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神話『ブルーポールズ』

【第5巻】-

 

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 次の年、パークス大統領は新年の教書演説で、民族の誇りを鼓舞し、国家総動員体制の推進を高らかに謳った。世界に君する最強国になるというのがスローガンだった。さらに大統領は、三つの排斥という言葉を使い、異人種の排斥、拝金主義の排斥、退廃芸術の排斥を推進すると宣言した。

 異人種の排斥と拝金主義の排斥は密接に結びついており、異人種の人々の隠し口座が次々に摘発されてその預金が国庫に入れられ、再軍備の推進に活用された。異人種の者たちの新たな巨額の隠し口座が摘発されるたびに新聞は大きく取り上げ、悪を誅する政府の正義を支持した。また、異人種事業者には、二倍の所得税、五倍の相続税が課せられた。このため、国外に退去する事業者があとを絶たなかったが、国外退去者の財産をすべて没収する法律はこれまた国庫を潤わす結果となった。さらに、ブラーニアに残る異人種の者たちはしだいにゲットーに集められ、押し込められるようになっていった。

 ブラーニアの民衆は熱狂的にパークス大統領と政府を支持した。

「偉大な民族、偉大な国家、偉大な軍隊」

という標語がいたる所で語られ、ポスターとなって貼り出された。

 その影響はじわりじわりとルンベルグにも迫っていた。これに対して、レーがー首相は毅然として強弁した。

「我が国は純然たる独立国である。自由意志を持ったまぎれもない独立国である。他国の干渉によって国政が左右されることはない。」

 しかし、その言は次第に空々しいものに響いていった。

 ルンベルグの公職へのブラーニア人採用問題、ルンベルグ企業におけるブラーニア人の処遇の問題など、ルンベルグ内のブラーニア人に対する扱い、ブラーニア企業のルンベルグ国内での企業活動に関する制約の問題、輸出入品の関税問題など、さまざまな所でブラーニアからの強圧的ともとれる要求は後を絶たなかった。そして、それらの要求は常にパークスの恫喝ともとれる強い言葉を伴い、ルンベルグ人の神経をかき乱したのだった。

 レーがー首相はルンベルグ防衛のため、他国との連携に力を注いでいるようだった。だが、隣国のビシュダールは自国のことで精一杯であり、ブラーニアと事を構えることを望んでいないのは、国境地帯へのブラーニア進駐を黙認した事実からも明らかだった。コヒツラントは国内に混乱を抱えていてルンベルグの問題に耳を傾ける状況にはなく、海の向こうのランズウッドは前大戦の記憶から大陸の問題には距離をとっていた。

 こんな状況の中、ゲーベルたちも真剣に身の振り方を考えねばならなかった。

「大陸に留まり続けて良いんだろうか。」

 そう問いかけるゲーベルに、

「でも、おれたちにはなんの非もないじゃないか。」

とフェドラーは口を尖らせたが、危機が忍び寄っていることを明確に否定できる者はいなかった。現に、グスタフは既に海を渡り、ランズウッドの市民権を得ているのだ。

「暴力を愛し、暴力を必要としている勢力がブラーニアからルンベルグに広がろうとしている。しかも、彼らは理想なるものを掲げ、理想を目指しているように振る舞っているが、その内側にあるのは、独りよがりの思い上がった権力意思、暴力への意思でしかない。」

 このナユタの言葉に、ゲーベルが応じた。

「彼らは、平和や自由や協調を古くさい弱々しい人間たちの産物として蔑み、テロや暗殺で世情を不安にさせ、野蛮で乱暴な言葉で人々を駆り立てている。しかも、異人種排斥を正義を貫いているという顔をして推し進めている。逃げ出すのは惨めだが、でも、ほんとうに、この地に留まり続けて良いものかどうか、と思うんだ。」

 マティアスは大きくうなずいて言った。

「行くんだったらランズウッドだな。向こうの音楽大学に伝手があるんで、あたってみるよ。みんなで一緒に行くことを考えてみるよ。」

 ナユタも言った。

「ぼくはレジナルド卿に相談してみる。」

 

 ナユタがレジナルド卿を訪ねて相談すると、レジナルド卿は言った。

「難しい時代になりましたな。シュテファンもグスタフもランズウッドに渡りましたし、ナユタさんたちが海を渡られるのは賢明なことかもしれません。もちろん、ランズウッドはルンベルグやコヒツラントへの支持や支援を続けているし、今後も続けてゆきます。ですが、自由が次第に奪われ、異人種の方々に対する敵意がはびこり始めた現在の社会の情勢を考えると、やむを得ないかもしれません。ともかく、シュテファンのときもいろいろお手伝いさせてもらいましたし、今回もお役に立つことであれば、できる限りのことはさせてもらいます。もし、ランズウッドの市民権をご希望なら、ご希望に添うように取りはからいます。少なくとも、向こうで生きてゆくには市民権があった方がなにかと便利だし、安全ですからね。万が一のことですが、ブラーニアとの戦争でも起こったら、ブラーニア国籍の友人の方々は市民権がなければ、強制送還とか収容所ということになりかねませんから。もちろん、その時亡命という手もあるが、亡命者と市民では全然違いますからね。」

「ありがとうございます。お世話になりますが、どうぞよろしくお願いします。ところで、レジナルドさん自身やフランツ王子は特にお変わりなくですか?」

 ナユタがそう言うと、レジナルド卿は難しい顔をして答えた。

「これもまた難しい状況です。フランツは既に亡くなった旧皇帝の嫡子ということもあり、心の底では皇帝への復位や帝国の復活を思い描いているようで、最近はブラーニアと何かと接近しているようです。パークスは危険だということは言っているのですが、国を追われ、こうして惨めな亡命生活を余儀なくされている彼にとっては、ブラーニアからのさまざまなアプローチに心が動いているのは致し方ないのかもしれません。それにパークスは危険だと私が言っても、現実のパークスの成功と人気を目の当たりにしたら、頼りたくなる気も分からなくはないのですが。」

「そうですか。それでレジナルドさん自身はどうされるのですか?」

「正直言うと、帝師を辞任することになる日も近いと思っています。まあ、そうなれば、もとの外交官に戻るわけで、あとは外務省の指示に従って勤めるまでです。」

 

 こうして、レジナルド卿の協力も得つつ、ナユタたちはランズウッドへの渡航の準備を進めたが、そんなある日、とんでもない事件が起こった。フィガラッシュの一流ホテルの一室でキャサリンが全裸の死体で発見されたというのだ。その事件は新聞で大きく取り上げられたが、警察の発表は、殺人として捜査中ということだけだった。

 ゲーベルやナユタはこの報道にびっくりしたが、次の日には、さっそく警察の人間が尋問にやってきた。彼らは、特に、ゲーベルに厳しい目を向けているようで、ゲーベルは尋問を受けるために警察に連れて行かれ、ナユタや仲間たちも尋問を受けた。ナユタたちもある程度は知っていたが、ゲーベルとキャサリンは相当に親密な関係だったようで、警察からは二人の関係についてしつこく聞かれた。ナユタは知っていることをしゃべったが、どうもそれらはほとんど警察も把握しているような感じだった。

 特に警察がこだわっていたのは、キャサリンが亡くなる一週間ほど前に、あるバーで、キャサリンとゲーベルが感情的にやり合っていたという店員の証言だった。警察は、痴話話のもつれ、あるいは別れ話のこじれが原因でゲーベルがキャサリンを殺害したのではないかという線で調べているようだった。

 ナユタはそのことについては何も知らなかったが、マティアスは、キャサリンが亡くなる三日前に、ゲーベルから「彼女とは永遠に縁を切った。」という言葉を聞いたということだった。

 ゲーベルが警察での長時間の尋問を終えて帰ってくると、みんながゲーベルを取り囲んだ。ゲーベルは疲れ切った表情だったが、

「まるで犯人扱いだ。」

と、憤りを抑えられない調子で言った。

 警察では、キャサリンとの関係のことを事細かに聞かれ、キャサリンが死んだと思われる時刻のアリバイについても厳しく追及されたということだった。

「だけど、おまえはその時は自分の家にいたんだろう?」

 そう問いかけたマティアスに、ゲーベルは吐き捨てるように答えた。

「ああ、だけど、その証拠はって警察の奴らは言いやがる。そんなものはあるわけがない。だけど、おれが彼女に会ったのは、一週間前が最後だからな。」

「だけど、聞いた話によると、そのとき、バーで相当、キャサリンとやり合っていたそうじゃないか。」

「ああ、そうだ。彼女がブラーニアの高級将校と付き合っていると聞いて、問い詰めたんだ。彼女は最初はしらばっくれていたが、結局認めた。だけど、彼女は、反ブラーニアで、いくつかの地下組織にも通じてる。本気でブラーニアの将校とつきあうはずなんかない。」

「スパイということだな。」

 そう口を挟んだナユタに、ゲーベルは黙ってうなずいた。マティアスが言った。

「やばい付き合いということだよな。こう言ってはなんだが、女の武器ってものがあるからな。男のスパイにはできない手口でブラーニアの将校から情報を取ってどこかに流していたとしら、ブラーニアの裏組織からマークされる恐れは十分にあるな。」

「ああ、だから、そんなことは止めろと言ったんだ。だけど、彼女はそれ以外に手はないじゃないと言って、きかなかった。」 

 ナユタが聞いた。

「それが、店員が聞いたという口論か。それで、その中身は警察に話したのか?」

 ゲーベルは首を振った。

「いや、警察には、彼女に新しい恋人ができたというので、ちょっとひと揉めしたが、結局、きっぱり別れたと言った。それ以上は言ってない。」

「じゃあ、ブラーニア将校のことは言ってないんだな。」

「ああ、言ってない。反ブラーニア組織とのことも何も言ってない。そもそも、おれもそんなに詳しくは知らないしな。」

 ナユタは胸をなで下ろした。ゲーベルも自分で分かっているようなので、敢えて言わなくてもと思いつつ、ナユタは念を入れて言った。

「絶対にそのことは誰にも言うなよ。ブラーニア将校のことも、反ブラーニア組織のこともな。このことがブラーニアの裏組織の者たちの耳に入ったら、おまえも命を狙われかねない。ルンベルグの警察の中にもブラーニアのスパイは入り込んでいるし、おまえがそのブラーニア将校の名前を知っていると思われたら、まちがいなく危険だ。」

 ゲーベルだけでなく、マティアスもフェドラーもこの言葉にうなずいた。

「おそらく犯人はブラーニアの裏組織の者たちだな。だとしたら、犯人は捕まらないな。」

 マティアスはあきらめ口調でそう言ったが、彼らにとってより重要なのは、ゲーベルにあらぬ疑いがかけられないようにすること、そして、裏組織の者たちから狙われないようにすることだった。

 だが、そんな中、ブラーニア系の新聞には新芸術を堕落芸術として弾劾する社説が載り、人々の精神を混乱させる毒のようなものだという痛烈な非難を展開した。今回の事件も、堕落芸術を推進する芸術家と称している者どもが、実は破廉恥でいかがわしい世界に足を突っ込んだ連中に過ぎないことを示唆している、という論調もあとを絶たなかった。

 ゲーベルはその後も何度か警察の聴取を受けたが、ほとんど犯人と疑われている、あるいは犯人との関わりあいがあると疑われているような扱いのようだった。何といっても、明白なアリバイを証明できないことが辛かった。

 そんな時、突然、新聞で知らされたのが、セルゲイの楽座のナンシーがブラーニアでスパイ容疑で逮捕されたという記事だった。ブラーニア系の新聞によると、彼女はブラーニアの複数の政府高官と関係を持ちながら軍事情報を聞き出し、それを反政府勢力やビシュダールに流していたという容疑のようだった。

 マティアスはナユタに詰問口調で、

「これはどういうことなんだ?」

と言ったが、ナユタは沈痛な表情で答えた。

「おれにも分からん。そんなことは聞いたことがなかったからな。ただ、彼女はキャサリンとも顔見知りだったから、キャサリンの件も関係があるのかもしれない。ブラーニアやルンベルグがスパイ活動の摘発に躍起になっているのかもしれないな。」

「だとしたら、危険な兆候だな。どんなことで疑われるか、分かったものじゃない。それでなくても、おれたちは退廃芸術とかいうことで敵視されているしな。」

 マティアスはそう言ったが、二日後、新聞に、ナンシーが銃殺刑に処せられたという記事が掲載された。自白に基づく弁護人なし上告権なしの即日裁判での判決ということだった。

 マティアスは言った。

「おれたちの回りは敵ばかりだ。キャサリンの件もナンシーの件もある意味、おれたちへの警告だ。ここにいたら、何が起こるか分からない。このままこの国に留まるのは、もう限界だよ。何かが起こってししまってからでは遅い。ランズウッドに行こう。」

 そう言って、マティアスは、ニュークルツの音楽大学から教授のポストの申し出があったこと、仲間たちも音楽大学で職を用意してもらえるらしいことを説明した。

「だが、おれたちは何一つ悪いことはしてないぞ。」

 フェドラーはそう言いはしたが、「だから、留まろう。」とは言わなかった。

 たしかに、世界はまだ破滅してはいない。希望がまったくないわけではないかもしれない。だが、大陸ではさまざまな摩擦が火花を飛び散らせ始めているのだ。毎日のように聞こえ、報道される国家間の不協和音、紛争や騒乱、そして、国会での扇情的な演説の数々。世界は下り坂の道を歩いている。いつそれが発火し、暴発しても不思議ではないのだ。

 ゲーベルが言った。

「ルンベルグの国会にも、退廃芸術を排斥する法案が提出されたしな。ブラーニアからの圧力があるのは明らかだ。もうこんな国に未練はないよ。」

 こうして、四人はランズウッドへの移住を決意し、改めて準備を進めた。

 マティアスは、田舎で絵画に専念しているクロイシュタットに手紙を書き、一緒に移住しないかと誘った。だが、クロイシュタットからは、今回の提案への感謝の言葉を添えて、断りの返事が来た。キャサリンのことで心を痛めていることとも書かれていた。クロイシュタットが申し出を断った第一の理由は、彼女が身重であることだったが、彼自身も田舎で絵画に専念できる今の生活を棄てる気はないようだった。

「自然は単調に美しいが、その内にはさまざまな可能性と矛盾が内在している。まさに創造力が無限に膨らむ領域だよ。ぼくは自然の美しさに浸りながら、無数の曲線で世界の混沌を形作ってゆく。これこそぼくが描きたかったものだ。」

 そんな言葉も手紙に記されていた。

 しばらくして、ニュークルツの大学から、マティアス以外の三人も音楽科の研究員として採用するとの通知が来た。四人はさっそく渡航ビザの申請をした。

 

 マティアスらがランズウッドへの渡航準備を進める中、ブラーニアのパークス大統領は隣国ルンベルグの中でブラーニア人が多く住むアーネスト地域への干渉を声高に主張し始めていた。

 パークスはこの行動のために周到な準備をしており、アーネスト地方のブラーニア系住民が迫害を受けているというプロパガンダ映画を次々と作っていた。映画の画面では、まさに困窮させられていると見える貧しく打ちひしがれたブラーニア系住人が涙ながらに窮状を訴えた。

「私たちはただ静かに暮らしたいだけ。だけど、ルンベルグ人は私たちを嫌い、のけ者にし、今や警察や軍隊までもが私たちを敵視しているんです。とうとう昨日、ここから出て行け。さもないと逮捕して銃殺すると脅され、家を出てきたんです。もう住むところもありません。これからどうしたらいいか。」

 ルンベルグからの自治、独立を目差すブラーニア人党の党首も敵意を剥き出しにして迫害が半公然と行われている現状を非難し、あからさまにブラーニアからの救援を要請する言葉まで口にした。

 ブラーニアの新聞は、アーネスト地方のブラーニア人を保護すべきとする社説を次々と掲げ、パークスはこのような世論の支持も受けて国会で演説した。

「アーネスト地域は二重の意味で我が国の生存と密接にかかわっている。まず第一に、その地域の安定が我が国の安全にとって死活的に重要である。しかし、アーネスト地域の治安は安定せず、ブラーニア経済への障害となる事件が頻発している。ブラーニア資本の工場でのルンベルグ人のストライキ、ブラーニア製品不買運動などはその最たるものだ。そして、第二に、アーネスト地域には極めて多くのブラーニア人、すなわち我が同胞が住んでいる。しかし、アーネスト地域のブラーニア人はルンベルグ社会で差別され、抑圧されている。この同胞を見捨てることは断じてできない。」

 パークス大統領は、ルンベルグからの危機を排除し、自民族の安全、自立のために、止むにやまれず併合に踏み切ると説明したが、世界中からはあらゆる非難が沸き起こった。そして、各国は軍備増強へと舵を切り、どの国も国民総動員に向けた施策を推進していった。一触即発の危機であった。

 だが、パークスはいささかもたじろがなかった。パークスが国会で演説してから二週間後、ブラーニアは決然と、アーネスト地域の割譲をルンベルグに要求することを宣言した。

「戦争か平和か、それを決めるのはルンベルグだ。ルンベルグが我々の要求に従ってアーネスト地方のブラーニア人に自由を与えるか、それとも、我々が自らその自由を勝ち取るか。私は我が民族の闘争のために、その最初の兵士として先頭に立つ。」

 このパークスの演説を聞くと、ナユタは顔をしかめて言った。

「これはもはや単なる脅しじゃない。ブラーニアには断固たる決意と、それを実行する武力が備わっている。二年前なら、ビシュダールやランズウッドが断固として起てばブラーニアをおしとどめることもできただろう。だけど、今はもうそう簡単じゃない。」

「だが、ブラーニア人だって戦争を望んではいないだろう。」

 そうマティアスは言ったが、ナユタは首を振って答えた。

「どうだろうな。ブラーニアにも反戦論者はいるだろうけど、多くの人々の心を覆っているのは、前大戦での敗北に対する復讐心とこの現状を打破したいという願望だろう。それに、」

 そう言ってナユタは言葉を切った。そして彼は仲間たちを見回すと、

「これは重要なことだが、」

と前置きした上で続けた。

「パークスは、成功が確実に見通せるだけの準備を整えてから行動を起こすのでは、逆に、成功はおぼつかないことを直感的に理解しているんだ。ビシュダールとの間の非武装地帯への進駐の時と同じだよ。危険が明白になれば、他国も必ず準備を整える。だから、パークスは不確定な状況の中で、決然と賭けに出ることによってのみ成功が得られることを知っているんだ。そして、実際、大陸の国々は、過去のパークスの威嚇の前には頭を下げてきたわけだしね。」

「それに、闇組織を使って、周到な工作もしているのだろうな。」

 そう言ったのは、ゲーベルだった。

 実際、この二年、ルンベルグでは、反ブラーニアの要人の暗殺や爆弾によるテロが社会不安を煽っていたが、誰もが、その背後に、ブラーニア、そしてパークスがいることを信じていた。明確な証拠は挙がっていなかったが、それは誰にとっても公然の秘密であった。

 そして、ブラーニアでは大ブラーニア復活を唱える勇ましい言葉が吹き荒れ、ルンベルグでも、そんな言葉を声高に叫ぶ者たちがのさばり始めていたのだった。

「いやな時代になったものだ。ある教授が、二の二倍が何であるかを決定するのは、大学の教員ではなく将軍である、と言ったというが、まさにその通りだな。」

 そうゲーベルが吐き捨てるように言うと、他の者たちもただうなずくばかりだった。

 

 そんな中、マティアスたちはランズウッドへの渡航準備を急いだが、手続きはなかなか思うように進まなかった。ゲーベル、マティアスの二人がブラーニア国籍で、かつ異人種であることが障害になっていることは明らかだった。

 実際、役所や大使館での手続きはさまざまな妨害を受けた。ナユタとマティアスが手続きに行ったときには、係の者からあからさまに言われた。

「このゲーベルというのはあの殺人犯のゲーベルじゃないか。それで仲間でつるんで海外に逃亡しようってのか?そんな書類は判子は押せない。」

 ナユタは、ゲーベルは事情聴取を受けただけで、逮捕もされておらず、犯人でもなければ、容疑者ですらないと言ったが、係官は鼻で笑うだけだった。

「ちゃんと書類は揃っているはずだ。」

とマティアスは言ったが、係官は冷ややかだった。

「駄目だ。おれが言うようには書いてない。それにおまえたちは異人種だろ。異人種のくせに、偉そうに書類は揃っていると上から目線で言われてもな。どの面下げて判子をいただきに来てるんだと言いたいね。」

 そんな係の者たちの冷ややかな態度、嫌がらせとしか思えない対応の数々に辟易せざるを得なかったが、それでも苦労の末、ようやく渡航の手筈が整った。

 だが、出発の一週間前、ゲーベルが突然、再び、事情聴取のため警察に拘束された。キャサリン殺害事件の犯人としての疑いが依然として晴れていないようだった。

 マティアスは警察署を訪れたが、係官はとりつくしまもなく、最後には、

「おまえも仲間だろ?まずは自分の身を気を付けることだな。」

と吐き捨てるように言われただけだった。

 しかも、マスコミは政府からの扇動もあったのかもしれないが、異人種の退廃芸術家の恋人が裸の死体で発見されるというスキャンダラスな事件の新展開として騒ぎ立てた。

 いつもの場所にマティアス、フェドラー、ナユタが集まると、マティアスは憤慨し、机を叩いて怒りを爆発させた。

「当局の奴らはおれたちを目の敵にしている。キャサリンを殺した本当の犯人を真剣に探しているのかどうかも怪しいもんだ。おれたちはやつらとは違う人種で、しかもやつらの気に入らない芸術をやっている。やつらはおれたちを抹殺したいんだ。でもおれたちが何をしたと言うんだ。ただ、音楽を奏でただけじゃないか。いったいこの国はどうなってるんだ。」

 だが、フェドラーは弱々しい声でつぶやくように言った。

「船には乗るのか?」

 フェドラーは落胆しているように見えた。ナユタには、状況は極めて危険なように見えたが、「船に乗ろう。」とは言い出せなかった。たしかに、ここに残っていてはマティアスやフェドラーも危ないかもしれない。当局は渡航許可を与えはしたものの、別の理由を見つけて拘束しようとしているのではないか。その背後には、ブラーニアの息のかかった者がいるのではないか。そんな思いがナユタの心の中を交錯した。

 マティアスも考え込んでいた。仲間を見捨てるわけにはいかない。だが、ここに残って何ができるのかという疑問、何もできはしないのではないかという絶望感がマティアスの心を縛っているようだった。

 だが、マティアスは、結局、しばらく出発を延ばそうと言った。この言葉を聞くと、ナユタは言った。

「ルンベルグは本来民主国家のはずで、そうであれば、証拠もなくゲーベルを引っ張るなんて論外のはずだ。おそらく、ブラーニアの息のかかった者たちが後ろで手を回しているんだろう。だが、ともかく、もう少し努力しよう。明日、もう一度警察に行こう。ぼくも一緒に行くよ。それと、いろいろ、伝手を頼ってやってみよう。レジナルド卿にも相談してみるよ。」

 レジナルド卿にはこのところしばしば相談に乗ってもらっていたが、ゲーベルがまた警察に連れて行かれたことを伝えると、レジナルドは言った。

「危険な状況ですね。警察にも知り合いはいるので努力してみますよ。でも、ともかく、ゲーベルさんは国から睨まれているんでしょうね。一刻も早くこの国を離れた方が良い。」

 その甲斐があったのかどうか分からないが、ともかく、六日間の拘束でゲーベルは解放された。ナユタはゲーベルの件を事細かに海の向こうに渡ったグスタフとシュテファンに書き送っていたが、彼らが公に声を上げたり、ルンベルグの知り合いを動かしたことも効果があったかもしれなかった。実際、ゲーベルの件はルンベルグやビシュダールの音楽界も重大な関心を寄せ、この件に対して、少なからぬ音楽家や文筆家が芸術への言われなき批判と声を上げたのも事実だった。

 たしかに、キャサリンが殺害されたと思われる時間のゲーベルのアリバイが証明できない点はゲーベルの弱みではあったが、逆に、ゲーベルを犯人扱いすべき明確な証拠は何一つ見つかっていないのだ。

 ナユタはぽつりと言った。

「おそらく、ブラーニアに近い者たちは当局にゲーベルを逮捕させたかったんだろう。だけど、無理と分かって、ゲーベルが海外に移住するなら、実質的な国外追放ということで解放したんだろうな。」

 ゲーベルは帰ってくると、

「疲れたよ。」

と肩を落とし、

「本当は、キャサリンの殺害のほんとうの犯人を捜さなきゃならないんだけどな。」

と言ったが、そんなことができるはずがないこと、もしそれをしようとすればどれほどの危険が降りかかってくるか分からないことは誰にもよく分かっていた。それに、犯人を探し当てたとしても、それでどうしようというのか。どうにもなるものではないではないか。

 ナユタは改めて、ニュークルツへの船のチケットを予約した。

 

 出発の日、ナユタはフェドラーと供に駅に行き、そこでゲーベル、マティアスと落ち合って、列車で港に向かった。駅で買い込んだ新聞の一面に載っていたのは、ブラーニアのパークス大統領がルンベルグのレーガー首相を首都シュタルバーに呼びつけたという記事だった。

 パークスは、ブラーニアの首都シュタルバーで、居丈高にブラーニアの要求を突き付け、声を荒げて、ブラーニアの要求の正当性を主張し、

「私は断固として決意した。譲歩の余地はない。」

とこぶしを握っていったということだった。

 この危機に瀕して、ルンベルグのレーガー首相はいっそう苦しい立場に追い込まれた。パークスの要求のすべてが内政干渉であり、不当で不快極まりないものであったが、両国の現状、その力関係からすべてを無碍に否定することはできなかった。

 レーガー首相は、ブラーニア系住民及びブラーニア人に対する暴動や暴力を阻止し、彼らの安全と権利を確保するための最大限の努力を行うことを約した。だが、そんなことでパークスが納得するはずはなかった。しかし、レーガー首相もパークスの要求を呑むわけにはいかず、反論した。

「もし、ブラーニアがアーネスト地域に進駐するなら、望むと望まざるとにかかわらず、流血の事態になるだろう。我々は世界で孤立しているわけではない。」

 それは毅然とした言葉ではあったが、パークスは嘲るような笑みを浮かべて言った。

「たしかに、流血は避けられないかもしれませんな。だが、我々の決意を妨げる者がこの地球上にいるなどと信じてはならない。一昨年の非武装地帯への進駐の時、ビシュダールは結局何もしなかった。ランズウッドは海の向こうで言葉を弄していたに過ぎない。ましてや、ランズウッドやビシュダールほどの武力も持たないコヒツラントに何かできるわけがない。」

 そう言うと、パークスは、ブラーニアの要求を手渡したのだった。

 この記事を読むと、マティアスは仲間たちに言った。

「もうここに残っていてもできることは何もないことがはっきりしたな。危機は目の前にまで来ている。そして、歴史の巨大な渦がぼくたちを飲み込もうとしている。この国では、ぼくたちはもみ殻のごとき存在でしかない。軽く、役に立たず、ただ踏んづけられるだけだ。でも、海の向こうにはきっと希望がある。きっと新しい道があるとぼくは信じるよ。グスタフもぼくたちのことを待っているはずだし。」

 フェドラーはうつむいたままうなずいた。彼の眼には涙が浮かんでいた。

「ぼくたちの生きてゆける場所ってどこなんだろう。ぼくには破壊の世紀がやってくるのが見える。かつての美しかったものは朽ち、狂気があらゆるものの中に忍び込んでいる。」

 そうフェドラーは弱々しくつぶやき、この記事を見てますますふさぎ込んでしまった。

 だが、ナユタは気が気ではなかった。新聞報道によれば、ビシュダール、ルンベルグ、コヒツラントなどで戦争準備が進み始めたようだった。総動員令が発令され、参謀将校たちが慌ただしく行き来し、兵隊たちが列車で進発し、艦隊が動員されているということだった。都市で防空壕が掘られている写真も載っていた。新聞に拠れば、安全なところへ避難しようと、田舎に引っ越す人々も多く、また、ランズウッド行きの船にも人々が殺到しているようだった。

 そんな目で列車に乗っている回りの人々を見回すと、明日にも空から爆弾が降ってくるのではないかというような巨大な不安と緊張が彼らの心に覆い被さっているようにも見て取れた。予約通りちゃんと船に乗れるのか、船は予定通り出航するのか、そんな不安もナユタの心をよぎった。

 いずれにしても、こんな事態の中、ぐずぐずしていてはますます危険なのだ。当局が別の理由を見つけてゲーベルを再び拘束しようと考えている可能性もないとは言えなかった。ともかく、大事なことは船に乗り込むことだ。保安隊や憲兵などと関わるとどんな不測の事態、どんな面倒なことが起こるか分からなかった。ナユタは三人に一切しゃべることを禁じた。

 港に着き、ランズウッドへの船が予定通り出港するという案内を見つけるとナユタはほっとした。港は旅行者などでごった返しており、かまびすしかった。特にルンベルグへのパークスの要求を見て、他国に避難する道を選んだ異人種の者たちが多いようにも見受けられた。

 ナユタは三人を待合室のベンチに座らせると、ひとりで窓口に行って手続きを行い、ポーターを呼んで荷物を運ばせた。ただ、ナユタが密かに心の中で恐れていたほどの緊迫した空気ではなく、職員はいつも通りに仕事をこなしており、ポーターは普段通りに荷物を運んでくれた。

 ナユタはそれでも安心できず緊張した表情を崩さなかったが、船に乗り込むゲートで旅券とビザを係員に見せると、係員は機械的に書類を確認しただけだった。近くに保安隊の制服を着た二人の男がいかつい顔で立っていたが、四人は何事もなく通過できた。

 ナユタは三人を連れて、急いで船に乗り込んで一等船室に入ると、三人に部屋の中でじっとしているように言い、ドアには鍵をかけた。窓にはカーテンを降ろし、外を見ることも禁じた。

 ゲーベルとマティアスはほっとしたようにソファーに腰を下ろしたが、フェドラーは椅子に座ると疲れ切った表情で、つぶやいた。

「まるで逃亡者だな。」

「疑心暗鬼になりすぎているのかもしれないが、用心に越したことはないからな。」

 そう言ってナユタは軽く笑顔を見せ、船室に置いてあったグラスを四つ取り出すと、持ってきていたスコッチの瓶をあけて注いだ。

 マティアスはスコッチを口にすると大きくため息をつき、何か言いたげだったが、何も言わなかった。まだ緊張の時間が続いているのだ。

 外では、吹奏楽団がにぎやかな音楽を奏でていたが、しばらくして大きな汽笛が鳴った。いよいよ出航らしかった。カーテンの隙間から覗き見ると、たくさんのテープが投げられ、多くの見送りの者たちが手を振ったり帽子を回したりしているのが見て取れた。

「外はどうだ?」

 ゲーベルが小さくそうつぶやいたが、ナユタは、

「出航したよ。」

とそっけなく答え、ソファーに座り込むと、スコッチを口にした。

 再びナユタが立ち上がってカーテンの隙間から外を覗いた時には、陸地ははるか遠くなっていた。

「もう大丈夫だろう。」

 そう言ってナユタはカーテンを開けた。遠くなる陸地を見つめて、マティアスが感情を押し殺したような声で言った。

「これでこの国ともお別れだ。懐かしい思いが詰まっている土地との別れ、ひょっとしたら永遠の別れだな。」

 この言葉を聞いて、ゲーベルは目を潤ませた。

「おれは両親も姉夫婦も妹も残して来てしまった。何もしてやれなかった。」

「向こうに着いたら、手紙を書けばいいじゃないか。戦争になったわけじゃないんだ。」

 マティアスはそう言って元気づけたが、ゲーベルは首を振った。彼の心を覆っているのは、マティアスが口にした言葉通り、もう二度と戻ってくることはないかもしれないという感情、生まれ育った大陸への永遠の別れという感情だったかもしれなかった。

 ナユタは元気づけるように言った。

「でも、希望は持っているんだろう?向こうには自由と希望があるって言ってたじゃないか。」

 答えたのはマティアスだった。

「ああ、希望はきっとあるさ。ただ、生まれ育ったところに特別な思いがあるのは人間として当然のことだしな。それに、今日は希望を持てる気分じゃないし。」

 ゲーベルも言った。

「ああ、そうだな。これから何があるか分からないし。だけど、あの国に残っていても何もないからな。」

 だが、フェドラーは窓の外を見もしなかった。彼はただつぶやくように言った。

「こんな世界に生きることにどんな意味があるんだろうな。ばかげた主義や理想なるものの下で狂気に駆り立てられている世界。ぼくたちの自由で純粋な精神の発露なんて、ただ乱暴に踏みにじられるだけの世界。なあ、どう思う。この世界の価値って何なんだろうな。」

 誰もこのフェドラーの言葉に答え得なかった。

 しばらく経って日が暮れ、水平線が赤く染まると、ボーイが夕食を運んできてくれた。レストランに行くこともできるのだが、ナユタは用心のため、追加の料金を支払って食事はすべて部屋に運ばせることにしていた。キャサリン殺人事件が広く知られていただけに、ゲーベルを公の場に出していらぬもめごとが起こるのも避けたかった。

 ボーイが料理を並べ、シャンパンを運んできてくれると、ナユタは多めのチップを渡した。若い少年のボーイは嬉しそうに受け取り、

「ご用があれば、いつなりと。」

と言って出て言った。

 ナユタがシャンパンを抜いて各自のグラスに注ぐと、マティアスが精一杯の軽い口調で言った。

「久しぶりのディナーだな。やっと気持ちをくつろがせて食事を楽しめるな。」

「ああ。特に、ゲーベルはたいへんだったからな。」

 このナユタの言葉にゲーベルはやや硬い笑顔を浮かべてグラスを合わせて言った。

「ありがとう。ほんとに恩にきるよ。ここにいれるのもみんなのおかげだ。正直言えば、割り切れない思いと憤りとが心の底で渦巻いているけど、ともかく、無事に船に乗れたことをありがたく思わなくちゃな。」

 ナユタが言った。

「ああ。それにグスタフをはじめ、おまえのために力になってくれた音楽家や文筆家もいたからな。向こうではグスタフが待っている。手紙をもらったんだが、音楽の活動のこととかも力になるって書いてあったよ。」

 マティアスが大きくうなずいて言った。

「ありがたいな。先に国を出て行った仲間たちにもまた会えるな。」

「ああ、そうだ。これからは自由に音楽を奏でられるんだ。」

 ナユタはそう言ったが、ゲーベルはぽつんと別のことを言った。

「ほんとはキャサリンもここにいたら良かったんだがな。」

 ナユタもマティアスもうなずきつつもなんと答えて良いか分からなかったが、ゲーベルは続けて言った。

「実はあの日、ランズウッドのことを彼女に言ったら、彼女は逃げ出したくないと言ったんだ。祖国がこんなときに祖国を捨てるなんて絶対にできない。自分にできることがきっとあるはずだってな。」

 ナユタはうなずき、ただ、

「キャサリンのために。」

と言って杯を掲げたのだった。

 

 食事が終り、ボーイが食器を片付け終わると、ナユタは、

「ちょっと外へ行ってくる。用があるんで。」

と言って、自分の鞄を抱えて部屋を出た。

 向かった先は客室総支配人の部屋だった。控え室のスタッフに取り次いでもらい、総支配人の部屋に入ると、ナユタはいかにも世慣れた人間という風情で言った。

「お忙しいところ恐れ入ります。ほんの少しだけですが、ご挨拶をと思いまして。」

 そう言うと、ナユタは菓子折りの箱を差し出した。

「甘いものがお好きかどうか分かりませんが、ぜひ航海の間よしなにと思いまして。」

 総支配人は笑顔を見せ、

「あまりそのようなお気遣いには及びませんぞ。」

と言ったが、菓子折りを受け取ると上目使いで言った。

「菓子にしては重いですな。どんな菓子なのですかな。」

「総支配人様へのご挨拶の品ですので。ちょっと開けて見ていただければと思います。」

 総支配人は箱を開けて中を見たが、菓子の下に引いてある白い紙をちょっと持ち上げると、下にランズウッド紙幣の束があるのに気がついた。総支配人は箱を元に戻すと、慇懃な口調で言った。

「一等船室のナユタ様とおっしゃられましたな。」

 そう言うと、彼は客室名簿をめくり名前を確認し、改めて言った。

「なるほど。ゲーベル様もご一緒なのですな。」

「ええ。本来なら何の問題もないのですが、世の人々というものはゴシップや醜聞が好きですのでね。いらぬいざこざが起こってこの船にご迷惑をお掛けしてはと心配いたしまして。」

 総支配人はすぐに事情を飲み込んだようだった。

「ええ、よく分かりますよ。私どもはお客様の個人的な事情には立ち入りませんし、いらぬ詮索もいたしません。皆様方にだただ気持ちよく航海をなさっていただければと思っているだけです。ですが、ナユタ様のご懸念もよく分かります。特別に気を配っておくことに致しましょう。」

 この言葉にナユタは頭を下げ、続けて言った。

「船長にも手土産の品を用意しております。船長に会わせていただければ、ありがたいのですが。」

 総支配人はごもっともという表情を見せ、

「では、さっそく一緒に行きますかな。」

と言い、ナユタを連れて船長室に向かった。

 総支配人はまずひとりで船長に会い、用件を伝えてくれたようだった。総支配人は、

「では船長にお会いください。」

と言って、ナユタを船長に引き合わせ、自分は引き上げていった。

 船長は白髪交じりの恰幅の良い老紳士だったが、ナユタからの土産を受け取ると、笑顔を見せて言った。

「お気遣い申し訳ありませんな。ですが、航海の間のことはどうぞご心配なく。一等船室のお客様のご意向に沿わないことなど微塵もするつもりはありません。私としては、ぜひ、この航海を楽しんでいただければと思っております。」

「ありがとうございます。ぜひよろしくお願い致します。」

 ナユタが頭を下げると、船長は上機嫌で続けた。

「ですが、ランズウッド船籍の船を選ばれたのは賢明でしたな。これが、ブラーニアの船だったら、どうなっていたか。ともかく、ランズウッドは自由と希望の国です。ランズウッド一市民として、皆様の移住を心より歓迎致しますよ。」

「ありがたい言葉です。残念ながら、大陸は生きにくい国になってしまいました。これから先のことも展望が開けておりませんし。」

「そうかもしれませんな。でも、大陸のことは大陸の中だけのこと。この海の向こうは別の世界です。海も自由。海の向こうも自由。あなた方を自由の世界が待っているということです。」

 楽天的な船長の言葉とその態度から、この船長には大陸の者たちの悩みなど分からないのだろう、分かろうと思いもしないのだろうとナユタは感じた。だが、そんな姿勢が普通に通用する世界が自分たちを待っているのだ。

 総支配人や船長にここまで気を配る必要があったかどうかは分からないが、彼らが機嫌良く受け取ってくれ、にこやかに対応してくれたことを見ても、役に立ったのだろうと思えた。それはかつてマナフやイルシュマを見てナユタが学んだことでもあった。念には念を入れてなのだ。

 部屋に帰ってナユタが総支配人と船長のところに挨拶に行っていろいろと配慮をお願いしてきたと告げた。マティアスはうなずいて言った。

「いろいろ気を遣わせるな。船の手配にしても通関にしてもみんなナユタに面倒を見てもらえてありがたいよ。」

 ナユタは笑って答えた。

「たいしたことじゃない。多少のことは世慣れているしな。」

 次の日の午後、マティアスが船内の様子を見てみたいというので、ナユタは二人で外に出た。甲板に出ると大海原を見渡すことができた。美しい光景だった。

 この航海は、ある意味、気の滅入る航海ではあったが、マティアスは努めて明るくふるまい、しばしば、ナユタを連れて甲板に出たり、時には船内の催しに参加したりした。船内では、一等船室の旅行客たちが思い思いに日々を楽しみ、昼間はプールで泳ぎ、夜はパーティやダンスに興じていた。

「ほんとうは、ゲーベルやフェドラーも連れてレストランで食事をしたり、バーで飲みたいんだけどな。」

 マティアスはそう言ったが、ゲーベルを連れ出さない方が良いことはマティアスにも分かっていた。フェドラーはこの航海の間、何回か部屋を出たが、彼の心は晴れやかではないようで、人が集まる場所へ行くのは気が進まないようだった。

 実際、マティアスとナユタがどちらかと言えば希望を持って海を渡ろうとしているのに対し、ゲーベルとフェドラーは逆だった。あるとき、フェドラーは言ったものだった。

「ぼくはただ逃げ出してきただけだ。祖国に留まっても、パークスの影に脅かされ続けるのは目に見えている。それはぼくにもよく分かっている。でも、ランズウッドにしろ、ニュークルツにしろ、ぼくを受け入れてくれる世界なんだろうか。海を渡るのは決して喜ばしいことじゃないが、それでも不幸な中でましな方ということだよな。」

 マティアスは、

「でも、希望を失ってそんな暗い気持ちで新しい世界に踏み込むのは良くないよ。」

と言ったが、そっけなく答えたのはゲーベルだった。

「希望だって?希望なんてもてる時期じゃないよ。」

 たしかにそれは、キャサリンが殺され、自分が犯人扱いされ、パークスの脅威と異人種に対する人々の反感をかいくぐってきたゲーベルの本心であったろう。

 十日間の航海を終えて、船が新大陸の国ランズウッド連合王国の首都ニュークルツの港に近づくと、眼前に広がる巨大なビルの群れが見えてきた。それは青いすっきりと晴れ渡った空に映え、ナユタたちに胸膨らませる希望を投げ与えた。四人はデッキに出てこの光景を眺めたが、マティアスは感慨深げに、

「新世界だな。」

とだけ言った。

 フェドラーは目に涙をためていた。ずっと彼を苛んでいた巨大な心の苦しみが一瞬だけかもしれないが癒され、心に明かりが灯った瞬間かもしれなかった。故国では、ブラーニアに脅かされていたが、ここでは新しい世界が待っているのだ。

 

 船が港に着くと、ナユタたちは入国に関するさまざまな手続きを済ませた。手続きのために時間を要して多少はうんざりさせられたが、特段の支障は起きなかった。

 一方、旧世界では危機が迫っていた。手続きを終えて外に出て新聞を買うと、ランズウッドのシュタイン首相がルンベルグ問題で関係各国間の会議開催を提案したというニュースが載っていた。パークスの要求が引き起こした世界の危機に対して、シュタイン首相がようやく重い腰を上げたのだった。

 新聞には、シュタイン首相の次のような演説内容が掲載されていた。

「世界が平和への道を歩むのか、戦争への道を歩むのか、この会議がその分水嶺となることは間違いない。だが、私は逡巡することなく平和を贖うために全力を尽くす。それがランズウッド国民の願いであり、全世界の人々の願いであるからだ。」

 新聞には、大陸での緊迫した様子も載っていた。軍需工場は二十四時間体制のフル稼働に移行し、高射砲が至る所に設置させ、公園でも防空壕が掘られているようだった。ガスマスクの配布や子供たちの疎開も緊急の課題として検討されていた。

 まさに世界が顔をこわばらせて、シュタインが招集した会議を見守っていた。だが、はたしてシュタインに勝算はあるのか?それは誰にも分からなかった。会議の成功を期待する論調からまったくの悲観論までさまざまな憶測が飛び交ったが、ともかく、ランズウッドのシュタイン首相の呼びかけに応じて、ブエナという小さな保養地に各国の首脳が集って会議が行われることになったのだった。

 ナユタたちが入国後の慌ただしい日々を過ごす間も、ラジオのアナウンサーはこの会談について繰り返し伝え、新聞も多くの紙面を割いて各国首脳の動きを報じた。この会談が決裂すれば、再び世界大戦が始まる。多くの人がそう思ったし、実際、まさに世界の危機であった。

 新聞には、ストリートで怒号する新聞売りを通行人たちが取り巻く写真も載っていたし、多くの市民が街頭のスピーカーから流れるラジオニュースに緊張と不安の入り交じった表情で聞き入る写真もあった。徹夜して疲れ切ったラジオ局の職員が、

「ランズウッドに向けて嘆願の叫びを送った。」

と答えたという記事も載っていた。

 ブエナ会談に出席したのは、ランズウッド連合王国のシュタイン首相、ビシュダール共和国のハリソン大統領、コヒツラント人民共和国のケッセリン首相、そしてブラーニア共和国のパークス大統領だった。今回の問題の一方の当事者であるルンベルグ共和国のレーガー首相は会議への出席を認められなかった。そして、国内に深刻な課題を抱えるケッセリン首相には大きな発言力はなく、また、戦争は何としても避けたいがランズウッドの後押しなしには自力でブラーニアに対抗できないハリソン大統領にも積極的に会議をリードする力はなかった。ブラーニアを抑えられるとしたらシュタイン首相しかなかった。

 だが、そのシュタイン首相のランズウッドも状況は複雑だった。

 ランズウッド国内では、依然として孤立主義、保護主義が優勢だった。孤立主義は結局自国の国益を損ねることになると主張する勢力もあるにはあったが、それはあくまで少数派に過ぎなかった。世論の六割は大陸との関わりには否定的だったし、八割近くが開戦には断固反対だった。このためシュタインも、以前宣言した「何が起ころうと大陸に軍隊は送らない。」という声明を否定してはいなかった。

 また、ランズウッドの戦争準備が十分には整っていないということも容易に推し量かることができた。実際、ランズウッドの軍備拡張は遅れており、ブラーニアと真っ向から戦う軍事力も兵站能力もなかった。正規軍の規模は二十四万に過ぎず、完全装備の師団は、五個師団に過ぎなかった。百四十師団を準備させているブラーニアとはまったく比べものにならなかった。

 そんな会議出席者の力関係の中、ブラーニアのパークス大統領は、会談の冒頭で、今回の併合は自国の安全のためにやむを得ないものであることを主張し、その併合地域が民族自立のために必要な生存圏であると改めて主張した。

「民族自立のための生存圏を認めてもらうことなしに、他国との共存は不可能だ。」

 パークス大統領は、珍しく抑制した態度でそう述べたが、その奥に断固たる強硬な姿勢が潜んでいることは、この言葉を聞いたすべての出席者が感じ取っていた。

 しかし、他国の首脳たちも簡単に引き下がるわけにはいかなかった。彼らは口々に、このような併合が行なわれるとしたら、それは国際秩序への傲然たる挑戦であると非難した。

「国際秩序を守り、共存共栄を図ることこそが重要なのでは?それが貴国のためでもあると私は信じるが。」

 シュタイン首相は毅然とした決意を滲ませた声でそう主張したが、会議は難航を極めた。

 ラジオは決裂を予想し、アナウンサーは悲痛な叫びを電波に乗せた。だが、パークス大統領が、次のように断言したことで、会議の流れは大きく変わった。

「現在、我が国に必要な生存圏は今回併合する地域までで、それ以上の拡大は不要。」

 この発言に基づき、今回の併合提案のアーネスト地域をブラーニアの生存に必要不可欠な地域として認めることと引き換えに、これ以上の領土拡大は行わないことを条件に交渉が成立したのだった。

 ランズウッドのシュタイン首相は、ブエナでラジオに向けて演説した。

「世界の平和が守られた。我々人類の英知が平和を勝ち取ったのだ。それを証する書類が私の手の中にある。」

 翌日の新聞には、パークスの署名の入ったその書類を誇らしげに掲げるシュタイン首相の写真が一面に大きく載った。

 民衆もマスコミもシュタインを英雄扱いし、礼賛した。ある新聞は、かつて選挙の時にシュタインが語った言葉を引用していた。

「平和を目指す姿勢を常に持ち、複雑な国際問題の詳細を解き明かし、強引に戦争に引きずり込もうとする輩に対してノーと言える勇気を持ってさえいれば、我々は戦争をせずに済ますことができるのです。」

 まさに、この言葉を有言実行したのだ。シュタインの面目躍如たるものがあった。

 新聞を読んで、ナユタはマティアスたちに語った。

「シュタインは交渉で勝利を掴んだと思っているのだろう。戦後秩序の維持がランズウッドの目標であり、国家の繁栄のための道であるという基本路線に沿うなら、安全保障上の問題は国際協力と外交交渉で解決するのが基本戦略に合っているのだろう。要は、多少高くつくかもしれないが、それが平和と自国の繁栄を担保するための保険料ということなんだろう。」

「たしかに保険料は多少高いかもしれないが、また戦争をするよりはましだろうからな。あの惨禍が繰り返されれば、数百万人の犠牲が出かねない。だけど、おれには、パークスにいいようにやられて、彼の前に膝を屈しているようにしか見えない。」

 そう言ったのはゲーベルだった。それは怒りを含んだ言葉だったが、パークスに屈するかそれとも戦争か、もし二者択一しかないとするなら、どうすれば良いのか。それがシュタインの直面した葛藤だったろう。

 だが、ナユタは警告するように言った。

「パークスは祖国を再び偉大ならしめんとしている。彼にとっては、戦後の秩序はまさにブラーニアにとっては不利益そのもの、そして屈辱以外の何ものでもなかった。だから、戦後の秩序への挑戦は彼にとっては必然なんだ。そして、過去の屈辱と不公正を但し、祖国を偉大ならしめんとしたとき、軍事力によって領土を切り取る以外の道を彼らが見出すとはとても思えない。」

「それはどういうことだ?領土を拡大しないという約束を反故にするということか。」

 このマティアスの言葉に、ナユタは声を落して言った。

「おそらくな。他国は安易に考えすぎている。」

 次の日、ブラーニアの国防軍は、大挙してアーネスト地域に進駐した。パークス大統領は戦車に乗ってアーネスト地域を訪問し、ブラーニア国旗を振るブラーニア系住民たちから盛大な歓迎を受けた。広場は集まった群衆で溢れかえり、人々は歓声を上げて手を振り、旗を振り、喜びを爆発させた。

 パークス大統領はマイクの前に立つと、ブラーニアが世界の平和と秩序を重んじていることを声高に宣言し、さらに今後は、ルンベルグ政権とも連携することを謳い、世界の各国がブラーニアの行動の正しさを認識すべきと訴えた。

 理不尽な進駐だったかもしれないが、ともかく平和が保たれたのだった。

 

 ブラーニアによるアーネスト地域併合問題が決着したことで、ランズウッドの危機感は急速に消失した。ランズウッドの人々にとって海の向こうの大陸のことは、再び、遠いところでのできごと、新聞の中のできごとになった。ニュークルツには平和と活気が溢れており、自由が溢れていた。

 初めて大学に行った日に、事務長が言った言葉も印象的だった。

「ルンベルグからようこそ。この国には自由と平和がありますからな。政府も海の向こうの大陸には関わらないと宣言していますし、実際、我が国は自分たちだけで繁栄を築けます。ぜひここでの新しい活動の場を活かしていただければと思います。ご活躍を期待しております。」

 新しい生活が始まった。マティアスは大学の音楽科教授に就任し、ナユタ、ゲーベル、フェドラーは研究員として職を得たのだった。

 マティアスたちが未来への憧れと不安を持ってたどり着いた新しい街ニュークルツは、何もかもが巨大で活気に溢れた街だった。自然から切り離されたこの大都会と比べたら、フィガラッシュは緑と河に囲まれた田舎町だったようにも思えた。フィガラッシュではこんなにまで高層ビルは建ち並んでいなかったし、街のはずれからは広々とした平原や緑の森に覆われた山々を見ることもできたものだった。

 だが、ここニュークルツはまったく違う世界だった。見上げるような摩天楼の下で道を行く人々は他人の都合などほとんど考えていないかのように見えた。愛想良くしたり、丁寧な口をきいたりすることは人間としての弱さとでも考えているかのように、皆、無表情にすましこんでいた。だが、同時に、誰もが商売で一発当てることやこの街で偉くなることを夢みてエネルギッシュに動き回っている街、それがナユタたちの新天地だった。

 工場地帯に行くと、毎朝、地下鉄や鉄道の列車が次々に到着し、車両のドアが一斉に開くと、つなぎのデニムジーンズ姿の労働者たちが群れをなして降り立ってくる。彼らは列をなして高い煙突からもうもうと煙を上げている工場の中に吸い込まれてゆく。それがこの都市の活力、この国の活力の源でもあった。

 旧大陸のように、人々が小さな土地を巡って争い、諸国家が闘争し、一方で、さまざまな因習や伝統に縛られているのとは反対に、この新しい大陸では、広大な土地と未だ掘られもせずに眠っている膨大な資源があった。すべてが未来に向かって開け、さまざまな可能性を自由に試みることができる新しい文明がこの新大陸から始まろうとしている。そんな予感がマティアスたちを包んでいた。暗鬱とした気持ちで過ごしていた旧大陸での生活に変わり、希望に満ちた新世界がここにあるのだ。

 

 住む場所や新しい職場のことなどが一段落すると、ナユタたちはグスタフの歓迎を受けた。天才的な作曲家であるとともに、既に巨匠の域に達した大指揮者でもあるグスタフは、ニュークルツ交響楽団の音楽監督を務めていた。グスタフは四人を夕食に招いてくれたし、グスタフの演奏会にも招待してくれた。

 その演奏会は二晩に渡るもので、初日はアーノルドの室内交響曲とグスタフ自身の第九番の交響曲が演奏された。グスタフが指揮台に現れると満場の聴衆が一斉に立ち上がって拍手を送り、その後、水を打ったように静まり返った。そして、グスタフが優美なしぐさで指揮棒を振ると、アーノルドの何とも言えないほのかな香りに満ちたみずみずしい室内交響曲が響き渡った。この室内交響曲はグスタフに大きな影響を受けて作曲されたもので、この日が初演であった。そして、グスタフの第九番の交響曲は、涯しないはるけさの中から響いてくる空の青さのような美しさをもった曲であったが、フィガラッシュへの郷愁と新音楽を切り開く斬新な音階とが絡み合った大曲でもあった。その楽想は第三楽章から第四楽章にかけてしだいに悲劇的な色調を帯びてゆき、第四楽章では純粋な孤高の世界へと昇華していった。

 二日目は、百数十年前の大作曲家アマデウスの第四十一番の交響曲とグスタフの第十番の交響曲だった。第十番の交響曲は、この日が世界初演であったが、透明な大気が結晶化したかような美しさだった。その結晶化した音が、白銀の世界でスターダストのごとくきらきらと舞い踊り、けれど同時に、そのまなざしは、世界の向こう側にある静の世界を見通すかの如くであった。

 この二日間の演奏会で、ナユタは、かつてルンベルグの地方都市で、グスタフ自身の指揮で聞いた第六番の交響曲に優るとも劣らぬ感動を受け、しばらく口もきけないほどであった。澄みきった空間に広がってゆく叙情的な響きは、希求の響きとなって世界を駆け抜けるかのようであった。世界に横たわる根源的な悲しみを見つめる真摯なまなざし、けれど、彼方の世界に希望をかけるまなざしがそこにはあった。そして、常にはるけさを失わないその音楽の中に、はてることのないグスタフの天才的なきらめきを聞くことができたのだった。

 それは、まさに、かつてグスタフが語った

「この世界は白日の下にさらされている平板な世界ではない。この世界の根底に横たわっている暗みや深みに心を開くことがない限り、どんな真の音楽も生み出し得ないだろう。」

という言葉通りの世界であり、そして、彼が目指した

「誰も響かせたことのない響きを響かせたい。誰も描いたことのない世界を交響曲の中に生み出したい。」

という思いを実らせた音楽でもあった。

 アーノルドは、「天才とは自分自身を展開してゆく能力である。天才は無限の中に新しい道を求めるがゆえに、その展開は生涯を通じて広がってゆく。」と言ったというが、まさにグスタフの音楽は大衆のために創造するのではなく、ただただ自己の中から出て来るものを展開した音楽であった。だから、その音楽はグスタフが語っているのでもなく、その心を描いたものでもなく、むしろグスタフは傍観者のように沈黙し、音楽だけがただ淡々と悠々と流れる音楽だった。

 一方、グスタフは指揮者として数々のオペラを手掛け、演奏会を行っていた。彼の指揮するオペラは、かつてのようにエンターテナーとしての歌手が脚光を浴びる場ではなくなり、指揮者が全体を統率する高貴な一大芸術であった。彼は歌手たちが声を張り上げて好きなように歌うことを断固として許さなかった。

「私はプリマドンナのつまらない憤慨に耳を傾ける気もないし、テナーたちがリサイタルで何回アンコールを歌ったかを自慢し合うような話に付き合う気もない。私にとって大切なのは、舞台で演じられる芸術そのものだ。」

 それがグスタフが語った言葉だった。

 グスタフの指揮する舞台では、さまざまな斬新な演出が試みられ、生気に満ちたドラマが展開されていった。そして、演奏会では、グスタフの厳しい視線と繊細なタクトの動きから紡ぎだされる一つ一つの音が、優美で、けれど、意志の力に富んだ音の構築物へと組み上げられてゆくのだった。

 ただ、演奏会のプログラム構成に関しては、しばしば支配人と衝突しているようだった。支配人や楽団側が、基本的には拍手喝采を得るプログラムを望むのに対し、一方のグスタフは価値ある芸術という基本を押し通そうとするためだった。もっとも、「指揮は生活のため。」とも語っていたグスタフは聴衆の喝采が必要なことも理解しており、ある程度の妥協は図られたようだったが、グスタフが頑強に我を通すことも多いようだった。そして、それを支えたのは、結局は、グスタフの芸の偉大さと彼の絶大なる人気であった。

 グスタフは、人気のある通俗曲を極力廃し、古典の名曲の演奏と供に、たくさんの新しい時代の音楽の紹介に務め、自作の交響曲もしばしば取り上げた。ナユタは何度もグスタフの手がけるオペラや演奏会に出かけたが、何と言ってももっとも心を打たれたのは、自作の交響曲の演奏だった。

 ナユタはグスタフの交響曲を何度も耳にしたが、そこでいつも聞こえてくるのは、高貴で高潔な精神だった。低俗な民族音楽の安易な流用、低級な軍楽隊的行進曲、感傷的な叙情などという数々の批判はあったが、そこにはまぎれもなく理想を追い求め続けるグスタフの精神の輝きがあった。あの湖のそばの別荘でグスタフが語った言葉通りの音楽があったのだった。

 さらにグスタフはナユタたちを自宅での昼食会や夕食会にも招待してくれた。そこには、旧大陸では見られなかったような派手なおしゃれをした婦人たちが集まっていた。古い伝統にとらわれない自由で明るい気分がこの国の基本なのだと、ナユタは理解できた。

 そんな婦人たちとおしゃべりをしていると、あるとき、その婦人たちとあまりにも違う質素で地味な雰囲気の、あまりぱっとしない感じの若い女性が入ってきた。けれど、彼女は白い目で見られるのではなく、歓声をもって迎えられた。婦人の一人が、彼女の名前はクララといい、新進のピアニストであると教えてくれた。彼女は参加者に勧められてピアノを弾いたが、それは才能の発露が溢れんばかりの極めて個性的な演奏であった。演奏が終わると、彼女はみんなに取り囲まれて称賛を浴びた。才能のある者には、外見が貧相でも、貧乏であっても、金持ちたちも敬意を払い頭を下げる、それが新大陸の国ランズウッドなのだとナユタは実感した。

 そして、海を渡ってこの新しい国にやってくる音楽家たちをグスタフは熱心に世話していた。クララもその一人であった。かつての新音楽協会に属していた音楽家も少なくなかった。追われるように旧大陸を逃げ出してきた作曲家、パークスの政策に反抗してやってきたチェロ奏者、徴兵制を拒否して密航しランズウッドに亡命した歌手などだった。乞食同然の風来坊のようにやって来たヴァイオリン奏者もいた。パークスの政府から、異人種の妻を離婚しないなら一切の音楽活動を許さないと脅されてすべての財産を放棄してやってきたピアノ奏者もいた。グスタフは彼らに職をあっせんし、自身の演奏会に出演させるなど演奏の機会を提供した。そのため、グスタフの回りには、旧大陸の雰囲気がどことはなしに漂っていたのだった。

 グスタフのサロンでナユタが知り合ったのが、ヨーゼフという著名なヴァイオリニストだった。ナユタとゲーベルが一緒にいるところに、ヨーゼフが近づいてきてゲーベルに挨拶してくれた。

 既にランズウッドの市民権を得ていたヨーゼフは、

「こちらでの生活には慣れましたか?」

というありきたりの言葉で話しかけてきたのだが、ゲーベルは簡単なあいさつをし、ナユタを紹介をしてくれた後にこう言った。

「この前、セバスティアンの無伴奏ヴァイオリン・ソナタのレコードを買って、聞かせてもらいました。」

 ここからすぐに音楽談義になった。この曲はそれまでほとんど演奏されることがなかったのだが、ヨーゼフがその価値を再認識し、頻繁に演奏会で取り上げ、さらにはレコード録音も行ったことで最近注目を浴びている曲だった。そのレコードは、ナユタもゲーベルから貸してもらって聞いていたが、セヴァスティアンの素晴らしい音楽性とそれを真摯に奏でるヨーゼフのヴァイオリンに強く惹かれたものだった。

「あの曲は、長く忘れ去られていましたのでね。」

 そうヨーゼフは語り、さらに続けた。

「でもあの曲には、我々すべてが頭を垂れねばならない超越的なものへの畏敬とそれに向かい合うセバスティアンの謙虚さが、途方もない真摯さと厳粛さとともに凝縮されています。すべてのヴァイオリニストが心を研ぎ澄まして向かい合うべき曲と思っています。」

 そして、ヨーゼフは、今度の演奏会でもその曲を取り上げるので、良ければぜひと誘ってくれたのだった。

 その演奏会にはマティアスとフェドラーも行きたいと言ったので、ナユタたちは四人で出かけた。プログラムは、セバスティアンの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第五番とルートヴィヒのヴァイオリン協奏曲を中心としたものだった。

 ルートヴィヒのヴァイオリン協奏曲もセバスティアンに劣らない名演で、音の流露さやヴィルトゥオーゾ的なものを排し、真に語るべき音楽の真髄にのみまっすぐに向き合うヨーゼフの厳しい響きは、まさに求道者の音楽そのものだった。

「現代のヴァイオリンの技術と音のなめらかさは、五十年前よりはるかに高い水準に達しています。特に、中流のヴァイオリニストの場合はそうです。でも、偉大な音楽家は以前より少ない。現代の精神は、自然に熟したものを尊ばず、騒々しく感覚を強調し、人工的にことさら強調しすぎています。」

 そう語っていたヨーゼフの言葉をナユタは思い出した。まさに、彼はセバスティアンの曲を、通常のヴァイオリニストのように音の魅力を添えて演奏するのではなく、単彩の音で描いたのだった。

 演奏会の後、楽屋に行くと、ヨーゼフはいろいろな人々に囲まれていたが、それがようやく一段落したところで、ナユタたちはヨーゼフに近づいて挨拶した。ヨーゼフはちょっと皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。

「やっと、ほっとしますよ。私たち舞台芸術家は結局のところは聴衆の支持なしにはやってゆけませんから、それを無視することはできない。でも、私には、まだ少年だった頃、フェルッチョから貰った言葉が脳裏に焼き付いています。」

 フェルッチョは作曲家でありかつピアニスト、指揮者でもある著名な音楽家で、既に亡くなっていたが、ナユタもその名はよく知っていた。フェルッチョは現代の音楽に飽き足らず、電子音楽や微分音による作曲など、未来的な音楽像を提唱したことでも知られていたが、クロイシュタットは一時期フェルッチョの指導を受けていて、彼が金タライやブリキの板から出る騒音のような音を使った偶然性の音楽を試行していたのもまさにフェルッチョの影響だった。

「フェルッチョは私のノートにこう書いてくれました。まだ私が十四歳くらいだった頃のことです。」

 そう言ってヨーゼフはフェルッチョが書いてくれた言葉を教えてくれた。

「こう書いてありました。君の芸術が君自身を満足させること。その後に、他人を満足させること。大事なのは自分自身を満足させることです。短い言葉でしたが、たいへんに意義深いものでした。」

「まだ十四歳くらいのときのことなんですね。あなたは神童と呼ばれていましたからね。」

 そう言ったのはマティアスだった。ヨーゼフは軽い笑みを浮かべて答えた。

「ええ、でも、神童というのはたくさんいるんです。そして演奏会や劇場やサロンに引っ張り出される。ただ、ほとんどの神童は神童のまま終わります。私が今の私であるための道を拓いてくれたものの一つがこのフェルッチョから受けた啓示だったと思っています。」

 それは自らが納得できる音楽をひたすらに探求するという求道者のようなヨーゼフの音楽家としての精神が凝集された言葉だった。

 

 ヨーゼフが語っていたフェルッチョについて言えば、グスタフのところで催されたパーティで、ナユタがグスタフにそのことを言うと、グスタフは感慨深げに、

「彼は実に素晴らしい音楽家でした。」

と語り、興味深い話を聞かせてくれた。

「あるとき、ルートヴィヒの第五番のピアノ協奏曲で共演することになったのですが、事前の話し合いで、作曲されてから百年近くの間にこの傑作に染み込んでしまっている伝統的な解釈のすべての付帯物を除き、伝統に拠らない完全にスコアに基づいた演奏をしようと決めたんです。伝統とは、だらしのないことの別名でしかありませんからね。我々の試みはその作品本来の新鮮さと純粋さで演奏しようというものだったのですが、リハーサルが始まるとちょっとした突発事件がありました。」

「突発事件?」

「ええ、突発事件です。我々はスコアやパート譜に鉛筆で書き込まれた覚書きを消してリハーサルを始めたのですが、第一楽章の練習が一段落すると、音楽委員会の有力な婦人委員が派手に立ち上がって声高に、『駄目です。これは絶対駄目です。』と憤りの声を発しながら練習室を出て行ったのです。」

「それでどうなったんですか?」

 ナユタがそう尋ねるとグスタフは大きく笑った。

「どうもなりはしませんでした。フェルッチョはただ淡々と楽団員に対してこう言ったんです。『我々はルートヴィヒが作り出した音楽を再現しようとしているだけだ。さあ、ちょっと休憩して次は第ニ楽章に取り組もう。』とね。」

 まさに、非迎合主義者、非妥協的純粋主義者であるグスタフとフェルッチョの面目躍如といった感のある逸話だった。

 

 一方、ナユタは既にニュークルツに来ていたシュテファンとも再会することができた。シュテファンは反パークス、反全体主義の先鋒として文壇で活発に活動していたが、ナユタがやってくると笑顔で歓迎してくれた。会うとすぐに、彼が今の時代に対して非常な危機感を持っていることが実感できた。

「ともかくランズウッドに渡られたのは良かった。でも、時代は今、非常に危険な時代に入ったと思っています。以前フィガラッシュにいたときに懸念していたことが次々に現実となり、さらに悪い方向に進んでいるとしか私には見えません。私にできることは書くことだけですが、できることならペンの力でルンベルグや大陸の国々を救いたい。でも、それも現実的には難しいかもしれません。ただ、少なくともこのランズウッドだけは、パークスと全体主義からの防波堤にならなければならない。そう信じて努力しています。」

 そう語るシュテファンに対してナユタは言った。

「その行為は立派ですよ。私は音楽を奏でることしかできないが、シュテファンさんなら人の心を動かし、世の中を動かすことができる。」

 シュテファンはちょっと皮肉っぽい笑顔を浮かべて答えた。

「どこまでできるか分かりませんが、それが使命だと思っています。でも、ナユタさんも自由な音楽を奏でることですよ。向こうでは禁じられていた音楽もここでなら響かせることができるわけですから。」

 そう言うと、シュテファンはさらに続けて言った。

「ともかく、ナユタさんもいろいろ感じておられるでしょうかが、ここは大陸とは大いに違う。まずはそれを見聞きするのも良いんじゃないでしょうか。人々の考え方も違いますし。」

 そして、シュテファンは、雑誌や新聞などに書いたものをナユタにも送ってくれることを約束してくれたのだった。

 

 こうしたナユタたちの大陸での生活で、特にありがたかったのは、大学から給料をもらえ、しかも大学のレコーディング施設を自由に使えることだった。そこにはさまざまな楽器と最新の音楽機器、録音機器が揃っていた。録音した音の周波数を変えたり、速度を変化させたり、音量を増幅することなども可能で、そうして変調された音を使いながら実際の音を奏でるという新しいタイプの音楽を創り出すことができた。

 特に、マティアスは興奮気味で、

「まったく新しい音楽を創り出すのに理想の環境だ。音楽と科学の有機的な融合がどんなに音楽を根本から活性化するか楽しみだ。」

とその施設に入り浸り、大学に了解させて、その施設の一区画に、『実験音楽センター』という看板を掲げたほどだった。実際には、センターと言うにはあまりに貧弱で、ほんの一部屋だけのセンターではあったが、そこが仲間との新しいたまり場になったのだった。

 

 一方、フェドラーはなかなかこの世界に馴染めないようだった。何より、彼の心には、旧大陸でのさまざまなできごとや体験から、自分の存在が世界の中でいかに脅かされているかという思いが渦巻いているようだった。また、若者の享楽的精神を軸にスピードと興奮を追い求めているニュークルツの低俗的なカルチャー、感覚を直接刺激するだけの耳障りな音楽、ランズウッド人たちのあけっぴろげな明るさにも反感を募らせているようだった。

 彼は言ったものだった。

「彼らはセヴァスチャンやアマデウスの音楽に耳を傾け、喜んで聞いているのかもしれないが、彼らにはセヴァスチャンやアマデウスの中で鳴り響いている最も高貴な美しいものが聞こえていないのだ。」

 この言葉にはナユタも同感だった。だが、だからといって、音楽の中の最も高貴なものを追い求めるフェドラーが心を凋ませているのはやるせないことだった。

「自分の音楽を書くことだよ。」

 ゲーベルはそう言ってフェドラーを励ました。だが、ある日、ナユタとゲーベルが大学からの帰りにフェドラーを誘って近くの公園を散歩したとき、フェドラーはつぶやくように言った。

「この公園はきれいに整えられているが、整いすぎている。ぼくの田舎はこんなじゃなかった。ぼくは田舎の野にぽつんと立っていたアカシアの木を思い出すよ。季節になると、白い花からかぐわしい香りが漂ってきたもんだ。その香りはぼくにとっては、音のさざ波のようなものだった。その木は田舎道の家並みのはずれに立っていて、その向こうには畑が広がっていた。さらにその向こうには空と雲。でも、ここでは、いろんなものが無味乾燥な都会の中に押し込められているんだ。」

 ゲーベルが答えた。

「でも、大学はぼくたちを迎えてくれているじゃないか。自分の音楽をやる場所がちゃんとあるんだ。そこは自分たちの世界だ。そこで自分がこうだと思う音楽をやる。それがやるべきことじゃないのか?」

 だが、フェドラーは首を振った。

「大学の者たちはもちろん暖かく迎えてくれたさ。でも、その暖かさの内には冷たい微笑が隠れている。この国にはほんとうの暖かさがないよ。自分を強く良く見せるための活気と強さがあるだけだ。苛烈慇懃とでもいうのかな。真の潤いがないんだ。」

 フェドラーはしだいにふさぎ込み、ますます自分の中に閉じこもるようになった。故郷の民族音楽を楽譜に起こすという壮大な仕事だけは異様とも言える執念で続けていたが、作曲にはあまり手がつかないようだった。大学に顔を出さない日も少なくなかった。

 心配したマティアス、ゲーベル、ナユタがある日彼のアパートに行くと、五線譜が汚らしく散らかった部屋の中で、うつろな目でフェドラーはこう言った。

「ぼくたちは世界の終りを見るために生まれて来たんだろうか。なにもかもが壊れてゆく。すべてが泥土の中に貶められ、真理すらも混濁した光に飲み込まれている。世界はもはや老い衰えているよ。」

 世界が死に瀕しているという重いイメージがフェドラーの心を苛んでいるようだった。その日の帰り道、マティアスは言った。

「たしかに、フェドラーの言うように、ぼくたちは世界の終りを見るために生まれてきたのかもしれないな。ぼくたちの祖父たち、曾祖父たちの時代はそんなじゃなかった。彼らは同じ世界で育ち、生活してきた。ただ一つの世界に安全に取り囲まれていて、同じリズムで生きてきた。外の世界は新聞の上のことで、戦争も騒乱も革命もどこかでは起こったのだろうが、住む家のドアを叩くどころか、かすかに揺らすことさえなかった。」

 ゲーベルも応じた。

「そうだな。だけどぼくたちの時代はあらゆるものがぼくたち自身に押し寄せてきている。戦争はみんなの上にのしかかったし、経済混乱とインフレ、テロと騒乱、弾圧と全体主義、そのすべてがぼくたちを取り巻いている。こんな時代はかつてなかったかもしれないな。」

 たしかに、そうかもしれなかった。そして、フェドラーは、そんな時代の中で、優しい響きに包まれた故郷の思い出と民族の音楽に郷愁を抱き、同時に、パークスによってこの地に追いやられた自分の境遇と大陸での軍靴の高まりに心を押しつぶされ、未来への希望を失っていたのだろう。

 そして、卑俗な騒音を嫌っていたフェドラーにとって、このニュークルツでの日々は常に彼の心をかき乱し続けるものでしかないようだった。満員の地下鉄に乗らねばならないとき、騒がしい場所に座らねばならないとき、彼の顔から憂鬱そうな表情が消えることはなかった。

「ここの者たちはぼくを疲れさせる。」

 そう呟くように言ったフェドラーはさらにこう言ったものだった。

「この大都会では、機械の音と調和する足取りを麻薬のように求める虚ろな存在者たちが闊歩している。地下鉄ではすさんだ空気が膨れ上がっている。ここの者たちは屈辱への道を歩いている哀れな生き物たちのようにしか見えない。」

 そんな彼を見て、マティアスがぽつりと言った。

「フェドラーは作曲をした方がいい。」

 ナユタもうなずいて答えた。

「そうだな。過去ではなく、未来に向かって歩かないとな。」

 それから数日経って、マティアスはナユタに語りかけた。

「この前、ザッハーに会ったよ。」

 ザッハーとは、現代音楽を擁護し、現代音楽の紹介や初演に力を入れている指揮者で、ナユタも二度ばかり会ったことがあった。

「ザッハーにフェドラーの話をしたら、それじゃあ、曲を委嘱しようと言ってくれたよ。」

「それは良かった。さっそく、フェドラーに伝えないとな。」

 この話を聞くと、フェドラーはすぐに曲に手を付け始め、次に彼がザッハーに会った時には、

「曲はもうほとんどできていますよ。」

と言ったほどだった。フェドラーは新しいヴァイオリン協奏曲を作曲しているということだった。

 その曲の作曲でフェドラーの心には活気が蘇ったようだったが、彼の心が精気を取り戻したもう一つの理由は新しい恋人ができたことだった。彼女の名はディッタと言い、フェドラーと同じルンベルグ人の若いピアニストで、パークスから異人種として受けた迫害のため、ナユタたちとほぼ同じ頃にニュークルツに逃れてきていた。ディッタは金稼ぎのためにフェドラーがピアノを教えていた生徒の一人だったが、ある日、新作のピアノ曲の楽譜を持って彼女のアパートを訪れ、突然プロポーズしたということだった。彼女はまだ二十歳そこそこのうら若い女性で、フェドラーとは二十歳ちかく歳が離れており、この突然の申し出に大いに驚き、困惑したようだったが、そのピアノ曲を弾いて結婚に同意したという。

 ディッタはフィガラッシュの音楽家一家の家に生まれた芯の強い女性で、両親と共にランズウッドに亡命してきていたが、ニュークルツになじめないフェドラーの心に共感するものがあったようだった。

 結婚式の後しばらく経って仲間たちと共に二人の家に行くと、室内にはルンベルグへの思いを感じさせるものがさまざまに飾られていた。その日はフェドラーがディッタに捧げたピアノ曲をディッタが演奏してくれ、フェドラーの表情もにこやかだった。

 帰りの道すがらゲーベルが言った。

「これでフェドラーも落ち着くかな。この国に来るのを一番嫌がっていたのがフェドラーだったし、全然なじめてなかったからな。」

 マティアスも言った。

「ああ、そうだな。しっかりした伴侶も得て、これからは道が開けるよ。才能は溢れているんだから。」

 ほんとうにこの日は三人にとっても嬉しい一日だった。

 

 一方、世界はその間にも激しく動いていた。ナユタは、毎日、新聞に目を通し、ラジオのニュースに耳を傾け、ニュークルツの地から、世界の動きに目を見張った。シュテファンが送ってくれたものにもすべて目を通した。独裁者の演説はしばしばラジオから流れてきた。新聞は毎日のように、紛争の話、騒乱の話、テロや暗殺の話を書き立てていた。

 だが、同時に、ナユタはこの新しい近代的な都市で、図書館に通い、美術館に通い、さらには蓄音機を購入して、さまざまな音楽を耳にした。

 美術館の静かな空間はナユタの心を癒した。この街にあるもっとも有名な美術館は大ランズウッド博物館であった。

 大ランズウッド博物館ではランズウッドの強力な国力を背景に世界各地から集めた美術品や工芸品が山のように展示されていた。展示室は人類の先史時代の洞窟壁画や謎のような紋様、彫像などを集めた部屋に始まり、各地の文明毎に分けられた部屋に続いた。数千年前の彫像、絵画、レリーフなどが展示され、なかには、その都市の陥落の際に火災に遭ったことが判別できる城壁の壁画もあった。さらに、古代、中世、近世の展示へと続き、また、ランズウッドの文化とはまったく異なる文化圏のものを展示している部屋もいくつもあった。

 ナユタはこの博物館の展示品によって、人類が育んできた文明の多様性とその創造力の豊かさを実感することができた。

 だが、ナユタがよりしばしば足を運んだのは、街の中心地に広がる広大な公園の中に立つニュークルツ近代美術館だった。ここには、近代と現代の美術品が集められ、さまざまな抽象絵画、実験絵画などの前衛的な作品が数多く展示されていた。

 そこには、ワリシーの『空の青』や『即興』、パウルの『金色の魚』、『哀れな天使』、イヴの画面を真っ青に塗った作品など有名な作品も数多く飾られていた。

 クロイシュタットと親交のあったジャンの『人質』と『雨』もあった。詩人でもあるアンリの不思議な形象が並んだ絵画、ザオの絵画なども印象的だった。ナユタはかつてバラドゥーラ仙人の部屋に飾ってあったシュルツェの絵を思い出した。あのシュルツェの絵に通ずる絵画もたくさん飾ってあった。さらには、絵筆でキャンバスに描くのではなく、絵具をキャンバスにたらしたり、投げつけたりして描いた絵画もあった。その偶然性から生まれた絵画は、とてつもなく深い世界の深淵に見る者を引き込むような、あるいは、広大な宇宙の渦を感じさせるような絵画だった。ナユタの特に気に入った絵はジャクソンという画家の作品で、ただ「No.192」という題名がついていたが、ナユタは、心の中でその絵に、『宇宙で、神々の戦い』という名を付けた。

 ナユタは図書館では膨大な本を読んだ。心を動かす本がたくさんあり、世界の様々な文化や思想について学び、人類の英知について学んだ。この地球上にはさまざまな民族と文明があり、技術のレベルも大きく異なっていることが分かった。未開民族たちは、何千年も何万年も独特の風習を維持し、以前からの生活そのままに暮らしているのだった。

 地上に広く流布している偉大な宗教についても学んだ。その経典を紐解き、それらに関する研究書にも目を通した。そして、人類の史実と経典に描かれた物語との関係を理解し、透徹した洞察から生まれた啓示がどのように経典に織り込まれたかを理解することもできた。

 そんな書物を通して、ナユタはこの創造でも偉大な思想が生まれていたことを知ることができた。そんな思想は実にさまざまだったが、それらを包括的に考察する思想をナユタは見つけた。それは、ブラーニアの高名な大学の哲学科教授であるテオドールという哲学者の思想だった。

 テオドールは精神病理医からスタートした学者だったが、現代という時代の本質を鋭く観察し、大衆や世論の真の姿を洞察し、個としての人間のあり方を芯から見直す新しい哲学を唱えていた。そのテオドールの思想は、ナユタが地上に降りる前から神々の世界でも知られていたし、シュテファンも高く評価していたので、ナユタは高い関心をもってテオドール著作の数々を読んだのだった。

 そのテオドールが過去の哲学を深く省察して提唱したのが、『枢軸時代』という考えだった。

 この考えは、数千年前に人類の思想の青春時代ともいうべき時代があり、その時代に、人間が自分の存在について初めてその本質を見抜き、それが真の哲学の始まりであるという説であった。テオドールはその時代を枢軸時代と名付けたが、その特徴は、地球上の複数の場所で、自分の存在というものの本質を凝視するまなざしを持った人々それぞれ現われたという点にあった。そのような人々は、諸子百家、沙門、ソフィスト、預言者などと呼ばれたが、ナユタが彼らの中の真に偉大な思想家の著作を読んで理解したのは、そこに共通していたのは、この地上で人々が囚われて必死になっている目の前のことや欲望を求め満たすが真なるものではなく、真なるものはもっと別のところにあるということであった。

 例えば、諸子百家のひとりは、『君子は義に喩り、小人は利に喩る。』と言った。預言者のひとりは、『悔い改めよ。神の国が到来する。』、『地上に宝を蓄えてはならない。宝は虫とさびのために傷物になり、あるいは盗人が穴を開けて盗むだろう。天に宝を蓄えなさい。』と言った。沙門のひとりは『すべては無常である。』と言い、ソフィストのひとりは『自分がこの世界について実に無知であることを知るべきだ。』と言った。

 世界の内にあるものは、世界の内にあるという理由だけで滅びるのだ。そのことに賢人たちは目覚め、真なるものへの道を探し始めた。それが枢軸時代だった。

 しかし同時に、経典で述べられた高貴な思想が時代とともにいかに変遷し、日常を生きる人々にいかに迎合してきたかも学ぶことができた。実際の宗教団体や宗教活動が、原始経典に書かれた崇高な思想からはるかにかけ離れた低次元の精神領域で展開され、人々の現世での望みや営みに合致するようにいかに巧妙に改変され、修飾されているかを見ることもできた。そして、宗教は、自らの権威と権勢の確保に汲々とし、真理への道からあまりにもかけ離れていることも理解できた。それは古典宗教でも新興宗教でも変わらぬことであった。

 後の世にあって、何が真であったか、何が目指されたのかを明らかにするのは難しい。歴史的現実に基づこうとするなら資料の乏しさが障壁となり、残されている経典に基づくなら、そこには作為と美化が入り込んでくるのだ。その経典の作成者が描きたいもの、訴えたいものに基づいて歪曲がなされることになる。だから、彼らにおける「神」は絶対的であると教え諭されるが、実に、彼らの神は、人間の被造物に過ぎなかった。

 そして、また、ナユタが発見したもう一つのことは、パキゼーの法を越える思想はないということであった。どの思想も優れた面を持っていたが、世界と存在の根源に対するパキゼーの深い洞察から生まれた空の思想を超え出るものはなかった。

 たしかに、枢軸時代に生まれた偉大な思想を始め、人類の歴史の中にはすぐれた思想が存在していた。だが、それらは本質的な限界をもってはいなかったか?たしかに、ある偉大な哲学者は、とことん問い詰め、その果てに行き詰まるところから真の哲学が始まると説いた。それはたしかに見せかけの知からの解放であり、真なるものに向かう新たなまなざしだった。だが、その真の哲学は、神性に信頼を置くという限界、信仰に依拠するという限界、この世界に絶対的なものがあると信じるという限界をもってはいなかったか。原典を読むと、どんな偉大な思想にもその限界があることが読み取れた。その限界から離脱することができず、そのために、その思想、その信仰、その哲学の範疇に囚われた思考しかできていないと感じざるを得なかった。ただパキゼーのみが、その壁を突き破って真理を見つめるまなざしを得たのだ。

「まさに、パキゼーの思索こそが真理を極めたものだったのだ。」

 ナユタはそう思わざるを得なかった。

 ただ、ある教会で本物の教会音楽を聞いた時には心を動かされた。それは、ある日の夕方、ニュークルツの街はずれのある教会をたまたま訪れたときのことだった。その教会は立派な尖塔を持ち、教会の内部に礼拝所が五カ所以上ある伝統ある教会だったが、聖歌の合唱があるとの張り紙を見て、ナユタは中に入ったのだった。

 教会の中に入ると、がらんとしてほとんど人がいなかったが、しばらくするとぽつりぽつりと人が入ってきたので、彼らに倣ってナユタは椅子に座った。張り紙に書いてあった時間が近づいても合唱隊も現れず、いぶかしく思っていたが、時間になると、聖職者の服装をした人物を先頭に、赤い衣に白いマントを羽織った十人ほどが列をなして入ってきた。

 聖歌が始まるとそれは実に素晴らしいものだった。伴奏なしに歌う彼らの歌声は魂を浄化するような敬虔な祈りと安らぎに満ち、教会の素晴らしい音響効果とも相まってナユタの心を打った。外の喧噪の世界とはまったく隔絶された清らかな静寂の世界がそこにはあった。列席者はナユタを含めてほんの五人だけだったが、彼らは心を込めて淡々と聖歌を歌いあげた。話には聞いていたが、本物の教会音楽を教会で聴く初めて体験だった。

 だが、それは、世界の隅っこでのできごとに過ぎなかった。教会を出て街に戻ると、そこでは、グスタフのすばらしい演奏会や斬新なオペラと並んで、浅薄で、ただ人々の感情に訴えかけるだけの内容しか持たない演劇や華やかなだけのミュージカルが繰り広げられていた。さらには、女性の性的な魅力を売り物にしたショーや、低俗な音楽のコンサートなどさまざまな享楽が溢れていた。

 実際、この巨大都市ニュークルツにはあらゆるものが混在しており、オペラ、コンサート、展覧会、パーティ、演劇、映画、ショー、電話、ビジネスが絶え間なく続く世界だった。フェドラーが「いったい誰がこの都市で健全な心を維持できるのか。」と言ってこの都市になじめないのも分からなくはなかった。

 そして、その大都会の中には、ダンサーのナンシーが逮捕、処刑された後、単身ニュークルツに渡ってきたセルゲイのショーもあった。ナユタも一度見に行ったが、かつてのショーにあったエキゾチックな不思議な魅力は消え失せ、さしてうまくもない踊り手が異国風情にアレンジした安っぽい踊りを踊るだけのショーになっていた。

 ナユタがセルゲイに会いに行くと、セルゲイは自虐的に言った。

「こんなショーを出してみっともないと言われるなら返す言葉もありません。ナユタさんの音楽を使いもせず、こんな低級なものを憤られるなら、その思いもごもっともと思います。ですが、今はナンシーのようなダンサーもなく、これしかできません。でも、客はそれなりに入っているでしょう。まあ、客のレベルなんてこんなもの。我々も金を稼がねばなりませんので。」

 ナユタは真剣にダンサーを探してみてはと言ったが、セルゲイは首を振って言った。

「ナンシーほどの踊り手はそんなにいるもんじゃありません。彼女の踊りは天賦のものだった。だから、それを復活させようという夢は捨てました。ただ金のためにこんなショーをやっているだけです。でも、私は夢を捨てたわけじゃない。この国では新しいことができる。いろいろ考えていることもありますので、そのうち。」

「そうですか。ではまた機会があれば声をかけてもらえれば。」

 そう言ってナユタは別れたが、出口で改めてショーの案内看板を見て、その気品のなさに心を暗くせざるを得なかった。

 また、この都市、自由と輝きに満ち、希望と夢に満ち、発展と繁栄のただ中にあり、公正と正義の上に立脚しているかのように見えるニュークルツにも誇ることのできない暗部があることがしだいにナユタにも分かってきた。

 図書館や美術館を出てしばらく歩くと、街の雰囲気が変わり、薄汚れた壁や打ち割られた窓ガラスがいやおうなく目に飛び込んでくる一角に足を踏み入れることができた。この国には、ブラーニアのような政策的な人種差別はなかったが、実際にはさまざまな人種差別と人種格差が存在しており、それは、薄汚れた街に住む住民の肌の色や身なり、顔つき、そして子供たちの行儀の悪さからも一目瞭然だった。ここには、ナユタが交際している人々の中でしばしば目にする良家の子女というものはなかった。

 夜の街灯の下では、震える息を弾ませながら半裸の少女が踊り狂っていたし、奇怪な絵が描かれた分厚い壁の前では、男たちが酒びんを振り回して天を呪っていた。

 そんな街では闇商売も行なわれており、表門を閉めている商店の裏での取引には、法の力も及んでいなかった。大戦後の大陸の混乱に端を発した輸入物品の停滞などによって始められた統制のために表の世界ではなかなか手に入らないものも、闇商売の店に行けば、手に入れることができた。良家の使用人たちはその道に長けており、闇市で必要なものを調達してくるのも使用人たちに暗に求められる能力であった。また、使用人たちにとっては、闇商売では値があってないようなものだけに、そこで金を浮かせて自分の懐に入れるというのも楽しみの一つらしかった。

 この薄汚れた街には、貧しい移民たちもたくさん住んでいた。そういえば、ニュークルツに来た船の中にも、三等客室にはたくさんの移民たちが乗り込んでいるのを目にしたものだった。入国に際しても、ナユタたちとは違い、彼らは一度ニュークルツの沖にある小さな島で降ろされ、そこの移民局でランズウッドへの忠誠を誓い、入国検査に合格しなければならないということだった。

 彼らは、ブラーニアからもルンベルグからもコヒツラントからも、そしてその他の国々からも押し寄せた。自由と繁栄の国、それがランズウッドのイメージだった。だが、彼らの多くは期待を裏切られたかもしれなかった。新聞にはある移民のこんな記事が載っていた。

「おれがこの国に来たのは、ニュークルツでは黄金が道に敷き詰めてあると聞いたからだ。しかし、おれが見たのは、黄金など敷かれてはいないし、舗装さえされていない道だった。おれが理解したのは、この道を舗装するために、おれたちの重労働が必要とされているということだけだ。」

 また、この街の中にはいかがわしい雰囲気の娼婦の家が立ち並ぶ一角もあった。そこでは真っ赤な口紅をつけ、頬紅を厚く塗り、白粉をはたきつけた見るからに男の欲情をそそることだけを目当てにしたような娼婦がたむろしており、男たちに媚を売ったり、声をかけたりしては館へと誘い込んでいた。そこには、この街の外に住むこの国の有力人種に属する男たちも訪れていた。

 また、街角には場末の雰囲気の漂うストリップ劇場もあった。安い入場料を払って中に入ってみると、そこには男たちがけっこういて、女たちが踊って全裸になるのを見て楽しんでいた。女たちは、衣装を脱いで裸になるだけではなく、さらには陰部を広げて見せたり、陰部に張形を挿入したりもして観客の喝采を浴びていた。

 しばらくすると選ばれた男が舞台に上がった。男は女が手にしていた張形を受け取ると、それを女の陰部に突っ込んで出し入れした。女の口からはそれまでとは違った妖艶な喘ぎ声が上がり、大きく体をくねらせた。観客からはいっそうの歓声が上がった。

 するとナユタの横の席に若い女がやってきて座り、ナユタの太腿に手を置いた。ナユタが横を向くと女はにっこり笑って言った。

「楽しんでる?ここは楽しいでしょう?まさに男の憩いの場。でも、見てるだけじゃつまんなくない?」

「ああ、まあ。でも、見てるだけで十分さ。」

 ナユタがちょっとそっけなくそう言うと、女は言った。

「あんたは上品な風情だけど、所詮は男でしょ。あそこだって硬くなっているはずよ。」

 女は遠慮もなくナユタの股間に手を伸ばしたが、男根は硬くなっていた。

「ほら。もう硬くなって。女とやりたいんでしょう。あたしと良いことしましょうよ。ちょっと金を握らせてくれれば、トイレに行ってあんたのものをしゃぶって、出させてあげる。」

「いや、おれはいいよ。」

「あら、そう。口だけじゃ嫌なのね。じゃあ、私と寝る?ほんのお札三枚で良いわ。」

「いや、おれはいいよ。」

 そう言ってナユタは劇場を出た。劇場を出てしばらく歩くと、別の若い女が近づいてきて声を掛けてきた。そばには女を縛り上げて嬲る絵の描かれた看板があった。女はほっそりした体型で、顔つきは美人と言えなくもなかったが、顔色は青白く健康的ではなかった。

「こんなのに興味ない?女を縛り上げて、ひいひい泣き叫ぶ女のあそこに張形やあんた自身のものをつっこんで嬲るのも楽しいわよ。鞭で打ったり、ロウソクを垂らしてもいいし。」

「いや、ぼくはいいよ。ただ歩いてただけだから。」

 ナユタはそう言ったが、女はせっかくの獲物を逃したくなかったのだろう。さらに言った。

「そんなことないわ。あんたがストリップを見てきたことはちゃんと分かってんのよ。興奮してあそこはびんびんに立ってるんじゃない?出したくてしょうがないはずよ。この中に入れば、たいての男はいつもと違う興奮で射精するわよ。こんなのやったことないでしょ?顔にぶっかけてもいいし、吞ませてもいい。もちろん、嵌めてもいい。どう?やってみたくない?」

 ナユタが、

「君自身も縛られるのかい?」

と言うと、女は肩をすくめた。

「いちおう私は客引き。でも、ぜひ私をということなら喜んでお相手するわ。」

 ナユタが

「でも、またにするよ。」

と言って離れると女は

「ちっ。」

と舌打ちしてぺっと地面に唾を吐きかけて罵った。

「何よ。女が好きなくせに。」

 

 ナユタはマティアスらとともに酒場に出かけることもあった。そんな酒場では、たいてい蓄音器が安っぽい音楽をがなり立てており、その横には何台かのスロットマシンが並んでいた。そして、男たちが不機嫌そうな顔でコインを入れ、コインがなくなると、捨てぜりふを吐いて、酒を飲むためのテーブルに戻ってゆくのが常だった。壁には、タバコを片手にポーズをとる人気俳優の写真、水着姿の若い女性をモデルにした広告などが貼られ、その女性のぽっちゃりとした白い頬、細い腰、そして豊満な胸が男たちの心をそそらずにはいなかった。

 そんな酒場で、この国の男たちとじかに触れることも少なくなかった。あるときは、南部から出てきたという男が、ナユタ、マティアス、ゲーベルの三人の会話を聞いて、話に割り込んできた。

「おまえさん方は、ルンベルグから来たのかい。まあ、旧大陸の者たちはこの国が自由と繁栄の国だと思い込んでいるらしいが、そんなもんはただの幻想でしかねえぜ。」

「そういうおまえさんはどっから来たんだい。」

 そう聞き返したゲーベルに、その男は答えた。

「おれは南から来たんだよ。ダグラスって名前だ。よろしくな。ちなみにおれの爺さんはブラーニアから来たんだけどな。つい、この前までは、畑を耕して、女房や子供とつつましやかに暮らしてた。だけどよ、このご時世だ。どうにもならなくなって、ここへやってきたってわけよ。郊外に大きな自動車工場ができただろ。いちおう、そこで雇ってもらえたんでな。」

「どんなわけで、ここに出てくることに?土地があれば、食べてゆけるんじゃないのか?」

「ふん。おれも長いことそう思っていたさ。だけどな、それだって決して楽な生活じゃねえ。倹約して、つつましくなんとかかんとかやってきたんだけどな。なんしか、女房に子供四人を食わせにゃなんねえからな。だけどよ。四年前からの砂嵐は知ってるだろ。」

 マティアスが知らないと言うと、ダグラスは続けた。

「そうか、まあ、向こうから見りゃ、遠い世界のことだからな。それに、向こうにゃ、干ばつなんてないらしいしな。ともかく、干ばつはひどいもんだった。一面のトウモロコシが枯れちまって、どうにもなんねえ。それで、わずかな金を借りたんだ。だけど、知らない間に利息が膨れあがって、一年経つと、返せねえなら、担保の土地を貰うしかないと抜かしやがる。おれはそんなもんにゃ断じて応じられねえって言ったんだけどよ、こっちには、保安官も裁判所もついてんだぞとすごまれてどうにもならなかった。そしたら、向こうさんは、土地を取り上げるっていうんじゃない、名義が変わるだけだと抜かしやがる。要するに小作になれってことよ。」

「それで小作になったのか。」

「ああ、他に手がありゃあしない。だけど、小作でも、土地を耕していれる間はまだ良かった。前より生活は苦しかったが、なんとかやってゆけたからな。ところが、去年、突然、地主が出ていけって言うんだ。小作から土地を取り上げて、トラクターで、十四五世帯の畑を耕させるってことだ。トラクターを一台買って、運転手を雇い、作物は全部自分のものってわけだ。小作のおれたちを守ってくれるやつなんてどこにもねえ。保安官も法律も裁判所も政治家もおれたちの味方じゃねえからな。」

 それが自由と繁栄の国と言われたこの国の底辺で起こっていることなんだとナユタは実感できた。

「おれにできることはこんなことくらいだけどな。」

 そう言って、ナユタはその男に1パイントのビールをおごった。

「ありがとよ。」

 そう言ってうまそうにビールを飲むダグラスに、ナユタはさらに問いかけた。

「それで、その自動車工場はどうなんだ。」

「工場か。おもしろかねえが、まあ、金をくれるからな。毎日毎日、おんなじ作業ばっかり。芽が出た喜びとか実がなった喜びなんてもなあ、ありゃあしねえ。もっとも、畑だったら、枯れるんじゃないかとか、実の付き方がいまいちじゃないかとか、お天道様がどうなるとかいろいろ心配事があったが、工場じゃそんなもなあねえからな。気楽といやあ気楽ってことよ。会社ってもんはよ、おれたちが決められた通りにやりさえすりゃあちゃんと車が出来上がり、その作った車がちゃんと売れるようになってるわけだからな。ただ、おもしろかぁねえな。おれたちゃあ、車を作るための機械ってもんだろうぜ。規則もうるせえしな。」

 工場にはいろいろ不満たらたらだったが、まさに、

「ともかく食うためには、働くしかねえ。」

ということだったろう。

 ナユタは飲みたい酒はないかと尋ね、ダグラスがスコッチが飲みたいと言うので、上等のスコッチを四つ注文した。その男は、そのスコッチを舐めるように味わうと、

「こんないい酒は飲んだことがねえ。これは本物の蒸留酒かい。」

と言った。ナユタがそうだと答えると、

「おれたちがいつも飲むのは、工場で人工的に作られたアルコーだからな。それにしても、あんたたちはいい人だ。金があるんだろうが、おれにこんな酒をおごってくれるんだからな。」

と上機嫌だった。

 

 そんな経験の中で、地上の人間たちは、現実のこと、目の前のことに追い立てられ、そして心はまどろみ、目覚めていないとナユタは思わざるを得なかった。図書館の本で学んだことは、この地上では、生きることの意味を理性に基づいて考えるのではなく、感情に基づいて、生きることそのものと生きることの中で生じる様々なことを肯定して生きているだけだということだった。世の中の者のすべてがとまでは言わないが、多くの者が、生きること自身と人生の中で美しく感じられるものどもを賛美し、そのための努力を賞賛する『生の肯定』を哲学としているということだった。

 どこにもパキゼーのまなざしはなく、悟りの静けさもなかった。図書館の書物を紐解くと、

「私は世界に閉じ込められ、時間に捉われ、まったく自由を失っている。」

という真実を述べた哲学者もいたことを知ることもできたが、その哲学者にしても、結局は、パキゼーの輝き、パキゼーの悟りにはまるで達していないことを理解せざるを得なかった。

 一方で、ナユタはこの地球上の別の世界と出会うこともできた。その最初のきっかけは、ランズウッドの植民地であるアシュグザ帝国の音楽家との出会いだった。

 アシュグザ帝国は、コヒツラントの南東にある亜大陸とも言える広大な国で、ランズウッドなどとはまったく異なる文化圏の国であったが、ここ百年近くランズウッドの植民地となっていた。アシュグザの紅茶、麻、菜種油、染料などは大量にランズウッドにもたらされ、ランズウッドの繁栄をおおいに支えていた。

 植民地化に伴い、アシュグザからはさまざまな人々がランズウッドにやってきており、ニュークルツにはアシュグザ料理店もたくさんあった。そんな中、ナユタがマティアスと一緒に会ったのが、バットという音楽家だった。バットは伝統楽器ヴィーナの名手で、その演奏会のためにニュークルツに来ていたが、マティアスとナユタはその演奏会を聞きに行き、その演奏会の後にバットに会ったのだった。バットもマティアスとナユタとの出会いを喜び、三人は次の日、市内のリトル・アシュグザというアシュグザ料理店で改めて会うことになった。

 次の日、マティアスとナユタがリトル・アシュグザに行くと、その店はまさにアシュグザの香りで満たされた店だった。店には微かに白檀の香りが漂い、アシュグザのエキゾチックな彫像が飾られ、壁に掛けられた絵画もアシュグザ伝統の手法で描かれたものだった。

 店に入ると、バットの知り合いでニュークルツ在住のシャルミラという若い女性音楽家も来ていた。四人は音楽について語り合い、深く意気投合した。バットはその音楽的な才能もさることながら、その姿勢は真摯で清貧、無欲に真音をひたすら追い求めている音楽家だということがよく分かった。また、歌手でタブラ奏者でもあるシャルミラもバットの薫陶を受け、音楽の中の真なるものに心を沈め込ませようとしていることがよく分かった。

 マティアスは

「人はなぜ音楽を作るのか。」

と問いかけたが、バットは淡々と語った。

「この国の人たちがなぜ音楽を作るのかは知りません。でも、アシュグザで私たちは、心を鎮め穏やかにさせ、この世界を越える超越的な何ものかを感じとるために音楽を奏でるのです。音楽家は聞き手に何かを与えるのではありません。音楽家は、聞き手が超越的なものを聞き取ることのできる心の状態になることを手助けするのです。」

 この言葉はマティアスに強い感銘を与えたようだった。

 この日から、バットやシャルミラとの交流が始まった。バットは一連の演奏会が終わるとアシュグザに帰ったが、リトル・アシュグザではひと月に一度程度、ミニコンサートを催しており、シャルミラは頻繁にそこで演奏していた。ナユタとマティアスはミニコンサートの日を中心に頻繁にリトル・アシュグザに出かけ、時にはシャルミラらと共演することもあった。

 

 リトル・アシュグザではさまざまな人たちと新たに知り合うことができたが、そんな中にクンワールという独立運動家がいた。マティアスはそれほど親しくはならなかったが、ナユタはアシュグザのことに興味を持ち、クンワールからさまざまな話を聞いた。

「アシュグザはランズウッドに搾取されている。そもそもアシュグザは古い歴史と伝統をもっている。独立しなくちゃならないんです。」

 それがクンワールの口癖だった。

「ランズウッドは、後進国のクンワールのために働いている、ランズウッドの保護なしにはアシュグザの繁栄は得られないと言っているが、真っ赤な嘘です。むしろ、真実は、ランズウッドの富をアシュグザが支えている。鉄鉱石、綿花、小麦、米、紅茶、コショウ、砂糖、塩、金、ダイヤモンド、どれもこれもランズウッドになくてはならないものばかり。それをアシュグザが支えているんです。世界にランズウッドの植民地はたくさんあるが、他の植民地を手放してもランズウッドは揺るがないが、アシュグザを失えばランズウッドの繁栄は終わると言われているのはご存じですか?」

 それはナユタも聞いたことのある話だった。クンワールはさらにアシュグザのことを教えてくれた。

「かつてアシュグザは強大な帝国でした。二百年も前の話です。その頃からランズウッドはアシュグザに進出していたのですが、それはもっぱら商売のためで、ランズウッドの者たちはアシュグザの皇帝に頭を下げ、皇帝の庇護の元で貿易を行っていた。しかし、国内のさまざまな紛争や混乱、対立で帝国は衰退し、ランズウッドの武力なしにはこの国の支配を維持できなくなってしまいました。そんな中でランズウッドの実質支配は強まり、紛争や混乱に対してはランズウッドが武力で鎮圧するようになりました。それが故にランズウッドへの反発も強まり、数十年前に武力でランズウッドを排除しようと大規模な反乱がありましたが、結局、鎮圧されました。ただ、その時の教訓から、ランズウッドは闇雲に力で抑えつけることを止め、巧妙な統治を始めたんです。」

「巧妙な統治?」

「ええ、それまでもアシュグザはランズウッドの実質的な保護国に成り下がっていたのですが、ランズウッドはアシュグザの皇帝をそのまま残し、ランズウッドの助言の元でアシュグザとの共同統治としたのです。そして、アシュグザの近代化のため、橋を架け、道路や鉄道を建設し、鉄や繊維の工場も作った。学校も作りました。」

「アシュグザのためにランズウッドが努力しているというわけか。」

「ええ、でも、それは搾取のための手段ということです。搾取して得られるもののために必要な投資に過ぎない。だから、ランズウッドは地方に散らばる藩王たちの既得権益もそのまま残しました。でも、皇帝も藩王たちも君臨し、栄華を誇ってはいても、本当の実権はありません。皇室も藩王たちもそして彼らに仕える高官たちも自分たちの既得権益を守るためにランズウッドの支配を支える存在になり変わったのです。一方、ランズウッドは、アシュグザ内の重要な港湾都市を租借し、各地に租界地を作ってアシュグザ支配のためのさまざまな楔を打ち込んでいるのです。」

「それで独立運動は進んでいるのか?」

 そう問いかけるナユタにクンワールが首を振った。

「難しいですよ。アシュグザの上層階級の中には現状で良いと考える者も少なくありませんからね。アシュグザの支配階級がこの植民支配を支えているとも言えるわけですから。」

「彼らはそれで自分の利があるんだろうな。」

「その通りです。でも、我々が何よりも直視しなければならないのは、この実質的な植民地支配で悲哀を味わっている圧倒的多数の貧しい者たちがいるということです。でも、彼ら自身には学もないし、力もない。何をすべきか、どうあるべきかもまるで分かっていない。だから、我々のような者たちが彼らの力を束ねて独立に結びつけねばならないのです。でも、独立運動家の中でも意見が割れていて一枚岩ではありません。」

「ということは独立運動はなかなか盛り上がらないというわけですか。」

「ええ、残念ながら。」

 ナユタは考え込みながら言った。

「独立を目指す者たちは、どんな道筋を考えているのだろう。」

「いろんな者たちがいます。一番過激な者たちはテロと武装蜂起を目指しています。スワルディがリーダーで精力的な活動家ですが、正直、性急すぎる。とてもそれでは道は開けない。逆に、ランズウッドに寄り添って独立に繋げようという者たちもいます。実際、彼らは先の大戦の時、アシュグザを徹底的にランズウッドに協力させ、大量の兵士も戦場に送りました。彼らは、ランズウッドから独立に向けた言質も取っていたはずなのですが、戦争が終わったらそれは反古にされました。そのためには彼らは今は独立運動の中では力を失っています。」

「なるほど。それで、クンワールさんが行っている運動は?」

 ちょっと自虐的な笑いを浮かべてクンワールが答えた。

「よく言えば地道な活動。悪く言えば停滞です。本国でのリーダーはバグワーンという活動家で、ランズウッドに擦り寄りもしないが武力にも訴えず、大衆運動によって独立に繋げようとしてます。でも、大衆は無学な者の多いですし、活動はしばしばアシュグザの武装警官やランズウッドの駐留治安軍によって妨害されます。私のように海外でその活動を支える者も少なくありません。例えば、私はランズウッドの世論に訴えたり、独立運動に必要な資金の確保や物資の調達などをしています。でも、なかなか道は遠いですね。」

 たしかに、大陸でパークスが威を唱え、世界に緊張が走っている現状では、アシュグザの独立など望むべくもない状況なのかもしれなかった。

 ともかく、その後もナユタはしばしば食事のためにリトル・アシュグザを訪れて、クンワールらとの交流を続けたのだった。

 

 ナユタがシュテファンと会ったときにアシュグザの話をすると、シュテファンは考え深げに言った。

「たしかに、世界はブラーニアやランズウッドだけではありませんからね。現代という時代はブラーニアやランズウッドを中心とした先進国が世界の覇権を握っていますが、アシュグザはこれらの国より遥かに古い歴史を持っている。アシュグザ文明も含め、世界のさまざまな文明を比較研究している歴史家がいますので、今度、紹介しましょう。」

 そう言って紹介してくれたのは、キングス・カレッジで歴史学の教授を務めるジョゼフという歴史学者だった。ナユタがシュテファンと共に大学の教授室に行くと、ジョゼフはランズウッド紳士らしい態度で迎えてくれた。

「歴史についてということですな。」

 そう切り出すと、ジョゼフはまず言った。

「歴史についてまず大事なことは、我々は歴史のただ中にいるということです。歴史を見るとき、少なからぬ者たちが傍観者のような姿勢、心持ちで歴史を見ている。けれど、それは正しい態度とは言えません。かく言う私もかつては傍観者として歴史を学び、歴史を研究していました。それが、歴史の中にいると目覚めさせられたのは先の大戦でした。これまで安定した世界、安住できる世界だと思っていたものが一夜にして崩れ去ったあの戦争です。そして、その戦争は私たちのあらゆるものを巻き込み、あらゆるものを変えた。自分は対岸から歴史の炎を眺めているんじゃない。歴史の炎の中にいるんだと目覚めさせられました。」

 シュテファンが言った。

「この前お会いしたときにも言いましたが、それは私も同じです。あの戦争以前の私はただ、その安定した世界で書き物をしていただけだった。あの戦争が私を目覚めさせてくれました。」

 ナユタが言った。

「分かる気がします。今日、ここでお時間を取っていただいたのは、アシュグザの歴史と現状について先生のお考えをお聞かせ願えないかと思ったからです。」

 ジョゼフは笑った。

「難しい問題ですよ。でも、その基本は二つあって、一つは我々が今その歴史の中にいるという視点、それからもう一つは、大きな歴史の流れの中にいるという視点です。この二つの視点を持たなければ、アシュグザのことは、単に、ランズウッドの植民地支配とそれに対する独立運動としてしか捉えられない。それはランズウッドの帝国主義の勝利、科学技術の勝利という平板な結論しかもたらさない。しかし、アシュグザはランズウッドより遥かに古い歴史を有しており、世界における有数の文明なのです。私は、これまで地球上で起こった文明、既に滅んでしまった文明も含めてですが、それらを比較研究し、文明の発生、文明の成長、そして、文明の衰退と解体という視点から文明を捉え、さらに文明間の遭遇が何をもたらすかを詳細に研究しています。」

「それは凄い視点ですね。」

「ありがとうございます。ただ、これは単に私の創意によるものではなく、ある書物に触発されて始めた研究です。その書物というのは、オスヴァルトという歴史学者の『帝国の没落』という著書で、これは先の大戦後に世に出たのですが、私は途方もなく衝撃を受けました。たしかに、あの大戦でバームサーラ帝国、ブラーニア帝国が崩壊しましたし、少し以前にコヒツラント帝国も終焉を迎えていたわけですからね。」

「既にシュテファンさんからお聞きになっているかもしれませんが、コヒツラントでフランツ王子の帝師を務めていたレジナルド卿から、コヒツラント帝国のことはいろいろ聞きました。」

「そうですか。彼はまさに歴史の炎の中にいたわけです。話を戻しますが、オスヴァルトは、我々の世代が若い頃には自明のことと思えたこと、すなわち、我々の文明が世界を支配するのを自明のこととした見方に根本的な疑問を投げ掛けたのです。世界は複数の異なる文明のせめぎ合いの中にあり、我々の文明が優位を保っているのはただ今だけだという感覚です。そんな視点に立って歴史を見直すとき、例えば、アシュグザの長い歴史を紐解くと、そこにはまさに、文明の成長、衰退、文明間の遭遇が見られるのです。」

「では、アシュグザはまさにその歴史の只中にあるということになるわけですが、これからどうなってゆくのでしょう。」

 この問いにも、ジョゼフは軽く笑った。

「歴史家は予言者ではありません。ただ、このまま、ブラーニアやランズウッドの時代が続くのかどうか、私は大きな疑問を持っています。国民や政治家はこれからも自分たちの時代だと思っていて、アシュグザなど舞台の外にいると思っているでしょうけど。」

 ナユタとシュテファンがさらに、今後のブラーニアを巡る動きについて問うと、ジョゼフはやや声を落として言った。

「私はランズウッド国民だし、お二人はブラーニアから逃れて今はランズウッドの庇護の元にいらっしゃる。だから、近視眼的に言うなら、パークスの横暴をこれ以上のさばらせてはならないし、それを抑えることができるのはランズウッドだけだと言えます。だから、ランズウッドはそれをやらねばならないし、それはできると思います。ですが、一方で、歴史の流れという大きな視点で言うなら、私には、我々の文明は衰退の端緒に立っているように思えます。ただ、少なくとも、パークスの野望が留まることなく世界規模で成功を収め続けるということはありえないでしょう。それは歴史の必然に反しています。」

 ジョゼフとの面談はナユタにとって極めて有意義なものだった。ジョゼフは数年前に出版した著書『文明の発生と成長』に直筆のサインを入れて、ナユタに贈呈してくれたが、この著書を読んで感じたのは歴史の本質を見通すジョゼフの慧眼であった。それは「歴史には必然がある。」と語ったウパシーヴァ仙神の言葉にも通じるものであった。

 

 さて、次の年、大陸では、パークスが新たな挑戦を宣言した。ルンベルグ併合の主張だった。背景には、ルンベルグにおけるブラーニア人の疎外、さまざまな紛争や経済摩擦があったが、ある意味では、パークスがこれらを利用し、自らの主張の正当性を裏付けるものとして活用しているとも言うことができた。

 この事態に、レーガー首相は要求を断固拒否した。他の諸国も厳しい非難を発するとともに、総動員令を発令した。

 ランズウッド連合王国のシュタイン首相は声明を発表した。

「世界の平和を砕こうとする野望が成就することはありえない。正義を守るために我々は毅然とした態度を取らねばならぬ。」

 だが、ブラーニア国内では、パークスの主張と行動が圧倒的多数で支持された。ブラーニアの新聞は、同胞を保護し、彼らの受けている迫害から彼らを守ることこそブラーニアの義務であると主張し、進駐は正義であるというブラーニア政府と軍の主張に追随した。

 まさに、戦争の危機が押し寄せていた。川を挟んでブラーニアに隣接するルンベルグの街のレポートが、ランズウッドの新聞に載っていた。橋はヘルメットをかぶった武装兵士によって厳重に警戒され、橋のたもとでは厳しいパスポート・チェックが行なわれていた。河岸地域の住民の避難も始まっていた。

 ブラーニアのパークス大統領は強硬だった。

「我々は平和的努力を続けた。しかし、すべての交渉は行き詰まり、武力による解決以外の道はなくなりつつある。私は正義を貫徹するのに武力行使を逡巡する愚を犯すことはできない。我が国民のため、我が同胞のために、国家の利益と安全のために、私は決然と行動せねばならないのだ。」

 そんなある日、ナユタがマティアスを訪ねると、マティアスは腕組みをして言った。

「他国はどうするんだろうな。ブラーニアのやり方はあまりにも横暴だが、ビシュダールはルンベルグと国境を接していないし、ランズウッドは別の大陸だ。実際にルンベルグを救うことは不可能だ。」

 だが、ナユタは答えた。

「でも、ランズウッドがその気になれば手はあるはずだ。国境を接してるかどうかが問題じゃない。大事なのは、全体におけるミリタリーバランスのはずだ。ビシュダールとランズウッドがその気になれば、ブラーニアの目論見を防ぐことは不可能じゃない。」

「じゃあ、ビシュダールとランズウッドは動くのか?」

 その問いかけにはナユタは首を振った。

「いや、両国の平和主義者たちはそれを許さないだろう。ルンベルグのレーガー首相はビシュダールやランズウッドとの同盟関係を強化して対処しようと考えているようだが、結局、ブラーニアの軍事的圧力の前に崩れるしかないだろう。」

 

 そんな重苦しい世相の中で、フェドラーの新しい曲が初演された。マティアスがザッハーに頼んでフェドラーに委嘱してもらった作品で、第二番のヴァイオリン協奏曲だった。その初演ではザッハーが彼自身のオーケストラを指揮し、独奏者にはあのヨーゼフが選ばれた。

 ヴァイオリンのピッツィカートに始まるその曲は、まさにこの暮れゆく世界、軋んだ世界の中で、悲壮とも言える心で歩みを続ようとする勇気を謳い上げたような曲だった。そしてまた、フェドラーが望郷の思いを込めてこの曲に挿入したと思われる故郷の民族舞曲のフレーズが、軋んだ世界を謳うこの曲に温かみをもたらしていた。ヨーゼフは、厳しい音、そして、崇高な音でこの高貴な響きを奏で、ナユタは改めて、この世界の中で、なお、かすかな希望を手繰り寄せようとするフェドラーの心の内に潜む思いを実感したのだった。

 だが、この曲を完成させた後、フェドラーはまた作曲から離れていった。彼は、暗い顔をして、ただ、故郷で蒐集した民族音楽の体系化と出版にだけ執念を燃やし続けたのだった。

 

 それからしばらく経ったある日、ナユタとゲーベルが酒場に行くと、数か月前にその酒場で会ったダグラスがもうもうと煙るタバコの煙の中で大声で話しているのが見えた。

「こっちに来ないか。一杯おごるよ。」

 そうナユタが声をかけると、ダグラスは上機嫌で応じた。

「やあ、元気か?久しぶりだな。おごってくれるとあっちゃあ、行かないわけにはいくまい。」

 ダグラスはそう言って、一人、ナユタとゲーベルの席に移った。

「何が良い?ビールでも、シャンパンでも、ウィスキー、スコッチ、ブランデーでもなんでもいいよ。」

「じゃあ、ブランデーでももらうかな。」

 ナユタはブランデーを頼むと、ダグラスに聞いた。

「ところで、向こうで何を盛り上がってたんだい。」

「ストさ。」

「スト?」

「ああ、今度は徹底的にやらなくちゃならないからな。」

 そう言って、賃金や待遇を巡っての労使交渉や、今度予定されているストのことをひとしきり話すと、ダグラスはさらに言った。

「おれはハニッシュ党に加わっている。ハニッシュ党のことは知っているだろう。」

 ハニッシュ党のことはナユタも知っていた。ブラーニアのパークスと基本的に同じ思想の新興政党で、既存政党に飽き足らない人々、特に、下層階級の人々からの支持を急速に集めていた。党首のグレルマンは、全体主義を標榜し、既存政党の政策を徹底的にこき下ろし、統率力あるリーダーによる強力な政策推進こそがこの国を救うのだと声高に主張していた。

「国民一人一人が進んで国のために尽くす。それがあるべき姿だ。」

 グレルマンはすべての演説をいつもそう締めくくっていた。そして、ブラーニアでのパークスの成功も後押しとなり、前回の議会選挙で一定の議席を確保するに至っていた。

「古い政党の政治家の輩は、自分たちの利権だの、自分たちが結びついている大財閥の利益ばかりを考えてる。おれたちのような者たちは踏みつけられるばかりだ。世の中は変わらなくちゃならない。変えなくちゃならない。」

 ダグラスは興奮してそう叫んだが、ゲーベルは反感を隠さずに言った。

「そんなものはまやかしじゃないのか?グレルマンだって自分たちのことしか考えてないんじゃないのか?パークスはおれたちを踏みつけた。だからおれたちはこの国に来たんだ。この国に来てまで、そんなのはごめんだよ。」

 だが、ダグラスは真顔で反論した。

「あんたたちがパークスのせいでひどい目にあったのには同情するよ。だけど、失礼な言い方だが、それはあんたたちが異人種だったせいだろ。ブラーニア人種にとっては、パークスは大戦で疲弊した母国を立て直した英雄じゃないか。いいか。この国には人種はない。だから、ランズウッド国民はみな同胞なんだ。但し、グレルマンは、既得権を持つ輩を同胞とは思っちゃいねえ。おれたちこそが同胞なんだ。」

「だけど、おれは右傾化した政党も全体主義も嫌いだ。この国には立派な民主主義と自由があるはずだろ?」

 ゲーベルがそう言うと、ダグラスは吐き捨てるように言った。

「そのご立派な民主主義とやら自由主義とやらがどんなふうにおれたちを救ってくれた?前にも言ったが、おれたちは土地を追われ、ここにやってきた。そして、安い賃金で劣悪な環境の中で働かされている。おれたちをこんなところに追い込んだのは、金持ち連中、地主連中、銀行や財閥、そんなやつらだ。そして、そいつらとつるんでる既存政党の奴らだ。だけどな、おれたちはまだ良い方だ。ともかくも職にありついているからな。おれの村の者たちでここへ来たのはわずかであとはみな南に行った。南に行けば土地があるという噂だったんでな。だけど、実際に南に行った奴らはおれたちよりもっとみじめな目にあっている。土地はねえ。あっても痩せた土地がちょびっと。とても暮らしてゆけやしねえ。首をくくるやつは後を絶たないし、貧民キャンプから出れない者も山ほどいる。打ち捨てられ、蔑まれているだけだ。それが同胞に対する仕打ちかよ。これがその民主主義とやら自由とやらの仕打ちだぜ。」

「だけど、それと全体主義が良いっていうのは別の話だ。」

 ゲーベルはそう言ったが、ダグラスは、

「別の話じゃねえ。」

と机を叩いた。

「大地に這いつくばらされ、砂を噛むような思いで喘ぎながらなんとか生きているおれたちの気持ちがおまえたちに分かるか?分かるはずがねえ。だから、そんな口をきくんだ。どんな思想だか、どんな理想だか、そんなことはどうでもいい。パンと肉とバターが必要なんだ。それを与えてくれもしない政府や社会なんて糞くらえだ。おれたちはパンや肉やバターを与えてくれるものを支持する。たとえ、それがおまえたちにとって悪の塊だとしてもな。」

 ほとんど喧嘩になりかかるような雰囲気になったので、ナユタはダグラスをもとのテーブルに連れて行って、スコッチを一杯注文した。

「もう一杯、スコッチをやってくれよ。あんたの苦労は理解するが、ゲーベルはハニッシュ党は決して認めないだろうよ。おれたちはもうここには来ないことにする。」

 そう言ってナユタは、ゲーベルを連れて店を出たのだった。

 ナユタが感じたのは、ゲーベルとダグラスの間に横たわっているのは、経験したことの差だということだった。二人とも痛めつけられてきたが、その相手がまったく異なっていた。差別され、踏みつけられ、逃げるようにしてこの国にやって来たゲーベルの背後には、パークスによって殺された友人、拷問された元同僚、ゲットーに送り込まれた親族、権利を剥奪され放逐された仲間たちがいるのだ。だが、ダグラスたちにはそれは分からなかっただろう。彼らを痛めつけているのは、このランズウッドの社会であり、そして、それを後押ししているのが、ランズウッドの政府だったからだった。

 

2015524日掲載 / 2024216日改訂)

 

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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第5巻