教員生活の中から

 





















     初めての担任

      僕は教員になってすぐ担任を受け持ちました。教師なら誰でもそうですが、初めての担任のクラスには格別の愛着と思い出があります。自分がまだ若かった、ということもありますが、経験のないままに担任をやり、生徒と手探り状態で前に進んでいったというような思い出が懐かしいからだろうと思います。二度目の担任からは自分なりの「方針」や「方法」を考え出しながらやるのですが、初めての担任の時はそうはいきません。(「方針」や「方法」があればうまくいくかというと、そんなことはまるでありません。逆に何もない状態でやった方がいい結果が生まれることもあるので、こういうところが「担任」の難かしさです。)今、思い出しても、AさんやBさんのように遅刻が多い生徒については、試験の時に遅れていないかどうか教室を覗きに行ったり、Cさんのように、「この子は何て人間ができているんだろう」と驚嘆するような人もいたりして、立場上は教師だけれど、「指導」なんてできませんでした。両親ともに病弱で、下の兄弟の面倒を見、それでいて学年で優等の成績を収めたDさん、いつも笑顔で明るく(なんて書くと、調査書の決まり文句みたいですが、実際にそうだったですね)、行事などではリーダーになってみんなをまとめたCさん。女子クラスはどうしても幾つかのグループに分かれ、水面下で対立することが多いのですが、Cさんにはグループを横断してまとめる力がありましたね。「指導要録」には「性格」(協調性・自主性など)を評価する項目があるのですが、この二人には全Aをつけたと思います。自分と比較すると、二人の方が遙かに人間的な「出来」は良く、僕にはそれ以外につけようがなかったですね。こう書くと「順風満帆」のクラスのようですが、でもやはり「事件」はありました。家出・シンナー・怠学、いくら言っても休んでしまう生徒など、一通りの担任の仕事は経験しました。ある生徒が家出をしてもう一週間ほども居場所が分からない時、彼女の友人たちからある情報が入り、ここにいるんじゃないか、と目星をつけたアパートに僕が行き、ドアをノックすると彼女がいた、ということもあります。すぐ学校に連れ帰って、女性の先生に経過を聞いてもらったのですが、微妙なところは彼女は正直には言わなかったと思います。三年の時、シンナー事件がありました。その生徒はもともと成績が芳しくなく、卒業が危ぶまれたのですが、追試の教科の先生の所にしつこく「何をやればいいのか」を聞きに行かせ、その「熱意」を先生が評価してくれて晴れて無事卒業ということもありました。
 最後の踏ん張りは彼女の努力ですが、担任としても結構努力したので、卒業式で彼女の名前を呼ぶときは僕なりの思いがありましたね。もうみんな、40才を過ぎた「おばさん」になっていますが、途中で学校をやめたSさんのことなど、今でもその当時の顔のままで覚えています。卒業生の10人くらいとは年賀状のやりとりがあり、教育ママになったり、賢母になったり、みんなその人らしい生き方をしており、「変わらない」のは僕くらいかな、という気がしています。



  教室内喫煙事件


     私が某高で一年の担任をしていた時の話である。確か3学期だと思うが、私のク
       ラスの教室の中でタバコの吸い殻を見つけた。他にもないか、と調べたところ、あるわ
       あるわ、黒板の上の桟の所など、かなりの本数の吸い殻が見つかった。この学校は
       校則が厳しく、またそうしないと大量の「脱落者」を出しかねない学校で、私のクラスも
       一年の時はイジメ事件があったり、喫煙・怠学など、担任としても苦労をしたクラスであ
       る。この時見つけた吸い殻自体はかなり古いものが多く、恐らく二学期くらいから教員
        の目を盗んでは喫っていたようだ。こういう「古い」事件をどう処理するかは結構難し
        い問題だが、担任団で手分けしてクラス全員の話を聞き、それを集約した。こういう時
        に、「僕が喫いました」と正直に言う生徒はまずいないのだが、この時も、疑わしいの
        だが本人が認めないという生徒が何人かいた。他の教師で「これは前に起きたことで
        調べるだけ」と言って調べた人もいたが、本人が認めたら「処分」の対象になることは
        合意されていた。担任団の調査で名前が出てきた生徒を担任の僕が再度事情を聞く
        ことになったが、私はその時、「喫った事実があったら処分の対象になる」ことをまず
        生徒に言ってから話を聞いた。学年会でそのやり方を説明したとき、「それは、言うな
        、と言っているのと同じだ」と呆れた人がいたが、処分しないような事を言って、分か
        ったら処分の対象にするのは欺瞞であり許されることではない、というのが私の主張
        だった。結論を言うと、一人がまず事実を認めた。その後、まず絶対に認めないだろう
        と学年の教師から見られていた生徒を呼んで、「喫ったんじゃないの」と訊くと「喫って
        ません」。「○○君は認めたよ」と言うとすぐに「喫いました。」と認めた。
     この生徒(男子)は硬派の少年で、中学時代にはかなり悪さもしていたようで、私
         のクラスでも一目置かれていました。男子クラスとはこういうものなのです。でもこの
         子にはまっすぐなところがあって、友達が喫ったことを認めて処分されているのに、
         自分だけが免れるのを拒否したのです。この子は校長室で「言い渡し」があった時も
         、「こんな事くだらない」というような素振りを見せていたのですが、校長から「○○君
         、大丈夫か」と言われてはっと気がついたようで、あとは彼なりに真面目に指導を受
          けました。校長室を出てから、私が「教室の中のタバコは全部見つけたから、これか
         らまた見つかったら新しい事件だからな」と言うと、彼はニヤッとしましたが、それか
         らは事件はありませんでした。この生徒は残念ながら成績が芳しくなく原級留置にな
         り、学校をやめました。一年間しか一緒ではなかったのですが、この生徒の中にはあ
         る種の「律儀さ」があり、それがこの件で明らかになったと私は思っています。このク
         ラスについて書き出すと切りがないくらいの思い出がありますが、「事件」に絡むこと
         が多いので自分でも苦笑せざるをえません。三年の体育祭では全校で一位、文化祭
          では私も入って「探偵もの劇」(内容は忘れました)をやりました。卒業時は28名の
          クラスでした。
     


  忘れ得ぬ級長

  学級運営は色々な係(委員)を選出することから始まります。生徒会の役員は選挙で選ぶのが決まりですが、クラス役員(委員)の大抵は立候補を募って決め、希望者の出ない委員・係はじゃんけんか何かで決まるのが普通です。その中で、「クラスを代表する」者としてのホームルーム委員(級長)は、クラス生徒のまとめ役でもあり、クラス委員の中でも重要なポストだと言えます。僕は担任を6回経験していますから、各学期二名(男子・女子各一名)で重複を無視すると、108名のホームルーム委員と各学期のクラス作りをやってきたことになります。実際はホームルーム委員一名の学校もありましたから、この数字よりは少ないのですが、でもかなりの数字になることは間違いありません。一番接したであろう、そういうホームルーム委員のことをよく覚えているかというとそうでもなく、クラスの生徒の顔は出てくるのですが、誰が何の委員をしていたか、またその時のホームルーム委員は誰だったかもほとんど記憶には残っていません。でも、某高一年三学期のホームルーム委員のことはまだ良く覚えています。
 その子(女子)は茶髪で夜バイクなどで遊んでいた生徒でした。「族」ではなく、自分のそういう仲間と遊ぶのが好き、ということだったと思います。高校に入ってからそうなったのではなく、中学の時からそういう傾向があり、教員からも「目をつけられていた」らしく、高校に入っても僕ら教員を「敬せず遠ざける」感じで、話を聞くこともなかなか出来ませんでした。今では茶髪はごく普通のことになっていますが、当時はまだ少なく、彼女なんかがその「走り」だったのかも知れません。担任としては、呼んでも来ないし、来ても話をしない生徒とは人間関係が作れず、困りましたが、教員不信の生徒を無理に捕まえて話をしても無駄なので、そういう関係のまま時が流れていきました。起きると困る面もあるのですが、学校の中で問題でも起きれば、それを契機に色んな話をすることもできるのですが、それもなかったですね。欠席が多く、成績も振るわず、学校生活にも向き合わない、ということで、そのままでは確実に原級留置になる生徒でした。
 僕の記憶では10月か11月だったと思いますが、そういう彼女が事故を起こして入院したんですね。僕は担任として当然見舞いに行きました。僕は寡黙で口べたときていますから、余り彼女が喜ぶような話はできなかったと思いますが、実質的にはその時初めて彼女と向き合って話ができた気がしています。彼女も僕の態度か何かで思うところがあったのか、その時から僕に対して「拒否をする」態度はなくなりました。
 退院してからの三学期、彼女はホームルーム委員に立候補してみんなの承認を得ました。その時、僕が認めるかどうか、まだ若干の不安があったようですが、僕は無論OKを出しました。それからの彼女は持ち前の明るさを素直に出し、学校も休まず、彼女なりによくやったと思います。でもそれまでの勉強の遅れを取り戻すことは出来ず、3月の成績会議では原級留置になりました。
 僕は会議の後、その結果を伝えるために彼女の自宅に行きました。ご両親と彼女が待っていてくれて、会議の内容と結果をゆっくり聞いてくれました。確かお父さんが「こういう子ですから、茶髪のこともあったでしょう」と言われて、確かにその話もあった、と返事をしたのを覚えています。彼女のこれからの事に話が進み、彼女は「残ってもう一度やりたい」と言ったのですが、僕は反対しました。多分、続かないし、自分をダメにするからです。ご両親も僕と同意見でした。
 彼女と最後にあったのは学校の職員室、彼女が定時制を受けるので書類を取りに来たときです。茶髪で派手な服を着ていたので、「そういう服がダメなんだ。定時制でもきちんとやらなければダメだよ」という意味のことを僕は言いました。今、僕は定時制の教員で、これも巡り合わせでしょうね。
 彼女はみんなから愛称で呼ばれていて、僕もその愛称だけをまだ覚えています。彼女が去った後、この学年は二年生の時に大分荒れて(新聞でも教育問題を取り上げていた時で、他のクラスの生徒が「教員の横暴」について新聞記者を呼んで話をしたところ、その生徒の髪型とか服装が余りにも異様だったので、記者が「学校で相談できる先生がいないの?」と生徒を逆に諭したこともあります)、僕も「担任不信任署名」を集めると言われ、「どうぞ、やれば」と返したことがあります。署名は集まらなかったのですが、今思っても色んな事があり、17才というのは当時も今も揺れやすい時期なのだとつくづく思います。


      去っていった生徒

    某高二年の担任の時です。クラスの生徒と講師の先生とがうまくいかなかったことがあります。もともと生徒の学習意欲が低いということもありましたが、生徒に聞いてみて、その先生は自分が教えている他の学校と比べて、だからここの生徒は・・・、と差別的な物言いをするのにみんなが反感をもった、というのが大きな理由だと分かりました。どちらが先、とも言えず、また先生も生徒の勉強の出来なさ・やらなさに、我慢しきれずにそういう言い方をしたのでしょうが、教える側は生徒の実態に合わせながらでないとやっていけない例の一つです。教員の指導は管理職の職責ですから、僕は校長にその先生の発言の事実を伝えて、校長からその先生を指導してもらいました。その後、少し治まったようでしたが、ある日、一人の生徒が僕の所に来て「学校をやめたい」と申し出ました。僕はびっくりして理由を問いただしたのですが、その生徒の言うには、このまま学校にいたら先生を殴ってしまうから、そのなる前に辞めたい、からだそうです。「先生」というのは僕ではない、とは言っていましたが、誰だ、とは言いません。この生徒は以前事件を起こして停学処分になり、その時、毎日学校に呼んで勉強させたところ、ちょうど一週間になったとき、「先生、もうこれ以上、頭に入らないよ」と本音で言った生徒です。格闘技を学んでいた生徒で、自分でもそういう技術を使ってはいけないと承知していたと思います。彼のこういう言葉を「正義感」と呼んでいいかどうかは分かりませんが、自己規制もしくはそれに類するものであることは確かで、「殴る前に辞める」という発想は彼独特のものでしょう。「潔い」のは潔いのですが、成績的にも多分大丈夫な生徒が教員の言動を理由に辞めるのは不合理ですから、僕はとにかく彼に「考え直すように」言いました。ただ、彼はもう彼なりに考えてきたことのようで、決意は変わらなかったようです。その時は、時間をおいてからもう一度相談する、ことにしたのですが、彼は次の日から学校には来なくなりました。彼が学校に来ないまま一月くらい経ち、保護者も了解していたので、彼はそのまま学校を退学しました。
 その後、1年か2年して家裁から彼のことについて問い合わせがあり、担任として僕が、彼の学校生活について、事件のこと、その処分期間中の彼の態度、学校を辞めた経緯、彼の人柄で僕が評価する面などを話しました。彼が起こした事件の詳細は分かりませんが、彼は今でも僕の心に残っている生徒の一人です。学校を辞めなければ、というのは仮定でしかありませんし、彼は彼として思うところがあって辞めたのですが、教員としては無念さの残る思い出です。



        ろう学校(聴覚障害教育)   

   僕は教員としては変わり種なんでしょうが、普通高校だけでなく、ろう学校も二校経験しています。最初のろう学校は「行きたい」と思って行ったわけではなく、本当は「盲学校」に行って「音声だけ」で英語の授業をやってみたかったのです。でも盲学校の英語の教員の定数が少なく、空きがなかったので、第二希望のろう学校に入ることになったのです。今から思うと、こういう「入り方」は良くないので、こういうふうに「素人教員」ばかりが出たり入ったりしていると、いつまで経ってもろう教育の水準は上がらない、と思っています。僕はろう学校の後、普通高校に戻っているのですが、その普通高校で担任の生徒を卒業させたとき、ろう学校の「統廃合」の動きが始まり、僕もろう学校に愛着がありましたので、何とかそれを阻止すべく、ろう学校を希望したら、すんなり入れた、というのが二度目のろう学校です。
  僕は高校のクラブ活動で卓球部の顧問をしており、最初のろう学校の生徒とは練習試合で二度ほど会っています。それが縁だとも言えますが、ろう学校への赴任が決まったとき、僕は「手話」の本を何冊か買い、春休みにそれを勉強してからろう学校に行きました。着任の挨拶も手話混じりで出来たのですが、その後、手話は余り進歩しませんでした。面接の時に校長が「ゆっくり、口を大きく開いて話せば分かります」と言っていましたが、それは嘘、というより、教育庁(口話法が中心で手話を排除していた)への忠誠心からでた言葉で、「おはよう」とか「ちょっと待って」くらいは口など見なくても勘で分かりますが、文単位の内容を伝えるときは手話の方がお互いに楽だし、よく伝わると思います。僕はろう学校に赴任するまでは、ろうの生徒はみんな手話を使って話をする、と思っていたのですが、手話か口話かという論争に見られるように、事はそれほど簡単ではなく、声を使わず手話だけやっていく生徒と、手話はほとんど使えず、もっぱら補聴器を通して言われたことを理解する生徒、手話も補聴器もだめで、筆談(文字)に頼る生徒まで、千差万別です。校内には三人の聴覚障害教員がいましたので、手話を全く知らない、という教員はいませんが、健聴の教員のなかでは、もっぱら手話を使う人、口話法を順守する人など、様々でした。僕はどうかと言うと、理念的には手話、しかし覚えが悪くて実際にはなかなか使いこなせないという感じでした。真面目な方は区などで催される「手話講習会」に参加して上達していきましたが、僕はそれよりクラブ活動に力を入れていましたし、校内で放課後たまに行われる講習会にもあまり出ませんでしたので、春休みに覚えた手話+生徒から教わった手話、の閾をいつまでも越えられませんでした。でも僕の話が生徒に伝わらないということはなかったですし、手話通訳を目指すというわけでもなかったので、ついそのまま、になってしまったということでしょう。また、僕は生来、「講習」などに出るのが嫌いで、そのことも大いに関係していると思います。
 ろうの生徒のことに話を進めますが、コミュニケーション手段は手話だったり、音声だったり、文字だったり(生徒間のコミュニケーションは、ほとんどが手話+口形です)しますが、彼らは総体的に明るいですね。「聞こえない」ということをハンディだと考えているのは健聴の親で、彼らにとっては「聞こえないこと」はごく当然のことで、だからどう、ということは余りありません。これは考えてみればすぐに分かることで、僕が「男だから悩む」ことはないのと同じです。僕がどう足掻いても僕は「男」として生きるしかないので、「どう生きるか」かは悩みの対象になりますが、「男であること」自体は悩みの対象にはなり得ません。彼らは「難聴」または「ろう」として生きているので、その生き様がそのまま「彼ら」なのです。小さな頃から「ろう学校」という小さな社会で暮らしていますから、健聴者と比べると入ってくる情報量も少なく、所謂「世間の常識」を身につける機会も少ないのですが、その分、素直な心を持ったままで育ってきた生徒も多いのです。物事には必ず両面があり、世間を渡って行くには「すれた」面も必要で、素直であればそれでよい、という訳でもないのですが、情報の偏りは機会のあるごとに修正していけばいい、ということです。教員には健聴者が圧倒的に多く、どうしても「健聴者」の立場で物事を考えがちで、また教員自身、「手話」に習熟している訳でもないので、生徒とのコミュニケーションが完全ではない場合もあるのが「ろう教育」の難点だと思いますが、最近は手話が学校の中でも「公認」されてきており、徐々にろう学校も変わりつつある、と言うところです。ろう生徒も普通の人間ですから、「良い生徒」もいれば「怠け人間」もおり、「非行」に走る生徒もいるのは他の学校と変わりはありません。「怠け」や「非行」に対する指導は、「聴覚障害がある」という点からくる「保護」や、先ほど言った「情報の少なさ」からくる思い違いというものも考慮に入れる必要がありますから、厳しさには欠けがちですが、厳しければ良い、というものでもありませんから、これはケースバイケースでしょう。
 学習については、「(健聴の学校に)準じる」とされていて、生徒数が少ない割には、生徒ごとの差異は大きいものがあります。普通校の生徒に「準じる」者から、小学校低学年にとどまっている者まで様々で、クラス(定員8人(高等部))を更に小さく分けて「生徒の到達度に応じた学習」形態をとる学校もあります。良い悪いは別にして、普通高校は生徒の学力によって区分けされている面がありますが、ろう学校はそれらの学校を一つにしたようなもので、原則的には「希望者全入」になっていることもあり、入ってくる生徒に応じた授業内容を取らざるを得ないというのが実情です。高等部三年、または専攻科二年を卒業(修了)した生徒の就職先は一流企業も多く、普通校を卒業するより有利な就職が出来る可能性が高いのですが、出来る限り「高学歴」を望む保護者も多く、小学部の頃からすでに「学力の向上」が現在のろう学校の課題になっています。
 現在のろう教育運動の一つの方向に「ろう学校に手話を」というものがあります。これは幼稚部あるいはそれ以前からコミュニケーション手段として「手話」を取り入れ、教師・親と児童・生徒の十全な意思疎通を確保した上で、授業についても手話を活用して展開するというものです。デンマークのろう学校がこういう形で成果をあげているという報告や、旧文部省が「手話の活用」を部分的に認めだしてきたこともあって、最近は教育庁としても一つの考え方として否定できないものになってきています。アメリカのギャローデット大学(世界で唯一のろう者のための大学)などは、教職員すべてが手話に堪能であることが要求され、生徒教職員対象の手話講座も校内で実施されていますが、日本のろう学校は長く「口話法」に基づいた教育観に立っていたためもあり、教育方法そのものに手話を取り入れるまでには至っていません。ここで個人的な見解を述べれば、当然「手話」は取り入れられるべきだが、手話を入れればそれでよい、ということではない、と思っています。手話は「教育方法」の一つではなく、ろう者をろう者として遇する人権保障という観点から考えるべきであって、「教育方法」そのものには色々あって良い、と思います。高等部の先生たちはほとんどが、上手下手はあっても、手話は使用していますし、教師の手話が下手だから生徒の学力が伸びない、という風には考えていません。生徒によっては手話を否定する者もいますし、実態は様々なのです。教師としてはすべての聴覚障害のある生徒に対応できなければいけないので、手話の習得は必要条件ではあっても十分条件ではないのです。「手話推進派」は「教育研究会」ないし「ろう教育を考える会」で、「手話を使用した授業」のデモを多く発表していますが、そういう会場内での発言のほとんどが「手話を使え」の合唱になりがちで、ろう学校にいても手話の下手な教員には憂鬱な会になっており、実際にろう学校の教員の参加は数えるほどです。ろう者が主催するフリースクールの授業発表などを見ると、手話の使用という点では、これは当然のことながら、健聴の教師など到底及ばないレベルの手話を駆使しており、「手話を使えばよい」ということならろう学校は到底フリースクールには及ばないことははっきりしています。聴覚障害のある子供たちにとっては手話を使った方が生き生きした授業になることは事実でしょうが、小学部低学年はともかく、高等部くらいの学習になると「迫力のある手話」だけではカバーしきれないので、そこで専門の教師の「教授法」「教え方」が必要になるのです。聴覚障害教員がろう学校教師の半数くらいになれば、コミュニケーション方法の議論を脱して、「何を教えるか」の議論に進めるのですが、それはまだまだ「夢の世界」です。ろう学校を卒業してろう学校の教師になる人が増えること、僕は当面はこれが一番大事だと思っています。
  ろう学校一校目の時はPTAと教員は協力して運動に参加できましたが、最近のPTAは行政べったり、管理職べったりで「平教員」には縁遠い存在になってきています。こんな事を言うと何ですが、PTA役員が「運動」を嫌い、行政と癒着して「権力のおこぼれ」を有り難がる風潮には苦々しいものがあります。これが僕がろう学校を去る理由の一つですが、PTAが賛成しているろう学校の統廃合(再編整備)にしても、文言は色々ですが、内実は「経済効率(安上がり)」と「能力主義」の貫徹に過ぎません。こんなことは「常識」だと思うのですが、教員の「常識」と世間の「常識」はやはり違うようで、学校が狭くなっても、子供が選別されても歓迎する親というのが僕には理解できません。自分の子供は「選別」されない、と信じているようですが、学校がなくなると、たとえ「選別」されても、そこに行くしかなくなるのです。世間が世知辛くなってきており、「教育(学校)」もその例外ではなくなってきているのでしょうが、定時制・障害児学校は行政からは「金食い虫」として見られていることの延長線上に「再編整備」があるのです。今の都政にしても、削るべき所は他にあると僕は思っています。



   文化祭のこと

  どの学校にも学校行事として「文化祭」や「体育祭」があります。学校五日制になったこともあり、「行事」より「授業」という学校も増えてきていますが、「文化祭」を無くした学校のことはまだ聞いたことはありませんから、どこも細々と続けているんだと思います。伝統校では行事のやり方を先輩から引き継いでいて生徒たちが異様に盛り上がるところもあるそうですが、普通は「生徒が楽しめればそれでいい」くらいの考えでやっているところが多いでしょう。生徒にとっては授業がないことだけでも嬉しさ一杯、その上みんなで楽しめるとなると万々歳で、中には授業の時は死んでいても、行事になると息を吹き返す生徒もいて、文化祭もなかなか捨てたものではないのです。
  出し物を集約し、会計を取りしきるだけでも学校全体でやるとなると結構大変で、担当する教員の苦労も多いのですが、最近は行事に力を入れる教員も減って、横転(異動してきた教員)に押しつける学校も結構多いようです。異動してきた年は校内分掌などで自分の希望を出しておいても、現役(すでにその学校に在職している教員)の希望が優先されるので、面倒な仕事はどうしても「横転」に回されがちで、そういう中では担当になった教員がヴィジョンをもって生徒を指導することはあまり期待できません。この辺は教員の意識とエゴの問題です。
  かくいう僕はどうか、というと、某高で5年、次の某高で5年、合計10年続けて担当しました。押しつけられたのではなく、「僕がやります」と言えば他の方が喜んで任せてくれたということですが、僕も30代で、まだ若かったときの10年間を、文化祭をどう運営するか、という問題に深く関わってきたことになります。当時すでに文化クラブの衰退が顕著で「文化祭」というのは名ばかりになってきていました。文化祭を担う主体がクラブからクラスに移行していたのが実態で、そういう中で何が出来るかを考えたことになります。「文化発表会」から「クラス作り」へと目的をずらさなければやっていけなくなっていたと言ってもいいでしょう。教員の側の実行委員長は年配の方に任せて、僕はもっぱら生徒の実行委員会作りに集中しました。僕のやり方は「時間はいくらかかってもいいから自分でやれ」ということにつきますが、企画・会計・広報など、ほとんどすべてを生徒に任せて僕はチェックするだけ、ということを目標にかなりの時間をかけて実行委員会を作ってきました。教員がやるとそれは仕事ですからてきぱきやってしまいますが、生徒に任せると、まだそういうノウハウを身につけていない生徒は何をどうするか考えるだけで四苦八苦してしまいます。最初の間は僕も「これはこうかな」とか言いながら進め方の手順を教えたりしますが、生徒に任せていくと、そのうち生徒たちは「仕事をするのが楽しい」という風に変わってきます。一年の時に実行委員会をやった生徒が二年の時、三年の時も担当してくれて、そういう生徒が実行委員長になった時は僕の仕事はもう終わったようなものです。僕の残された仕事は、彼らが作業する時間と場所を学校の中に確保してあげること、彼らが作業している間は僕も学校に残っていること、職員会議で進展状況を報告することくらいで、「次に何をするか」を僕が言う前(聞く前)にすでにその作業は始まっています。夜10時を回ることもざらで、8時まではほとんど毎日学校に残っていたと思います。今は保護者も子供の帰りを気にする方もおられますが、当時はそれほど苦情はなかったですね。教員の中には「遅すぎる」という懸念を持っている方もいましたが、生徒が熱心に取り組んでいる姿を見るとそういう方も「頑張ってるね」という声をかけてくれました。学校全体としての文化祭がそういう中で大きく変わったということはありませんでしたが、実行委員会を経過した生徒が次年度は生徒会に立候補したり、それなりの役割は果たしたと思っています。
   A君という生徒がいました。三年生の時に実行委員会に入ってきた(この学校は公募ではなく、各クラスから一名が「選ばれて」出てきます)のですが、所謂「押し」の弱い生徒で、気持ちは優しいのですが、みんなをまとめていくことはなかなか出来ません。でも彼の精一杯の力は発揮したと思っています。全校集会の時も僕は前に出ず、必ず実行委員長を前に出してやらせたのですが、そういう苦手なことも努力してなんとかやり遂げました。文化祭が無事終わり、閉会式の時、彼は挨拶をしながらこみ上げてくるものを押さえきれない様子で、涙ぐんで絶句しました。聞いていた生徒たちは、彼が何故涙ぐむのか全く理解できなかったようで、ざわめきが起こったのを覚えていますが、彼のその時の気持ちを理解できたのは、自慢じゃないですが、僕と彼の担任だけでしょう。彼は閉会式の後、僕の部屋に来て「先生、終わった」と言って涙をぽろぽろ流しました。苦しかったのでしょうね。三年でもあり、やらざるを得ない仕事だったのですが、終わって涙を流すほど誠実に彼は仕事をしたのです。こういう不器用な誠実さをもつ生徒は昨今は少なくなりました。この学校での他の実行委員長のことはもう忘れてしまいましたが、彼のことは今でも僕には新鮮です。
   某高で初めて文化祭を担当した時のことです。僕が生徒にやらせる、という方向を口にしたとき、「そんなこと出来るものか」という先生がいました。ここの生徒は仕事をいやがり、逃げる奴ばかりで結局は教員がやるしかない、という経験からの発言ですが、まあ、やらせてみましょう、ということで了承を得たと思います。でもやらせてみると、全然問題なかったですね。文化祭近くなり、10時を過ぎても生徒がまだ残っているのを見てその先生は驚いたようですが、実行委員会が遅くまで残っていると他もつられるようで、他にも残っている団体があったと記憶しています。合理的に考えると、時間を守って仕事をするのが正しいのですが、生徒はお金をもらって仕事をしているわけではなく、ボランティアみたいな形でやっている訳で、あの年代と言うのは「学校に残って仕事をしていても文句を言われない」だけでも嬉しくなるようです。居残り時間などを厳密に守らせようとすると、教師の下働きになるばかりで生徒にとっての面白さがなくなるのでしょうね。このへんが「教育」の難しい所です。男子ばかりだったのでこういう時間でも保護者からは苦情がなかったのですが、今ではどうですかね。
女子が実行委員にいる時、「君は女の子だからもう帰りなさい」と言ったとき、「差別」だと抗議されたこともありました。このへんも難しいですね。妥協点はどこですか。保護者に連絡をして了承を取るくらいですか?最初の担任の時、8ミリ(今はビデオでしょうが、昔は8ミリ映写機で撮影をしたのです)を編集していてかなり遅くなり、残っていた生徒(女子ばかり)をタクシーに乗せて送っていった記憶もありますが、どこまで生徒にやらせるのが正しいのか迷うところです。教育庁の役人なら「時間を守る」ことを優先するでしょうが、現場はそういう建前論だけではいまいち生徒が「燃えない」のです。
 また、これは別の学校でのことですが、クラス出し物としてビデオで劇を撮影したことがあります。みんなの乗りが悪くて撮影が遅れ、編集も文化祭前日10時を過ぎても終わらないことがありました。まだかなり時間がかかりそうなので、このときはさすがに僕も生徒を全員帰し、一人で朝方までかかって編集したこともあります。これでは生徒の文化祭か教員の文化祭か分からなくなりますが、クラス出し物は担任と生徒の共同作品みたいな物ですから、こういうことは僕だけでなく、ザラにあります。この時は生徒が自分で動くのを期待して僕はじっと待っていた時で、担任として乗り出すのが少し遅れたことも原因でしょうね。でも、「待つ」ことをしないと、生徒はすぐ担任に頼ってしまいますし、このへんの判断も難しいですね。形を作るだけなら最初から担任主導でやった方がきれいに出来ますが、クラス出し物の主目的は「生徒の力で作り上げる」ことにありますから、「待つ」ことはとても大事なのです。これは文化祭などの行事だけでなく、「教育」すべてにわたって言えることだと思います。