界を理解することは出来ない、とボーアは考えていた。

      第4章はこの本の核である。agential realism という理論的枠組みを提唱する。ポイントの一つはポストヒューマニズム的な遂行主義である。人間以外の要素が自然・文化的行為、全ての社会的行為、科学の実践、人間を含まない行為の中で重要な役割を果たす。人間と人間でないものとの間に境界を設けない。自然と文明の二項区分を持ち込まない。第一義的に存在しているのは、それぞれの境界と性質を持つ個別の対象物ではなくて、ボーアがいう処の「現象」である。現象は単に認識論的に観測者と観測対象や観測結果が不可分であるということだけではなくて、相互作用しあう(agentialy intra-acting)要素の存在論的な相互不可分性である。現象は実験室で作りだすものではなくて現実を構成する基本単位である。intra-action は造語であって、絡み合った agencies(代行者)の相互的な構造性を表す。inter という接頭辞が先験的に存在する要素間を表現するのに対して、ここで使う intra は個々の agenies が先行するのではなく、intra-action によって出現する、ということを表している。agencies は お互いの絡み合いの中から生まれるのであって、絡み合いに先行しては存在しない。intra-action は従来の因果律概念に再検討を迫る。社会・政治学の理論家の遂行主義的記述は社会的行為や人間の身体の生産的性格に焦点を当てるのだが、 agential realism では、身体の実現に働く力は、単に社会的なものではなく、身体も人間の物とは限らない。とりわけ重要なのは、言説的行為と現実的現象の間の因果的な関係の本性を明らかにすることである。

      第5章は以前にまとまった論文として発表されたものであるが、フェミニズム、行動主義、政治に対する agential realism の応用である。とりわけ、Judith Butler のフェミニズム理論が採りあげられて、彼女の限界が乗り越えられるだろう。

      第6章は権力と身体の問題である。Leela Fernandes のカルカッタ麻紡績工場での民族学的研究を採りあげる。

      第7章は量子力学の再考である。長らく解決していない解釈問題を考察する。実験技術の進歩によって、今やメタ物理学の実験が可能となっている。最近の注目すべき実験を agential realsm の枠組みで考察する。このプロジェクトは科学を単に反省することに止まらず、自然の理解に新たな貢献をするだろう。新しいメタ物理学の実験は単に物理の領域に止まることなく、哲学者、特に自然主義的傾向の哲学者にとっても興味深いだろう。

      第8章はこれまで解明してきたすべてのテーマを統合して、いくつかの重要な事項について展開する。ナノテクノロジー、情報技術、バイオテクノロジーからの具体的な例によって、我々のアイデアが肉付けされ、現代物理学が絡み合いの研究に使っている装置をその起源に遡って解明することに役立つ。これらのテクノロジーは分かちがたく絡み合っていて、それらの焦点は、生成の intra-activity、知る事の存在論、実現することの倫理にある。従って、この章の焦点は存在論と認識論と倫理の絡み合いである。回析的方法は単に差異ではなく、いかなる意味でも絶対的な差異ではなく、関係する差異の絡み合った本性を照らし出す方法である。とりわけ、差異は責任と結びついている。この章の最後に倫理について述べる。倫理は科学の実践の付属物ではなくその枢要な部分である。更に言えば、価値こそが知る事と存在する事の本性である。つまり、客観性とは、同時に認識論的、存在論的、価値論的事項であり、責任と説明性は科学実践の核である。倫理的考慮を離れて科学が世界について語ることを正しく理解することは出来ない。リアリズムというのは個々の独立したリアリティのことではなくて、お互いに絡み合いながら世界の一部を構成している intra-action の現実的結果であり、関わりであり、可能性であり、責任である。

      ということで、実に魅力的な結論に導かれるようであるが、中身を読んでみないことには何とも評価できない。

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