英語の復権

理解のための用語について

ジョン(失地王)

フィリップ(フランス国)王

ヘンリー三世

百年戦争

黒死病

農民一揆

『訴答手続き法令』(Statute of Pleading

ラヤモン

ジョフリー・チョーサー

ジョン・ウィクリフ

ガウェイン詩人(または『真珠』詩人)

1:イングランドがノルマンディーを失ったのはいつか。また何故そのようなことが起こったのか。

2:ノルマンディーを失ったことが、フランスとイングランドの貴族にどのような影響を与えたであろうか。またひいては英語にどのような影響を与えたのであろうか。

3:ノルマンディーがなくなったにも拘わらず、ヘンリー三世の長い統治(1216-1272)の間に、どうしてフランス人はイングランドにいまだやって来ようとしたのであろうか。

4:ヘンリー三世の時代、外国人が侵入してきたことは明らかに上流階級での英語の広がりを阻害した。このことが実際に英語に良い結果をもたらすことになったのはどうしてか。

5:13世紀を通じて、ヨーロッパにおけるフランス語の地位はどのようなものであっただろうか。

6:13世紀後半にフランス語の借入語が大量に入ってきたと思われるが、イングランドにおけるフランス語の重要性が落ちていったことがある一方で、そのような事実があることをどう説明するべきであろうか。

7:13世紀の終わりに於いて、英語の地位はどのようなものであったと、一般的に結論づけられるであろうか。

8:14世紀に教会や大学でフランス語の使用はどのようなものであったと結論づけられるだろうか。

9:イングランドで話されたフランス語とはどのような種類のフランス語であっただろうか。またそれはどのようなものと認識されていただろうか。

10:百年戦争は、イングランドにおけるフランス語の失墜に、おそらくは、どのように働いたと思われているのだろう。

11:黒死病は下層階級の人口を激減させたのであるが、間接的には彼ら下層階級の人々の話していた言葉の重要性を増すことになった。いったい何故だろうか。

12:13-14世紀にイングランドの中流階級の状態の変化はどのようなものだったのか。また、この変化が英語にもたらした影響とは何だろうか。

13:議会が初めて英語の演説を認めたのはいつだったのか。

14:イングランドで英語が公式に使われたのはなんという法令においてだったろうか。

15:学校で英語が用いられ始めたのはいつからだろうか。

16:15世紀の終わりのイングランドに於いてフランス語の地位はどのようなものであったのだろうか。

17:市町村、あるいは中央政府の公式記録に英語が用いられたのはいつ頃からだろうか。

18:1150年から1350年までの英語文献によって、英語の運命の変化については何が言えるだろうか。

19:1350年から1400年に至る英文学(英語文献)の果たした業績から分かるのは、イングランドにおける英語がどのような地位を確立したと言うことか。

 

1:>Norman Conquest<1202年にジョン王をパリ法廷に召喚したフランス王フィリップ。ジョン王に対する訴えにきちんと弁明し、自分の同じフランス王の臣下である者たちの裁定に従うように要求。ジョン王はイングランド王である自分がフランスの法廷の決定に従う理由はないとつっぱねる。ノルマンディー公爵としてはフランス法廷に従うべきだと応答。それならば通行手形を発行するようジョン王は要求。フィリップはそのための条件を出すが、ジョン王には承諾できないだろうという内容だった。結果としてジョンは、定められた時刻にパリ法廷に姿を見せず、裁定は彼の欠席は(封建制度下に於いて)封土剥奪に値するとした。フィリップは直ちにノルマンディーに侵攻。ジョン王の軍隊は敗戦に継ぐ敗戦で、イングランド人の支持も失っていく。ジョン王の甥アーサーは、人質として、もともとフランス王フィリップの娘と結婚していたが、フランス方の手によって殺されたものと噂され、早逝の知らせがイングランドに届くと、彼の死の責任は王にあるとして、王の不人気に輪がかけられた。(ちなみに、イングランド王家では、アーサーという名前の皇太子が何人かいるが、誰一人として王になったものはいないのである。)1204年にルーアンが陥落。ノルマンディーはイングランドから失われた。

2:ノルマンディーが失われた結果、貴族たちの間には、自分たちがイングランド方につくか、フランス方につくべきか、という単純明快な問いがつきつけられたわけである。ノルマン征服の後、多くの貴族がフランス、イングランド両側に領地を持っていたからである。実際、ヘンリー一世は不在領主のノルマン人の土地は没収していたりもした。しかし、1204-05にわたる、フランス王フィリップの発した法令によって、ウォレン伯、アランデル伯、レスター伯の持っていたフランス国内の領地を全て没収してしまった。このことはフランス、イギリス両国の貴族を、どちらかの国にのみ依存する分離政策となった。時には分家によって、両方の土地を保持し続ける場合もなかったわけではないが、大多数は、広いイングランドの土地を残し、狭いノルマンディーの土地は放棄した。

 一方、フランス王ルイ9世は、1243年にヘンリー三世がフランス国王に反抗的なフランス人貴族たちを援助しようとしたことに怒ったと伝えられている。1243年、ヘンリーは、それに先んずる戦争でフランス国王の味方をしたイギリス貴族を割り出そうとしたらしい。そのことは、ヘンリー三世は「フランス王に忠誠を誓った人々やフランス王から土地を預かっていた人々が所有していた土地」を没収し、1244年1月には「その土地」の半分を皇子エドワードに与えたことからもわかる(Cal. pat. Rolls, 1232-47, p.418, quoted in Baugh & Cable, 4th ed., 127, f.n.)。つまり、イングランド国王は、臣下に対し、自由意志でイングランド国王、フランス国王いずれかに忠誠を誓うべきかを決めさせなかったことを、フランス国王は怒ったらしいのだ。いずれにせよ、1250年以降、イングランドの貴族たちが自分たちのことを「イングランド人」と考えたに違いないと思われる。つまり、イングランドの貴族たちは「フランス語」を用いるべき最大の理由を失ったのである。

3:フランス人の再流入が始まったのは、ジョン王の治世からであった。ノルマンディーを失うに至った原因である王妃イザベルはフランス中西部ポワトー(Poitou)の出身であった。

ポワトー出身の聖職者ピエール・ド・ロッシュはウィンチェスター司教に任命された。後、大法官、英国大司法官と昇進した。ヘンリー三世は、趣味も人脈もフランスフランス一辺倒であったらしい。母方の血統はもちろんフランスだったが、そればかりでなく、フランス国王ルイ九世(聖王)とも親戚だった。ヘンリー三世と、その弟リチャード・オヴ・コンウォール、ルイ九世とその弟のシャルル・ダンジューの四人は、皆プロヴァンス伯の四人の娘と結婚していることからも、当時のイングランド宮廷が如何にフランスと密接な関係にあったかがわかるだろう。年代記作者リチャード・オヴ・ウエンドゥヴァーは1233年、ヘンリー三世の治世17年目に、クリスマスの御前会議で、イングランドの司教、参議、伯爵、男爵などの貴族を解任。ピエール・ド・ロッシュ以外は信用せず、ウィンチェスター司教ピエールにイングランドの城址を管理させた旨が書かれている。また、2000人の騎士と兵士をブルターニュ(Brittany)、ポワトー(Poitou)から採用したが、この新参者たちは、イギリス人貴族も家臣たちをも圧迫した。

二度目の大規模な流入は、1236年のヘンリー三世とプロヴァンスのエレノアとの結婚に始まる。マシュー・パリスは「王妃の親族を土地、財産、金を与えて肥え太らせたため、王は結婚によって自分の富は増やせず、かえって貧しくなった」と記している。

ヘンリー王の結婚の結果、このようにプロヴァンスからの流入があって後、10年後、ヘンリー三世の母親が逝去。ジョン王の王妃であったイザベルは、ジョン王の死後、以前の愛人だったHughと再婚し、子どもを五人ももうけた。ヘンリーはその異父兄弟たちにイングランドの土地などを分け与えた。その結果、ポアトーから再び大量のフランス人が流入したのである。

4:このようなヘンリー王の外国人に対する優遇は、当然のことながらイングランド国内の反発を生んだ。外国人への反感が、イングランドの地方豪族や中層階級とを一致団結させた。シモン・ド・モンフォールの抵抗は、国内から外国人を追い出すのに一役買ったが、シモン自身もノルマンディー生まれであったことは意義深い。なによりも彼はノルマンディー出身であったが、イングランド人としてのアイデンティティーを持っていたことになる。エドワード一世(1272-1307)が即位したときには、政府の役人たちはほとんどがイングランド人であった。

「13世紀におけるフランス人の侵入が、既に始まっていた上流階級の英語の普及を遅らせはした。しかしながら、結果的にイングランドにおける外国人への敵意を呼び覚ました。つまり、一世代、あるいは数世代にわたりイングランド国内の問題に関与した結果、ノルマン征服直後にイングランドに渡ってきた者たちは自分たちのことをイングランド人とみなし、ヘンリー三世の庇護の下、イングランドに群がってきた「新参者」と自分たちとは違うのだ、という意識を強めたのである。この「新参者」と自分たちとの違いは「英語を解する」ということもあり、つまりは英語に対する国民言語としての意識が強まったと言うことで、今後の英語の普及の下地が作られたことになるのである。

5:13世紀の文明化された(と思われていた)ヨーロッパの国々では、フランス語がもてはやされた。フランス文明の威信はある程度「シャルルマーニュ」の輝ける伝統の継承にあったかもしれない。いずれにせよ、この時期、フランス宮廷文学はヨーロッパのあらゆる文芸に、ひいては言語に大きな影響を与えていたのである。イングランドの上流階級にフランス語が普及したのは、その理由が大きいと思われるのである。

6:フランス語を知っていて、それに慣れている人たちが英語を話そうとする場合、当然、フランス語混じりの英語になる。フランス語の大量借入は、まさに英語が使われ始めた証となる。一方で、フランス語の文法についても大いに誤った用法が見られるのも、当時のフランス語がそれほど普及されていなかったのではないかという疑いを抱かせる。

7:上流階級の人々の間で英語の普及は確実に進んでいた。国王の周りの者は英語を解するイングランド人であったようだ。王弟コンウォール伯リチャードは、後にドイツ皇帝に選ばれる(1257年)が、その理由が「ドイツ語に似た発音の英語をしゃべるから」で、英語をしゃべれていた者と推測するのがよいだろう。1258年のオクスフォード条例は、英語で書かれているし、英語を引用する判事もいたそうだ。13世紀中頃までに英語が階級社会において、どの程度その地位を上げていたかとなると、次の有名な一節による。ウォルター・オヴ・ビッベスワース(Walter of Bibbesworth)は、子どものためのフランス教本を書いている:貴族の指定ならば誰でも知っておくべきフランス語の話し方と答え方」についての本であり、つまり、これは外国語の教本なのだ。フランス語は既に外国語になっていたという一つの明確な証拠である。この本が書かれたのは1250年以前とされる。また写本も多く残っており、かなり普及した本だったらしい。

1300年前後に書かれた Cursor Mundi 『世界史』は、イングランド人の読むために英語で書かれていることをわざわざ序文で明記している。「This very book is translated into English language to read for the love of the English people, English people from England, for the common people to understand. I hear French rhymes read in every place. Most of them are made for French men. What is it for those who do not know French? 」

8:

9:これについては、チョーサーの尼僧院長を描いた描写のこの部分が最も有名です:

And Frensh she spak ful faire and fetisly,

After the scole of Stratford atte Bowe,

For Frensh of Paris was to hir unknowe (GP, 124-26)

(彼女[尼僧院長]は大変優美にまた上品にしゃべることができた

 それはストラトフォード・アト・ボウの流儀のフランス語で

 というのも 彼女はパリのフランス語はとんとご存じなかったからで)

ここでは、パリのフランス語すなわち中央フランス(イル・ド・フランス)の方言こそが

貴族階級において主流を占めていた事実をにおわせているのです。そういう主流の仏語

でない、英国の片田舎で話されるような話し方(方言)を「優美にかつ上品に」語った

ところで、貴族方からは失笑を買うにすぎない。そういう事実をチョーサーは皮肉を

込めて揶揄すると共に、この尼僧院長を少々意地悪く描写しているのです。

 

10:

11:1348年の夏、イングランド南西部に最初に波及した伝染病は、1349年をピークに、結局1350年初頭までに北部にまで達する。病気に感染した者は、最初の二三日で生死の分かれ目に瀕することになる。現実的異な数値を出すとするならば、人口の30%はこの病気の犠牲者になったと思われる。死亡した者の中には農奴など貧しい階層の者が多かったことから、この人口の急変は英国の社会構造に変革をもたらすこととなった。つまり、病気に対してどこにも避難することのできない層が倒れることが多かったわけで、その結果は労働力の深刻な欠乏であった。このことは、すぐに労働賃金の値上がりという形で記録に残されることになった。農奴たちはより高い賃金を求めて、都市などの自治を持つ職場へと逃亡した。結局農場に残された者たちは、自分たちの少ない労働力によっては賄いきれないほどの労働を強いられることになるのである。この労働条件に対する不満は農民一揆という形で噴き出した。1381年にはワット・タイラーの農民一揆も起こる。いずれにせよ、黒死病は、労働力を供給する社会階層の立場を強め、ひいては彼らの言葉の社会的地位を高めるのにも大いに力を寄せたわけである。

さらに言葉を加えるなら、聖職者の間にも黒死病は広がり、1349年セント・オールバンズ修道院の中の僧、修道院長合わせて47名が倒れた。彼らの穴を埋めたのほとんどの者は、英語以外解することのない僧だったらしい。

12:13世紀半ばには街に人口が集中し、北のヨーク、南のロンドンはさらに大きく発展した。1250年までに人口1000人から5000人までの町は、約200にまで増えた。こうした都市は自治を敷き、立法・通商・税の徴収も独自に行い、役人の選出なども自分たちの投票によった。商人や職人はギルドを組織し、互いの利益を自衛する手段を得た。このような中層の社会階級に属する者の中には、富裕な商人や強い社会的権力を持つ者が現れだした(当然のことながら、両者に属する者もいたわけである)。このような社会的、経済的変革は、英語を話したこの階級の社会的地位を上げたことになる。つまりは、最終的に英語が公用語になるに至った過程の原因として理解されよう。ギルドの公式記録では、ヨークで1400年頃、ロンドンで1422年頃から英語が採用された。

13:1362年、大法官が英語の演説によって、議会が始められた。1363年、1365年、さらに1381年にも英語が使われている。それに先立つ1337年、エドワード三世が、議会を招集し、フランスの王位を要求することについて意見を求めたことがあった。その時、国王の意向は、ラテン語、フランス語および英語で伝えられたようである。議会ではいまだフランス語が使われていたにも拘わらず英語が用いられた理由は、「全ての人に、よりよく理解して貰う目的であった。なぜなら、誰かが言い、また申し出ることについて、子どもの頃ならい覚えた言葉の方が、それ以外のどの言葉よりも、よりよく知ることができるから」だと言う。つまり、議会に出席している者の少なくとも何名かの者は、英語によって培われたということがわかる。

14:1362年、国語としての英語の地位を高める重要なもう一歩が踏み出された。恐らくはノルマン征服直後から法廷での言語はフランス語となっていた。しかし、14世紀には、既にその慣例は不必要に続けられているように思われたらしい。ロンドン市長、また参事会員がロンドンとミドルセックス州において、裁判所の訴訟手続きは英語で行われるように求めたのが1356年。その六年後1362年、議会で、『訴答手続き法令』が制定され、翌年1月に施行された。イングランドの法律・慣例・条例がイングランド国内で知られていないのは、そのような手続きがすべて、イングランドではあまり知られていないフランス語によって行われているからで、以後は、全て英語で行うべし、と定められた方である。興味深いのは、その法令自体がもともとフランス語で書かれていることである。習慣というものは恐ろしいもので、この法令によって一瞬のうちに英語が全て取って代わったという保証はないが、いずれにせよ、英語の公用語としての地位は、この法令によって保証されることとなったのである。

15: ラナルフ・ヒグデンの『万国史』より:「この母語の衰退は、二つの理由による:一つは、他の全ての国々の習慣ややり方と異なり、(イングランドでは)子どもたちが学校で自らの国語を捨て去るように強制され、そして自分たちの教科や物事をフランス語で解釈するようにされている。そしてノルマン人が初めてイングランドにやって来て以来、ずっと彼らはそのように行うことを見てきているのだ。また、高貴な人々の子どもたちは、自分たちがゆりかごで揺られ、また言葉を話し始め、「子供用の槍(=ガラガラ?、おもちゃ)」で遊ぶようになるときから、フランス語を話すように教えられている。そして、地方の人々は自分たちを高貴な人々に似せようと望み、人から良く思われようとして、大変な苦労をしてもフランス語を話そうとする。」

英語訳をしたジョン・オブ・トレヴィーサは、さらに次のようなコメントを加えている:「このやり方は、最初の疫病(1349年の黒死病)以前には大いに行われたが、それ以後はいささか変更があった;というのは、ラテン語文法教師ジョン・コーンウォールは、グラマー・スクールの教育法を改正し、フランス語による教育を英語によるものに変えたからである。リチャード・ペンクリッチはそれを彼(コーンウォール)から学び、他の者たちは、ペンクリッチから学んだ。そういうわけで、現在、すなわち主の紀元1385年、ノルマン征服後、二番目のリチャード王(リチャード二世)の第九年、イングランドの全てのグラマー・スクールでは子どもたちはフランス語を捨て、英語で学び、解釈を行っている。それによって、一方で利点があるとともに、他方では不利となっている。利点とはすなわち、昔の子どもたちのやり方よりも少ない時間でラテン文法を学べる点。不利な点とはすなわち、グラマー・スクールの子どもたちは、自分たちの左足がしゃべるのと同じくらい、フランス語ができないことである。もし彼らが海を渡って異国、あるいはその他の場所に旅をするとすれば、彼らにとっては好ましいものではない。また、貴族たちの多くも今日では自分たちの子女にフランス語を教えることをやめてしまっているのである。」

ジョン・コーンウォールという人物がオクスフォードでラテン文法を教える免許をもったことがわかっている。1347年のマートン学寮(コリッジ)に名前が残っているのだ。ペンクリッチという名前もその数年後に見られる。したがって、1349年以後、英語が学校で用いられるようになったのは明らかであり、1385年には、一般的だったと見ることができるのである。

19:先にも見たように、フランス語が上流階級で支配的だった時代は、イングランドに於いてもフランス語で文学作品が書かれていた。その時代にあっては、英語でものをしたためても、パトロン、つまりはメシの種にはありつけなかったのである。したがって、英語でものを著すことを目指す人々は、当然、他の読者層を対象に選ぶことになった。この時期(1150-1250)、英語でものを書く人々はまず例外なく、宗教家たちであった。彼らは正しい生き方、魂の救済に注意を向けていた人々であって、その代表格が南西中部方言で書かれた『尼僧戒律』Ancrene Riwleである。これは一つの写本ではAncrene Wisseと呼ばれているもので、若くして尼僧となった三人の姉妹のために書かれた作品である。恐らくは1215年よりそれほど隔たってはいない時期に書かれたとされる。北東中部方言で書かれた『オルムルム/オーミュラム』(Ormulum(1200年頃)という宗教詩がある。これは短母音に続く閉音節の子音を二重にして書くなど、当時の発音をなるべく忠実に表記しようとした試みが見られる独特の書記法を持つことでつとに有名な作品である。しかし、これら宗教作品の中で異彩を放っている作品が二つある。一つは、南西中部方言で書かれた『梟とナイチンゲール』(Owl and Nightingaleは対話詩の形をとる寓意詩で(1195年頃)僧侶(宗教)をフクロウに、恋する乙女(愛)をナイチンゲールになぞらえて論争をする形式になっている。もう一つはラヤモン(Layamon)が書いたとされるBrut(1250年頃)である。内容がブリテン史ということもあり、フランス語借入語よりも古英語以来の語彙が目立つ作品である。