東図書館に予約しておいた、諏訪哲史「アサッテの人」(講談社)が借りられたので、急いで読んだ。小説という作法をできるだけ壊して、小説家の日記のような体裁でアサッテの人の資料を提示している。まあ新しい形式の小説なのだろう。

      アサッテの人というのは、当人の名づけであって、日常的な定型的な出来事からの逸脱による一種の快感の世界を生きる人である。整理すると、作者の叔父にあたるがあまり年の隔たりが無い人であって、吃が一つの原因で引き篭もりながらひたすら読書に明け暮れていた人である。その育て親は日本語として意味不明の発音が好きで、お経を覚えていつも唱えていたような人であって、多分にその影響を受けている。ともかく、あるとき吃が急になくなってしまってから、それまで自分の外にあった言葉の秩序が自分を支配し始めると、それに対するどうしようもない反発の気分が生じてくる。この辺の気持ちは判るようでわからない。幼い頃からそうであれば、言葉の秩序は自分の秩序として受け入れられたのだろうが、その代わりに意味不明の発音たちの世界を受け入れてしまったのだから、そういうことにならざるを得ない。こうして、何かの拍子に無意識の内に出てくる叫びのような無意味単語によって本人にも判らぬまま快感が生じるようになった。いわば失われた吃音の代替である。周囲の人達を驚かせるが、本人は真剣である。このようなコミュニケーションの裂け目を作り出すことで、本人は解放される。しかし、連れ合いを若くして失ってからは、対抗すべき日常の定型が失われていく。逆にそれらを求め、強引に作り出すことで、何とかアサッテの世界を得ようとする。しかし、日常の定型こそこの人にとって苦手なものであったから、空回りをしながら狂気の世界に閉じこもるようになったのである。この小節には結末がなく、主人公は行方不明のまま、作者はその住居を片付ける、という役柄である。

      僕も複雑な外国の地名や人名が好きである。何となくうまく口について覚えてしまう癖があるので、似たところがある。音楽もまたアサッテの世界と言えなくもない。何となく不気味。

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