2021.03.29
伊藤亜紗『記憶する体』(春秋社)をこの間借りてきて読んだ。心=身体についての不思議な実話集である。

・・・19歳で失明した女性の話。彼女は話す時に絶えず紙の上に書いている。文字であったり矢印であったりして、それは彼女が考えをまとめるためであり、話したことをメモしておくためでもある。紙の上の何処に何を書いたかは意識としては忘れても、身体が覚えていて、後でそこにアンダーラインを引いたり、矢印を付けたりする。思考は脳だけで行うものではない。手を動かして物を操作することで初めて複雑な思考が可能になる。(理系人間なら良く判るだろう。。。)しかし、彼女の場合、それは必ずしも「視覚」を必要としない。勿論筋肉運動それ自身は脳にフィードバックする情報伝達経路を持つが、それだけでは彼女のスタイルが説明できない。描いたものの偶然性を利用してその先を想像していく楽しみ、つまり絵画も彼女の楽しみである。視覚障碍者になると、補助する人がいろいろと親切に助けれくれるけれども、本当は助けてくれなくても「見えて」いて、自由にさせてほしい時が多い、という。けれども親切心に配慮して、自ら「視覚障碍者」を演じなくてはならないのが辛い。主体性が奪われるからである。彼女にとって「画く」事は自らの主体性、つまりちょっと先の未来を自分の責任で作り上げる事、を回復する手段である。二重人格となることによって、彼女は社会に適応している。

・・・6歳で失明した男性の話。彼は点字を読む時に色を感じる。点字の一つ一つが固有の色を持っている。速く読むと色が高速で点滅して鬱陶しい。文字を覚え始める頃、文字のサンプルは大抵色付けされている。色は識別しやすいから、それを契機として文字の形や音と結び付けていく。しかし、その途上で失明したために、色と音が直接結びついてしまったと考えられる。ただ、彼は自ら感じている色を言葉で説明することができない。色と色の関係や微妙な差は、関係や差としては感じられなくて、それぞれが固有の感覚である。つまり、それを言葉で、近いとか遠いとか、反対色とか、言えない。他者と隔絶された彼だけの色彩の花園がある。

・・・23歳で車に轢かれて左足を失ったダンサーの話。ダンサーというのは自らの身体運動に対して非常に意識的である。義足は切断した脚に履かせる靴のようなものであるから、切断面の骨に当たると痛いので、クッションを入れるが、これがあると義足の制御がやりにくい。彼はダンサーとして、義足を制御しなくてはならなかったので、敢えてクッションを硬くしてその部分の筋肉を増大させて痛みを克服した。結果として、彼の利き脚は左足に変わった。左足の方が「器用」なのである。器用というのは何も物理的に操作することではない。意識的な動作に対して身体が精密に応答を返してくれることである。幻肢による痛みはその応答が無くなることに由来するが、彼の場合には痛みはない。現実には周辺の鍛えられた筋肉が応答している。そして、そういう「身体」への意識的制御こそがダンスの本質なのである。というところで、昔観た土方巽の舞踏を思い出した。あれはそういうことだったのか。。。

・・・先天的に下半身が動かせないダンサー。彼の腕は脚の機能を持つ。平地は車椅子を使うが、階段に来ると降りて、腕で蜘蛛のように素早く昇り降りする。彼は下半身に痛覚が無いから、怪我をしたときに困る。まるで付属物のように脚の状態を監視している。しかし、実は怪我をすると痛みを感じるのである。それは最初は視覚的情報であったが、上半身での傷の痛みを学習して、痛みという皮膚感覚が作られるようになった。

・・・生まれつき全盲の読書家にとって、レストランの記述を「5席ある」というのは違和感がある。レストランでそんなことを気にしたことは無いからである。音響とか椅子の触感の方に意味がある。視覚は瞬時の理解を可能にするから、写真が有力なメディアになるが、全盲者にとってそれは無意味である。むしろ事件の経緯を辿ることが重要である。ただ、健常者の文章を読むことは、健常者の感覚を追体験するという楽しみでもある。生まれつき耳の聞こえない人でも背後の気配を感じる。これは小説の世界の追体験が自分の感覚に埋め込まれたものである。現実の音は聞こえないのに、戦艦が砲撃している絵からの音は聞こえる。音というよりも振動である。聾唖者は音を身体で感じる振動の先にあるものとして捉えている。喋る時にはその振動を感じるが、これは外在的なものではなく、自らの身体感覚である。喋るということは彼にとって、その身体感覚を引き剥がすようなものである。

・・・40歳で骨肉腫の為に右腕を切断した人が、左腕だけの生活に慣れて、次のステップである、右腕の義手を付けようとしているが、迷う。彼女にとって右腕は幻肢として存在している。いわば右腕の記憶である。彼女は幻肢痛をまるで人格のように語る。義手を付けると幻肢=人格を失うことになるからである。幻肢は動かすことができる。つまりそのような内部感覚がある。しかし、手首から先が動かない。それは身体の中に埋まっているという。これは特異的であるが、どうやら、手術前の記憶が関係している。癌の転移を防ぐために、長い間右手を三角巾で固定していて、手がお腹の前に固定されていたのである。記憶は過去の出来事の集積ではない。それは出来事に対する解釈である。彼女は右手を切断した状況に苦しみながら適応した結果、幻肢を自らの友人として解釈したのである。そういう風な関係になったのは、彼女が自らの肩を3Dプリンターで開発するようになったからである。幻肢の痛みを聞きながらそれをなだめる為の肩の形状を工夫する、という行動は、彼女にとって主体性を回復するという意味があった。健常者は自分たちの感覚を障害者にも与えようとするが、障碍者にとってそれは余計なものであることが多い。既に別のやり方で適応しているからである。

・・・先天的に左手の肘から先が無い人の話。彼女はそれで充分適応して生きている。だから、義手を付ける必要は無い。しかし、外出するときには必ず義手を付けている。周囲の人を驚かせない為である。

・・・左腕神経叢引き抜き損傷を受けて、腕が存在しある程度は動くにも関らず幻肢痛に苦しみ、それを和らげる方法を研究している人。「僕の脳は左手が切れているということをまだ学んでいない。内側には信号が届いているのだから外側にも行ける筈だと思っている。動かないという報告が来ても、脳はそんなはずは無いと信号を送り続ける。」定期的に麻酔をかけて寝ないと体が持たない。最初は引きこもり、次の段階で「何故と問う事を止めて人間を辞めた、山に入って瞑想した。」やがて、VRによる幻肢痛緩和法に行き着いた。幻肢の検査方法。左右で別の図形を描く。健康な場合は幻肢の動きに正常な手が影響されてしまってうまく描けないが、幻肢の場合は上手に描ける。健康な手の動きを反転させてVRに映し出し、それが幻肢と重なるようにすると、自らの手であると感じる。つまり、VRの中で脳の指令が幻肢を動かす。この感覚に到達する(通電する)には数分かかる。この時「両手感」を感じる。両手が協力し合っている感じ。指を発見する感じ、普段は痛みの塊であったものが指一本一本に分解されていく。動きの記憶が蘇ると幻肢痛が消える。しかしいつまでもVRを続ける訳には行かない。しばらくすると元に戻るので、彼はその時をいつも思いだすような訓練をしている。VRの時の手よりも映画で何度も見ていた印象的な手に置き換えるとうまくいった。これを何とか自動化(無意識化)できないだろうか?意識を超えて作用する記憶と体の関係を繋ぎなおすこと。

・・・在日朝鮮人三世で、慢性炎症性脱髄性多発神経炎(CIDP)というダブルマイノリティとして生きている人の話。CIDPはミエリン鞘が剥がれていく難病(日本では2000人位)で、抹消の痺れがあり、筋肉が衰える。手足の制御がうまくできないが、出来ることと出来ない事の区別が非常に複雑であるので理解されない。体の状態が物(言葉)や他者によって敏感に変えられてしまう。吃音や難発に似ている。意識をうまく逸らすことでうまく行くことが多い。痛みも続く。過去の健常な時の体の記憶があり、今の自分の体は自分ではないと感じる。しかし、一方で痛みがあるからこそそれは自分の体である、とも言える。体というのは本来思い通りにならない、未知なものであるが、私はそこから出ることができない。生きるというのはそういう事である。発症8年後に、彼は自分の痛みに対する意識が変わった。講演をすることを切っ掛けにして、痛みというのは自分だけのものではないことに気づいた。周囲の人は自分の痛みを気遣っていて、そのことが彼等にとっての痛みであることが判ってきた。痛みは「分有」されていた。家族は彼の病気については諦めていて、彼が何を言っても暖簾に腕押しだったから、自分の言葉が自分に返ってきた。受け入れるしかなかった。痛みは、他人のように、客体化された。

・・・吃音は自分が演じるキャラクターに依存する。講演をするときには、「賢い」「先生」というキャラクターになるために吃音が起こりにくい。自分の事を「私」といつも言うだけで落ち着く。自分のペースを保つことが大事である。そのためには身体の声を聞き取る。運動することによって身体と対話できる。吃音は吃音に対して敏感になりすぎると激しくなる。しかし、それは抑えようとしても逆効果である。むしろ、その対極状態、安定した身体を作っておくことで、自然にそこに戻るに任せられるようになる。生け花にも救われる。花は活けることによって自分に語りかけてくれる。それは自分の気分の反映であるから、自己を対象化できる。こうして自分で努力して吃音を克服しても、吃音者は吃音を目撃することが怖い。吃音に引き込まれてしまうからである。その人の内部で起きていることを想像してしまって、その状態に陥ってしまうからである。

・・・40歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断された人の話。それまで無意識にやっていたことがうまく出来なくなる。ドアを開けようとしてドアノブに手をぶっつけてしまう。決まり文句を皆と合わせて発声するときに遅れてしまう。エスカレーターに乗るのも難しい。ゲームも下手になった。練習しても上達しない。日付は忘れるが単に忘れるのではない。日付の「実感」が無い。体に任せられないから、エコモードができない。全て意識を集中して行う。サインをしていても途中で何をしているのか判らなくなる。途中まで書かれた名前を見て何とか思いだす。いつもメモを書くようにしている。メモを見ても実感は湧かない。むしろそれを元にして別のストーリーを作り出すことを心がけている。これはブログを始めることで覚えた克服方法である。記憶が無いという事を逆手にとって、自らが読者になるのである。

・・・吃音が直る夢のような薬があるとしても、吃音者は呑みたくないという。吃音と付き合いながら自己形成してきたからその自分を失いたくないのである。アイデンティティというのは吃音とか呼ばれる「属性」ではない。その体と共に過ごしてきた「時間」である。体の記憶とは、ただ黙って眺めるしかない「自然」作用の結果という側面と、意識的な介入で作られる「人為」の側面がある。それぞれの体はそれぞれのやり方でこの両面のバランスを保っている。

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