第10章 16世紀文化革命と17世紀科学革命
      教父アウグスティヌスによれば、聖書の解釈に無関係に単なる知的好奇心で自然を研究することは「蛇の誘惑」であった。しかし、12・13世紀でのイスラムやビザンチン世界から齎されたアリストテレス哲学では、「全ての人間は生まれつき知ることを欲する」、と語り、自然学を語っていた。教会はアリストテレスの影響を排除しようとしたが、止められなかった。この矛盾を統合したのはトマス・アクィナスであり、14世紀には教会公認の理論となった。アリストテレスはキリスト以前の学者であり、明らかに「異端」であるが、「異端といえども神の摂理を掘り当てるということはある」、として容認し、その論理を使って神の存在証明(因果の連鎖を元に辿れば必ず最初の原因があり、それこそが神である)を行った。以来、このスコラ学は「過去の文献を根拠として世界を如何に解釈するか」、という学問として発展した。その精妙で時にはこじつけがましい論理の展開によって、確かにヨーロッパに論争の技術が染み付いたのであるが、他方で現実世界との関わりを失ってしまった。ヨーロッパには人類の歴史は衰退の歴史であり、古代は完全であった、という思潮があり、古文書として残されたものは絶対的に正しいという信仰から逃れられなかった。

      人文主義者達はこのスコラ学を批判したのであるが、それはあくまでもキリスト教によって断片化され歪められた古代の書物を原型に戻すという運動であった。絵画においてもアルベルティの語った絵画は中世の宗教画ではなく、古代の画家であったし、古代ローマの建築の調査も行っている。彫刻も古代ローマに倣った。物理学や天文学においても中世での職人達の発見は無視されて、古代ギリシャの文献を信じた。コペルニクスにしても、自らの理論の根拠を古代の文献の中に探そうとしていた。医学書ガレノスの医学書が実際の人体を無視して信じられたし、プリニウスの「博物誌」も実際の植物との比較はなされず、手写された中身を原型に戻すことに精力が注がれた。宗教改革もまた本来のキリスト教に戻ることを旗印にした。要約すれば、それらは中世以前を目指す復古運動であり、その手段は文献学とならざるを得なかった。

      古代と文献の妄信から目覚めた切っ掛けは14世紀中期のペストの流行であった。更に16世紀になると、大航海による地理上の発見が相次いだため、古代の文献の誤りは誰が見ても明白なものになった。回帰線の向こう側には人が住めないとか、赤道に近づくと暑さのために人は住めないとかいった数多くの言説が否定された。木版や銅版による新しい世界地図が出版されたことによってこれは広く知られるようになった。地理学だけでなく、磁石の性質も中世の発見であったし、海外の知見により、薬草学、植物学、動物学が書き換えられた。16世紀末以降、題名に「新」を付けた書物が次々と現れた。つまり、新しいことがポジティブな意味で捉えられるようになったのである。

      もともと文字文化の外にあって、古典とは無縁であった職人達は自信を深めて、積極的に発言するようになった。フランス人陶工ベルナール・パリシーはその典型的な例であった。彼は独力で釉薬の研究を行い、白釉技法を開発した。公開講座も行い、1580年に著書「水の性質および人工と自然の泉について、金属と塩類と塩水について、岩石・土・火・釉薬・その他についての賞賛すべき講話」を出版した。自然についての科学は実際の経験と観察に基づかなければならず、そのことを抜きにして過去の学者の書いたものを信じてはならない、ということを訴えている。化石が古生物の死骸であること、泉が地中に浸み込んだ雨水の噴出であること、金は水に溶けないから強壮剤にはならないこと、トパーズは「凝固した水」に過ぎないこと、等々古代文献に対して実証的に一つ一つ反駁している。最後のは今日的には正確でないが、彼は硝石を水に溶かして濃縮して再結晶させる実験を行ってそう言っているのである。

      アリストテレスの地上の自然学は徹底した質の自然学であった。熱・冷、乾・湿の対立性質を具現化した元素、土、水、空気、火から演繹的に事物を導出する一方で、数学はこれら感覚的なものを捨象した抽象世界だけに関わる。ルネッサンス期に自然学が数学化を余儀なくされたとき、天上界と地上界の中間に数学的な世界を想定して言い訳をしようとした学者も現れた。したがって、これらの知識人の世界の外で、商人達や職人達自身によって、自然の定量的測定が進められたことをこれまで詳述してきた。要約すると、磁針の偏角等については、コンパス製造業者:ハルトマン、ノーマン、測定装置はボロウ、インド洋で偏角を測定したのは軍人のデ・カストロ。人体測定は画家のデューラーとダ・ヴィンチで、装置を開発したのはアルベルティ。天体測定は商人のウォルター、赤道アーミラリーを開発したのは数理技術者のフリシウス、地上の三角測量を実行したのは砲手のボーン。重量測定は試金技術者のビリングッチョとエルカーで、彼らは酸化による重量増加を測定した。十進法は試金技術者達の間で使われていたものをステヴィンが理論化した。医薬の対照試験を行ったのは外科医のバレ。蒸留はブルンシュヴィッヒが書物に記して普及させた。弾道学のための測定は算術教師のタルターリアである。思想としての彼らの新しさは、こうして得られた知識は決して完全なものではなく、新たな測定によって更新されるべきものである、という認識である。その帰結として、彼らはまた、一部を除いて、中世のギルドの掟を破って自分の得た結果を積極的に書物として公表した。印刷が可能になって、彼らの名誉心を刺激したこともその背景にある。「研究の協同的推進と科学の累積的発展」という近代科学のあり方がここに芽生えたのである。

      オランダの水利技術者シモン・ステヴィンは「研究の協同的推進と科学の累積的発展」について最も明確に主張している。天文学において、貴族のチコ・ブラーエが王権の庇護を得て最高の天体観測データを残したのであるが、そのような事は常に出来るわけでなく、それと同等なことを成し遂げようとすれば、多数の独立した観測者がお互いのデータを共有することが必要であり、また、これによって、データの信頼性が高まる、と述べている。実際彼は当時の科学技術の成果についての飛びぬけた数の著書をオランダ語で出版している。

      17世紀初頭のフランシス・ベーコンは科学の分野で仕事をした人ではないが、その後のヨーロッパにおける科学研究を方向付けた人である。彼は大航海による新たな知見が哲学に変革を迫るかもしれないことと、印刷、航海、火器などに見られる技術的発展を見て、学問の進歩を「哲学と対比しながら」機械技術の発展になぞらえている。哲学では創始者が活力の絶頂であってその後は日々衰えていく。1人の権威が他の多くの才能を駄目にしてしまうからである。それに対して機械的技術は最初はぎこちないものであっても改良を重ねられて進歩していく。科学も同様であって、多くの労力と世代を超えた蓄積によって進歩していく。ただし、ベーコンの思想は職人達の思想とは微妙に異なっている。職人達にとっては「知の公開」に重点があったのに対して、ベーコンでは「学問の進歩」に重点がある。つまり、公開は進歩のためにこそあるのだから、必ずしも多くの人に公開する必要がない、と考えた。同時代への公開ではなく、後続する世代への公開であり、その為には一部の研究者集団への公開で充分であった。職人や技術者による発明はしばしば偶発的であり、必ずしも効率的な研究ではないから、研究には理論的なガイドとデータの解釈による計画が必要であり、それを成しうるのは「卓越した知性」を持った研究者である、というわけである。彼は理想的な科学研究組織を「ベンサレムのソロモン学院」として描き出した。それは、国家から俸給を得ている卓越した研究者集団が国家の拡張主義的政策を推進し、その見返りに国家から研究費を得る、という組織である。全員が上流階級にのみ許される制服を着ていて、組織で得られる成果は必ずしも公開する必要がないから秘密を厳守する、という誓いを立てる、というものである。1662年のロンドン王立協会がこれをモデルにして作られた。1666年のフランス王立科学アカデミーも同様である。

      16世紀にも一部の上層階級知識人(解剖学のカルピ、ヴェルサリウス、天体観測のチコ・ブラーエ、鉱山学のアグリコラ、陶芸技術のチプリアーノ・ピッコロパッソ等)に先陣があったが、ベーコンの思想は17世紀のより多くの上層階級知識人の心を捉え、知識人が手仕事を厭わなくなった。ベーコン自身も積雪の日に鶏肉の冷凍実験を行い、肺炎を起こして死亡した。ロバート・フックは幾何学教授であり、万有引力が距離の自乗に反比例することを主張したり、惑星の運動が接線方向の慣性運動と中心方向への加速運動であるという見方を提案したり、といった理論家ではあったが、同時にロバート・ボイルと一緒に真空ポンプを作り上げたり、王立協会の実験主任として毎週3,4種の実験を行っていた。自在継ぎ手などの機械装置も考案している。クリスティアン・ホイヘンスもレンズ磨き機を改良したり、振り子時計やバネ付きテンプを発明した。パスカルは円錐曲線の定理を発見した人であるが、計算機械の発明に打ち込み、気体や液体の実験をいくつも行っている。ライプニッツは計算機械の発明や鉱山の排水用風車ポンプの設計をしている。アイザック・ニュートンは反射望遠鏡の設計製作が仕事であり、プリズムによる光学実験を行っている。

      ロンドン王立協会やフランスの王立科学アカデミーからは当然のように職人達が締め出され、科学研究は日々の仕事に追われて余裕のない職人から楽しみとして研究を行う有閑階級の手に移ったのである。科学の進歩に必須の経験の蓄積は職人の経験から、協会の発行する学術雑誌による共有へと変化した。つまり、書物よりも自分の目で見た自然を信じるという経験主義は時代遅れになり、文書を介した「間接的な経験」が優位になった。実験報告の形式が整えられ、結果の検証もまたその記述に従った他の人の再現実験で行われる。これは、それを読み書きできる人間、つまり専門家エリート以外には介入できないプロセスである。

      顕微鏡、望遠鏡、温度計、湿度計、気圧計、真空ポンプ、検電器、の発明や実用化が科学者達自身の手で行われて、自然の見方が一変する。1609年にガリレオは月面に凹凸があることや銀河が数多くの星の集まりであることや木星に4つの衛星があることを発見した。ケプラーは1611年にガリレオの望遠鏡(凸レンズ+凹レンズ)の原理を明らかにして、ケプラー式望遠鏡(凸レンズ+凸レンズ)を提案した。天上の太陽に黒点が見つかり、取るに足らない昆虫の諸器官の精密な構造が明らかとなった。大航海による地理学上の発見と同様に、これらは古代の自然観を覆すに充分であった。科学者は技術に夢中になり、自然界に存在しない観察装置の考案によって、実験科学を全く新しい相に入り込ませた。

      等加速度運動の記述はガリレオ以前に、14世紀中頃パリ大学スコラ学の二コール・オレームによってなされていた。「質の図形化について」という書物でアリストテレスの範囲を超えて「質の強度」という概念を導入し、強度変化をグラフに示し、その増加率が一定な場合を「一様に不等」と名づけて詳しく調べた。直線下の面積は等加速度運動での通過距離である。ガリレオの導出方法も全く同じである。しかし、オレールが考えた等加速度運動はあくまでも知的なエクササイズであって、ガリレオが考えたように実際に実験で確認すべき事柄ではなかったのである。地球の自転についての議論もそうであった。「天体論・地体論」において、「地球が回転しているという見解を支持することは充分可能であると思われる」、と述べながらも、それにもかかわらず、「神は地の球圏を動くことのないように堅く固定したのである」、と述べている。これは、否定−肯定−結論というスコラ学の論述に従った演習問題に過ぎなかったのである。つまりガリレオの新しさはその依拠した論理ではなく、実験によって真理性を判断するという態度だったのである。もう一つの重要な態度は、彼が何故物体が落下するか、とか何故加速されるのか、といった疑問を益なきこととして無視したことである。「何故」ではなく「どのように」を問題にした、つまり、本質の追求は棚に上げて予測の正確さ(実用主義と現象主義)に目的を限定した。かくして物理学から存在論が追放された。

      ガリレオの慣性運動は彼の頭の中では地球表面に沿った円運動であったから、彼はこの拡張で天体運動も慣性運動と考えたが、その後、重力の概念がケプラー、フック、ニュートン、によって確立される。機械論の立場では遠隔力は受け入れがたかったが、ニュートンは、「力の自然学的な原因や所在を問題にするのではない、数学的にだけ考えなければならない、観測結果を説明できればよい」、と主張した。惑星の運動から万有引力の関数形が導かれ、それを使って地上物体の落下と月の周回、潮の干満、地球の形状、彗星の回帰、が計算されればよいのである。

      ガリレオは自由落下の状況が空気抵抗のために理想的には実現しないことを知っていたから、それをできるだけ避けるために平滑な斜面での落下の実験を行った。これは阻害要因が除かれれば等加速度運動が成り立つ、という「仮説」、仮説に従った落下距離の導出という「論証」、特別に条件を整えられた装置による「実験」、という近代科学の方法を編み出したということである。気体のボイルの法則でもロバート・ボイルは水銀柱を用いて人為的にさまざまな圧力を作り出して実験し、理論計算結果と体積を比較している。近代物理学の法則は、自然に対する虚心坦懐な観察や闇雲な測定で導かれたものではなくて、人間の思考の枠組みに適合するように自然に対して強制的に働きかけてはじめて可能となる。この思想はフランシス・ベーコン、ロバート・ボイル、ジョセフ・グランヴィル、そして哲学者カントに至るまで一貫している。つまり人間が自然に対して優位に立つ思想である。中世からの遺産として16世紀の技術者が持っていた自然に対する畏怖の念を17世紀のエリート科学者は捨て去ったのである。実際的には物理学を始めとする近代科学は内容的に極めて限られた問題(つまり「人間による論証」と「実験」が可能な問題)に自己限定することによってはじめてその優れた説明能力を作り出したものでありながら、イデオロギーとしては進歩の思想に基づいた自然に対する攻撃的な姿勢を有していた。科学の成果がその「限られた問題」の枠を超えて現実世界に適用されるようになってからの功罪の歴史は良く知られている通りである。そこでは「想定外」の多くの課題が降りかかってくる。そこで必要なのは、16世紀の職人達の保持していた自然に対する「畏怖の念」に基づく慎重な態度ではないだろうか?

      ということで、やっと読み終えた。元々、津田敏秀氏の本では、現在の日本の医学部が中世の大学の医学部になぞらえてあって、つまり実践から遊離している、ということであった。19世紀ドイツの医学思想がアリストテレスの医学に相当する、という次第である。それはそれで深刻であるが、近代科学が16世紀に勃興した実践世界における職人の技術の成果の上に立って、それを再度エリートの手に取り戻したことで成立した、というのは興味深い。というのも、僕はそのエリートの立場からしか近代科学を理解していなかったからである。まあ、それでも近代科学が用いた方法論自身にその適用限界が潜んでいることは僕も頭では理解していたつもりではある。職人と科学者の対立はしばしば企業の研究所の現場でも見られた。ろくに実験もやらない頭の良い研究者がうまく上司に報告して点数を稼ぐことへの不満や反発はしばしばあって、僕はどちらかというと職人の味方についていたような気がする。イノベーションはやはり現象に直接関わる現場から産まれることが多いからである。物理・化学における再現性という適用限界は、確率論的再現原則を認めることで、生物・人間、更に脳・社会へと広がってきたし、カオスの科学は人間による論証というところに焦点を当てて変革しようとしているけれども、基本的には何も変わっていない。「畏怖の念」ではあんまりなので、多少とも著者の結論に付け加えるとすれば、限られた問題で得られた成果を組み合わせて現実に適用するという応用場面をあらためて「実験」と見なして反省する態度が必要なのではないだろうか?科学の成果は成果となった時点で「過去の文献」であり、それは応用の現場で再度「検証」されなくてはならない、というのが16世紀の職人達の発想に近いのだから。それはおそらく吉田民人の発想にも近いと思われる。

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