中村明一「倍音」(春秋社)を読んだ。この人は尺八奏者である。当然ながら日本の音楽の特徴について考えてきた筈で、これはその成果であろう。まずは、人の感じる音響は、整数次倍音の軸と非整数次倍音の軸で分類できるという。前者は弦や管楽器で典型的に見られるし、後者は自然雑音として括られている。周波数スペクトルが離散的か、それとも連続的か、ということなのであろう。但し、この表現だと離散的といっても2倍、3倍、4倍、、、といった系列に限られるので、膜や空洞の共鳴音のような非整数次で離散的な音をどちらに入れているのかは判然としない。言語音で言えば、前者は母音であり、後者は子音である、ということなので、多分離散的であれば前者に入れるのであろう。歌や漫才や政治家の演説やら、いろいろな例を挙げて、日本においては、整数次倍音を多く含む音にはカリスマ性や異様性が感じられ、雑音(中村氏は非整数次倍音といっているが、ここでは雑音とする)を含む音には親しみやすさが感じられるという。その音響キャラクターを語る内容と組み合わせる事で人々に受け入れられやすくなったり、拒絶されたり、飽きられたりする、という「法則」が語られるが、これはまあどうでも良い。

    ところで、中世以降ヨーロッパで発展してきた音楽、つまり西洋古典音楽は整数次倍音を重視しており、しかもその基音で記述される。これが音高である。人間の耳は2〜3kHz位が最も感度が高いのだが、それは音高でいうとかなり高い音であって、実際には倍音を聴いているということになるが、それでも基音を「記号」として使っている。これは、良く言われているように、教会を典型とする西洋の建築内部の反響の良さが重要な役割を果たしている。つまり、反響することによって、高音は低音に比べて相対的に弱くなって、響きの中心はどうしても基音に近づくのである。弦や管を音高の目安として音楽を語ってきた為に、整数次倍音の系列には特に敏感であったという事情もあるだろう。宗教的感覚を呼び起こすのに、整数次倍音(離散スペクトル)が有効である、というのは人類一般に言えることで、これは自然界では殆ど聞く事がない音だからである。つまり西洋音楽は宗教的人工的環境の中で育まれてきたということである。本来人類は雑音の世界に生きてきたし、それを敏感に感じることが生き残りに重要であった。僅かな木の葉の動きが獲物や敵を感知するのに決定的だからである。響きの良い人工的環境を持たなかった日本では、中国から整数次倍音を宗教的儀式としては取り入れながらも、それを「音楽」の第一の要素として積極的には認めなかった。むしろ整数次倍音にどのようにして雑音を入れるか、ということが重要な表現手段として発達してきた。取り入れた楽器に対して非整数次倍音を発するような「改良」を加えているのは、邦楽器の特徴である(能管や三味線が典型、尺八も)。そこで楽譜に書かれてあるのは西洋流の音高ではなくて指使いである。音の大きさなども一切書かれていない。西洋音楽でいうところの「音色」こそがもっとも重要な要素なのである。音高や大きさとは違って音色は記号化しにくいものであるから、作曲技法もまた組織化されなかったし、音楽は構造的なものには発展しなかった。といった調子で、要するに尺八という楽器で奏でる音楽を何とか正当化しようとしているのである。勿論これはこれで当を得ていると思う。響きの良いコンサートホールで邦楽を演奏するというのは言語同断ということになる。重要な雑音が反響の中で消えてしまうからである。

    面白いのはこれが更に発展して、言語論になるところである。日本語音の特徴は(ポリネシアもそうであるが)母音優位というところにある。子音だけが連なることはない。なぜそうなったかはともかく、子音が多用されないと音素の組み合わせが限られてしまい、同音異義語が多数生じる。実際日本語の単語を書いてみると非常に多い。しかし、中村氏はそうではないという。それは見かけのことであって、よく聴いてみると同音異義語ではあっても、音色は違うというのである。母音優位ということは逆に言えば母音(整数次倍音)に雑音を加えていろいろなニュアンスを籠めやすいということでもある。所謂言語の周辺意味がそこにはある。感情とか重要性とか、単語の意味とか、そういうものが、追加された雑音によって表現されている。日本語というのも日本の音楽と同様、記号化しにくいものであって、単なる あ、い、う、え、お と括られてしまうと見かけ上「同音異義語」が生じてしまうだけのことであって、実際に発話され聞き取られるときには区別されている。昔は浪曲、今は演歌がその良い例である。歌手は勿論整数次倍音の達人でもあるが、演歌歌手はそれよりも非整数次倍音の達人でもある。日本語のオペラがなぜ奇妙に感じられるのか?それは本来雑音に意味があるのに、オペラの発声ではそれが排除されるからである。それでは西洋人もそう感じているのか、というとそうではない。西洋人にとって、言語と音楽は別の領域なのである。前者は子音優位の世界であり、後者は母音優位の世界である。子音があればそれを記号として意味が判別される。だからオペラの中で母音がいくら引き伸ばされてもそれは別のチャンネル(右脳)で聞いている。そこに雑音が紛れ込めばそれは単なる音楽にとっての邪魔者(自然)でしかない。日本人にとって子音は必ず母音を伴っていなくてはならないし、その母音の要素の中に紛れ込ませた雑音によって感情的意味が感じられるのであるから、紛れ込んだ雑音がなくなると表面上の意味は伝わっても感情が伝わらない。所謂ダブルバインドの状況に陥るのである。言語と音楽がやや未分化と言っても良いかもしれないが、音楽とはそういうものだという立場もある。西洋音楽における強調表現はまずもって音の大きさであるが、邦楽では雑音である。日本語においてもそうであって、母音に籠めるさまざまな雑音にこそ言語表現の豊かさがある。これもまあそういう面もあるかなあ、という気はするが、実証的研究が必要だろう。

    話は更に発展して日本文化論になる。ここで登場するのが、「密息」と「フォーカスイン・アウト」、という言葉である。さて、密息というのは、腹式呼吸と異なり、呼気のときも下腹を凹ませないで横隔膜だけを上げるのだそうで、それによって、体幹が安定し、吸気が一瞬で行えるようになるらしい。古武術や尺八ではこれを使うということらしい。確かに管楽器では複式呼吸とは言ってもすばやく吸気する必要があるから、密息に近いのかもしれない。密息では身体が動かないので呼吸を規準とした定常的な時間感覚が無くなるという。フォーカスイン・アウトは瞬時に焦点を移動する事で、視点移動時間で測られていた距離感が無くなるという。これに「倍音」が加わると、空間感覚が変わる。これは倍音の成分というもので反響の程度が変わり、それによって空間の大きさを感じているためである。基音は同じでも倍音の成分を大きく変えると空間感覚(自分の感じる部屋の広さ)が変わる。鼓を打つ時に「イヨー」と掛け声をかけるが、その音色によって実はその次の鼓を打つタイミングが変わる。これは日本人には自然に体得されている。拍を数えていては出来ないことである。こういう風に、時間と空間が判然としない状態で「間」が生じるのである。能管もまた独特の非整数次倍音を作り出して、間の変容に貢献していて、聴く人々は聴覚的に「異界」へと誘われる。この辺はかなり著者の主観的解釈ということになる。

    残りの章は、著者が尺八の世界に入った理由とその魅力、もともとロックで電子楽器の多様な音が好きだったようで、ある日武満徹のノヴェンバーステップスを聴いて弟子入りしたのだそうである。音楽の意味についても語っているが、同期現象による無意識のコミュニケーションというところである。他にもいろいろと語ってはいるがどうみても受け売りなので論じるに足りない。ただ、尺八の雑音を響かせるためのスタジオを作ったらしく、それは結局大理石を使って反響させることと、定在波を生じさせないように凹凸に工夫したとのことである。ヨーロッパの教会のように広い部屋で音響が良いと雑音は消されるのだが、狭い部屋だと、うまく作れば雑音が強調されて、とても良いのだそうである。

    ともあれ、全体に議論が雑なのであまり説得性がないように思われる。内田樹がなぜ推薦したのか理解に苦しむ。

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