おまりすノート

項目
今回の選挙からの考察
近年の日本の文化について(2)
近年の日本の文化について(1)
文化について
国際社会における日本の在り方
日本の無機的なシステム
主体性の排除と統治システム
アメリカ依存のメカニズム
歴史からの考察
日本らしさ(その3)
日本らしさ(その2)
日本らしさ
最近のこと
「自己保存」の活性化
日本の教育システムの崩壊
画一的な日本の教育と「脳」
「男らしさ、女らしさ」(まとめ)
「理性崇拝」の危惧
「男らしさ、女らしさ」(追加)
「男らしさ、女らしさ」
少子化問題(その2)
資本主義と民主主義の両立
新興宗教ブーム
自己責任?
個人主義の発達(詳しく)
個人主義の発達/少子化問題
日本の社会主義型経済体制の崩壊





12/6 '99

私は、恐怖心をあおっているのでも、いたずらに扇動しようとしているわけでもありません。問題提起をしているのです。これらの事は、国が単独で問題解決できるような簡単なものではなく、国民全員がそれを考えなければならない巨大な問題である思っています。バブル崩壊は、単純な景気循環によるものではなく、それらの矛盾を 露呈させた結果なのです。

いいでしょう。旧来の経済システムを今後も踏襲するのであれば、これは単純な景気循環にすぎない。なぜなら、旧来の官僚主導による経済システムは「今後も有効である」と私は思っています。そして、同じ内部矛盾によって巨大なバブルを発生させ、崩壊をくりかえす。そのたびに依存的な人々は他国に傍若無人にふるまうといった歴史を繰り返すのです。しかし、そのような行動はいずれ他国から強い圧力となって、大きなしっぺ返しをくらうでしょう。アジアの経済混乱を引き起こした、最も根源的な要因は、日本企業の経済進出(侵略)です。

そもそも、官僚主導による経済システムは集団主義的システムであって、ますます個人主義化する人々を蝕み、景気循環を繰り返しながら、国が弱体化していくであろうことは明らかです。過去、景気循環を繰り返しながらもこのようなシステムが有効であったのは、多くの人々がまだ集団主義的であったからです。旧来の経済システムを今後も踏襲するのであれば、鎖国をするべきですね。他国にも迷惑はかからないし、個人主義化もおさまるでしょう。旧来の経済システムは、「閉ざされた(保護主義を徹底した)集団主義社会においては」最も有効で優れたシステムであったというのは、私は否定しません。

開国後、日本は変質化してきている。それは、開国から今日までの、一部の人々の西洋化、個人主義化をへて、日本全体(大衆)の西洋化、個人主義化に至っている。そして、そのことと旧来の日本的な思考性(価値観)との軋轢(旧来の社会システムによる)は、多くの人々の脳においてコンフリクト(混乱、思考の停滞、前頭葉の未発達=心身の弱体化)を生じさせているのです。これが、日本の現状なのです。

開国当時、日本には列強と対等であるという強い意思をもった偉人達がいました。自立した(日本でいう" さむらい魂 ")人々によって日本は、植民地化を免れたのだというのは断言できます。しかし、国総体としては、やはり依存的であって、富国強兵にみられる「列強とすべてにおいて同等であろう」という意識はアジア諸国のなかでも、突出していた。依存的であるからこそ、最も西洋化が進んだ国、富める国となったともいえます。

では他のアジア諸国は、日本より依存的ではないのかといえば、それはそれらの民族性を調べてみないと解りません(文化人類学でいうところのフィールドワークが必要であるということです)。
厳密にいうのであれば、「日本は依存的であり、かつ" 最も場の変化に敏感で順応性があった "。つまり、最も、『依存的な女性の思考回路』であった。」といった方がよいでしょう。これは、「甘え」が日本人独特のものである(『甘えの構造』(土居健朗著))といったことからも検証できます。

もし、仮に、国総体として自立した強い精神であったのであれば、日本はここまで西洋化しなかったし、経済大国でもなかっただろうといえます。なぜなら、そこには技術の差や国の富の差ではなく、精神的に列強と対等であろうという意識が存在したに違いないからです。そして、もしそうであったなら、極端にいえば現在でも、サムライや和服の女性が街(といっても現代のような街ではない)を濶歩していたであろうと想像できます。

どちらがよいのかは私には解りません。前者であったというのは日本の歴史の流れにおいて宿命であったということです。鎖国や封建制度が生じたのも宿命です。現在にいたる日本の歴史は必然(起こるべくして起こった)であったと思っています。

しかし、これまで述べてきたような問題が起きている以上、もう一度日本というものを振り返り、そうであっても、極度に西洋化が進んでいる現在の状況を考えれば、それにそったシステムの変革が必要であるということです。今後は、よいところを活かし、悪いところをすてていく努力が必要であろうということです。極度の西洋化により、日本は失う必要のないものまで失いつつあるのです。

例えば、日本は核家族化する必要があったのかといえば、ノーです。日本は従来、家長制による大家族志向であり、それは日本的な思考性と密着していたのです。封建的な家長制はともかく、日本は本来、大家族制であることが望ましいと思っています。

大都市化も、中核都市への人口集中も必要なかったと思っています。ある程度は、先進化、国際化という観点からそれは止むを得ないでしょうが、国全体が、それに大きく傾く必要などなかった。近代化した都市への一極集中は、そこに住む人々の心を蝕みます。なぜなら、日本人には、自然を愛する(一体化してしまう)というたぐいまれな、ある意味でとても優れた国民性があるのです。このようなことが、どうして日本人の心に自己矛盾を生じさせていないといえるでしょう。

環境や汚染に関して、先進国において突出した意識があるのも、自然を愛する日本の国民性ゆえのものです。最近の傾向は、「強迫観念」に近いものがあり、異常と感じています。無頓着でいろ、とはいっていません。大量生産、大量消費による現代社会は様々な化学物質を吐き出してきました。それは、決して看過されるべきものではない。

私は、むしろ日本人のほうが化学物質に耐性がなくなってきているのだと思っています。ちょっとしたことで、拒絶反応がでやすくなった。日本人の脳における前述のような、西洋化という環境の変化と旧来の思考性とのコンフリクトが、体そのものを弱体化し、前頭葉の発育を阻害してきたということです。若い世代は特に顕著で、優しいけれども生気が乏しいことからもうかがえます。それは、旧来のシステムであったことが、" たくましく生きる " という心身共に健全な体を育成しえなかったのだと思っています。社会システムと日本の西洋化はミスマッチを起こしつづけてきたのだといえます。それは、近年その溝がますます大きくなってきた。

花粉症などは、日本人に生への活力がなくなり耐性がなくなってきているという弱体化と化学物質の両方に要因があると考えています。まさに「老人力」が流行るという、笑うに笑えないのが日本の現状なのです。





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12/3 '99

前記のような仮説に基づけば、日本(や米英)のような特異な文明化、冷戦や多様な民族の対立というのが理解できるのではないかということです。日の丸は中心にまとまっており、ユニオンジャックは中心から外にむかって拡散しているとみると、互いの民族の思考性が " 全く逆 " であることを示し、同時に互いの民族性を象徴しています。

日本はモンゴロイドであり、母性社会であり集団主義的民族でした。孤立した環境によって、そのモンゴロイド的思考性は相対的に特化されたのです。個人主義と民主主義は密接に関連しているのと同様に、集団主義と中央集権主義(全体主義)というのは密接に関連しています。それは、これまでの日本が、様々な権力による強力な中央集権体制国家であり、国民は依存的であったということです。日本の特別な民族性が、国の依存的体質を助長させたのです。

しかし、世界がグローバル化する流れのなかで、日本が突出した集団主義、依存的な体質であることは修正されなければならなくなったのです。同様に、西欧諸国のなかでも英国や米国という突出した個人主義社会は、その特性ゆえの多くの社会矛盾をかかえていることから、突出した個人主義は修正されなければならなくなったのです。日本が集団主義から個人主義に変遷するのと同様に、例えば、米国の多文化化の動きは、突出した個人主義による社会矛盾を是正しようという動きだろうということです。

このような各国の民族的体質の変質化による民族同士の同質化というのは、その国のアイデンティティーを失わせる方向に向かうのかといえば、そういえる。しかし、男女の同質化が人間の存続と繁栄にとってマイナスであることから、各国のアイデンティティーは保持されなければならないといった矛盾が生じてきています。
すくなくとも、民族の独自性によってうまれた言語環境(母国語)は、逆に、そのような同質化に歯止めをかける役割をするということです。今後は日本語が「日本らしさ」を補完する側にまわるでしょう。

民族の同質化とアイデンティティーの確立は矛盾しています。同質化がいきすぎても人類の存続と発展はとだえるし、アイデンティティーが突出することは、まさに文明の衝突が起こるということです。
この二つの要素は各国のさらなる国際的自立と不断の努力によって、バランスが保持されなければならない。

古来からの全体主義的価値観を生んだ日本民族の独特の思考性は、全否定されてはならないのであって、その特性をどう社会の発展、世界の発展と存続に利用するかが重要なのです。そのためには、個人主義による個人の自立と国の自立が必要なのです。

私は、個人の自立と国の自立によって、これまでの「日本らしさ」が国際的にマイナスであったものが、より良い方向に向かうと信じています。また、そのような「日本らしさ」は、「不断の努力によって保持されなければならない」とも思っています。

官僚主導の社会システムによってもたらされた日本が技術大国、経済大国であるという事実は、日本が知性において、なんら西欧諸国とは劣るものではないことを証明しました。そこにあるのは思考回路の差でしかないということです。体制の変革は、これからは、一人々が自分の意志と意欲で、技術大国、経済大国を目指していかなければならないということです。

今後は一人々が各々の目標をかかげて(それは、経済活動であっても、文化活動であっても何でもいいわけです。職業、趣味、何でもいいのです。)、その目標に意欲的に努力することで、個の確立と自立を自らの手で行わなければならないのです。しかし、意欲的な努力によっても、目標が必ずしも達成されるとは限らないのは、脳の特性が人それぞれだからです。
例えば、読書家は必ずしも作家にはなれない。読書は頭頂葉の働きを促進しますが、創作活動というのは本能を含めた脳全体で行われる。特に、前頭葉の活動は必須なのです。

大切なのは、目標を達成すること(結果)ではなく、" 自分の意志で " それに取り組むという姿勢です。人間にとって最も重要なのは、「目標の達成ではなく、その努力によって得られる自立である」というのを自覚しなければならないでしょう。各自が、さまざまな目標をかかげ、努力によって個の自立を目指すことで、その結果として日本の思考性による着想や発想、あるいは独創的なものが生まれ、社会の発展、国際的貢献につながるのだと確信しています。

旧来の日本的全体主義(集団主義)的価値観に根差している多く熟年、壮年世代の方々にとって、現在のような体制の変革というのが酷であることは理解しています。世間はリストラばやりです。リストラされる方も、規制を撤廃される規制業種の方も大変です。しかし、今の大変な自分のことが大切なのか、次世代のことが大切なのか考えていただきたい。

日本の若い世代の多くは、世界の大きな流れのなかで個人主義化しています。それは日本だけではなく、アジア諸国の個人主義化、逆に、西欧諸国では集団主義の模索が起こっているのです。そして、歴史をふりかえれば時代を創っていくのは、常に若い世代であり、若い世代の個人主義を活かすためには体制の変革、教育の変革、といった社会の変革はどうしても必要なのです。(むしろ、遅すぎたぐらいなのです。一億総中流意識が国民に芽生えた時点でシステムの検討がなされるべきだった。)

体制の変革によって、若いエネルギーがより良い方向に発揮され(教育次第ですが)、今後の日本を創り、発展させ存続させていくのだということを理解していただきたいと思っています。いつの時代にあっても「新しい世代の若いエネルギーと新しい発想こそが、社会の活性化、発展のために必要なのだ」ということを理解していただきたい。でなければ、このままでは日本はあらゆるものが停滞し、硬直化するばかりではなく消滅してしまうのです。理由はこれまで述べてきた通りです。





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11/28 '99

脳の側性化という観点から、人間の構造は女性がベーシックであるように、モンゴロイド(黄色人種)が人類のベースで、その後、コーカソイド(白人)とネグロイド(黒人)に進化したといえるのではないかと考えています。
コーカソイドとネグロイドは形質学的に近似しており、ただ脳の側性化という点で、黒人社会というのは母性社会的であることから、モンゴロイドとネグロイドは脳構造(思考パターン)が似ているようです。つまり、モンゴロイドをベースに、脳が進化したのがコーカソイドで、身体的に進化したのがネグロイドではないかということです。

しかし、ここで大切なのは繰り返しになりますが、知的レベル身体的レベルでの差ではなく、思考回路(考え方)の差が重要だということです。おおまかにいえば、人類はそのベースに女性的な思考回路(側性化が進んでいない)をもつ人種と、男性的な思考回路(側性化が進んでいる)をもつ人種を混在させているということです。これがもしそうであるなら、それは必然であると感じると同時に自然の驚異を感じざるを得ません。

ここから考えられる民族性(文化)の差というのは、「その人種の思考性(本能)と環境(理性)の相互作用によって発生した」また、民族の思考性は「その二つの総和」ということです。環境には、地理的環境のほかに、異民族との交流による人種同士の交配、民族同士の交配、文化の交流、教育環境、生活水準が含まれています。
現在の文明が多文明化しているのは、そのような民族が長い年月によって、合流したり、孤立したりして生まれたのだろうということです。特に孤立した交流の乏しい社会(民族)というのは、「相対的に」独特の文化を持つということです。また、その民族の文化は言語環境が先にありきではなく、これらの要因で起こるべくして起こったと考えています。つまり、民族の思考性により言語環境ができたということです。
(これらのことは、あくまで私の仮説です。)



日本人は、おおまかにいえば南方系民族と大陸系民族(と北方系)の混血で、モンゴロイドです。そして日本独特の文化から考察できるように、最も女性的な思考回路をもつ民族だといえます。
他方、コーカソイドである欧米人でもアメリカ人とイギリス人は、例えば、英国の植民地政策にみられる先鋭的な行動やアメリカへの移住といった過去の歴史、現在の世界情勢における行動、現在の各々の国内の社会矛盾(問題点)などを考えると最も男性的な思考回路をもつ民族だろうといえます。先進国でも、日本と英米とでは最も思考差が激しい。ここで、おもしろいのは、日本と英米がユーラシア大陸を中心にして、両極にいるということです。偶然かもしれませんが、不思議です。

日本は戦後、アメリカの援助、先進国からの技術の導入等によって発展しました。特に、「さるまね」と揶揄されながらも日本人の優れたバランス感覚のよさや細やかな視点、勤勉さによって欧米の技術を改良し、日本を技術大国にし、GNPで米国をうわまわりました。

これらのことから言えることは、日本人は、無から有をつくる独創性より、有を別の新しい有にかえる、有と有から別の有を造るという発想性が優れているということです。テレビそのものを創りだすのではなく、テレビを日本人独特の思考性(最も女性的な思考性)によって改良し、よりよいものにしてきた。独特の思考性であるというのは、逆に他国がまねのできないということであり、それによって日本は技術大国であったということです。

今後も日本は「日本らしさ」を踏襲していくのであれば、「さるまね」と言われるのは割り切っていくしかないでしょう。欧米人のような独創性のある思考回路ではないということです。全く独創性がないとはいいませんが、それより独特の思考性を伸ばすことで、既存のもの(物でも制度でもシステムでも理論でも)をより良くしていくというほうが、日本人の特性が国際的に活かされる。それは他国、特に思考回路の違う欧米人には" 決して" まねのできないことなのです。知的レベルでの差がないのは、これまで日本の思考性が活かされたことで経済大国であったということです。

先進国のなかで、最も女性的な思考性であるということは、それが長所として活かされた場合、国際的に優れた力になる。日本の先達たちが、若いエネルギーによって戦後の日本経済を復興させたのは、まさにこれをうまく利用したからです。経済(や社会)は流転していかなければならないことから、本来なら現在の20代30代の若いエネルギーが、そのような思考性を活かして発露するべきなのですが、残念ながらプチ官僚的な人達ばかりなのが、非常にネックになっています。(ある意味で私への自戒もこめてです。)
日本は独特の「日本らしい」思考性をどう伸ばしていくかが、今後の発展の大きな鍵でしょう。

人間は文明を発展させて、人間自体も変わっていくのか?例えば、時代の鏡といってよい若者は時代とともに変わっていくのか?といえば「自然の法則に則した人間の基本的な部分」はかわらないし、変わってはいけないのです。それが環境にひきずられてはいけない。人間は、環境によって変わりうるが、変わってはいけないのです。

民主政治の概念は約BC500にすでにアテネで生まれている。キリスト教の発生と浸透は、すでに個人主義が生まれていたということです。約2500年前から、今日まで、人間の基本的な部分は、なにも変わっていない。1000年前の『枕草子』の作者の感性の豊かさや、こまやかさといった日本人の女性らしさや知的さは、現代の私たち(というか、私ですが(笑))を魅了します。つまり、かわっているのは文明の発展の差、環境と蓄積された情報の差でしかない。

たかだか、20年前、30年前あるいは100年前であっても、若者の若者らしさというのは本来変わらないはずなのです。確かに、集団主義から個人主義へという大きな変化があります。しかし、人間であることには変わりないということです。

個人主義はアメリカ文化の影響かと言った場合、それは大いに考えられます。「女性的な思考性」というのは、女性がそうであるように、日本人は場の変化に敏感で、順応性があるということです。しかし、場の変化に敏感であっても順応する必要はない。依存的だから順応してしまうのであって、これがこれまでの日本を国際的にとても解りにくい国にしていた。今後日本は国際的に自立することで、「最も女性的な思考性」の長所の部分をどんどんのばして「日本らしさ」を作り上げていくべきでしょう。それは欧米人にはまねができないのだという自負をもつべきですね。

ところで、ここに大きな疑問があります。「人類は、その種を存続する必然性があるのか否か。」ということです。「必然性がある」のであれば、上記にように言えるということです。しかし、人類は核によって、全滅することも可能です。科学技術の発達によって、その意志があれば自滅しうる。私は、この答えがわからない。「現象」として、自滅していない様子をみると、必然性があるのだろうとしかいえません。これは、愚問かもしれない。しかし、人間とは何であるかと考えたとき、この疑問に自然にたどりつくということです。蛇足です。





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11/26 '99

日本は大きく変わろうとしているのでしょうか?まあ、私は人間として当り前のことをいったにすぎないと思っています。というか、「種の存続と発展」という見地からといった方がよいかもしれません。
「日本はこれから大変なことになる」などと、ことさら不安心理をあおるような事だけは、してほしくありません。確かに大変になるのは違いないですが、民主主義の国なのですから(笑)、皆さんで考えていけばいいのではないでしょうか。
あわてる必要もないように思えるし。
でも、日本人って、根っから勤勉なんですねぇ。つくづく感心します。

ちょっと私信。ごらんの通りネコスケ遅れるかもしれません。(^o^;) >ネコスケのみなさん (て、他のところも手付かずですね。すいません。)



資本主義と民主主義の両立による日本社会は、日本というアイデンティティーを失う方向に傾き、いずれアメリカ型のような社会及び人間になるのかというと私はそうならないと思います。近づくことはあっても同一にはならないと思う。また、既存の日本の体制は社会主義的であり自由主義的であったように、「資本主義的」であり「民主主義的」な国になると思います。それは、相対的に日本人はバランス感覚にすぐれているからです。国際的比較からの日本人のバランス感覚のよさというのは特筆すべきものだと思っています。(個人的な期待もあります。)

「脳」の構造の差という観点からこれらのことを考察してみます。『脳を育てる(岩波新書)』には、日本人と欧米人との左脳と右脳の構造や働きの違いが述べられています。簡単にいえば、日本人は左脳で多くの事象を処理しているということです。また、日本の言語環境がそのような脳の活動の差を生じさせているのではないか、とこの本ではのべられています。

一方、『文化人類学入門(中公新書)』では、「言語環境がそのような脳の活動の差を生じさせている」(サビア・ウォーフの仮説)は、あくまで「仮説」となっていますが、私は、「環境の影響を受けやすい理性によって、言語環境によってつくられた脳構造(思考パターン)が後から修正されたとしても、基本の脳構造は変化しないのではないか」と思っています。つまり、思考のベースには言語環境による思考パターンが存在しており、その後の学習環境によっては思考パターンが別のものに修正されても完全に別のものになるわけではないのではないか。

日本人が日本語を習得したのちアメリカに渡って暮らした場合、アメリカ的思考になるだけで、日本人的思考も存在している。日本人が英語でそだち、アメリカで暮らした場合のみ、アメリカ人の思考そのものになるということです。(ユネスコでも規定されているように、人種による形質学的な差異が文化的差異を生じさせてはいないとするとです。)

それらを総合して結論を言えば、母国語としての日本語が日本に存在するかぎり、日本が社会制度としてアメリカニズム(資本主義と民主主義の両立)をとり入れた場合でも、「日本らしさ」はなくならないということです。希薄になるのかといった場合、それは日本人が今後「日本らしさ」をどう捉えていくのか?ということにあるという事です。

個人主義者の自立の過程というのは「自分らしさ」の模索です。それは、国でいえば「日本らしさ」の模索といえます。なくなる部分もあれば、逆に浮き出てくる部分もある。日本は国際的に自立することで、国際的な観点からの「日本らしさ」というものを再認識し、再構築するよい機会だと思います。「あいまいな日本(人)」というのはなくなるかもしれません。

また、このような脳構造の差異を別の観点からみると、私は男女の脳の活動の差に似ているように感じます。左脳と右脳の構造や働きの差は、男性的な思考、女性的な思考を生じさせますが、日本人は左脳で多くの事象を処理しているというのは女性の脳の構造に近いのではないか。

前に、日本の行動を考察すると女性の姿がうかびあがってくるといいましたが、これは欧米人と比較して、日本人は女性的な思考パターンであるからではないかと考えています。『文明の衝突(集英社)』で日本は日本独自の文明圏とみられています。
では、日本の独特の文化(文明)がなぜ生まれたのか?といえば、同一価値観的であるとと同時に、感性が豊かであり、自然を愛でるといった女性の思考に近い脳構造であるからだといえます。交流の乏しい島国という環境はそのことを非常に助長したのではないかと考えています。(前に「同一価値観的である」ことで日本文化を説明しましたが、これだけでは片手落ちということです。)

国際的観点から見た場合の日本人の特徴、「優しい」、「バランス感覚がすぐれている」、「感性が豊か」、「きめ細かい」、「忍耐強い」、「生活水準が同じ場合、長生きである」逆に「感情と理論が混乱する時がある(議論がへた)」、「まわりに気をつかいやすい」、「視野がせまい」、「同一価値観的(異種を差別する=仲間意識が強い)」、「YESかNOかはっきりしない」、「保護主義的(母性愛的)」といったことはねおおむね女性に顕著にみられる特徴です。これは東洋人の特徴のようにも感じますが、日本は特に突出している。逆にいえば、他の東洋人と比較して脳の活動が、特化されているといっていいでしょう。それは、孤立した環境にあったからではないかということです。

資本主義と民主主義の両立の必要性は、なぜそれが生まれたのかと考えた場合、「バランス感覚が悪い(どちらかに片寄りがち)」という欧米人の思考性によると考えています。欧米人は左脳と右脳の切り替えによって物事を合理的に処理していますが、それは側性化(左脳と右脳をより高度に機能させるための、分業化)が日本人より発達しているということです。

男性と女性ではどちらがバランス感覚が悪いのかといえば男性です。例えば、物事に熱中しやすいのは男性です。つまり、側性化はバランス感覚を悪くする。これは、欧米諸国がすぐれた独創性によって文明を切り開いている一方、イラクなどへの軍事行動をおこすといった、理性と本能による活動が極端な方に向かうことからもうかがえます。つまり、行動様式が両極端なのです。それは人間関係や町並にも反映されています。

東洋的なものと西洋的なものを比較した場合、そこから連想されるのはウエットであるかドライであるかといった感じで、これは女性的なものと男性的なものとの比較と類似しています。仏教思想(例えば輪廻)や漢詩、和歌にみられるように東洋的な思想は、人と自然の融合や調和に基づいています。他方、西洋的な思想は民主思想やキリスト教、医学や物理学の発達といった、自然との対立、あるいは人間そのものに基づいているようです。

しかし、ここで最も重要なのは、どちらが優れているかではなく、男女の体と思考の差異、男らしさや女らしさが人間の「種の保存」と「自己保存」にとって共に必要であるように、人類の「種の保存」と「自己保存」という観点から日本人らしさ、欧米人らしさというのは必要だろうということです。

例えば、日本は前記のような欧米のドライで極端な行動様式を是正することが出来るのではないかということです。夫がギャンブルに熱を入れることに対して妻が文句をいうようにです。ひいては、「中国人らしさ」、「ロシア人らしさ」といったナショナルアイデンティティーが、世界がグローバル化する上で必要だろうということです。

これは脳構造の性差により男女の思考パターンを相互に完全に理解することが不可能なように、それぞれのナショナルアイデンティティーを完璧に理解することは不可能だといえますが、本来男女が性差を互いに尊重しあわなければならないように、それぞれのナショナルアイデンティティーは尊重しあわなければならない。文明の衝突は起こるのかといった場合、可能性は否定できない。しかし、女性であっても自立が必要なように、国々が国際的に自立していれば、それは起こらないだろうということです。


お遊びですが、どちらが進化した脳かといった場合、側性化がすすんでいる欧米人の脳のほうが進化している。それは、男性優位社会がつくられたように世界は欧米優位社会であるということです。では、冷戦時代は、男女のいがみ合いだったのか?極論すれば、そんな気もします。日本にあっても、アメリカに依存的でしたが、敵対心も存在していた。それはエリート層による日本的な社会主義的なシステムの導入です。

それにしてもグローバルな視点から、先進的な男性的思考回路の国々と先進的な女性的思考回路の国々が世界にほぼ同時に存在し、対立することで世界的な規模で緊張を生じさせていたというのは、ある意味で驚きですが。自然のプログラムに従い、「男らしさ」と「女らしさ」の共存により人間が種を存続していくように、「男らしい」国々と「女らしい」国々は、今後も人類を存続させていくのでしょうか?
勿論、イスラム諸国、アフリカといった第三世界が存在するので、これはあくまでお遊びです。ただ、人類という観点から「人種」というのを再考察する必要があるのではないでしょうか。(人種による思考差というのが存在するように感じています。これは世界の常識に反しますが、例えば男女の思考差はないといった場合、それは理性が環境の影響をうけやすいからです。人種による思考差も同様に本能のプログラムには存在しているのではないかと思っています。)





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11/20 '99

どうも誤字や誤変換が多いですね。すいませんね。とりあえず、思っていたことで最重要と思われることを急いであげてみたもんで。遺言コーナーじゃないけど、何がおこるかわかりませんから(笑)。ま、そのときはそういう運命だったということでしょうか。私はどうも自分から困難な方へ困難な方へと道を選んでいるようです。これも一種の自殺願望なのでしょうか?親からは自滅型だといわれましたが、そうなのかなぁ、つくづく自己分析は難しいと思いますね(笑)。ナルシストではないと思うが。でも、これでナルシストならすごい尊大なやつではないでしょうか。

ところで、ここで述べている、資本主義というのは、「開放された市場における資本を元にした自由競争を是とする思想」ということですが、「資本」には知的財産も含まれているので、能力主義とか自由競争主義といったものと同義です。


個の解放された社会というのは、創造を生みやすい社会である一方、犯罪も生みやすい社会です。それは、これまでの集団や組織の違法行為というより、個人の違法行為が多くなるということです。最近、車の運転が荒れているように感じます。スピード超過や、強引な割り込みが多いようです。全面スモークの車も多いですね(これは危険です)。個が、様々な規制から開放されるのはよいことですが、社会規範を逸脱する行為は今まで以上に厳しくしなければならないと思います。でなければ、ただの野放図化した荒れた社会になるだけです。警察も平和ぼけしている場合ではないのではないでしょうか。





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11/18 '99

最近、人々が活動的になったような感じがします。少し前と較べると、戸外で見かける人の量が多くなったし、交通量も増えた感じです。事故が多くなっているようですが、それはこのようなことを見ると当然といった感じがします。トラックの増加量がそれほどでもないのに、乗用車がひどく増えている。

景気は非常に微弱な上向きということからも、トラックの交通量が極端に増えていないのは理解できますが、この乗用車の交通量の増加は何なのでしょうか?ちょっと解りません。ただ、シロウトさんの乗用車が平日でも多くなって、プロとしては疲れます。今までは、土日だけだったのですが。これは、人々の活気と関係があるのでしょうか?また、これらのことは内閣支持率の高さと関係があるのでしょうか?よく解りません。

総じて人々の意識は70年代にもどりつつあるような感じもしています。これもよく解りませんが、もし、そうであるなら、これはよいことだと思います。新と旧、知性と欲望がごった煮のように存在していた人間的で最も活気ある時代だったと思っています。確かに、あかぬけしない時代でしたが、クールですかした(感情が表現できない?)近年よりは、よほどましだと思っている。他国が理性偏重に傾きつつあるとしても、日本は日本で独自の道を模索すればよいのです。

当時と違うところは、やはり官僚を含めたエリート層の権威の崩壊でしょう。しかし、このような官僚主導の中央集権体制が、様々な失策にもかかわらず今後も続き、大衆を苦しめるのであればいずれ大きな暴動になることは必至です。

日本が、これまでの様々な社会主義的な政策の失敗という経験の結果、社会制度においてアメリカニズムともいうべき資本主義と民主主義の両立を模索する方向に傾くとしても、私はそれは選択として「社会の発展と存続」という観点からすれば間違ってはいないと思う。

それによってこれまで以上に様々な困難が噴出するでしょう。しかし、社会はその困難に常に直面していかなければならないのです。それによって、社会は常に苦労していかなければならない。その困難からのがれようとして、無難な制度をつくろうとしますが、そのような考え方を起こした時点で、すでにその社会は後退の道を歩んでいるのです。これまでの日本がそうであったようにです。

逆に、困難から逃げないという国の強い意志と意欲は、そこに住む人々の意識を高揚させ、活性化させるのです。それは人々に意欲をあたえ、個人の自立を促すのです。日本人に今、最も必要なのは、自立心です。他の価値観に依存しないという精神力です。「○○しなければならない」から○○するのではなく、「○○しよう」という自らの価値観による意欲です。日本社会はあまりに「○○しなければならない、○○しよう」が多すぎでした。それは、教育システムがそうであったように意欲の肩代りをしすぎ、個の自立をさまたげる結果となった。

「社会の発展と存続」には、先進国がそうであるように多大な困難がつきまとうのです。資本主義と民主主義の両立、「男らしさ」と「女らしさ」の両立、「知性」と「欲望」の両立はそれらの矛盾により多くの困難を社会に生み出します。であるからこそ「脳」は多くの刺激を受けて、活発に働くのです。
困難の多さを嘆くのではなく、「困難の多さは「脳」が活動的な働きをする環境にあるのだ」ということが最も重要なのです。

そのような環境は自然のプログラムにより「自己保存」の働きを活発化させます。「自己保存」の働きを促すことは、自立や創造意欲を促すのです。これまでの社会制度下の日本の「脳」は、平和ぼけにみられるように硬直化してしまっていた。それは、組織全体の創造意欲の低下、硬直化をへて組織の死につながっていたです。





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11/17 '99

現在の20〜30代は残念ながらロボトミー世代といっていいでしょう。それを考えると学生運動が盛んだった1960〜1970年代に大学生であった頃の今の壮年世代は本能的に健常であり、当時の「怒り」、「意欲」、「自己顕示欲」、「闘争欲」といったものの発現は、前頭葉が健全に育成されていたのだといえます。それは現在においても、若い世代と壮年世代ではどちらが精力的かといえば、明らかに後者です。これは大変困ったことです。

『僕って何 (三田誠広著)』は、60年代後半の最も学生運動が激化していた頃の様子がかいま見れて興味深い。学生が若々しい本能的な情熱によって活動的であった様は、我々の世代と比較してうらやましいとさえ思う。逆に、情熱的活動に冷めている著者の心理は、現在の若者の多くの心理に近いのではないかと思っています。ただ、今の若い男性が女性と一夜を共にした場合、著者のような行動に移れるかは、はなはだ疑問です。

私が個人的に興味深いところは、この本の後半の著者と「トシオ」との出合いのところです。大学生と、そうでない者の描写の部分です。大学生=エリートという構図があって、当時は大学進学率、高校進学率が低かった分だけ、「エリートと非エリートの溝というのは大きかったのではないか」ということです。

学生運動はその若いエネルギーによって民主化を促しました。しかし、その学生自身にエリート意識というものがあって、「エリートと一般大衆(マス)」という構図は、かれらの多くの心のなかに存在していた。多くが共産主義や社会主義といった理論的理想論をかかげて活動しましたが、それはまさにエリート意識の表われであって、「他より自分は優れている」という意識があるかぎりその人は根本的に民主的ではなかったといえます。

では、現在の壮年層のエリート意識は今だに高いのかというと、私はそう思います。現在でも官僚や識者の多くは、大衆を「マス」というひとくくりでみていると思う。それは、社会システムを暴走させてしまったということです。大衆の側においても、権力的なものに弱いとか、同一価値観に依存的といった日本人的な体質が社会システムの暴走を助長したのです。

他方、現在の若者はどうかというと、大学、高校進学率が高いことや、多くの家庭の知的、文化的水準が大差なくなったという環境をみると、当時より多くが民主的であるといえます。

「僕って何」という考えは個人主義的であり、『僕って何』の著者は民主的です。 しかし、今の若い世代と著者とは同じ民主的あっても、著者には「人間味がある」という点で今の多くの若者とは違います。

これは、当時の民主的な若い世代と現在の若い世代との決定的な違いだろうと思います。60〜70年代のフォークソングブームは、当時の民主的な若い世代によるムーブメントですが、そこに「人間くささ」が存在したことからもうかがえます。これは私個人の懐古趣味などではなく、それは正しかった、人間として真っ当であったということです。普遍的な民主化は、「人間」を置き去りにしてはならないということです。

教育システムは、画一的であることによりマスに対しても教育水準の結果の平等化、普遍化を促進し、それは、マスの民主化、個人主義化を押し進めました。しかし、逆に、画一的であることは、「本能の部分の人間らしさ」(個人主義に基づく自己実現の欲求)を同時に奪いさってしまったということです。これは社会主義的経済システムが内部矛盾によって自己崩壊せざるをえないのと全く同じ理屈なのです。既存の教育システムは、経済システム同様、システム内部から崩壊しているのです。





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11/15 '99
訂正:
理解や思考、認識、記憶といった働きを司る後頭葉や側頭葉 →
理解や思考、認識、記憶といった働きを司る頭頂葉や側頭葉

11/13 '99

画一的な日本の教育が、脳にどのような影響をあたえているのかを考えてみます。

日本の若い世代(20〜30代)は、生き生きとした活力に乏しい気がします。それは、男性において顕著で、女々しいと感じられる要因にもなっています。覇気や生きがいといったものが感じられない事が多い。

若い人のホームページをみれば、そのことは端的です。その多くは、理知的で落ち着いたつくりになっています。シックで洗練されているといえば聞こえはいいですが、中性的で、ある意味不気味です。男性が作ったページに男性らしさがみられないのに較べ、女性のページは女性らしいページが多いように感じます。しかし、女性のページであっても知的に洗練されたものが多いようです。

前頭葉は、自己顕示欲、所有欲、生存欲、性欲、創造欲、情操といった精神活動をコントロールする場所です(『脳を育てる(岩波新書)』)。ここの活動によって、喜怒哀楽といった感情や様々な欲望が、古い皮質(本能の中枢)と新皮質の頭頂葉や側頭葉と相互作用をすることで発現します。

前頭葉の活動でいえば、まさにロボトミーのような現象が男性の若い世代(20〜30代)に起こっているといえます。セックスレス(中性的)は性欲のなさの現われであるし、起業精神を鼓舞しても創造意欲が乏しい、社会問題に対しても他人ごとといった感じで怒りを表わさない、様々な欲望を前面にださない(だせない?)傾向がある。逆に、自殺願望や虚無感、生気のなさが目立ちます。「完全自殺マニュアル」という本が売れたり、ドクターキリコ事件のような現象はこのようなことと無縁ではない。

結論をいえば、日本の画一的な教育というのは、前頭葉の発育を著しく阻害したということです。
特に若い世代(20〜30代)は、当時、厳しい管理教育のもとで、画一的な教育をほどこされました。画一的な教育というのは、「あらゆる事(教科)が皆と同じように、同じ程度にできなければだめ。」といった考えに基づいているということです。出来なくて、追試や居残り、補習を経験した人も多いと思います。また、理解度を確認するために小テストを含め多くのテストが行われました。

個人主義に基づけば、個人の脳の特性は様々であるのに、日本の教育システムは、出来ない場合、強引に他人と同じレベルまでもっていかせようとする。それが本人の意欲によって行われるのであれば、全く問題はないが、そうではないということです。

他人と同じレベルまでもっていく努力は確かに本人によるものです。しかし、「他人と同じレベルでなければならない」という動機付けは、教育システムによってなされたものです。本人の自発的意欲ではないということです。これが最も重大な問題点なのです。理解度を確認するためのテスト浸けも、システムによってなされたもので本人の意思ではない。その管理が厳しければ厳しいほど、本人の意欲や自主性はそこなわれるのです。

前頭葉の完成期が、大学教育をうける時期である(『脳を育てる』)ことから、個人主義が芽生えつつあった若い世代(20〜30代)が、当時小、中、高校を通した厳しい画一的教育システムによってその芽がつまれてしまったというのを、具体的に前頭葉の育成に置き換えてみるとこのようにいえます。

個人主義による自主的な自己実現という欲望が、教育システムの全体主義的な、個人の欲望とは全く逆方向の欲望(経済成長期にあった日本社会の期待というべきか。)と完全にぶつかりあってしまった。個人の欲望の方が、教育システムによって抑止されることで、自己の欲望をのびのびと発露することで育成されるべき個人の前頭葉が、多大な被害を受けてしまったということです。それは、性欲や創造欲を含めたあらゆる精神活動を萎縮させてしまったのです。

画一的教育システムは、理解や思考、認識、記憶といった働きを司る頭頂葉や側頭葉を発達させましたが、「種の保存」や「自己保存」といった生存意欲を湧き起こす本能中枢と直結している前頭葉は、未熟なままにしてしまったのです。すべての意欲(動機付けという意味)をシステムが肩代りしてしまったからです。

前頭葉の未発達は、本能の発露を阻害し、相対的に頭頂葉や側頭葉の活動に重きをおくようなります。それは、若い世代にみられる、知的でクール、おしゃれ、処世が上手、生き方が洗練されているといったことや、逆に理屈っぽい、他人や社会に関心がない(集団欲がない - 同人意識はあるが、同人界は社会に対して閉ざされた世界です。)、マニュアル的、生きることへの活力に乏しい、本能的なものを無視したり忌み嫌うといったことにつながります。

社会活動においては、与えられた問題を理解し、解決することはできるが、問題提起ができない。無から有を創造できない。情報をまとめたり、流通させることにはできても、情報そのものを創ることができない。といったことです。

「ゆとりの教育」に移行した頃でも、日本の教育が「画一的な教育システムである」ことにかわりはなかった。女子高生は、はやりものに敏感であるといわれていますが、これはするどい指摘で、女性が場の変化に敏感で順応性があることから、「ゆとりの教育」に移行した時期、「ゆとりの教育」によっていちはやく社会現象化したのが、女子高生によるコギャル現象です。その後に「学級崩壊」や「学力低下」という社会現象が追随して現われてきた。

そして、当時多くの女子高生が「皆が一様にルーズソックスをはく」様というのは、「管理をルーズにしただけ」の画一的な教育システムというのをみごとに具現化している。「ゆとり」というよりも、管理がルーズであるというのは、援助交際のような著しく学生としての本分を逸脱する行為がまかり通ったことからもうかがえます。

教育にゆとりがあろうが、なかろうが「画一的である」ことが重要な問題なのです。画一的である限り個人主義世代においては、前頭葉の発育をさまたげる元凶であり、彼等の意欲的な精神活動は抑制されてしまうのです。

自分で分析しておいてなんですが、私はこのような状況をみればみるほど将来がおそろしい。少子化の陰には、とてつもない怪物が横たわっている。彼等が壮年になったときの日本というものは、どんなものなのか?日本に未来はあるのか?とさえ思えてくる。ひたすら杞憂であることを願うばかりです。





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11/12 '99

11/2の「男らしさ」、「女らしさ」の性差の起因について、「性的エネルギーの発露のリズムの差異」だけでは片手落ちなので、補足します。

例えば、リズムの差異だけでは、「男性がなぜ女性の裸をみて興奮するのか」とか 「女性はなぜ雰囲気(ムード)に弱いのか」といったことが、説明できないからです。それは、「育つ環境」によって説明可能かもしれません。周りの様子(大人たちの行動)やテレビや本などを通して、刷り込みが行われているのかもしれないということです。

しかし、脳の構造の違いがそれらを助長しているのではないか?とも考えられます。『男のからだ・女のからだ』でのアンドロゲン(男性ホルモン)シャワー、『セックス・サイエンス』でのアンドロゲンサージのことについてです。

人間のベーシックな構造は女性の構造であるといわれています。例えば、人間が、まだ母体のなかにあるときに、その人間が男の子になる場合というのは、精巣から男性ホルモンが分泌されて、性器の原形に男性化が起こりますが、女の子になる場合は、男性ホルモンが分泌されず、性器の原形はそのまま女性器になるというわけです。ベーシックな女性の構造に、男性ホルモンが関与することによって始めて人間の体は男性化するということです。

胎児期から幼児期にかけておこる脳への多量の男性ホルモンの分泌であるアンドロゲンシャワー(サージ)は、性器の性分化と同様に、新皮質の構造に男性化をひきおこします。これは、性器の性分化と同様に、男の子に起こって、女の子には起こりません。
11/2において、「理性の性差はない」と書きましたが、厳密に言えば新皮質の構造には性差が存在するということです。前回(11/2)は簡略化のため、このことを省きました。

このアンドロゲンシャワーは左脳の発達を遅らせるといわれています。つまり、乳児期においてすでに新皮質の構造には性差が存在し、ひいては新皮質の活動においても男女差が生じると考えられます。構造が違ってくれば同じものをみても、男女では、捉え方や理解の仕方、記憶の仕方などの思考パターンがちがってくると考えるのが妥当です。

では、具体的にどう違ってくるのかという詳細なことは今のところわかっていないようです。しかし、それは絵の性差のような「現象」としてあらわれていると考えられます。アンドロゲンシャワーは精巣から分泌されますが、それは性中枢(本能)の命令によるものです。乳児期におこる脳の性分化は、自然のプログラムによるものです。


これまでのことをまとめてみます。
人間は胎児期から幼児期にかけて、本能のプログラムによって体と脳の性分化がはじまります。男の子のみに起こる男性ホルモンの分泌が、心身共に男性化を促します。

その後「思春期」によって、多量の男性ホルモンが男性に、女性ホルモンが女性に分泌されることで、男性はより男性らしい体に、女性はより女性らしい体になります。脳においては、前頭葉などの比較的高度な働きをする部位の基礎ができあがる時期で、つまり脳が一体化し始める時期です。「思春期」がなだらかにだらだらと起こるわけではないのは前頭葉(新皮質)と視床下部(古い皮質)との連結の仕方によるものではないかと考えています。

「思春期」の性欲の獲得によって、その発露のリズムの差により男性の脳はより男性化がすすみ、相対的に女性の脳はより女性化がすすみます。男性の場合、恒常的な性欲は、女性とのバランスをとるためにそのエネルギーが、新皮質の発達に向けられます。理性を発達させることで、女性の性欲とのバランスが保たれます。それは、結果として脳の側性化(左脳と右脳のそれぞれの機能を高度化させるための左脳と右脳による分業化)を促進すると考えています。

「思春期」以降、ますます体が男性らしく、女性らしくなるように、脳の活動(思考パターン)も男性らしく、女性らしくなっていきます。この流れは、あくまで、「環境によって自然のプログラムによる本能の自発的活動が妨げられなかった場合」です。

近年は、科学技術の発達により世界的な理性偏重といった潮流を生じさせ、幼少期より様々な「大人による理性の介入」が行われます。またそのような潮流は、そこに身をおく子供自身にも影響し、自らの理性において本能の自発的活動を抑制する傾向があるということです。それは、男性らしさ、女性らしさを損なう結果となっています。

特に日本において男性らしさは野蛮であるといった風潮は、若い世代(20〜30代)における顕著な傾向です。若い男性の多くは中性化傾向にある。しかし、これは自然の法則という観点からみればまともではありません。このような風潮は、明らかに少子化を助長しています。





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11/9 '99

大切なのは、人間というのは何かということを理解しなければ、社会的な現象や事象というのは理解不可能だということです。人間の営みは人間によるものであれば至極当然なことです。
例えば、株価は、様々な指標(ファンダメンタルズ)によって作られますが、そこに人間の欲や期待といった思惑が絡むからこそ予測が難しい。人間的なものに左右されやすい。それは景気も同様であるといえる。経済理論は補足手段にすぎない。

社会制度も、最初に人間とは何かという確固とした理解の上で形成されなければ、ただの理論であり、空想にすぎない。社会現象は、突然脈絡がなく発生するわけではなく必ず原因があり、それは人間自身とその集団である社会に起因する。逆をいえば、「人間とは何かということを理解することで、それらの原因が理解できる」ということです。

人間というのは何か、などと考えなくても人間はいきていけます。それより、明日の糧のほうが心配だという人もいるでしょう。そんなことを考えず、自分の人生をガンガン切り開いている人もいると思います。しかし、ある人間(社会)が多くの他者に対して影響をもつ立場にたつようになるのであれば、やはりその理解は必要ではないでしょうか。それは、民主主義に直結するものだからです。

日本は戦後、連合国に人間のありかたとしての基本ともいうべきものに基づく憲法をあたえられましたが、それは強制以外のなにものでもなかったというのは、戦後50年の日本の行ってきたことをみれば明らかです。

真の民主主義の概念を理解できたのは少数派であり、日本社会においては、おおむね彼等は集団の外におかれてきた。その思想は、社会主義的なシステムの思想とは、まさに逆行する指向であり、マイナスであった。日本に必要であったのは人類的な思想や哲学ではなく、技術論やシステム理論であり、文化においても、人類的なものに根差したものではなく、そのほとんどが軽チャーといった享楽的なものでした。

現在に至りようやく本当にその概念を理解しはじめつつあるのではないかと感じるのは、その概念の理解には、まず個人主義が個人において確立されなければならないからです。
「自分とは、何か。他人とは、何か。」ひいては、「人間とは何か。」といったことから、「では、自分ができることは何か。自分の価値観は何か。」といった自照を経なければ民主主義は理解できない。これまでの日本のように知識の蓄積の差や、学歴、名誉や名声(著名人、有名人であるといったこと)、社会的地位の高さが、自分と他人とを区別する指標であるような社会にあっては、民主主義を理解できるはずがない。

学者や著名人、知識人(マスコミを含む)の多くが理解不可能であったのは(民主主義を理解不可能であったから、社会システムは暴走したのです。違いますか?)、外的な指標にしがみつき、またそれによる「マス(大衆)に対する奢り」があったからなのではないかと言わざるをえない。

手厳しいでしょうか。しかし、大衆や他の国々の人々がどれだけの犠牲をしいられてきたのかを考えるとそう思わざるをえないのです。そして、世論に影響を与える価値が大きい人や組織にほど、私は個人的にその怒りが比例して大きくなります。日本人は近視眼的であり、木(専門分野)をみることには非常に長けていても、森全体を把握できなかったのだという善意の解釈もできますが。

私はこのような日本に対して憤りを感じますが、人間の歴史は他国においても過ちの繰り返しであり、また試行錯誤の連続であることをみれば、我々もまたのちの世代に対して別の過ちを犯さないとは決して断言できことを考えると、人間の歴史は失敗や成功の連続であるというある種の歴史的な意義に基づく諦観のようなものはあります。

そもそも人間自体が、矛盾を内包している。これはどうすることもできない。また、後進国が国際的に成長するためには、物理的な時間がどうしても必要であるというのも理解しています。失敗や成功を積み重ねながら世代交代を繰り返して行くからこそ、文明が発展していくのだということを理解しています。日本においても、民主化には時間が必要であったということです。

日本の多大な過ちは、過ちをなかったことにし闇に葬りさるのではなく、国内外に厳然たる事実として周知されなければならない。そうしてこそ、日本は民主主義を加速しえるのです。一部にはテロといったものが存在する「かも」しれませんが、多くの国民はそれほど愚かであるとは思えない。現実社会において私の周りにみられる社会的地位の低い人々ほど個人主義的であり、日本が過ったシステムに基づいていることはとっくに知っています。

まして、厳しい管理教育と学歴社会のもとで育てられた、今の20代30代はマニュアル志向的であり、本来あるべき若々しさゆえの毒牙はすっかりもぎ取られ、子飼い然としてしまっている。上手に処世するしたたかさや、ずる賢さはありますが、創造していく力はないといっても過言ではない。それは、健全な心によってなされるものだからです。それは、少子化とも無縁ではない。

長年の勉強や社会システムよる本能の抑圧によって、怒りすら覚えられなくなっているのは同世代として情けないやら、悔しいやらといった感じがします。しかし、場違いなところで、突然切れるのは、理性による本能のいびつなコントロールしかできないといった健全な心の育成がおこなわれなかった証拠でもある。上の世代が、若者に対してそのようなことに不満をいいますが、では、「そういう教育をしてきたのは誰なのですか?」と、そっくりそのまま返したい衝動にかられる。なぜ、自分達が過っていたのだと認識しないのか私には理解できない。社会システムに誤りがあるのなら、なぜ毅然とした態度で壊さなかったのか?

また、バブルに踊った人々というのは、もともと社会の下層にいる人々ではなく、むしろある程度裕福な人々であり、そういう人々の甚大な被害を被った様をみると、滑稽を通りこして哀れですらある。教育や経済の社会主義的なシステムのおおきな波に乗ってしまった人々は、自業自得とはいえ、同じ価値観に依存しないと生きていけない日本人としての哀れみを感じます。偉そうなことをいってますが、私は聖人君子でありません。バカなことも好きだし、Hなことも好きです。人間であることに違いありません。大人社会にあっては、ひよっ子も同然です。私はたまたま社会システムの外にいたというだけです。ただ、人間というのは何かということ興味があったからにすぎない。

日本の過ちは、今後近代化するであろう発展途上国に対して、過ちを周知することで大きな教訓になると思っています。発展途上国が健全に民主化するための糧となりえるかもしれないと思う。しかし、民主化には、それ相応の時間と経験が必要であるとも理解しなければなりません。民主主義のおしつけは、その国の自発的な発展をさまたげる可能性があるということです。

人間が健全に自立するためには、様々な膿を周囲にだしていかなければならないように、その国の民主化も周囲に様々な弊害を及ぼさなければならないといえます。日本の開国後から現在までの歴史というのは、まさにそうであったと思う。莫大な国内外の人々の犠牲によって、日本はようやく本当の意味での民主化が始まりつつあると実感しています。

人間は、健全で自立した大人になるためにその過程において周囲に様々な迷惑をかけます。迷惑をかけなければ、健全で自立した大人にはなれないと思っています。大人になってその過ちに気がつきますが、だからこそ、その経験に基づき自信をもって新しい世代を教育できるのです。
それは、国際化であっても同様で、日本を含めた先進国は、近代化するであろう発展途上国に対して、人類がどうあるべきかの範をしめさなければならないのは義務だといえます。それは例えば、民主主義をおしつけることではなく、自国において民主主義の徹底を行い、自らの実践によって周囲にしらしめるということです。

そういう意味で、テクノロジーの発達した先進国が、その優位性を奢り、「人間というのは何か」というのを忘れ、様々な問題が噴出しているにも関わらず、ひたすら「理性崇拝」に傾倒しつつある状況というのは、様々な側面から人類に対する危機感を感じざるを得ないのです。自然を科学技術のめざましい発展によって克服し、制御しうるという自信からくる「奢り」が、先ず、その先進国の国々から自滅の道を歩みはじめているのではないかということです。





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11/6 '99

11/3 ↓ の書き込みを少し修正しました。あの文(「しかし、人間が現在まで繁栄し、・・(中略)・・と考える方が妥当なのです。」という文章。)だと、「環境」によっても説明できるので。我田引水でした。失礼しました。

11/3 '99

「男らしさ、女らしさ」について。(少し追加)

前回、
「行動においても男女に差はありません。」と書きましたが、これは厳密にいえば、違います。なぜなら、「思春期」は突如として起こるわけではなく、幼児期から、あるいは性が決定した時期から徐々に、後の「思春期」をむかえるべく準備段階に入っていると考える方が自然だからです。

「男のからだ・女のからだ(講談社)」の(なぜ、女の子はサバンナを描くのか?)の項にみられるように、「男児と女児の描く絵には世界に共通して同じような性差がみられ、まるで、世界的規模で男児と女児は無意識下でつながっているように思える。」とあります。

これは、環境でも十分説明しうることです。性が決定した時期から「男らしくあれ」とか「女らしくあれ」というまわりの期待や、まわりの無意識の行動が、吸収の早い幼児に影響を与えたといえます。発達した「理性」によって、絵の性差が生じるという考えです。

絵の性差が、「理性」による行動なのか、「本能」に起因する行動なのかは、大脳生理学がまだ分子レベルでの脳の働きを完全に解明しきれていない現時点ではとても難しい問題です。 しかし、やはり私は思春期が突如としてあらわれるわけではなく、その本能に起因する性差は幼少期にも微弱ながらにも発露していると考えるのが妥当であり、幼少期の活動が、おおむね本能を拠り所にしていることを考えると、「絵の性差」のようなものは後の「思春期」によって「性の大脳化」がはじまるための素因のようなものであると考えたほうが自然だと思うのです。

男性優位社会はやはり否定されなければなりません。今後も人類がその種を存続させ繁栄していくためには「種の保存」と「自己保存」が忠実に実行されなければならない。そのためには、「男らしさ」と「女らしさ」は共に必要であり、同時に同等の価値があるのです。「理性」と「本能」の共存が様々な自己矛盾を内包しているように、「男らしさ」と「女らしさ」の共存も実は矛盾だらけです。しかし、共に重要なファクターであるのには違いありません。太古から人類が連綿と続いてきたことを考えると「男らしさ」と「女らしさ」は決して「環境」や「理性」によって否定されてはならないのです。





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11/2 '99

「男らしさ、女らしさ」について。(少し修正11/4)

先ずは、脳の構造のことから考察していくことにします。

脳は、自律神経や感情、欲望といった本能活動を司る" 脳幹と大脳辺緑系 " という「古い皮質」と、環境や学習、教育などによって後から発達していく「新皮質」によって成り立っています。右脳と左脳という場合、新皮質の部分をさしています。また、「本能」というのは、古い皮質による活動であり、「理性」というのは新皮質による活動であるといえます。

私には1才になる幼児がいますが、彼の行動はとても興味深い。寝たいときに寝、食べたいときに食べる、不快なことは徹底して嫌がる(歯磨きとか)といったように、本能のおもむくままに生活しています。体に病気に対する耐久がないのと同様、精神的にも耐久がない。

脳の働きでいえば、幼児や子供は、「古い皮質」によってその大部分の行動が支配されています。子供が、とても残酷であるというのはそのためです。例えば、私は子供のころ、かえるのお尻に爆竹をつめて爆発させたことがあります。今思うと残酷ですが、これは当然のことといえます。飼い猫と子供の相性はよくないともいわれています。無頓着にいたずらをしてしまうからです。しかし、幼児本人は「いたずら」だとは思っていない。

幼児は、好奇心によりなんでも噛んだり食べたり、触ってしまいます。雑菌を体内に取り入れることで、免疫力を高めているのだと考えますが、これは同時に、五感を通して、新皮質を発達させている事でもあるのだと理解しています。

これらのことから、脳が健全に発達していくためには、幼少のころに本能が十分解放されていなければならないということです。新皮質を発達させるためには自らの意思による本能的な活動を通して、五感を積極的に働かせることにより可能だということです。行動範囲の狭い子供に対して、親がそのような環境を与えてやることも必要です。

知育玩具もいいですが、五感に働きかけるようなのびのびとした環境を与えることが必要なのではないかと思っています。皮肉なことですが、「自然」というのは、このような条件をすべてみたしているのではないか。ただ、情報が溢れ、文化が多様化している現代では、そればかりがよいとは限らないとも思います。

人間は脳を発達させる過程において、まず本能的な活動をすることで、それを五感を通して刺激に変換し新皮質を発達させていく。そして、新皮質を発達させることで、逆に本能を制御する、つまり、理性を発達させていく。個体は、幼少期の旺盛な好奇心によって、このことを繰り返して脳(新皮質)を急速に発達させている。

これは、何でもかんでも神経質に「ダメ」とか、強制的に「あれをしなさい、これをしなさい」というような大人の価値観に基づく「しつけ 」は、新皮質の発達をさまたげる要因になることだといえます。

「お勉強」といったものは脳の一部の特性をのばすにすぎないといえます。「様々な体験」による五感の刺激こそ、新皮質をまんべんなく発達させ、全く別の事象のなかに類似性をみつける能力を育んだり(体系化や創造の素)、あるいは我慢する能力を育て、柔軟で応用の効く脳がつくられていくのだと思います。

本能が十分解放されている子供は、ブレーキのない車と同じです。そういう意味で親による「しつけ」というブレーキは必要です。しかし、子供はアクセルが全開であるのに、ブレーキが強すぎてもダメだし、弱すぎてもダメだというところに「しつけ」の難しさがあります。

また、LD(学習障害)にみられるように個体の脳の特性は様々であることも理解しなければなりません。「○○ちゃんはできて、なぜあなたはできないの?」といわれても子供には理解できない場合があるということです。私は大きな意味でLDはLDではないと思っている。一般に健常であっても、脳の特性は様々であり、出来る事とできない事が存在します。

そうであるからこそ、様々な考え方の人間が存在し、人間という種が存続できるのです。同じ考え方や同じ価値観の集団というのは、ある方向をめざすのには都合がよいですが、暴走しやすく自滅しやすい。逆に、多様な価値観の存在する集団は、まとまりにくいが、暴走も自滅もしにくいのです。各々の「個」が解放されている社会(個人主義社会)というのは、種の保存の法則に則っているのです。

身障者や勉強の出来ない子が、「僕は人とは違うんだ。人間は様々なんだ。」というのは言い逃れでも自己正当化でもなく、真実であると思っています。「しつけ」というのは、その子の脳の特性(個性)を理解し認めて、それによる行動が社会規範に逸脱しないように誘導していくことだといえます。


幼少期は男女の性差は乏しいのも特徴です。一見しただけでは、男か女か解らないといったことがあります。行動においても男女に差はありません。これがどういうことを意味するのかというと、「脳全体が発達途上であるにすぎない」ということです。 (なぜそう思うのかは後述します。)

つまり、本能による活動が主である幼少期の男女の性差の乏しさを見て、「本来、本能にも男女の性差はない」と判断するのは早計ではないかということです。確かに、幼少期の男女の性差は、おおむね社会的な規律によって生じています。男の子には、男の子用のおもちゃや衣服を、女の子には、女の子用のおもちゃや衣服をあたえます。幼少期においては「男らしさ」や「女らしさ」は「与えられている」のです。

近年、一般に理解されているように 『人間の「男らしさ、女らしさ」は、周囲の期待によってつくりあげられた一種の性格のようなもの。』というのは、これらのことを見てくると確かに納得しうることです。


これからが本題なのですが、なだらかに男女が心身共に成長していくのであれば、そうであるといえるかもしれません。しかし、人間はその成長過程において、皆さんにも経験があると思いますが、心身共にかってない劇的な変化をもたらす「思春期」という第二次性徴を経験するということです。

体の発育で言えば、第二次性徴を境に男性と女性では全く別になっていきます。男らしい体、女らしい体になっていきます。心身が一体であるとすると、心においても男性と女性では全く別になり、体と同様「男らしさ、女らしさ」が現われると考える方が妥当であり、自然です。

「思春期」がなぜおこるのかは、大脳生理学者による脳の詳細な研究結果を待つしかありませんが、これまで古い皮質に起因する本能的な活動を通して、五感から様々な刺激を得て発達してきた新皮質が、「思春期」を境に古い皮質と一体化し、完全な一つの脳として機能し始めるからなのではないかと考えています。

体の発育をみると、爪は同時に伸びます。髪の毛も頭皮において一様に均等にのびる。ということは、古い皮質をとりかこんでいる新しい皮質と古い皮質の連結(ニューロンによる連結)が、今まで未熟であったものが、「思春期」を境に互い皮質の全接面積において一様に均等に強固になり始めたと考えるのが妥当ではないかということです。

逆に言えば、古い皮質と新しい皮質の連結が強固になる脳の一体化の時期が、「思春期」なのだといえます。性への目覚めというのは、「理性」が「本能」の存在を自覚することであり、新しい皮質が古い皮質の存在を関知したということだと思います。

(後に「脳を育てる(岩波新書)」を読んだのですが、ここには『ヒトにとってもっとも大切な精神を醸成する前頭葉のソフトウェアの基本的なニューロンネットワークができあがるのは、九歳頃である』とありました。性欲を引き起こす箇所は前頭葉にあるので、「思春期」というのはこの前頭葉と、古い皮質の「性中枢」のネットワークができ上がることといえます。しかし、基本的に新皮質における前頭葉の発達は極めて遅い方なので、ここの基本的なニューロンネットワークが完成するというのは脳が一体化し始めたといっても過言ではないようです。ただ均等に脳の各部位が発達するとは言ってはいませんが、そのようにとられると困るので。注釈をしてみました。11/4 )


余談ですが、これを一歩踏み込んで右脳左脳の連結について類推すると、その結合が強固になるのは30〜40才ぐらいではないかと、様々な人間の活動をみていると感じます。(あくまで、憶測です。)

では、「思春期」によって脳はどう変わるのでしょうか。

最も顕著な現象は性欲の発露です。幼少期のころは男女区別なく遊べたのに、急に異性を意識し、何となく気まずくなったりします。

性欲が生まれてくるということは、ここからが肝心なのですが、性欲=性衝動(リビドー)がフロイトのいうように「生活の原動力」であるのならば、まさに、「思春期」によって人間はそれまで親に保護され、他者に生活を依存していた時期から、「自らの意思で自分の生活を切り開くための原動力を獲得し始めた」、性欲を獲得することによって、個人は自立を始めたということです。

男女は、性欲の発露の状態が全く違います。女性には月経にみられるように性周期が存在します。これは、『「生活の原動力」というエンジン(性欲による性的推進力)が全く違う。』ということです。

結論をいえば、『人間の「男らしさ、女らしさ」は、周囲の期待によってつくりあげられることも可能であるが、男女自身が「思春期」により性欲を獲得し、男女が全く別の「生活の原動力」を得ることでつくりあげられていくもの。』と私は思っています。

なぜ、人間社会は男性優位社会なのでしょうか?偶然でしょうか?たまたまでしょうか?

違います。男女の性欲の大きさが同じであるとすれば、性周期を持つ女性は不利です。男性が恒常的に性欲を維持しているのに、女性の性欲にはムラがあります。まして、出産前後期というのは、女性の性欲が減退します。男女が共に歩んできた長い歴史のなかでこれは致命的です。男性は「生活の原動力」というエンジンが常に動いているのに、女性のエンジンは動いたり止まったりしている。

ただし、このような男性優位社会は、人間がもっと原始的な時期に作り上げられた「なごり」なのだということを理解しなければなりません。

現在の人間は新皮質(理性)が、最も高度化された生き物です。それは、本能すら制御しようとします。逆に、新皮質の発達余地があるということは、環境の影響を非常にうけやすいということです。環境によっては、精神的に男性が女性化したり、女性が男性化しうるのです。「理性」において、男女差はないといえます。

しかし、他方で本能の性中枢に起因する性欲の性的推進力の差は、現在の人間においても、女性に月経が存在するように、男女のありかた、生き方の差となってあらわれてくるのです。「本能」において、性中枢の性の発露のリズムに男女差が存在するのです。

女性は性周期によって、エンジン(性欲)が自然に制御されますが、男性は理性によって、エンジン(性欲)が暴走することを制御しなければなりません。相対的にエンジンの違う男女が、社会規範に基づいて共生していく社会にあっては、男性の理性による制御は不可欠なのです。いつの時代においても、また現代にあっても男性は相対的に理性を発達させざるを得なかったのです。それは、男女が共生し人類を存続し繁栄させていくための精巧な「自然のプログラム」によるものです。

人間の歴史をみてみると文明を切り開いてきたのは男性が圧倒的に多いということは、男性は恒常的な性欲による性的エネルギーを理性によって、文明を切り開くことに転化させてきたからだといえます。決して、たまたま男性優位社会であったから、男性が圧倒的に多くなったのだということではありません。

男性が女性と比較して行動が攻撃的、あるいは理論的であり、逆に女性が本能的、直感的であり子宮的だというのは、まさに本能の性中枢による性的エネルギーの発露のリズムの差による脳の活動の差の結果です。種の存続における「種の保存」と「自己保存」という観点からすれば、それは理にかなっているし、心身において男性が男性的であり、女性が女性的であるというのは自然の摂理の帰結なのです。これは、どちらが優位であるとか劣っているとかではなく、「共に不可欠なのだ」ということです。

歴史を通して、女性は「種の保存」という役目を担い、男性は文明を切り開くことで個体でいうところの「自己保存」という役目を担ってきた。「種の保存」と「自己保存」は種が生き延びていくための不可欠な二大法則です。そして、その分担というのは個体の意思によるものではなく、「自然のプログラム」によってなされてきたのです。だからこそ人類は今日まで存続し繁栄しえたのです。

このように考えてくると、近年の女性の社会進出やフェミニズムの盛り上がりには、異論を唱えたくなります。断わっておきますが、「過度にすぎる」という点においてです。
人間は理性によって、本能を制御しうるということは、「男らしさ、女らしさ」の逆転も理性によって可能であるといえます。事実、先進国において「男らしさ、女らしさ」というのは減少傾向にある。女性の自立は、便利な世の中になったということもありますが、長年の男性優位社会における様々な女性蔑視に対する「怒り」が根底にあるような気もします。

つまり、本来、本能的なリズムをもつエンジンを、積年の「怒り」というエネルギーで無理やり動かしているといった感じがするのです。これは、不自然なことです。女性の強引なエネルギーの転化というのは、女性自身の心身に影響を与えないはずはない。

また、女性は環境の変化に非常に敏感であり、順応性があるという観点からすると、現在の世界的な「理性崇拝」、「理性信奉」という社会の流れを敏感に察知し、その潮流に乗ってしまっているとも感じます。その結果、男性並にストレスに弱くなったり、精神的な障害が多くなり、心身共に限りなく男性化しようとしている。極端にいえば女性は「種の保存」を放棄したのだといえます。

では、一体「種の保存」は誰が行うのでしょう。人工受精や体外受精によって「種の保存」を維持していくのでしょうか?例えば、男性並みに、社会に進出することによって様々なストレスや精神的な障害といったものをかかえた女性の卵子というのは、健全な卵子であるという保証はどこにあるのでしょう。

妊娠には莫大な忍耐が必要であり、それがストレスに脆い男性であったらショックのあまりにしんでしまうかもしれないといわれます。女性がストレスに脆い男性のようになるということは、妊娠に耐えうる母体ではなくなるということです。確かに、医療の進歩によってお産が楽になる技術も出てきています。しかし、そのような母体というのは健全であるという保証はどこにあるのでしょう。

では、そのような女性は完璧に「種の保存」の役目を放棄し、社会に進出し仕事に専念するのでしょうか。そして、将来多くの国が先進化し、同じように女性が「種の保存」の役目を放棄した場合、人類はどのような末路をたどるのでしょうか。
私はこれは女性による理性の暴走だと思っています。男性が、理性によって本能(性欲)の暴走を制御する必要があるのと同様に、女性は本能による理性の制御が必要だと思う。

逆に、男性は本来のびのびとした性的エネルギーが萎縮傾向にある。日本では、社会システムの影響により男性が女性化傾向することによって、女性が男性化し、欧米では、キャリアウーマンやスーパーウーマンといった、社会における女性の台頭による男性化により、男性が女性化しつつあります。

女性の社会進出には否定しませんが、一体、女性が様々な精神的障害を起こしながらも、男性と伍する必然性がどこにあるのでしょうか。私には理解できません。私からみて、男性と伍する女性の多くは、精神にゆとりのなさが感じられます。心の豊かさが感じられません。勿論、能力主義社会にあって、そこには男女の区別はありません。しかし、それが女性自身が、自らの精神を犠牲にしている上で成り立っているのなら問題です。


現代は肉体的な労働の部分が機械化され、「情報の流通」が産業の主流になっています。そのコントロールは、「理性」によっなされます。それは男性でなくても可能です。世界的な規模で、「理性」による様々な情報がコントロールされているというのは、歴史の大きな流れなのかもしれません。

そして、それは「理性崇拝」、「理性信奉」といった傾向を促し、本能的なものを否定したり、忌み嫌うような潮流を世界的な規模で生じさせている。しかし、「本能」は現に人間の心のなかに存在している。「理性」によってねじまげられた「本能」は、そのエネルギーを例えば倒錯した性行動に転化させていると考えられないだろうか。近年の倒錯した性行動の増加というのは、そういうことだといえないだろうか。

「理性」による様々な情報のコントロールが、ひいては「本能」までをもコントロールしうるのだというのは、「理性崇拝」による人間の奢りであり、日本を含めた先進国の傲慢ではないでしょうか。このような世界的な潮流には危機感を感じざるをえません。自然に背くことは、自然による淘汰の始まりだと思う。


今後、社会は、女性の「女性らしさとしての観点」からの発言というものを、男性と同等か、場合によってはそれ以上に尊重されなければならないと思う。また、男女は、性衝動の発露のリズムの違いが、異性の心理や性行動、社会的活動にどのような差となって現われるのかということを相互に理解しなければならない。男性が男性であり女性が女性で以上、完璧な性差の相互理解は不可能だといえますが、その努力は常に必要です。「理性」によって異性が互いに同質化していくことに、性差の相互理解の答えがあるのではないと思っています。

「男らしさ、女らしさ」というのは、根源的には本能に起因する生物学的な差異であり、具体的にいえば思春期に端を発する、性的エネルギーの発露のリズムの差異によって形成される。一方で、男女は社会的な環境や高度化された理性によって、それらを制御することが可能であるのです。「理性」によって、男女の性差は互いに消失しうるのです。

しかし、感情を理性でコントロールしようとすれば、理性と本能の間で軋轢が生じ様々な精神障害をおこすのと同様に、「男らしさ、女らしさ」に対する過度の理性の介入は、精神障害だけではなく「種の保存」や「自己保存」にも変調をきたしかねないということです。それは、人間の自滅を意味しています。

私は「自然に帰れ。」とは思わない。「自己保存」の観点から、人間は「理性」によって文明は発展させる必要性、必然性があると思う。例えば、ウイルスはその単純な構造によって突然変異しやすく、人体で繁殖しうる姿(亜種)に次々と微妙に変異させ、人類を滅ぼそうとする。それを人間は、科学技術の発展によって解決していかなければならない。
大切なのは「理性」と「本能」の共存、つまり、「男らしさ」と「女らしさ」の相互理解による共存です。


参考文献
講談社 男のからだ・女のからだ
講談社 セックス・サイエンス
ベネッセコーポレーション ひよこクラブ10月号'99(このままじゃセックスレス?)





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10/25 '99

なるほど、政府は「少子化問題」の原因がどこにあるか「知っていた」と思える。
これまでの教育のありかたをみてみると、「学歴偏重教育」から一挙に「ゆとりの教育」へと移行した。

「ゆとりの教育」によって、最初に社会現象化したのが「コギャル」現象といえる。 これまで日本の学校は規律に厳しい傾向があったが、「コギャル」現象は「ゆとりの教育」の導入によって、女子高生が野放図化したのだといえる。制服の一部としてルーズソックスのようなものが容認されたり、スカートの丈を目一杯短くするようなことは、これまでの「管理教育」では考えられなかったことだ。

そのような野放図化は、その後、子供達にも波及し「学級崩壊」になり、また、学生全般に「学力低下」をもたらした。つまり、「ゆとりの教育」はこれまでの「管理教育」から一挙にタガを「はずしすぎた」といえる。

ここで問題なのは、なぜ、これまでの厳しい「管理教育」から、一転してこのような「学級崩壊」や「学力低下」を招くような極端な「ゆとりの教育」に移行したのかということである。

本来このようなことは、じっくりと時間をかけ、いくらかの準備段階を経て徐々に移行していくのなら理解できるが、そうではなかった。また、この「コギャル」現象の時期と「少子化問題」が社会問題化した時期が、酷似しているということである。

確かに、バブル崩壊後は、いい大学にいったところでその後の就職までが保証されるわけではないので、「ゆとりの教育」に移行したのだともいえる。就職氷河期もおこりはじめていた頃である。

しかし、これまでのバブル崩壊後の国の行動から類推すれば、「少子化問題」が学歴偏重の「管理教育」にあることを察知し、あわてて管理教育のタガをはずしたと考えるほうが納得いかないだろうか。でなければ、これらの教育問題というのは、あまりに過度にすぎていないだろうか。

「少子化問題」は、今後、私達の世代が負っていかなければならない重要な問題である。

すべてが経済至上主義にかたむき、私達の世代(20代、30代)が過去に例をみない厳しい学歴偏重の「管理教育」によって精神を抑圧され、男女ともに、プライドだけは高くなり、後々までそれは影響し、男性は本来の「男らしさ」を失い、生殖にまで変調をきたしてしまった。

それを私達より上の世代は、こう言うのだろうか。

「我々だって、国を豊かにするために自分を犠牲にしてきたのだ。我慢をして、歯をくいしばって国のためにつくしてきた。日本が経済「大国」なのは、我々のおかげなんだぞ。精神や人間性を抑圧されたぐらいで、つべこべいうな。我々や国をもっと尊敬しろ。」と。

「少子化問題」の原因は、環境ホルモン云々、、というのは政府のカムフラージュなのだろうか。断言はできないが、考えうることではある。しかし、他の国々も少子化傾向なら理解できるが、環境のせいにするにはお粗末ではある。





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10/22 '99

資本主義と民主主義の両立について。(資本主義民主主義原理論)

資本主義制度それ自体は、自由競争により弱肉強食の苛烈な社会を生み出す。民主主義は、非常に理性的な社会の構築を目指し、文化を生み出す基盤になりえるが、それのみでは、人間は存続しえない。

資本主義は人間の闘争本能といった本能的部分を象徴し、民主主義は人間の理性的部分を象徴している。つまり、資本主義と民主主義の両立は、不可欠であるが、実はそれが両立する社会というのは、とても自己矛盾した社会なのだといえる。

しかし、人間自体が、理性と本能をもつ自己矛盾した生き物である事を考えると、逆に言えば、人間の営みを社会制度にそのまま移行させたものが、資本主義と民主主義であるといえる。資本主義と民主主義による社会の自己矛盾は、人間個体の自己矛盾に限りなく近い。つまり、それが両立する個人主義社会というのは、最も人間的で自然であるのだ。

極論すれば、資本主義と民主主義の両立は、人類が存続し文明を築いていくための「原理」とさえいえる。

人間は非常に自己矛盾した生き物である。
煙草は体によくないとわかっていても、吸ってしまう。
深酒はよくないとわかっていても、深酒をしてしまう。
浮気はよくないとわかっていても、浮気をしてしまう。
道に千円札が落ちていたらどうするだろうか?
スピード違反をしたことはないだろうか?
嘘はつかないだろうか?
逆に、あらゆる規制や規則をやぶらない人をどう思うだろうか?
悲しんだり怒りを表わさない人をどう思うだろうか?

人間の心は理性と本能の間で常にゆれうごき、そして苦しむ。それは、事件や犯罪、あるいは、逆に、文化や経済的な活動といったあらゆる事象をうみだす。理性と本能との葛藤は、創造と破壊の原動力である。

本能だけでは、他の動物と同じだ。その種の発達と存続はすべて自然の法則に委ねられるのみだ。理性だけでは、人間の命が有限である限り種の存続そのものが不可能である。

理性と本能があるからこそ、人間は文明を築き、種を存続させることができた。
個人主義のもとでの資本主義と民主主義の両立する社会は、人間同様、自己矛盾しているが、その両制度の狭間で、様々な矛盾に直面し苦しんでいかなければ、その社会の発展も存続もありえない。

人間は理性と本能がある限り、未来永劫、苦しんでいかなければならないのと同様、その社会は未来永劫、苦しんでいかなければならない。人間や社会は苦しいからこそ、対極にある神をもとめ、理想郷を求めるが、それらに限りなく近づくことはできても、そのものにはなれない。人間の命が有限である限り、それらに限りなく近づくということは、種が限りなくゼロに近づくということだ。

苦しいからこそ、人間は個人主義に基づき、他の価値観にまどわされず自分の信念によって、「社会規範に逸脱しない範囲」の中で、自分の納得する生き方、自分にとって楽しいと思える生き方を指向するのが、最良の生き方である。

人間は神になる必要などない。





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10/21 '99

新興宗教ブームについて。

日本は無宗教者が多いといわれる。お彼岸にお墓参りをするが、それは絶対的な宗教観に根差したものではなく、先祖を敬うといったごく個人的な宗教観によるものである。バレンタインやクリスマスは主旨を離れイベント化している。日本人の宗教に対する考え方はあいまいである。

それは、なぜか?
日本では様々な要因から、同族意識が強く、同一価値観による意識が浸透しており、「村八分」にみられるような、異種の価値観を排除したり黙殺する傾向があった。日本人が平等を理解する場合、考え方も価値観も、それに基づく生活態度までが同じであることを意味していた。それは、現在の日本でも社会に深く根づいている。「村八分」と「いじめ」は同義である。

宗教による平等の理念が、「個々の差異を認めあうこと」に対し、天皇や、支配者達を絶対的な価値とみなす中央集権体制の中での日本の平等というのは「天皇や、支配者達を除いた他の人々は全く同じであること」であった。

つまり、全体主義的価値観に心の拠り所をみいだす日本人、同一民族で、同一価値観であることに依存的な日本人にとって、個人主義そのものが無用であり、また理解不可能であり、そのことは、個人主義と密接に関係している宗教の平等の理念も、多くの人々にとって無用で理解不可能であった。
(土着信仰や、お墓参りにみられるような、存在しないものに対する畏怖の念は、日本人の心にも存在した。これは世界に共通する人間の根源的なものだと思う。)

では、近年の新興宗教ブームはどういうことなのか?といったとき、やはり、個人主義の芽生えという視点からとらえると理解しやすい。

新興宗教ブームは、物質主義社会、高度に情報化された社会で様々な情報が錯綜する現代にあって自己を見失いつつあるからだといわれている。
これをもっと具体的に考えると、『様々な情報を得ることによって、「自分とは何か?」と内省を始めた時点、つまり個人主義が芽生えた時点で、日本の経済至上主義的社会システムにおいて、それは、「脱落」を意味するものであり、多くの日本人が共有する同一の価値観とは別の価値観をもつということは、その人の心に「困惑」や「疎外感」をうみだした。』ということだ。その「脱落」や「困惑」、「疎外感」を救ったのが新興宗教だった。

キリスト教が欧米において絶対的な価値観となりえたのは、根源的に「多様な価値観の混在する個人主義社会にあって、共通の心の拠り所となりえた」からだ。個人主義者は、他者との価値観の差異を理解し認識する一方で、「人間は基本的に平等である」との意識がある。
つまり、「考え方は違うが、同じ人間であることには変わりがない」という意識だ。逆に、そうであるからこそ、個人主義社会というのは、多様な価値観を認めあえる社会なのである。個人主義者どうしの深層意識での共通項である平等に対する理念とキリスト教の「人類は皆、神の子であり、平等なのだ。」という教えは、全く同一であった。キリスト教は人々の心なかに、抵抗なく自然に浸透していったと考えられる。

これと同様に現代の日本では、多くの新興宗教が仏教の教義をベースに人間の平等を説き「脱落」者(=個人主義者)の心に浸透し、彼等を救っていった。

日本において、宗教が絶対的な価値観となりえなかったということは、人間を学問的な視点から理解しようとする試みである哲学が、開国前の日本ではなかなか育ちにくかったことでもある。
欧米には多様な価値観が存在しているからこそ、それを理論的に追求し体系化し、学問的にとらえようとする試みが、非常に発達していき、西洋文化を形成していった。
他方、日本が同一価値観であったということは、その観察の対象は、四季や気候、生き物、風景といった日本人に共通の自然事象に向かい、和歌や短歌に代表されるような感覚的な世界をつくりだし、美意識を追求して、独特の文化が形成されていったといえる。



余談だが、日本の歴史をみると、おおむね女性の姿がうかびあがってくる。戦争やバブル崩壊後のアジア進出は、恐怖心からうまれた非常に非理論的でヒステリックな行動だし(したたか)、視野が狭い、他人に対する嫉みや妬みが強い、細かい規制や規則で個人を管理しようとする、といったものは男性より女性に顕著にみられる特徴である。

フェミニストの方にいっときますが、だからといって女性がダメだとはいっていませんので。ダメといっているようなもの?うーん、困ったなあ。では、日本をひっぱっているエリート層というのはマザコンが多かったのだろうといっておきます(逃げ)。男女の話はまたいつかじっくりと。



ところで、「変わり者に非寛容な社会にも創造性は育ちにくい。」(10/19-読売17面)って
これは、日本の現状を如実に現わしているとおもうけれども、個人主義者は「変わり者」ではありませんよ。
「変わり者」というのは個人主義者のことだとは言っていない?
日本は個人主義者を「変わり者」扱いしてきたでしょ。
例えば、Dr.中松とか。確かに変わっているが(笑)、他の先進国からみればなんにも変わっていません。私の行動だって、個人主義の観点からみるとなーんにもかわっちゃいません。(たぶん)

なぜ、芥川龍之介は自殺の道を選んだのでしょうか?
なぜ、松本智津夫はオウムを組織して、武力行使による国家転覆を目論んだのでしょうか?彼等の心理を理解できますか?
「変わり者」を「変わり者」と認識するような人々、自分の価値観をまわりと同調させ、あるいは、依存してきた主体性のない人々、既存の価値観にとらわれず様々な人々の交流や様々な経験によって自分の価値観を作り上げてこなかった人々には、決して彼等の行動は理解できない。

多様な価値観を認めあう個人主義社会では、「変わり者」は「変わり者」ではなくなる。それは、全員が「変わり者」だからです。そのことは、人間は本来、考え方も行動も全く別だという認識がある。自分の信念に基づいて生きていれば、他と「変わっている」のはあたりまえです。

「個人主義に徹している」先進国や、国際社会からみて、日本人ほどの「変わり者」はいないし、日本は「よく解らない変な国」なんですよ。これまでの国際的な活動って、先進国の中でうきまくっていたでしょ。
いいかげん、目を覚ましたらどうですか?
(敬称省略)






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10/19 '99

あーあ、、、会社での生き残り条件が厳しくなってきている。経済の末端である零細運送会社であってそうなのだから、有名企業は推して知るべしといったところか。この条件につていいけない者は、どんどんやめていってもらうだとさ。確かに経済は大きな流れがあって、上にいくか、下にいくかのどっちかで、いつまでも均衡ではない。今はその微妙なバランスの上にあることも理解している。会社が存在するからこそ、我々の生活が成り立つのも事実である。

個人主義者であっても、個人の心にもともと内在する、国や企業や家庭といった社会を意識した全体主義的価値観と、個人主義的価値観は常に葛藤している。これからは、「ついていける者」と「つていいけない者」の溝がますます大きくなっていくということか。そして、それは「自己責任」にゆだねられる、って、ハードルを高くして、「自己責任」もなにもないと思うが。 日本は特に企業は、「平等」や「自己責任」をうまく利用するねぇ。ほんとに(ずる)賢いと思う。したたかなのか。

企業が、国の保護をはなれて、「自己責任」に基づき自由競争に突入するのは、資本主義社会にあっては当然のことではあるが、それだけでは、殺伐とした世の中にしかならない。

弱者や敗者の心身的ケアの意味で、機会の平等(例えば、入社規定の大幅な緩和や撤廃)と真の民主主義思想の強力な徹底が望まれる。人間は国や企業のための道具ではないという国民レベルでの意識の徹底、個人の人権の擁護の徹底が必要である。


教育について、もう少し言及すれば、子供社会は大人社会の鏡であるということを大人が自覚するべきである。

援助交際などというのは、まさに大人が、自分のことしか考えず、金やはく(名誉や地位といった外見的なもの)にこだわったことの現れである。逆にいえば、大人達が多様な価値観をみとめ、地位といったものにこだわらないないのであれば、それは自然と子供にも浸透するということだ。

個人主義の発達した社会にあって、やってはいけない事、モラルに反する事をダメと教える方法というのは、子供に様々な規制をかけるのではなく、社会の犯罪や事件に対して、大人達が意志をもって反対したり、糾弾し、責任がどこにあるのかといったことを追求する「姿勢」を子供達にみせることだ。





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10/11 '99

個人主義の発達について。(詳しく)

個人主義の発達の萌芽は、若者が「新人類」と呼ばれた頃にあるのではないか。それまで、日本人は、権力的なものに盲目的に従属し、自分のすべてを捧げ、そのなかに自分の価値や生きがいをみいだしていた。それは、自分を押し殺すことであり、我慢や根性といったものが不可欠であった。明らかに滅私奉公は、開国後も美徳であり、我慢に耐えたものが社会での成功者とみなされた。

しかし、長期にわたる欧米などの他国からの文化の浸透や、他国との交流は、日本人の心に様々な変革をもたらした。ブラウン管を通して、様々な国の文化、意見、価値観にふれることは、他者と自分を見つめ直すことであり、それは個人主義を発達させる基礎となった。

個人主義の発達というのは、様々な価値観にふれることにより可能なのであって、同じ価値観の社会では、発達しにくい。日本の若い世代に浸透している現在の個人主義は、決して、欧米の模倣なのではなく、科学技術の発達によって様々な情報が流入し、また、交流が行われやすくなったことにより、年月をかけ徐々に形成されていったと考える。

それは、開国後、人道主義的、個人主義的な考え方から大正デモクラシーがうまれたが、社会の確固たる基盤にならずに、その後戦争に突入していったしまったような脆弱なものではなく、歴史的な大きなうねりのようなものだと感じている。

「新人類」に話をもどすと、当時、若者は大人達に、「若者の考えていることが解らない。」といわれた。そのことは、旧来の「個人は全体の一部」という考え方から、「個人は個人である」という思潮が社会に表面化しはじめたということであり、日本は全体主義から個人主義に徐々に移行しつつあったのだといえる。

当時、多くの若者にとって、大学へいくことは、目的ではなく、その後の生活を安定させるための手段と化していた。それは、日本経済が右方上がりに発展していたからだ。親のいいつけ通りに、勉強をし、よい大学に進学すればするほど、よりよい企業に就職でき、その後の生活は保証されるといった現実に、国民の多くがとらわれていたが、日本が経済発展のために優秀な人材を確保するための、国による社会主義型システムの巧妙なプログラムでもあった。

多くの若者は、将来の安定のために勉強を頑張ってはいたが、その一方で、「本当は、ミュージシャンや、漫画家、アニメーター、イラストレーターといったものを目指したかった」と思っている人が多くいるのを私は知っている。そして、そのような個人主義の芽生えは、物がありあまるほど豊かになったからではなく、長期の他国との交流によって日本に自然に発生してきたのだと思っている。勿論、物が豊かであるから、それらが促進されたのだとは言えると思う。

しかし、一方で、受験戦争や学歴社会に身をゆだねざるをえなかったというのは、当時の若者にとって、個人主義というのは個人のなかに確固たる基盤を形成しえなかった。あるいは、好調期の社会がそれを容認しなかったともいえる。

経済発展に身を粉にして働いている大人たちにとって、個人主義は、ただの「利己主義」であり、「わがまま」や「甘え」を象徴するものであり、日本において、個人主義者の多くは、「ダメな人間」、「堕落した人間」として扱われてきた。そして、それらのことによって、彼等は彼等で多くの精神的なダメージを与えられ続けてきた。(勿論、私も。)

私は、「新人類」と称される、当時の若者というのは、自己発生的な個人主義指向と、大人達の旧来の日本的な全体主義指向の狭間で、翻弄させられたのだと思っている。だから、大学は専攻分野を追求する場ではなく、遊ぶ場、つまり押し込められた自己を解放する場と化していたのである。

これらの経緯をみると、例えば学級崩壊という現象は、しつけや教師の資質の問題によるのではなく、より新しい世代における個人主義指向という、旧来の日本人の価値観とは全く逆方向の「ムーブメント」であり、今日まで日本にくすぶっていた個人主義が、大きな力となって具現化してきたのだと思っている。(おそらく、それは、より新しい世代ではなくとも、例えば「ダメ連」現象なども その根底に個人主義指向への模索というものがあるのではないか。)

私は、世界的観点から、日本人が本当に人間的に、日本は国際的に、成熟しはじめつつあるのだと思う。それを生かすも殺すも国のあり方にかかっているとも思う。勿論、我々もそのことを理解し、認識しなければならない。





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10/10 '99

社会主義体制は人間は「人間」であるという事実の前に脆くも崩れさった。それは、物理的摩擦によって、「永久機関」というものが存在しないのと同様に、「人間」はその内部に合理化しえない、摩擦をふんだんに含んでいるということだ。そして、それこそが「人間」を人間たらしめているものだと私は理解している。

日本は、強力な中央集権体制のもとで、社会主義的なシステムを様々な分野に導入してきた。それは、経済にしろ、教育にしろある程度の成功を納めたが、人間自身にさまざまな歪みももたらした。

学級崩壊は、詰め込み授業や、偏差値による過度の競争原理の導入による「強引な教育レベルの向上」という、国の独善的な教育システムに対する、子供達の最も純粋でプリミティブな反発であると思っている。私は、親のしつけがいいかげんなのでも、子供に我慢がなくなって、切れやすくなったのでもないと思っている。

最近の子供や若者は切れやすい、我慢がないといわれる。それは、子供達や若者をとりまく環境が、彼等に無理を強要するような状態であるからだと考えられないだろうか。

私は子供たちが、あるいは新しい世代が、少しずつ個人主義に移行しつつあるのだと感じている。それを旧態依然とした教育システム、社会システムにあてはめていれば、ゆがみが生じるのは当然ではないか。
ましてや、日本の社会主義的なシステムというのは、理想論であり幻想であったことを考えるとなおさらである。

大人たち大衆自身、それぞれ個性があり、ばらばらの考え方をもち、知識人や権力者といわれるエリート達とは、「人間的」になんら大差ない。むしろ、社会の下層の人々のほうが、人間味があると実感している。数々の問題や事件が、必ずしもその肩書きによるものではないことを私たちは理解している。

また、社会主義がすぐれたものだといって、今日までその神話に酔ってきたのは、学者や知識人であり、その体制に巣くう権力者たちであって、社会的地位の低い人々や浮浪者達はすでに幻想であると見切っていたと考えている。なぜなら、逆に見切っていたからこそ、その地位に安住を見い出しているからだ。

そのような一部の個人主義に徹している人々にとって社会主義型の経済運営が、全く無意味であると感じているのと同様に、子供達も、個人主義が発達するにしたがって、我慢や根性といったものによる盲目的な従属は、全く無意味化しつつある。

では、個人主義が発達している先進国の子供たちは切れやすいのか?といえば、そうでないことは明らかであり、では、なぜ日本だけが切れやすいのかと考えた場合、日本の子供達は、本能的に教育のあり方とのギャップを直感していると考える方が妥当だということだ。

個人主義が発達している社会において、我慢や根性というのは強要されるものではなく、自らが様々な経験によって体得していかなければならないものだ。子供達や若者からすばらしい個性とともに、わがままや甘えが解放されて出てくるのを、大人が「我慢がたらん。我慢せよ。」とか、管理を厳しくせよというのは、個性やそこから生ずる創造性までも同時につみとってしまう危険がある。

管理を厳しくするのはとても簡単だ、しかし、そのことに頼らざるをえないというのは、大人たちの側の自信のなさの裏返しだと思う。逆に、わがままや甘えを、やんわりとうけとめてやる度量と信頼関係の構築が大人たちの側に必要だと思う。


少子化問題について。
これは、日本が社会主義的なシステムを様々な分野に導入してきたことによる、最も深刻で重要な問題である。

まず、少子化問題というのは、決してそれが環境に起因するものではない。なぜなら、環境水準は世界の国々と大差がない、むしろ環境に対する取り組みは日本の方がすぐれている。
では、なぜ日本だけが?

平均的な結婚年齢が上がっている、男性の精子の減少、SEXレス夫婦に代表されるような平均的なSEX回数の減少、男女の同質化、などが直接的な原因として上げられる。

私が学生の頃は、受験戦争まっただななかだった。日本の平均株価も上がれば、大学進学率も上がっていた頃。多くの若者は、将来安泰でいられるようにと勉強をし、あるいは勉強を強要され、大学にゆき、大学で遊び、大企業に就職していった。それが、おしゃれな生き方だった。そのころから私は運送屋で働いていたが、3Kといって若者がなかなかあつまらなかったことを覚えている。
(ちなみに、今は不況のせいか、若者が多い。驚いている。)

日本の学歴社会は、教育水準の高い若者達を生みだしたが、そのプライドゆえに肉体労働をしなくなっていった。多く若者は知的職業につくが、そのような頭脳労働は多くの精神的なストレスを生む。男性の体は女性に較べ、はるかにストレスの影響を受けやすい。これは、生殖能力に限らず、自殺が多いのもアルコール中毒なるのが多いのも男性の方である。

つまり、過度の学歴社会によるストレスは、「男性の側」に生殖能力の減退をもたらした。

男女の同質化についても同様だ。近年、若い男性が女々しくなった。それは、受験戦争によるストレスからくるものであったり、学歴に依存しがちな親の過保護であったりだ。男性は男らしくなくなったかわりに、女性が男らしくなってくるのは、おそらく女性の側に、本能的にスタビライズ機能が働いているのではないか。
男女が中性化する社会は、男女にとって平和で住みやすい世界である。
深夜であっても平気で独りで歩いている女性をみかける。

フェミニストの描く世界というのは、おそらくこのような世界ではないかと思う。 しかし、男性が女性を生殖の対象とみられない世界というのは明らかに、種の保存の法則に反している。少子化というのは、その具体的な現象であり、フェミニズムが、そのような世界を理想としているとしたら大きな誤りだといわざるを得ない。なぜなら、社会主義と同様、人間は「人間」であるという観点が欠落していおり、人間は決して合理化できないからだ。
そのような社会の種は少子化をたどり絶滅する。

近年、一般に理解されているように " 人間の「男らしさ、女らしさ」は、周囲の期待によってつくりあげられた一種の性格のようなものである " のだとしても(私は信じていない)、人間がその種を存続するためには「男らしさ、女らしさ」は必要であると思う。大切なのは「男らしさ、女らしさ」という差異をお互いが尊重しあうことだと思っている。

日本は強力な中央集権体制国家であり、それえに社会主義型システムの暴走をとめられなかった。最初に経済システムが破綻していなければ、最後には日本人という種まで絶やさねなかったと言えないだろうか。





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1/10 '99

日本の社会主義型経済体制の崩壊について。

日本政府は、その強力な権力を行使して企業や情報(マスメディア)を表にでたり裏にまわってコントロールし、欧米諸国が100年かかった経済発展を50年でなしとげた。この経済システムは、経済の面からみるととても素晴しいものだったといえる。
しかし、市民生活上にその経済システム(経済発展という指標のもとにすべての国民が自分を押し殺して生活するよう強いる- 個をなくすようコントロールされてきた。社会主義型というのはそういうことでしょ?)ゆえの弊害が噴き出していたのも事実である。情報をコントロールし、経済発展こそが人々を豊かにする、学歴が高いことが良いことだ(偏差値偏重)、という世間の風潮などを利用した、個人本人がその人生から体得したわけではない指標の強要は、さまざまな問題を市民生活上に発生させた。

・物が豊かになったのに、心が充実しない。(外からの指示を自分を押し殺して成し遂げたところで、達成感や充実感はあるだろうが、人生に対する幸福感はあるのか?)
・没個性。(顔のみえない日本人)
・同調志向。(他人の指標にたよる。)
・マニュアル志向。
・創造性のある生活への模索の欠如。
・体制からはみだした人間への差別視。(人間性の否定。蔑視。いじめ。)
・責任感の不在。(外からの指示だからという言い訳。)
・アダルトチルドレン
・人間のメンタルな部分に起因する事件(体制からはみだした人間の疎外感に起因する事件。(オウム事件。))

.....etc

このような社会現象は、あきらかに個を抑制することを強いられた結果であると考える。

人間の成長過程において、個を押し殺すというのは、精神的な成長を妨げるということ、精神的に未熟な大人になるということである。ここでいう、精神的に未熟な大人というのは「抑圧された個というものが解放されたときに、自己抑制がきかず大変傍若無人にふるまう大人」ということである。(身近な例でいえば、酒によったとき、家庭にもどったとき、会社(組織)のそとで、マイカーに乗ったとき、ネットのような自由な空間があたえられたとき。)

市民生活上ということに限れば、ほとんどが人間の精神に深く関与したものである。政府の社会主義型経済体制というのは、甚だ人道を無視したものだといえる。ちがうだろうか?そして、その体制は実際に精神的に未熟な大人を大量につくりだした。それは現在も続いている。(親から子。)

バブル時に我も我もと土地や株の投機に走ったり、世界環視のもとで名画を価値以上に高騰させたり、国民感情を無視してアメリカのビルを買いあさったり、バブル崩壊後もアジア諸国の経済をただ保身のために無責任に乱開発させること(私にいわせれば悪あがき)は、本当の大人のすることだといえるだろうか?

外国から資金が日本に流入してバブルが発生したとき、それに拍車をかけた当時の現象(日本人と日本企業の行動)というのは、抑圧されてきた個が突然解放されたことで、精神的に未熟な大人たちが同調行動を起こしたことなのだと思う。国民全員に自己抑制がきかなかった。国民全員が暴走し、政府自らの手で終息せざるを得なかった。

つまり、日本の社会主義型経済体制というのは、そのシステムのもたらした弊害によって、内部崩壊した。結果論だが、この体制はそのような宿命を内包していたといえる。 仮にこの体制により景気が回復したとしても、バブルが発生すれば、必ず同じ事を繰り返すであろう。世界に対してモラルのない行動をとる。迷惑をかける。そういうシステムなのだからこの体制は。

{ 今だに、日本のお偉いさんたちは、日本の社会主義型経済体制の過去の神話にしばられて(経済発展の実績の面しかみていない)、国民に対して意識を鼓舞するようマスメディアをコントロールしているようですが。具体的指標のない国民は何をどうしていいのか、少しも解らない。メディアをコントロールして企業家精神をあおったところで、指標を強要されてきた人間にそんなものが芽生えるのか。本当に新しい需要を創りだすことができるのか?物があふれているから物がうれなくなったのか?日本経済は本当に円熟期なのか?人類は常に新しいものを創造して文明を開拓してきたはずなのに?アメリカ経済の再生はどう理解するのだろう。そして、現体制で景気が回復したところで日本は世界に対して同じ過ちをおかす。}


日本は今後どうするのか。

先ず、本当の民主主義というものを各個人が体得できるような国家に変えるべきである。日本型の民主主義(例えば、和による芸術的民主主義)なんて存在しない。それは日本の社会主義型経済体制を維持するためのこじつけである。
政府の情報操作(指標の強要)から個を解放させることである。国民が自己責任の原則に基づき、自分でものを考え、自分で指標を創りだし、自分の生活を切り開くことができるようにしなければならない。

これには時間がかかるだろう。この国家に移行したところで、早急に景気が回復するわけでもない。しかし、現状の様々な問題をみる限り、日本は本当の民主主義国家というものを目指さなければならないのではないか。また、人類の本来の目的が文明を切り開き発展し、進化していくのであれば、絶対に個は抑圧されてはならないはずである。
それは本来、戦後、日本が最初にしなければならなかったこと。開国したのだから(世界の一員なのだから)。何もなかった当時、日本が社会主義型経済体制を敷かざるを得なかったのは想像に難くないが、その体制のもとで短期間に過度に経済を発展させるような政策は無用だった。時間をかけ緩やかな経済発展をさせつつ経済は自由資本主義に移行し、真の民主主義国家を目指すべきであった(その時点で、日本の社会主義型経済体制というのは消滅していたと考える。)。
おそらく戦後50年間の日本人の行動は民主主義国家の先進国の人々からは、とても冷ややかにみられていたのではなかろうか。どんなに、短期間にすばらしく経済発展をとげたところで、技術大国になったところで、世界の人々は日本人を心の底から尊敬していたわけではないと思う。つまり、「そんなことではないだろ、人間的に大人になるのが先だろ」と。私は日本人として、とても恥ずかしく感じていた。)

民主主義において言えば、今の日本の体制のもとで自分はみだした、とか疎外感を感じている人は、全くそんなことを感じる必要がない。その人は真っ当に人間らしく、自分に偽りなく生活しているとさえいえる。外部の指標をそのまま鵜呑みにして自分の指標にし、自分を殺して頑張って、その目的を達成し、「私は自分に逃げなかった。私は偉い。」なとどと、思い上がっている人間こそ非難されるべきだ(いや、思い上がっていなくても、認められない。)。自分の選んだ指標から逃げるな、とはいえるかもしれないが、他人の押し付けられた指標から、逃げ出すことのどこが悪いのだろうか。

人間は個を解放しつづけて大人に成長していく。大人になるというのは、地位やお金のために個を抑え、苦汁をなめなければいけないことではない。個を解放しつづけた結果、その人がその社会的地位にあったとしても、だれからも非難されるべきではないし、自ら卑下する必要もない。その人は大人になったということだから。それができてこそ社会的地位がどうであれ、お互いが尊敬し合える社会、世界の人々も尊敬してくれる社会が実現するのだと思う。
そして、その社会が経済的に裕福かどうかは解らない。もし、そこにすむ人々の社会が経済的に裕福ではなくても、人々は貧しいとは思えども、心の豊かさ(幸福感)は感じているのではなかろうか。



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