随分長い時間をかけてカレル・ヴァン・ウォルフレンの「アメリカとともに沈みゆく自由世界」(徳間文庫)を読み終えた。ジャーナリストらしい怒りに満ちた内容であり、記述の重複も見られたので、とりあえずメモを取りながら読んで、後で纏めようと思ったのだが、読み直してみるとこのままでも良さそうに思えてきたので長くはなるが掲載する。ただ、僕はアメリカという国には数回滞在しただけだし、実のところアメリカがこれほど酷い状況なのかは確信が持てないでいる。

      第1章「世界のリーダーアメリカという幻想」では、現在のアメリカに到る4つの事件を挙げている。まず、1991年の(1)「旧ソ連の崩壊」である。「自由世界」の人々は、これでアメリカを中心とした平和な世界が出来上がると信じたのであるが、現実のアメリカにおいては、一方では不要となった軍隊と軍事産業が新たな恐怖の対象を求め、他方では台頭する日本の経済力に自制を失った大企業が大幅な金融規制緩和により、グローバル化を進めたのである。その途上で、次に中東におけるアメリカ軍の振る舞いに抗議して、アルカイダが2001年9月11日に(2)「同時多発テロ」を起こした。これは台頭していた共和党右派の思う壺であって、2001年アフガニスタン、2003年イラク、と順次(3)「テロに対する戦争」が開始された。他方、金融規制緩和の結末は1997年−99年のアジア通貨危機と2008-09年のリーマンショックという(4)「金融危機」を生み出した。

      第2章「画策された陰謀と画策者なき陰謀」では、これらの明らかにうまく行かなかった結末に対するアメリカ的な解釈について論じている。アメリカではそれを「意図せぬ結果、見えざる手(アダム・スミス)」として解釈する。大戦後のアメリカの社会学において、社会体制は選択の結果であり、やり直すことができる、という信念がある。これは日本人の平均的な考え方とは正反対である。合理的な意図の元に分別を以って選んだ行動が惨めな結果に終わった場合、つまり、イラクから独裁者フセインを追い出した後の混乱や、生活を豊かにするための金融商品が金融危機を齎したような場合、悪いのは意図ではないから、責任が問われないのである。本当の原因は軍産複合体によって戦争が民営化され、傭兵産業が栄えることや、イラクの石油利権を目当てに戦争が行われたからであり、1929年の大恐慌の教訓として制定された銀行と証券の分離(1933年グラスティーガル法)が1999年に廃止されて、銀行が博打に勤しんだからである。つまり最初から意図は別のところにあった、ということが見えなくなる。

      2008年の大統領選挙において、これらを正す事を期待されてオバマが選択された。しかし、オバマ政権は期待を裏切った。リーマンショックの影響を抑えるために巨大投資銀行を一時救済したのは止むを得ないとしても、通常であれば、一時国有化し、経営責任者を入れ替え、銀行と証券の分離を復活させるべきであったが、実際には、投資銀行は不良資産を抱えたまま存続し、銀行の合併が促進された。今や大手の銀行には国庫からの借り入れが許され、投機取引が許される。その額は、2010年4月までに、4兆6000ドル、実にGDPの1/3にものぼる。結局、共和党に妥協し、超党派主義を採った。医療保険制度改革法案は保険・製薬業界を強化する事なってしまった。パブリック・オプション(多くの国での医療保険)が葬られ、医薬の特許期間が延長され、保険制度により何千億ドルもの政府補助を受ける数百万人の顧客を創出してしまった。

      こういう状況は「画策者なき陰謀」というべきである。日本においてその典型が見られる。日本における政治家とキャリア官僚の関係や奇跡の経済成長がそうであった。そもそも、この考え方の発明者はマルクスである。つまり歴史的な力。しかし、マルクスの信奉者達は「歴史的な力」に対して、実に単純に「資本家」という悪者を当て嵌めてしまったために、「労働者」独裁による国家、という技術的に不可能な方向に走ってしまった。結果は「官僚支配」であった。アメリカでは、人類は自らの社会を意識的に作り上げるという見解があるために、画策者なき陰謀という考え方ができない。

      オバマは何故失敗したのか?そもそも、共和党議員は地方銀行の支持が多いが、民主党議員には大手銀行が支持している。また、GDP主義の経済スタッフの辣腕に圧倒されたとも考えられる。結局クリントン陣営の協力を得るために妥協したのである。ウォール街や富裕なエリートの選挙資金が捨てられなかった。クリントンはイラク侵略を支持している。そういった圧力要因に対して、オバマの性格は弱い。和解型で仲間との調和を重んじる、人格的な魅力に溢れている。だからこそ人気もあるのだが。しかし、権力を行使する気が無い、政治的要素のない政治文化で育った人ではないか、と思われる。

      社会学や経済学は計測可能なものに拘り権力を無視してきた。喩えて言えば、神経系の働きはあまりに複雑なのでとりあえず無視して人体を理解する、というようなものである。ポスト・イデオロギー、ポスト党派主義、ポスト人種主義、つまり、非政治的である。オバマの超党派主義をマスメディアは支持して幻想を振りまいた。しかし、民主主義とは対立であり、紛争を解決するための手段である。コンセンサスは対立する政治力の存在を覆い隠し、既存の権力関係を維持することに寄与してしまうのである。

      第3章「暴走する国家」では、現状がやや詳細に分析される。

      A.「安全保障国家アメリカ」は軍産複合体の話である。世界のアメリカ軍基地は865ヵ所、130ヶ国、25万人である。1947年 国家安全保障法(トルーマン)により、中央情報局(CIA)、統合参謀本部、国家安全保障会議、国防総省(ペンタゴン)が設立された。軍需産業が各選挙区に興され多くの議員と結びついた。2011年の公式軍事予算は7080億ドル。世界の他の国の軍事予算の総額に相当する。アイゼンハワーが命名し、その行く末を心配していた「軍産複合体」は、今や制御不能になっている。今までは共産主義に対する過剰な恐怖心によって正当化されてきた。長い間民主党は敵に対して甘いという共和党からの攻撃に曝されてきた。1989年マクナマラ国防長官は今後5年間で軍事予算を半減できると証言したにも拘らず、統合参謀本部長コリン・パウエルはソ連に替る敵を作り出した。レーガンが更に追加して、「ならず者国家」は、キューバと北朝鮮。イラン、ニカラグア、リビア。となった。クリントン政権は軍需産業に肩入れした。ブッシュ政権で、チェイニー、ラムズフェルドによるスターウォーズ計画(大陸間弾道弾からの防衛)が立ち上げられた。

      徴兵制度のあったベトナム戦争当時は、国民の戦争への関心も高かった。反戦運動も起こった。現在のアメリカは復員兵援護法により復員兵に対して教育や住居を与え、下層階級の若者がそれを目当てに志願する。謂わば国家が下層階級を中産階級に引き上げる手段となっている。彼等に加えて、冒険心や野心に富んだ傭兵が軍隊を構成している。アメリカの軍事組織はこうして民営化されていて、軍隊のやっていることが中産階級にはテレビを通してしか判らない。イラクからクェートを解放した湾岸戦争はその現実を初めて世界に示した。

      戦争現場の生々しさは国民には伝えられない。9.11が何故起きたのか?アメリカ軍がサウジアラビアに駐留している事への過激派の抗議であった。しかし、アメリカ軍の行動は知らされないために、それはイスラモフィズム(イスラムによる全体主義)の侵攻と解釈され、全米を恐怖に陥れた。アルカイダは実際にはどこの民族や国家や地域にも属していないにも拘らず、イスラムが悪の根源であるかのように扱われた。軍産複合体にとっては格好のチャンスとなった。

      しかし、アメリカ軍の目標は果たされていないし、軍事行動そのものが事態を悪化させていることには誰もが気付いている。それでも、戦争を継続する要因は何か?そこにはアメリカ人に植え付けられた戦争への義務感がある。ノーマン・ポドレツは冷戦(第3次大戦)が終わっても「西側に対する脅威」が過ぎ去ったわけではなく、アメリカは先頭に立って闘う義務があるとする。闘う相手はイスラムであり、今や第4次世界大戦が始まったという。こういうことを全てのアメリカ人が同意しているわけではないが、それでも9.11を経験した以上、先制攻撃論や政治家の弱腰姿勢への非難を極論とみなしてはいない。政治家は世論が支持するレベルの攻撃的態度を示す必要がある。それに加えて政治エリートの出世主義がある。彼等は政策の破綻を見越しながらも提案する。アフガニスタンでの失敗は現地での情勢が誤解されていることによる。アメリカの楽観主義では複雑な情勢が解釈できない。より深いレベルではアメリカ人のロマンティシズムがある。テロとの戦いは21世紀初めての戦争であり、そこに自分達が歴史に参画できる、という喜びを感じてさえいる。まるで映画が現実に展開されるかのように感じる。つまり、対テロ戦争は大部分のアメリカ人にとってエンターテインメントである。戦争はかなりの部分が自動化されていてコンピューターゲームのようになっている。実際に現地の人達が殺され、そこからどれだけの恨みがアメリカに向けて集積されているかをアメリカ人は知らない。

      B.「無力化した政治とコーポラティズムの猛攻」は、アメリカの政治が大企業に乗っ取られていく経緯である。2大政党の議員達は軍産複合体、保険・製薬会社、銀行、といった大手企業の利害に深く絡んでしまっていて、その従業員のようになっている。メディアは中立であろうとして、両政党の主張を認めるが、もはや両政党のいずれにも代表されていない階層は無視されてしまう。オバマはこの状況を打開すへく期待されたが、妥協的政策しかとれなかった。

      そもそも、富は投資されて資本となり、事業が始まる。利益が得られれば更に投資に回せる。人々が必要とする製品が充足されると、必要の無い製品が「良い生活」の要素となり、所有され、「消費者社会」が形成される。広告業界が登場し、廃棄物を扱う業者も出現する。技術革新が新たな製品を生み出す。富は更に蓄積され、サービス業が発展する。1950年代が資本主義最盛期であり、中産階級は経済的豊かさを手に入れた。市場は絶えず拡大しなければならず、これまで市場でなかったものが市場となる。音楽やファッションである。銀行業はサービス部門ではあるが、投資できる金を効率よく利益を生む事業に配分する、という特別な役割を持つ。投資銀行という形で銀行が権力を握り、金融部門という優位な業種となった。30年の間に、金融部門はGDP比11%→21%、製造業は25%→13%、企業収益割合は金融業が1981年14%→2008年50%となった。20世紀最後の25年間で金融業は様変わりした。製造業やサービス業の企業は商品のように売り買いされ、製品もイノベーションも経ずに投機によって利潤が齎されるようになった。ドルと金の交換が停止され、変動相場制となって、外国通貨も投機商品となったが、それ以上に数学者達によって発明された金融商品が加わった。信用リスク問題は格付け機関や経済学者の生み出した理論と計算機によって回避されているかのように見なされ、規制緩和に促されたアメリカとヨーロッパの金融機関が自ら評価できないリスクを抱え込んだ。しかし、リスクが認知されていたとしても変わりはない。現在の大企業のマネージャー達は自らリスクを背負って投資する起業家ではなく、倒産したとしても、場合によっては倒産したほうがより、多くの金を手に出来る立場にある。これら「戦略的資本主義者」達はお互いの企業の役員となり、膨大な報酬を得ている。リスクを負うのは結局のところ納税者である。

      レーガン政権時代には規制緩和と自由化、市場主義が始まった。1970年代に教科書的にあり得ない高インフレと高失業率が起きた。日本が大きな原因だったのだが、学者は気付かなかった。代わりに政府規制が問題とされたのである。規制緩和が進み、株主資本主義が称賛されるようになった。市場原理主義者達の信奉する主流派経済学は、合理的期待、市場の効率性、一般均衡、経済成長に基づいたモデルである。数学的モデルを構築するために計測可能な事象以外は切り捨てられる。とりわけ、政治と権力が無視され、市場が絶対視される。健全なる成功のための公式がビジネススクールで教え込まれて、新世代の経営者となった。思想的には、アイン・ランドの小説、ミルトン・フリードマンのプロパガンダ、ウォールストリートジャーナルの右派評論(ジュード・ワニスキー、ジョージ・ギルダー、アーサー・ラッファー)の影響下にある。それは極端なリバータリアニズム(権利主張)であり、あくまでも自己利益を追求することが、市場の調整によって他者の利益になる、という考え方である。ビジネススクールで与えられる公式は過去の経験の集約である。経験を積むことなく公式を応用することはビジネスの手順が形式的、画一的になること、つまり官僚化することである。(誰もが同じ判断をすれば、それが過去に成功した判断だとしても全く異なる結果を齎すというのもまた市場原理の作用であるが。)

     1970年代の終りになると、戦略コンサルティングというビジネスが興った。それはビジネスを管理の対象ではなく、キャッシュを生み出したり売却したりする資産と見なす。年若いコンサルタントが老獪な経営者にその指南をして、理論的背景を整えることで、以前であれば非人道的として試みられなかったような手法(大企業の買収と解体や従業員の大量解雇による株価上昇)が導入された。ストック・オプションの導入によって、企業経営者は株価の高騰にのみ注力するようになり、年俸の80%がストック・オプションとなった。彼等は、更に借入金によって、株式バブルや住宅ローンバブルを仕掛けて負債を膨らませて企業を崩壊させた。これらの行為は正に「寄生的」と呼ぶに相応しい。しかし、彼等の依存する公式も主流派経済学の思想もあたかも自然法則のようなものと信じられているために、その本質が見えなくなっている。寄生行為が地球規模で繰り広げられることをグローバリゼーションと呼ぶ。それは貧しい国々の安価な労働力の搾取に他ならない。

      C.「コーポラティズムの勝利」は、アメリカの政治が大企業に乗っ取られた状況を説明する。アダム・スミスは、企業はその所有者によってのみ管理されなければならないと考えていたし、マルクスは、産業資本家ではなく大方をマネージャーが管理するようになった途端に、資本主義システムは腐敗するだろうと警告している。

      30年ほど前に、戦略的資本主義者たちは有り余る資金を有効に使う方法を模索していた。ロビー活動によって、1933年に大恐慌の教訓から制定されたグラス・ティーガル法(政府から保証されている商業銀行と投資銀行とを区別する)が1999年に廃止された。金融機関がギャンブル活動を許可されたのである。それまで金を効率的に起業家に配分する役割を担ってきた金融機関は投資に耽るようになり、議員に対してもロビー活動よりは直接的な献金と選挙支援が有効である事に気付いた。オバマが破綻した投資銀行を救うことで投資銀行の立場はますます強化された。こうして、寄生的資本主義者達が国家を食い物にしているのが現在のアメリカである。

       アメリカのロマンティシズムとは「建国の父達」の精神である。国家より個人の自由を尊重する。実際、毎年6%の人口が州を変わる。政府を信用していない。一人一人が武器を持つ。歴史的にはウッドロー・ウィルソン大統領やフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、強力で非人格的な勢力に挟まれた個人を保護するために国家の介入を正当化した。しかし、レーガン政権によって、反政府的伝統が復活した。この個人の独立性を求めるアメリカ精神が「起業家」を自称する寄生的資本主義者達を支持する。たとえ彼等が自らリスクを取らないという意味で起業家と言えないにしても。市場は国家の規制に対抗して自由を求めていると信じられてしまう。実際には市場は国家によって守られているにも拘らず。シティグループ、バンク・オブ・アメリカ、AIGは税金で救済された。保険・医薬品業界も手厚い保護を受けている。医療保険は結局のところ4000万人もの新しい顧客を政府の支援で生み出す事になっただけである。65歳以上に適用されていたメディケアを全ての人に適用していれば、保険業界は競争に曝されていただろう。大企業も寡占によって自由市場とは縁遠い。

      アメリカ社会は「コーポラティズム」である。つまり、一般市民ではなくて利益団体が支配するシステムである。支配しているのは巨大企業と軍部、キリスト教福音派、補佐役としての企業系メディアである。政府とこれらの民間部門は融合している。それはクリントンに始まりブッシュで推進された。世界最大の軍需企業、ロッキード・マーチンは航空管制から郵便物の仕分けなどの業務も任されたし、戦争は民営化されている。傭兵派遣会社、軍事都市国家の維持会社、監視調査、情報収集など軍事に直接関与する民間会社の動向は機密性が高く、実態が把握できない。英国の鉄道事業、他ヨーロッパの国々の郵便やエネルギー供給事業、交通機関、などがアメリカの企業に委ねられ問題を起こしている。アメリカの刑務所も民営化され、商業上の理由(つまり服務者を増やすため)から犯罪行為による投獄の基準が引き下げられた。レーガン政権の間に囚人数は50万人から200万人に増加した。カリフォルニア州の刑務所の数は1982年から2000年までに5倍に増えた。2009年にはペンシルベニア州で2人の裁判官が賄賂によって2000人あまりの子供を投獄して、有罪判決を受けた。つまるところアメリカは大企業と軍隊の植民地と化している。

      アメリカのコーポラティズムは国家を食い物にするが、日本のコーポラティズムは少なくとも国力の強化を目指していた点が大きく異なる。エンロンのようなやり方は日本では不可能である。戦略的ビジネスコンサルタントの指導によってデリバティブを駆使し、「独創的会計処理」(つまり粉飾決算)によって株価をつりあげて、金融業界から革新的企業として賛美された。MBAの優秀な人材を毎年250人も雇用し、多くの投資家が資金を預けた。アメリカでは市場の規制緩和によって、かって公共事業であった分野の危機に乗じて金儲けができるようになっている。エンロンはカリフォルニア州で電力不足をいう状況を作り出し、クリントン大統領はエンロンのビジネスを禁じたが、共和党候補に600万ドルにも及ぶ資金を提供した見返りにブッシュ大統領がその禁止令を覆し、エネルギー政策の役職に招いた。ブッシュの個人的な友人である会長ケネス・レイはエンロンが破綻する直前に2億ドルを超える自社株を売り抜けた。「独創的会計処理」というのは、実のところ日本における官僚による人為的なバブル(それはあくまでも資産を生産分野に移動する手段であったが)を真似したものだったが、ただし、アメリカではその主体が官僚ではなく戦略的資本家であった、ということである。バブルによる利益は生産分野ではなく、彼等の懐に納まったのである。しかも、彼等は日本であれば当然罰せられる筈なのだが、巨額のボーナスを得て退職しただけであった。「公益」という概念が個人主義や独立独行、市場主義といった幻想の前にかき消されている。

      D.「放置される行きすぎた振る舞い」では、これらの行き過ぎに対するブレーキが効かない状況を説明している。ブッシュが率いる善良で無垢なアメリカが「敵」に対して国連憲章にもアメリカの憲法にも違反する戦争を仕掛けたとき、日本やヨーロッパが否定的な見解を出していればかなりな効果があったであろうが、いずれにもその勇気が無かった。今までであれば当然働いたであろうアメリカの自己修復機能も働かなかった。それには、衰退する民主主義、寄生的な資本主義、暴走する軍産複合体、企業と軍隊の利害の一致、抑制の効かない右派運動、企業によるマスメディア支配による信頼できるニュースや社説の消失、と言った第2次世界大戦前にしか目にした事の無い要素が組み合わさっているからである。市民に対して何が行われているかを告げ、それに対する市民の反応を伝えるような「公的領域」が消失している。個人の判断は道徳や経験よりも法的な判断に偏っている。最高裁判所はブッシュの当選を選択し、政治家への企業献金の制限を撤廃した。判事達の過半数は保守的なカトリック教徒である。ここ15年の間にメディア企業は商品のように売り買いされて大企業の系列と化した。GEはNBCを、ディズニーはABCを、バイオコムはCBSを傘下に収めた。レーガン政権下での規制緩和によりテレビや出版の大半が少数の企業による寡占状態にある。ルバート・マードックはケーブルテレビネットワークFOXニュースを設立し、ブッシュ政権のプロパガンダを伝え、共和党の攻撃マシンとなっている。それらは「コーポレート・メディア」と総称されていて、もはや政治のリアリティーを伝える機能を持っていない。政府の発表を忠実に伝える結果、9.11以降彼等は実質的な戦争プロパガンダを行ったのである。本来リベラルであるはずの民主党はクリントン政権時代に、1960年代のヒッピーや過激派に対する民主党右派の攻撃によって、また、ソ連の崩壊による目標の喪失と技術の進歩によって、国家目的を議論する意欲を失い、社会民主主義的理念を取り除き、富裕層とウォール街に肩入れするようになった。他の原因としては選挙のプロ化であろう。2000年の大統領選挙において、大衆が何を求めているかを読み取るポール・ウォッチャーに方向性を任せたために、つまり決然として大衆を指導する事を避けて有権者の意識調査を気にしすぎたためにブッシュに負けたとゴアは反省している。2008年の選挙で共和党の方はオバマに負けたことで指導者を失い、右派の攻勢に歯止めがかからなくなっている。彼等は全てを民主党、オバマのせいにしてメディアを使ってキャンペーンをしている。ラッシュ・リンボーのラジオ番組やショーン・ハニティーの番組、FOXニュースのグレン・ペックとサラ・ペイリン。2010年の調査では、共和党員の2/3はオバマを社会主義者と考えていて、57%はイスラム教徒と答え、24%はキリストの敵と考えている。37%はヒットラーと同じだと答えている。

      第4章「嘆かわしい歴史の下書き」はジャーナリズムのコーポレート支配の話である。アメリカがこうなってしまった原因の一つは政治家による意図的な嘘である。2000年の大統領選挙の勝利において、ブッシュのアドバイザー達は、それまで誰も気付かなかったことを発見した。つまり、アメリカ政治においては誰に咎められることもなく、際限なく嘘をつくことが出来る、ということである。ブッシュ政権は、イラクが脅威であること、国連査察官に非協力であったこと、9.11同時多発テロに関わったことも、全て嘘であると知りながらそれを根拠にフセイン政権を攻撃した。ブッシュとエンロンとの関係や税制や予算政策に関する問題について偽った。「健全な森林イニシアチブ」によって森林業者が自然林に立ち入れるようにし、「清浄大気イニシアチブ」によって企業向けの大気汚染規制を緩和した。これらはジョージ・オーウェルの「1984」を彷彿とさせる。体制ぐるみの嘘を支持したのはメディアである。日常茶飯となった嘘の積み重ねで、終わりなき戦争という一大幻想が作り上げられ、オバマもまたそれを打ち破れない。

      心理的な要因として、異常事態が続いてしまうと人々はそれに慣れてしまう。オバマは「怒れる黒人」と揶揄されることを恐れて分別ある態度を貫いた。その結果、異常な状態を認めることになってしまった。9.11の衝撃はあまりにも大きかったために、アメリカの人達は10年ものあいだ呆然自失状態だった。歴史上初めて国土が襲撃されたのであるから。政治操作には格好の対象だった。軍産複合体は敵を必要としていたから、この混乱状況を利用したのである。恐怖は意図的にかき立てられた。戦争は民営化され傭兵企業に莫大な利益を齎すし、無人攻撃機によってアメリカ軍は手を汚さずに済む。いまやアメリカの占領がイラクに貢献するためのアメリカ側の犠牲であると解釈されている。テロに対する戦いなど存在しない。テロは手段であるから戦争の相手でもないし和平交渉できる敵でもない。植民地を支配するようなやり方で既存のテロリストを攻撃すればもっと多くの人達がテロに走る。そもそも9.11は犯罪ではあったが戦争ではなかった。それを戦争と言いくるめるためにブッシュは敵国を必要とした。ブッシュ政権の延命には絶好のチャンスであった。ジョージ・オーウェルの「1984」では、遥か遠方でめまぐるしく変化する敵を相手にした何時終わるともしれぬ戦争を理由にして政府が政治や社会を巧みに操る。ブッシュはそれを見習ったのである。

      ヨーロッパには世界のニュースを伝える独立系のメディアが少ないために、ヨーロッパで起きたこともアメリカの大企業のフィルターを通して伝えられる。ヨーロッパ全土で読まれている真面目な新聞はニューヨーク・タイムズとインターナショナル・ヘラルド・トリビューン、ファイナンシャル・タイムズである。1989年以来組織的な左派の影響力が衰えたために、それらに対抗しうるだけのヨーロッパ独自のメディアが無くなった。メディアはエンターテインメント産業に支配されている。インフォテインメントというわけである。APさえも、例外ではない。コリン・パウエルが国連安保理事会で証言したイラクの大量破壊兵器について、APの最も優れた記者が緻密な取材をした実態との比較をした記事は検閲を受けて没になった。半年後に採用されたときには既にアメリカはイラクを侵略していた。

      アメリカのジャーナリズムは「プロフェッショナル・ジャーナリズム」という罠に落ちている。2つの独立したソースの裏づけを取る、対立する異なる視点を記事に盛り込む、である。記者達は、目の前に展開する状況について知的に把握することよりも、自分自身が言いたい事を語ってくれそうな人物を探すために時間と労力を使う。2004年にウォール・ストリート・ジャーナルに勤務するファシヒ記者がバグダッドからイラクでの実態、野蛮なゲリラ戦、建設プロジェクトの失敗、イラク政策は今後数10年に亘ってアメリカを悩ませる失敗である、としたE-メールが公開されてしまい、編集者はそれを「私的見解」として片付けたことがその象徴であった。政治的対立がある場合にはプロフェッショナル・ジャーナリズムの原則は中立性に寄与するだろうが、現在のアメリカのようにどちらか一方しかない状況では結局政府の意向に沿った報道しか許されないということになってしまうのである。異なった意見の持ち主が発言すれば脅されるという状況にある場合に、記事のバランスを取ろうとすれば、見かけ倒しのバランスになってしまう。こうして政府が発表することが真実として確立してしまう。

      日本の民主党が政権を取ったときも、そもそも、日本は占領政策によって充分民主化された筈であるから、民主党の目指した改革の意図は全く伝えられていない。情報源は政府のみであったから、鳩山首相は普天間基地移設問題については前政権で合意されたことを実行しようとしない無能で愚かな人物としてしか伝わっていない。イラク侵攻時にはアメリカ人の70%が9.11同時多発テロをフセインの責任と考えていた。戦争の写真や映像は制限され、2006年までブッシュに批判的な書物も出版されなかった。

      アグレイブ刑務所での捕虜虐待のような記事は大規模な怒りを引き起こしたが、その範囲は刑務所での特定の場面に限定されていたことに注意する必要がある。実際にはその写真が撮影される直前に捕虜が拷問で死んだという日常やイラクで起きているもっと酷い状況までは及ばなかった。だから、進歩的とされる評論家でさえ、新入生へのしごきのようなものだとか、アメリカの刑務所ではよくあることだ、として問題にしなかった。

      こういった真実からの隔離に加えて、肝心な点については口をつぐむ記者達の報道では埋められぬ空白を埋めてくれる存在が、「有識者」のコメントである。有識者は現場のジャーナリストに比べて知識も真剣さも及ばないことはさておき、生計のためにシンクタンクに雇われていることが多いから、彼等の意見はその意向に沿ったものになってしまう。思想の自由市場原理、公開の場で充分議論されれば自ずと最善の思想が選択される、という考え方もあるが、思想は市場で交易されるようなものではない。そのような安易な思想は疫病のようなものに限られている。

      今までのアメリカであれば、「ワイズ・カウンシル」と称される質の高い思想を提供する教養豊かな人達がいた。多くは大学に職を得ていて、新左翼運動や様々の解放運動を生み出していた。しかし、1970年代には彼等は方向性を見失い、政治的に不適切であると見なされるようになった。大学では政治的利害の分裂と、学者達の過度な「科学性」への傾倒、つまり計測手法への拘りの傾向が生まれた。ジョン・ロールズは「正義論」において絶対的な正義を見出そうとした。しかし、現実の物事から遠ざかった理想的なモデルは却って学生達の現実への取り組みを疎外する。政策を論じる学術プログラムはコーポラティスト達によって資金援助されることで彼等の利害を補佐するものになってしまった。2008年のリーマンショック後も経済学者達は理論構築の手法を変えない。相変わらず現実から乖離した経済問題を中心に数学的に見せかけるモデル作りにいそしんでいる。心理学における行動主義もそうであるが、数理経済学はその基本的概念構図に収まらないあらゆるものを排除してモデルを作り上げる。人間の行為が計測可能なシンプルなパターンに還元される。国際政治学では、リアリズム理論がある。これは諸国が互いにぶつかり合うビリヤードの球として扱われる。大掛かりな欺瞞や国内での反対運動などは関心事ではない。戦争を防止するためには、ある一国だけが世界の一角を支配するような事態を避けて対抗する諸国の連合とバランスしていなくてはならない、という。冷戦の状況をうまく記述した理論である。ソ連の崩壊によって、リアリズム理論は新たにアメリカの敵を作らねばならなくなった。それが「ならず者国家」である。北朝鮮、イラン、ベネズエラである。9.11でイラクが追加された。現在そのリストに上ろうとしている国家は中国である。ネオコンはそのような構図を描いて「予防戦争」を仕掛けるのである。

      第5章「鉄砲が告げる真実」では、アメリカを堕落させたものは何だろうか?という問いを更に深化させる。・道徳性が低下したからか?確かにビジネススクールでは最近倫理観について教えるようになった。・アメリカの政権担当者は謙虚さを失って慢心しているのか?・行き過ぎに歯止めをかけるべきジャーナリズムや学会が官僚化され、自らの頭で考えることなく公式にしたがって意見を表明しているからなのか?・アメリカ人の根底にあるロマンティシズムが問題なのか?

      確かにアメリカ人は自らが例外的な存在であると見なしている。自由のためには当局の独裁から身を守るために銃が必要とされている。9.11のテロリスト達の意図は未だに理解されていない。彼等は聖地にアメリカ軍が駐留していることに抗議したのである。敵を知る事は国益となる筈なのに、原因があるから結果がある、という建設的な思考は、不適切で非愛国的なものとして政治論議から除外された。敵がアメリカ人を攻撃する動機はアメリカ人の美徳にあるとされた。彼等はアメリカの自由を憎んでいる、とブッシュは演説した。アメリカが中東でいかなる政権を支持しようが、天然資源を支配するために画策しようが、異教の兵士を駐留させようが、テロには関係ないということである。アフガニスタンに対する攻撃を開始すると、もはや冷静な議論は通用しなくなり、アメリカ全体が「自由と民主主義を守る」という集団的ナルシシズムに捉われてしまった。アメリカの誇る表現の自由や個人主義は影をひそめてしまった。

      アメリカの右派には比較的新しく移住してきた人が多い。イラク侵略を推進したネオコンには抑圧下の東欧から逃れてきたユダヤ系が多い。ポール・ウォルフォウィッツはその代表である。1926年に共産党支配化のロシアから逃れてきたアイン・ランドはアメリカ文学史上で利己主義をあからさまに讃えた小説として名高い「肩をすくめるアトラス」と「水源」を発表し、批評家からは酷評されたが、ミリオンセラーとなった。抑制されない資本主義の道義的必然性を延々と説いている。ある調査によれば、アイン・ランドは聖書に次いで、アメリカ人が最も影響を受けた書物である。その主張は一貫した論理によって読者に啓示を与え続けている。貧しい人達は努力を怠り社会に貢献していないからそれは自らの責任である、としてリバータリアニズムを推進した。2008年の金融危機の遠因となった規制緩和を行ったアラン・グリーンスパン議長は思想的にアイン・ランドに負うところがあったと認めている。ネオコンやランドの主張はマルクス主義の逆転であって、怠け者達を政府が救済することによって、成功して裕福になった人達が迫害されている、という。巨大企業と金融部門がアメリカの労働者や中産階級を相手に闘うという構図である。それを可能にしたのはグローバル化であって、国内の労働者の賃金レベルを上げる代わりに生産拠点を海外に移した。アメリカでの階級間流動性は非常に低く、低所得者層が社会的地位を向上させるには軍隊に入るのが一番の近道である。何かがおかしいと感じながらも彼らはコーポラティズムに取り込まれたマスコミによって洗脳されてしまっている。彼等が選択したオバマまでコーポラティズムに取り込まれている。金融危機に応急的に対応した投資銀行の救済によって共和党から攻撃され、医療保険制度改革法は妥協をしてまでも通さざるを得ず、金融改革法においてもそうであった。

      アメリカの変化に対して日本もヨーロッパも意見を述べようとしない。今まで世界のリーダーとしてのアメリカに頼ってきたために意識を変えるのに時間がかかっている。特にアメリカは日本を独立した同盟国とは扱ってこなかった。日本は何故このような隷従を受け入れているのか?それは、そもそもこの国が強力な中央政府を持とうとしないからである。強力な権力であった帝国陸軍の支配によって悲惨な目にあった日本の官僚達は、そのような強力な指導層を避けるべく、分散した権力間のバランスを取る事に専心している。幸いにして、国の命運を預けるべきアメリカという国があったためにこの戦略が功を奏してきたのである。民主党のリーダー達はこれからの世界で日本が生きていくためにはそのような官僚の姿勢を正して内閣が真の権力中枢とならねばならないと考えていた。鳩山首相がアメリカとの対等な関係を望んでオバマと会見しようと申し出たのに対して、3回もすげなく拒否したのは、国際的な常識では独立国家に対する侮辱であるが、日本では当たり前のように受け取られてしまい、逆に鳩山を馬鹿呼ばわりして辞任に追い込んだ。

      ヨーロッパは日本と対照的ではあるが、EUとしてみた場合は重要な共通点がある。それはEUの官僚達が所属する母国の利害を代表するだけで、EUとしての主体性を発揮できていないからである。経済と政治を分離しておくことはできない。EUがある限りEUの外部があり、その外部に対してはEUが主体的に政策を打ち出す必要があるのだが、それが出来ていない。メルケルは期待されていながらもリーダーとなることを望まず、ドイツの利害に拘っている。サルコジは資本主義の最盛期にキャリアを築いてきたこともあって、ライバルを押しのけて這い上がるということしか考えていない。彼にとって危機的状況は解決すべき問題なのではなく、危機管理手腕を発揮する機会にすぎないから、危機を作り出そうとさえする。イギリスは最初からEUに否定的である。イラク侵攻が準備されている時、EUはただ「国際協定違反に反対であり、国連憲章を遵守する」と言えば良かったのであるが、出来なかった。政治家達はいまだに冷戦時の大西洋同盟主義(アメリカだけが世界の敵対勢力から皆を守ってくれる)から抜け出せていない。ナチスによる破壊やソ連からの破壊の脅威が続いた記憶がいまだに抜けきれず、ひたすら安定を求めている。この点で日本が戦争の記憶から抜け出せないのと同じである。アメリカの方は冷戦前にはヨーロッパの統合を支持していたが、冷戦後態度を変え、クリントン政権は明らかに統合の邪魔立てをしていた。冷戦時東西陣営は科学技術を競ったが、社会科学への影響の方が遥かに大きかった。社会学はマルクスという世界を震撼させた思想に対する反応を詳述したものに他ならない。経済学は資本主義の優位を説く思想に「科学的」基盤を与えるものとされた。無用となったNATOの存続そのものがヨーロッパの妄想を象徴している。

      ブッシュがあまりにも出来の悪い大統領だったために、ヨーロッパはオバマを歓迎した。しかし、オバマの演説はブッシュと変わらない。「非暴力主義ではヒトラーの軍隊を阻止することはできなかった。アルカイダの指導者達に武器を捨てるように説得することはできない。時には武力行使が必要だというとき、それは人類の不完全さ、理性の限界、という歴史認識なのである。」アルカイダはヒトラーに匹敵するだろうか?アフガニスタンにアルカイダの基地も攻撃を仕掛ける人員も居ないにも関わらず、なぜ戦争を続けるのか?アメリカが闘っている相手は単に母国を侵略されたパシュトゥーン人である。至高なる善と悪との戦い、というレトリックによる彼の演説の背後にはラインホルド・ニーバーの思想がある。高名な神学者である彼は第2次世界大戦において、いつ、どのような状況であれば戦争が正当化できるかという理論を構築した。個人と同じように行動する国家も罪深いという前提の元にプロテスタントの思想を政治に応用した。悪は避けられないものだから戦争もまた必要である。しかも、アメリカだけは根源的な罪深さから免れているから、アメリカは神に与えられた任務を遂行する必要がある。制御不能となった軍産複合体もさることながら、このような精神的背景無しには、アメリカの暴走は説明できない。かってはソ連が悪の対象であったが、その崩壊によって、悪の対象が新たに作り出された。ヨーロッパは西欧文明の危機に対して鈍感であり、そのために域内のイスラム教徒の増加を容認している、という「ユーラビア脅威説」が唱えられている。ベトナム戦争後20年間で「西欧の価値観」を広めるという考え方は後退していたのだが、9.11のテロを切っ掛けにして復活してしまった。いまや、民主化を広めるべき国に人権侵害があれば武力行使も正当化されてしまう。

      価値観という言葉には問題がある。これは20世紀の半ばに科学的手法を取り入れようとしていた社会学者の間で用いられるようになった。複雑極まることが単純化された。原則、信念、好き嫌い、偏見、心情、趣味、モラル、倫理 などとより具体的に述べないで価値観という言葉で一括りにするとそれだけで妥協を許さない何物にも換えがたい、武力を以ってしても守るべき何か、という概念となってしまう。「西欧の価値観」という言葉によって、却って世界中のあらゆる人々の考えには驚くほど共通するものがあることが見過ごされる。啓蒙主義は西欧の専売特許ではないし、殺人はどこでもタブーであり、盗みは悪い事である。今や、世界の大半では戦争に対して恐怖を抱いている。にも拘らずアメリカの価値観と言ったとき、これら全てのことが忘れられる。

      政治においては真実はしばしば歪められる。人々はそれを知りつつ政治的現実を認めざるを得ない。ポストモダニズムは、「真実などこの世に存在せず、あるのはただ権力構造によって決定された真実の競合である」、という考え方である。1970年台にはフランスに端を発してアメリカの政治学、社会学に広がり、政治的良心を麻痺させた。現実には、公的な現実、個人的な現実があり、これらがあまりにも乖離しているとき、人々は他人と分かち合う個人的な現実を求める。つまり同調者を集める。社会の革命的変化はいつもそのようにして起こされる。しかし、その前に、二重思考という「1984」で登場した態度もある。「2つの相矛盾する信念を同時に持ち、その両方を受け入れること、また都合が悪くなればどんな事実も忘れてしまい、後で必要になってくればまた必要な間だけひっぱりだす、注意深く構成した嘘を語りつつ、完全なる真実を自覚している、、」ということである。実際、どんな国でも政治的調和を大切にするには、残酷なまでに率直であるよりも、政治システムについての真実を明かさない方が良い、という暗黙の了解がある。

      こういった態度は日本においてよく発達しており、それに見合う言葉がある。「本音」と「たてまえ」である。それぞれ、実際の現実と公的な事実に対応する。たてまえは社会的に許容される或いは要請される欺瞞行為である。欧米では矛盾を許容しないギリシャ以来の論理学の伝統があるために、このような不確定な態度がなかなか理解されないが、それによって、我々は世界についてより現実的に語る事ができる。何故ならその概念によって、システム全体もまた幻想に覆われているという事実にいっそう敏感になるからである。オーウェル流の二重思考による陰謀があると言っても陰謀の画策者を明らかにしない限りだれも相手にしないだろうが、「本音」と「たてまえ」であれば、画策者を探す必要は無い。「たてまえ」とは政治的状況によって形成される現実である。そう考えると、世界の根本作用についての人々の考えを支配する、極めて重大な「たてまえ」が存在することに気付く。「テロに対する戦い」というのがそれである。IMFや世界銀行やWTOが行っているグローバリゼーションと構造調整プログラムは「貧しい国々を助けている」と信じられている。これも「たてまえ」である。金融機関の賭け事が国に貢献しているというのも「たてまえ」である。つまり、オバマは「たてまえ」の熟練者である。現実主義者と理想主義者の間の緊張を語っておいてから、そのいずれの選択も間違いであるとするレトリックによって、実際にはコーポラティズムに屈しているにも拘らず、調和的解決を齎したかのように装っている。このようにして事態が正常であるかのように人為的に保たれた状態は政治的転換期においては最悪である。ワイマール共和国からナチスが台頭したときがそうであったし、日本の戦争、中国の文化大革命もそうであった。市場とテロリズムというアメリカの暴走の中枢をなす要因はもはや政治的議論から外されて、現実には存在しないかのように扱われている。

      という次第で、2010年10月に出版された本が終わる。これをどう受け止めれば良いのか今のところ僕には判らない。彼の言う事が真実のような気もするし、ひとつひとつ検証する必要があるような気もする。それは結局「アメリカ」という世界に覆いかぶさってくる現実にどう向かい合うか、という事でもある。
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