学校・教師





 最近、ではないだろうが、学校論や教師論をぶつ人が増えている。各人それぞれが 自己の見識を披露するのは結構なことだと思うが、総体的には否定的なものが多い。 教師の一員としては「肩身が狭い」思いもあるが、30年も教師をやっていると、やはり 「学校」への愛着は強く、そんなに簡単には「学校を否定できないよ」と思っている。
         
  「閉じた空間の中で子供を相手に絶対権力をふるっていると、人間おかしくなるのが当然だ」「教師なんて役人の端くれに過ぎない」「生徒には制服を強要するのに、自分 たちの服装はだらしないの一言だ」etc。
         
 確かに「学校」は子供の保護ならびに管理という観点から、部外者に対しては閉ざされている。僕は高等学校に勤務しているが、大抵の学校では昼休みなど、正門で教師が「立ち番」をやっている。生徒が勝手に外に出て事故でもあると、これは事実として 「学校の管理責任」が問われるし、外で悪さをしたりすると、ご近所から学校に苦情の 電話が入ってくる。高校生にもなると体も大きく、自分で注意をすると下手なことになりかねないこともあって、学校に通報が来るのである。その苦情処理を誰がやるかというと、教師である。学校によってはこういう苦情はほとんどなく、立ち番もない、というより必要がない学校もあるが、それは少数であって、平均的な学校ではこういう仕事があり、苦情があると生活指導係などが飛んでいって「指導」に当たる。生徒も他の人が「指導」したりするとムカツイて反抗するかも知れないが、自分の所属する学校の教員なら「仕事でやっている」と思いもあってなのか、それほどムカツクことはないようだ。学校の閉鎖性ということには、こういう側面もあるのである。
   
「子供を人質に取られているから教師に対しては言いたいことも言えない」という話もよく聞く。確かにそういうこともあるかも知れないが、「言いたいことが言えない」のは学校に対してだけではなく、大人同士では通常「言いたいことを言いたいだけ言う」ことは少ないのではないか、と僕は思っている。
  「俺は言いたいことは誰にでも言う」人もいるだろうが、同僚や近所の人から多少の迷惑をかけられても、まあこれぐらいは、と我慢する方が普通だろう。逆に「学校」には、子供のため、ということもあり、比較的「言いたいことは言えている」のではないか、と僕は思う。最近は「学校」を通り越して「教育庁」に直接苦情を持ち込む人もいるが、教師から見ると、その感覚がよく分からない。本当にそうすることが必要なときもあろうが、教育庁に話をするということは、学校や教師とは話し合うつもりはない、という態度表明でもある。「監督官庁」から怒られたら言うことを聞くだろう、と言う了見だろうと推定しているが、教育は「親と教師と生徒」とが共同で行う作業だと教師側は思っているから、内容によっては唖然としてしまうこともある。僕の例で言うと、教師歴で一度だけ「教育庁への苦情」があった。それは何かというと、11月下旬で寒い日があった。生徒がストーブをつけたい、と言ったが、学校の規定では12月 10日からになっているから僕はダメだ言った。他のクラスはつけてる、という声もあったが、僕は認めなかった。そうすると教育庁への匿名の電話があった。
  「ストーブが壊れているのに直さないのはケシカラン」という内容だったそうだ。教育庁には僕が対応する、と言ったのだが、事を荒立てると、と思ったのか、事務長が「始末書」を書いて処理をした。教育庁と言うところは、苦情等があると、その事実関係を 調べもせず、学校を「指導」して終わるところだ。「苦情があること自体がけしからん」 ということだろうが、学校側から見ると、実に「気楽な商売」だという気がする。

 教師をやっていると実に色んな人に会う。見識のある人もない人もいるが、ほとんどの親に共通して言えることは「自分の子供」のプリズムを通して学校や教師を見ていることだ。子供以外からの情報が少ない、ということもあるだろうが、随分偏りがあることも事実である。例えば、僕から見ると「手抜き教員」が親に評判が良かったり、熱心にやっている人が逆に批判されたり、事実と違うことで苦情を言われたり、実に様々だ。最近は特に教育庁が、「学校、特に教師に不満を言う」ことを奨励しているからこれからはこういうことがもっと増えるだろう。保護者が不満を言うのは構わないが、教師 は保護者には「不満」は言えない。こちらは「仕事」でやっているし、子供を預かって いる責任があるからだ。親の責任、教師の責任などと言い出すときりがなくなるが、 「不満が言える」のは大抵は親だけである。「教師は気楽な仕事」と思っている人は 、子供だ けでなく、親にも目配りしながら仕事をしている教師像を知らないのである。僕は幸い、良い親御さんに多く巡り会っているから、この種の厭な思いは少ないが  、同僚の中には子供の欠席を注意する電話をして怒鳴られた人もいる。「何でそん なことで電話をしてくるんだ」と言って、木刀を持って学校に怒鳴り込んできたのである。念のため書いておくが、これは実話であって架空の物語ではない。また、子供の出席状況が悪く、このままでは進級が危うい、という電話を入れたところ、「それ で?」と言われた例もある。
教師のストレスが溜まる所以である。

 教師という仕事には上述したような厭な面もあるが、僕は「教師」という仕事は好きである。僕は他に何もできない(だろう)、いわゆる「デモシカ」組であって、自分は教師に向いていると思ってはいない。その分、逆に誠実にやろうと思ってやってきたが、振り返ってみると、教師をやったおかげで自分としては良い人生が送れてきたと思っている。金も地位もないが、少なくとも自分を裏切る必要はなかったからだ。また、僕は希望して色んな学校を経験し、それぞれの場で色んな生徒との出会いがあった。こういう出会いは教師をやっていないと体験できないものであって、いわば教師の財産のようなものだ。会社に入っても同僚や上司・部下との出会いがあるだろうが、そういう出会いとは違い、学校というところは、「子供(生徒)と一緒に作っていく」ところだ。教師だけが一人で力んでもダメだし、生徒だけでは力不足、というところだろう。
人権問題・労働問題・社会問題を自分なりに学習したのは「教師であること」を通してであったし、人生の半ば以上を「教師」として過ごしてきた以上、これからもそうだろうと思う。「教育(学校)の現状」には自分としての反省も思うところもあるが、特に教育庁のあり方等については強い批判を抱いている。そういうことも取り混ぜて、自分が担当した生徒の思い出などをここに載せていく。「学校」「教育」に関心のある方には若干の参考にはなるだろうと思っている。
    

     教師生活の中から


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