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神話『ブルーポールズ』

【第4巻】-

 

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 こうして世界が水面下で揺動を続けている間、ナユタはバラドゥーラ仙神のもとで教えを請い続けたが、そんなある日、バラドゥーラ仙神は言った。

「前にも言ったが、ルガルバンダは、傲慢で非情な神だ。その並ぶものなき才覚で、栄華、繁栄、権力を目指す神々の心を掴み、彼らを操って大きな勢力を作り上げてはいる。だが、ルガルバンダはこの世界の神々から愛される存在にはなりえない。そこに彼の究極の弱点がある。」

 そう言って、バラドゥーラ仙神は、かつてのルバルガンダとのことについて語った。

「わしが森に来る少し前のことだったが、修行のために各地を放浪していた時期があった。たいへんに貧しく、粗末な身なりで旅を続けておったのじゃが、あるとき、ルガルバンダの居城の近くを通りかかったので、昔のよしみで一夜の宿をと思って彼を訪ねたことがあった。昔の友として歓迎してくれると思ったのじゃが、そのとき、彼はこう言ったよ。『なにが友だ。おまえのような惨めな貧乏人がこの私を友人呼ばわりするなど笑止千万。たしかに昔は友達だったかもしれない。だが、今は環境も違い、時も過ぎた。時はすべてを押し流してしまうもの。貧乏人は金持ちの友にはなれず、無知なものは学識者の友にはなれない。友情は対等であってこそ成り立つのだ。一晩だけは軒下を貸してやるから、明日は出てゆけ。』とな。だがな、ナユタ。友を失ったのはわしではない。友を失ったのはルバルガンダだと今でも思っておる。ナユタ。おまえには信頼できる友や仲間がいる。きっと道は開けるよ。」

「ありがとうございます。ですが、ルガルバンダの勢力はあまりに大きく、イムテーベとの連合軍でも勝つことができませんでした。」

「そうだな。だが、この前の敗因の一つはイムテーベと組んだことかもしれぬな。」

 ナユタがうつむいて答えないでいると、バラドゥーラ仙神は続けた。

「たしかに、戦力の点では、イムテーベと組むのもやむをえなかったかもしれぬ。だが、ほんとうにそれが正しかったかどうか。イムテーベはたしかに軍略にかけて右に出るものはないと言われる軍神だった。しかし、イムテーベはあまりにもその場その場の軍略に重きを置きすぎており、全体状況の中での戦略構築という点ではルガルバンダの方がはるかに優れている。それがイムテーベが勝てなかった最大の問題だ。戦いは決して戦場での武略だけで勝敗が決まるのではない。」

「その通りかもしれません。」

「そして、今のままではおまえは決して勝てない。それがなぜだか分かるか。理由は二つある。一つはおまえ自身の戦力が不足している。どんな戦いにおいても、理念や理想だけでは勝利は掴めぬ。現実の戦力は決定的に重要な意味を持つ。その意味で、おまえ自身の戦力を整えることが必要だ。もう一つはユビュがいないことだ。ユビュには底知れぬ力がある。しかし、ユビュが加わらぬ限り、戦いは、ルガルバンダが目指す覇権争いの一断面としかなりえない。真の宇宙の平和と秩序を懸けた戦いというなら、ユビュが絶対的に必要だ。」

「それはよく分かります。しかし、ユビュは幾度説得してもパキゼーの法に依拠して離れようとしません。この現実の世界の問題に降りてこようとしないのです。」

 バラドゥーラは笑って答えた。

「そんなことはない。時代は動いている。必ずユビュは動くよ。」

 バラドゥーラの自信ありげな答えにナユタは驚いたが、バラドゥーラは続けた。

「いずれ、おまえもここを離れる時が来よう。その時は、まず、ユビュに会うことだ。道はそこから始まるよ。それから戦力の問題だが、それもこれからの問題だ。バルマン師、シャルマがいるし、ギランダもいる。そしてなにより、ナユタ。ヴィクートを忘れていないか。彼こそ、この難局を切り抜けるために必要な武神と思わぬか。」

「それはその通りです。ただ、ヴィクートもユビュと同様、この現実の世界から離れて過ごしています。」

「たしかにな。だが、だからこそ、おまえが直々にヴィクートの心を動かす以外に道はあるまい。そして、ヴィクートなしには勝利はおぼつくまい。もちろん、おまえには他にも頼りになる者たちがいるだろう。特にシャルマは本当に信頼できる神だろう。だが、ヴィクートの知略は途方もなく優れていることを見なければならない。まだ話していなかったが、ヴィクートは昔わしとともに武術を習っておった。正直言って、武術ではわしもヴィクートに負けぬという自負を持っておったが、武略、軍略にかけてはわしはヴィクートの足元にも及ばなかった。およそヴィクートほどの武人はそうはいない。軍略に関してはカーシャパがすぐれ、戦場での武神としての資質では軍神と言われたイムテーベが勝っているかもしれぬ。しかし、ヴィクートは、戦いの全貌を洞察し、その中で勝つための道筋をつける知略で両者を上回っている。このヴィクートの知略におまえの勇気が加われば、きっと勝利への道が開けよう。」

 さらにバラドゥーラは次のように言った。

「ナユタ、この森にはさまざまなすぐれた仙神がいる。かつて森には、立ったまま十年を過ごすという神や、天地にまつわる一切の脈絡を一瞬にして理解するという神もいたと言われるが、今はそんな神はいない。だが、今も訪ねるに値する神が何神もいるのも事実だ。そのうちの何神かを訪ねてみてはどうだ。きっとおまえのためになるだろう。」

「分かりました。ぜひそうさせていただきます。」

「そうか、ではまず、ウパシーヴァ仙神を訪ねてみるがいい。ウパシーヴァ仙神は宇宙のあらゆる業に通じ、並外れた洞察力を持っている。その慧眼は、この宇宙の大きな流れを掴んでいるはずだ。」

 そう言ってバラドゥーラ仙神はウパシーヴァ仙神の住んでいる場所を教えてくれた。

 

 こうしてナユタはバラドゥーラ仙神の勧めに従って旅立ち、数日の旅の末、ウパシーヴァ仙神のもとへたどり着いた。

 ウパシーヴァ仙神はぼさぼさの髪を頭の上で結い、破れた衣服に、ぼろぼろの草履といういでたちであったが、ナユタが来ると、温かく迎えてくれた。

「ナユタか。よく来たな。おまえがバラドゥーラのところへ来ておることは伝え聞いておる。おまえは宇宙の英雄。わしで役に立つことがあるなら、喜んで力を貸そう。」

 ナユタが来訪の目的を告げ、教えを請いたいと告げるとウパシーヴァ仙神は言った。

「ここは森の中ではあるが、我らも世情のことを無視しているわけではない。今、宇宙はルガルバンダを軸に回っているかのように見えるが、その実情がどうなっているかは分かっており、これからどうなるかも分かっている。」

「これからどうなるかも分かるのですか?」

「分かる。物事には必然というものがあり、小さな事象はともかく大きな流れは必ずその方向に向かうからな。」

「では、それについて、ぜひ教えていただけないでしょうか。そして、その中で私はどうすればよいか、ぜひご教唆いただきたいのです。」

「良いだろう。だが、その前にまず聞くが、今の状況でルガルバンダに勝てると思うか?」

「それは、」

とナユタが口ごもると、仙神は続けた。

「ルガルバンダはその弁舌によって神々の心を掴み、政を行う能力にかけてはおまえより優っている。カーシャパは戦略の確かさと独創性でシャルマに優っている。ヤンバーはその勇猛さにかけてギランダに優り、ルドラは大軍を指揮する能力にかけてバルマン師に優っている。しかも、現在の支配する領土の広さではルガルバンダが圧倒的であり、兵力の差も歴然としている。どのように戦おうというのか。」

「おっしゃることはまことにその通りです。その答えがなく、今、こうして森におります。」

 するとウパシーヴァ仙神は声を立てて笑って問いかけた。

「おまえにはまだ今の世界に住まう神々の心が見えておらんのではないかな。もっと目を見開き、現実の世界の構造を知らねばならぬのではないかな。」

「それはどういうことでしょうか?」

「真の戦いの場は、戦場ではないということじゃよ。だから、性急に結論を急ぐのではなく、まず、どのような流れで今に至っているかを理解し、その理解に基づいて、現状を透徹したまなざしで見つめねばならん。まず最初に理解しなければならないのは、神々の心は明らかに変わったということだ。神々はもはやかつての神々ではない。そしてそれは、ルガルバンダの統治によって世の構造が根本的に変わったことによっている。この世界がどう変わったか、おまえには分かるか?」

 この問いにもナユタが答えられずにいると、ウパシーヴァ仙神は続けて言った。

「ルガルバンダが築いた新しい世界の最大の特徴は富の集中が起こったことだ。かつての神々の世界ではそんなことはなかった。尊敬を集めた偉大な神ですら、清貧の生活から大きく外れることはなかった。だが、今や権力による搾取によって富裕が実現できる世界となった。そして神々はその富裕に心を汚され、皆がその富裕を追い求める世界となった。富裕が尊敬の尺度とさえなっている。」

「分かります。そして、力の所有者にますます富が集中する構図となっているように見えます。」

「そのとおりだ。そして、それを秩序付けることによってルガルバンダの支配が構築されている。力に富と繁栄が集中し、その力を、ヒエラルキーの最上位に座るルガルバンダが付与しているのだ。ルガルバンダ世界で認められ、上位に位置されることが、その神の力となり、そして富と繁栄がもたらされる。だから、皆、その力を得るために血眼になっている。まさに、神々の心には欲望の炎が燃え盛っているのだ」

「たしかにそのとおりかもしれません。」

 そうため息をついたナユタに、しかし、ウパシーヴァ仙神は声を強めて言った。

「今、世界はいったいどうなっているか。栄華を誇っている者たちの麗しい庭園、豪奢な邸宅、きらびやかな食器に盛られた豪華な食事。所有欲がこれほどまでに神々の心を飲み込んだ時代があったろうか。健全さの失われた世界で、燃えたぎった欲望によって生み出された富の頂点に立つのがルガルバンダなのだ。」

 この言葉にナユタがうなずきつつも顔を曇らせうつむいていると、ウパシーヴァ仙神は笑顔を見せて、元気づけるように言った。

「だがな、ナユタ。天下は動いておるぞ。ビハールは日の没することなき帝国と言われているらしいが、ルガルバンダの治世は安泰でも盤石でもない。さまざまな裂け目が口をのぞかせ、崩れをみせておる。それは蟻の一穴かもしれぬが、やがては抑えきれぬ奔流となろう。どうしてそう言えるか分かるか。」

「いえ。」

「ルガルバンダの治世の本質的欠点は、繁栄そのものにある。さっきも言ったように、ルガルバンダは、この現実の世界での神々の欲望を満たすことを実現し、それをてこに支配を確立している。しかし、その欲望に火をつけた以上、その火は留まることを知らずに燃え広がり、神々の心をさらに高い欲望へと掻き立てる。欲望が満たされて満ち足りるということはなく、むしろ、新たな欲望への欲求が強まるだけ。となれば、限りある宇宙の中でそれを満たすことなどできるはずもない。だから、社会が発展すればするほど、その社会に対する脅威がその社会の内に生まれるのだ。まさに、繁栄そのものがそれを妨げる力を生み出すという発展のパラドックスなるものが生じるのだ。繁栄によって神々はますます心を軋ませるようになった。世は腐敗し、貞節は失われ、真理よりも目先の繁栄と富貴が求められている。だが、そのようになってしまった神々を統率し、秩序立てるために、ルガルバンダが頼れるものは力と権威だけだ。だが、これがどんなに危険なことか分かるか。世ではますますさまざまな欲望が沸騰し、ルガルバンダ世界で十分な恩恵を受け取れないと感じる神々の不満はますます鬱積してゆくだろう。そして、それを抑えるために、ルガルバンダの世界は、ますます権力と武力によって異論を抑える世界となる。けれど、神々の心はますます沸騰する世の興奮にさいなまれ、権力に押さえつけられる抑圧への反発もますます強くなる。だから、世界は必ず破綻する。繁栄から生まれる脅威が大きくなり過ぎれば、繁栄の崩壊、混沌、破壊が必ず起こるのだ。」

「世界は必ず破綻する。」

 鸚鵡返しにそう呟いてナユタが考え込んでいると、ウパシーヴァ仙神は続けた。

「だからな、ナユタ。宇宙はおまえを待っておるぞ。無私の心に発するおまえの勇気はヤンバーをしのぐだろう。真理を希求するユビュの純真さは、言葉巧みに神々の心を翻弄するルガルバンダをしのぐだろう。バルマンの愚直なまでの献身さは、策を弄するカーシャパをしのぎ、無欲のヴィクートはルドラをしのぐだろう。」

「それで宇宙はこれからどうなるのでしょうか。」

「おまえが勝つ。」

 このきっぱりした言葉にナユタははっとした。ウパシーヴァ仙神は続けた。

「もうひとつ、ドゥータカという行者がこの前やってきたので、その話をしよう。ドゥータカ行者は、さまざまな超俗的な振る舞いで異彩を放っておる森の行者だが、この前わしのところにやってきた。実は、ルガルバンダとおまえの戦いの前、ルガルバンダに会ったそうじゃ。」

「そうですか。わざわざ、ビハールまで出かけて。」

「そうじゃ。まあ、そこがドゥータカの鬼才とも言えるところだろうがな。ともかく、ルガルバンダに会って、おまえとの戦いを諌め、均一な価値観に基づく専制国家の建設を諌めたそうじゃ。」

「それで、会見の結果は?」

「は、は、は。会見の結果は目に見えておる。ルガルバンダがそんなものに耳を貸すはずがない。」

「しかし、そのドゥータカ行者はそうなるとは思わなかったということですか。そもそもどうして森の超俗的な行者が、現世のことにも関心を持たれるのですか。」

「だからドゥータカは鬼才なのじゃよ。彼の価値観から言えば、ルガルバンダの行いは道を外れておる。だがら、彼はそれを諭しに行った。結果がどうなるかなど、ドゥータカにはどうでも良かったんじゃよ。」

「なるほど。それで、ウパシーヴァ仙神の所に来て、どんな話を?」

「ビハールでのことを説明してくれてな。最後に二つのことを言ったよ。一つは、『わしには本質的に無縁なこと。また、森での静かな修行に戻る。』というものだった。そして、もう一つ、これはおまえにとっても重要だろうか、ドゥータカはこう言った。『世の者たちから見ればルガルバンダの治世は繁栄への道を登っているように見えるかもしれん。しかし、ルガルバンダの治世は限界に突き当たり、破滅に向かって歩みを始めておる。』とな。『世の多様性を認めようとしない支配は必ず破綻する。』ともドゥータカは断言しておったよ。まさに、わしが、『おまえが勝つ。』と言ったことと符合しておるじゃろう。」

 ナユタがうなずくと、ウパシーヴァ仙神はさらに続けた。

「だがな。大事なことがもう一つある。それはルガルバンダの世界を倒して、おまえがどんな世界を作ろうとするのかということだ。」

「それは、かつてのような平和で清新の世界を目指すべきかと。」

「それは可能だろうか?」

 ウパシーヴァ仙神は諭すように言葉を続けた。

「平和な世界を目指すというのは良いだろう。だが、おまえは清新の世界と言うが、それは可能だろうか?いったい、今の神々は清新の世界を求めておるだろうか?さっきも言ったが、ルガルバンダがこの世界を拓いてから、神々は欲望の上に生きるようになった。それを否定することはもはやできまい。歴史には必然の流れがあるが、同時にそれは不可逆な流れでもあるのだ。もし、おまえがただ単に真に清新の世界を求めるというなら、おまえは森に留まり続けるべきかもしれぬな。」

 この言葉にナユタは考え込んだが、ウパシーヴァ仙神はそれを否定するように言った。

「だが、世の神々はおまえを待っている。ルガルバンダの強権支配に不満を持つ神々、多様性が認められる世界を望む神々がおまえを待っている。ただ、彼らが求めているのは、おまえの言う清新の世界ではなく、単に、平和と自由が基本となる世界、抑圧のない世界だ。富が権力によって搾取され、権力を持つ者に富が集中する世界ではなく、富が公平に世に行き渡る世界だ。」

「それはたしかにそうかもしれません。」

「だから、おまえの道は二つしかないように見える。一つは、清新の世界を求めて森に留まる道。もう一つは、歪んだ現在のルガルバンダ世界を打ち倒し、平和と自由が基本となり、豊かな富が公平に分配される新社会を創設する道だ。」

 この言葉にナユタが考え込むと、ウパシーヴァ仙神は続けて言った。

「だが、実は、今おまえが歩くべき道は一つしかないのではないかな。ルガルバンダに抑えつけられている神々の苦しみが大地に蔓延し、また、ユビュをはじめ清新の心を持つ神々が踏みにじられようとしている今の世を放っておくことはできないのではないかな。」

「それはたしかにそうです。」

「だとしたら、おまえはもう一度、森を出ねばなるまいな。そして、心に刻んでおかねばならないのは、軍事力ではなく、大義こそが重要だということだ。最初に言ったように、勝敗は戦場で決まるのではない。もちろん、軍事力は重要だが、より、重要なのは、今の虐げられている多くの神々が求めている自由、平和、共存、公平を実現する世界を目指すということだ。そこに神々の支持が集まれば、ルガルバンダの支配から利益を享受している者たちにしか支えられていない今の帝国は覆らざるをえないだろう。」

 ナユタは深々と頭を下げた。

「分かりました。お教えいただいたことを心に刻み、道を進みたいと思います。」

 ナユタはそう答えたが、ウパシーヴァ仙神はさらに言った。

「だがな、理念としてあるべき基本的な考え方は今言った通りだが、実際にルガルバンダを倒すには、具体的な戦略が必要だ。それについておまえの考えはあるか?」

「いえ、お恥ずかしいことですが、それが見えないのです。それも教え授けていただけるなら、こんなにうれしいことはありません。」

「そうか。ならば、一つのヒントを言おう。それは、これまでの戦いは、中原と呼ばれている中でのできごとに過ぎないということだ。シュリーもイムテーベもそしておまえも皆、中原の中で争ってきた。たしかに、中原は文化的にも高く、生産力の点でも抜きんでておる。だから、これまでの戦いが中原の中で行われてきたことはある意味、当然だ。だが、ルガルバンダがその中原の中で勝利を収め、巨大な帝国を築き上げた今、状況は明らかに変わろうとしておる。おまえにはそれが見えるか?」

 ナユタがこの問いに答えられずにいると、ウパシーヴァ仙神は続けた。

「夷狄の地と呼ばれておる地域のことを知っておるか?」

「ええ、中原の周辺、特に中原の北と東と南に広がる地域で、文化的にもレベルが低く、野蛮で粗雑な者たちが多く住みついていると聞いています。」

「そうだ。だが、中原と夷狄の地の関係はどうなると思う?」

「中原の勢力が夷狄の地に広がってゆくということでしょうか?」

「そうだ。だが、そのことが何を引き起こすかもよく見ねばならぬ。今、ビハールの将軍たちはさらに大きな富を築くため、喜んで夷狄討伐の軍を起こしている。その軍を起こすことが決まれば、ビハールの商神は、夷狄討伐後にその地で専属的な商売をする利権を得るべく多額の金品をその将軍に贈り、さらにその地を征服すれば、その地の商神たちも既存の商売の継続を望んで同じく多大な贈り物をする。また、討伐後、属州にして総督にでもなれば、さらに多くを得ることができる。しかも、凱旋して戦勝将軍として讃えられれば、豪華な凱旋パレードも行えるし、自宅の門には、戦勝の月桂冠の図柄を掲げることも許される。彼らにしてみれば、富と偉大なる栄誉の両方が手に入る手っ取り早い道ということだ。ビハールの将軍たちが我先に夷狄討伐の軍を起こしたがるのも宜なるかなというところじゃろう。」

「欲に突き動かされて、力での征服を続けていると言うわけですね。」

「ああ、聞いた話だが、コルウィヌスという将軍は以前は中流貴族に過ぎなかったが、ある地方の制圧で巨万の富を築き、ビハールに大豪邸を建てたということだ。彼に付き従った部将たちもみな恩恵に与ったようで、まあ、ある意味、この構図がルガルバンダの帝国の繁栄と発展を支えているとも言えるがな。だが、もう一つの面があることを忘れてはならない。」

「もう一つの面。」

「そうだ。ルガルバンダは自分たちの繁栄をさらに高めるために、夷狄の地への進出を進めるだろうが、一方で、そこにはさまざまな交流が発生し、夷狄の地の者たちは、中原の技術、文化、制度などを学び、取り入れてゆく。そして、文化面でも、軍事力の点でもレベルを上げてゆくことになる。中原の者のたちは、夷狄の地を支配することは自分たちの繁栄を増すものと考えているだろうが、それは自分たちに対する巨大な脅威を育てているという面も見逃してはならない。」

「なるほど。」

「しかも、中原の者たちから見れば、夷狄の地は搾取の対象だ。だから、征服され、ルガルバンダの支配に組み込まれた夷狄の部族は、心の奥底に深い恨みと反発を燃やし続けるだろう。まだ征服されていない部族は、力に頼ってでも自立を維持しようとするだろう。さらに、彼らの力が大きくなれば、肥沃な土地があり、高い生産力を有する中原に進出しようとさえするだろう。この動きは歴史の必然であり、中原の帝国への決定的な脅威となる。だから、ナユタ。おまえが中原の中での勢力争いとしてルガルバンダと戦おうとしても味方を見つけるのは困難だろうが、夷狄の地の者たちの思いを糾合するなら、間違いなく道が開けよう。」

「その意味では、シャルマが拠点としている北方の地ウバリートも夷狄の地に属します。ある意味、適切ということですね。」

「そうだ。シャルマは単に、中原から遠くルガルバンダの勢力が及ばないという視点でウバリートを選んだだけかもしれぬが、大局から見て、まさに適切と言えるだろう。」

 ウパシーヴァ仙神の示唆に富む洞見にナユタが感服したことを見て取ると、ウパシーヴァ仙神は、しかし、表情を変えて語りかけた。

「だがな、急いてはならぬ。おまえ自身が神々の荒れ騒ぐ欲望の領域から離れることも大切なことだ。荒れ狂う事象の表層を眺めていては心が荒れ騒ぐばかりだ。だが、どんな激しく波を逆立てる大海もその底では静まり返っている。世の喧騒を離れ、神々の心に清新の風を送り込むことじゃよ。そして、おまえには心を分かち合え、信じ合うことのできる仲間がいる。彼らの力を活かすことだ。仲間たちが生み出すうねりが大きなうねりとなったとき、おまえは初めて大旗を掲げて、号令をかけるのだ。決して早まってはならぬ。道は必ず開ける。そのときまで、じっと待つのだ。」

 ナユタがうなずくと、ウパシーヴァ仙神はさらに言った。

「そして、もう一つ。ルガルバンダを倒すには、おまえ自身の修練も必要だ。おまえにはまだ迷いがあり、心が定まっておらぬ。ここから数日の場所にエシューナという仙神が住んでいる。彼は音楽家だから、おまえとも気脈の通じるものもあるだろう。ともかく、彼を訪ねてみるがいい。」

「ありがとうございます。教えをかみしめ、そのエシューナ仙神をお訪ねしたいと思います。」

 ナユタがそう言うと、ウパシーヴァ仙神は笑顔を浮かべて言った。

「ああ、そうするがいい。エシューナはほとんど誰とも共演することなくひとり森に籠もって音の道を探求する孤高の音楽家だ。おまえにとって本当に大切な何かを授けてくれるはずだ。」

 そして最後にウパシーヴァ仙神は改めて言った。

「ナユタ、前回の創造以来、苦労するな。だが、まだまだ苦労が足らぬ。繰り返すが、ルガルバンダの力に力で対抗しようとしてもとてもかなわぬ。勝つための道は無欲と無心に支えられた真心だけだ。そのことを心に刻んで道を行くがいい。」

 ナユタは改めて礼を言い、深々と頭を下げたのだった。

 

 ウパシーヴァ仙神の元を辞したナユタは、その足でエシューナ仙神を訪ねた。

 エシューナ仙神は、長い髪を後ろで束ね、飄然とした風情で現れたが、その目はきらきらと輝いていた。

 ナユタが尋ねてくるとエシューナ仙神は言った。

「ナユタか。よく来た。世俗的宇宙の領域で神々の心はますます荒び、白日の下にあって目に見えるものだけが尊ばれている。ここで学ぶ気があるなら、音の道を教えて進ぜよう。」

 ナユタは頭を下げて答えた。

「ありがとうございます。ウパシーヴァ仙神よりご示唆いただき、訪ねて参りました。教え授けていただけるものがあるなら、ありがたい限りです。」

「そうか。今、おまえは世俗的宇宙での戦いや勢力争いに巻き込まれ、心を軋ませている。その渦の中にいる限り、今の困難な状況を打破する道は見えてこぬ。おまえはバルマン師の元で音楽を学んだはず。今一度、真の音に耳を傾けることだ。」

 ナユタが軽くうなずくと、エシューナ仙神は続けた。

「実は、わしは、前回の創造の際、まだパキゼーがバルマン師の元で音楽の修業をしておる頃に地上を訪ね、バルマン師と共に音の道を探ったものだった。パキゼーもはつらつとした若者で、何度、バルマン師、パキゼーと三人で曲を奏でたものか。バルマン師の重厚な響きと、希求の響きに満ちた純粋なパキゼーの音列が交錯し、それはそれは素晴らしいひと時であった。その後、天空に戻ったわしはさらに音の道を究めるべく独自の努力を続けてきたが、あるとき、サントゥールという楽器があることを知った。最近はこの楽器の可能性を探求しておる。まずはこれを学んでみるがいい。」

 そう言うとエシューナ仙神はサントゥールを取り出してきた。

 その楽器は台形の共鳴箱の上に鋼鉄製の弦を並べたもので、エシューナ仙神はその弦を木の撥で叩いて演奏を始めた。

 音階は基本的にはバルマン師の石の音と似ていたが、そこで流れ始めた音楽は、バルマン師の音楽ともパキゼーの音楽とも違い、淡々と滔々と美しい旋律が空間に無限に広がり続けるような音楽だった。

 時間が消え、空間が消え、ただ、純一な韻律だけが残る時空間、そしてさまざまな邪念が深い海の底に沈殿してゆくような響き、それがエシューナ仙神のサントゥールだった。

 ナユタは深く心打たれ、頭を下げて言った。

「これまでに聞いたことのない響きが私の心に届きました。どうか、私にこの音の道を教え授けてくださいますように。」

 エシューナ仙神は撥をナユタに渡して言った。

「響かせてみるがいい。」

 ナユタは撥を受け取ると、サントゥールの音を確かめるように、一音一音響かせていった。そして一通り音を確かめ終わると、音楽を奏で始めた。

 小さなトレモロに始まり、それから音楽は大きなうねりを持った深い情念と希求の響きを交錯させた。それはエシューナ仙神の音楽ともまた違うナユタ自身の音楽であった。

 ナユタが撥を置くと、エシューナ仙神は微笑んで言った。

「さすがだな。この楽器は今日からおまえのものだ。」

 ナユタは感動が冷めやらぬまま言った。

「音楽がひとりで生れ出てくるようでした。生れ出てこようとするものがただ生れ出てきただけでした。」

 次の日から、ナユタはエシューナ仙神の元で音の修行を始めた。楽器の奏で方を研究し、宇宙に潜む音をどのように釣り上げるかについて探求し、しばしばエシューナ仙神と即興演奏を行う日々だった。

 エシューナ仙神の元で学ぶうち、ナユタが理解したのは、宇宙広しといえども、エシューナ仙神に並び立つと言える音楽家はそうはいないということだった。敢えて言えば、エシューナ仙神と並び立てるのはバルマン師だけだったかもしれない。

 だが、エシューナ仙神は、その音楽的才能によって世の評価を受けようなどとはまるで考えていなかった。世の神の共感も評価も、そして、それらによって得られるであろう賞賛も、富貴も地位もまるで仙神の興味を引かず、ただひとり森に留まり、真の音楽のために真摯な努力を重ねることだけが仙神の喜びのようだった。だが、その音はなんとみずみずしく、なんと高貴であったことだろう。陽光が降り注ぐ秋の光のように、仙神の音は軽やかで柔らかく、風に散る木の葉のようなかすかな音が心の奥底の琴線を震えさせるのだった。

 こうして、ナユタはエシューナ仙神の元で音楽の修業に励んだが、ナユタの胸に去来したのは、この広大な大地の上で、いったい自分は何をしているのだろう、そして風はいったいどこに向かって吹きすさんでいるのだろう、という思いだった。

 大地の上では本来的なものへ突き当たることを拒絶された者たちが形の向こうへ道の向こうへと砕け続けているではないか。世界の絶壁のふもとでは無数のトルソが存在者たちのあえぎの中に沈黙して立ち並んでいるのだ。そして、ただ、どこにもない賢者の光輪の中で、なにものでもない者たちの踊りが陶酔しきって踊り続けられているのだ。

 けれどいったい、その生起を誰が回転させているのか?空を駆ける巨大な怪鳥ガルダは、けれどいったい、どこをめざして飛んでいるのか?

 無駄なものの中へ拡散させられた、幾多の時間を砕くための賢者の思索はたとえ結実したとて一片の象形文字へと化するだけではないか。とうの昔に鳴り止んでしまった絶対者の咆哮は世界でないものの内で反響しているだけなのだ。虚無の断崖では未知なる形への儀式を執り行うひとりの祭司が縹渺たる風の中に宇宙的形象を祭っている。世界の浜辺では清澄の人の足跡を天使たちがひっきりなしに踏みしだいている。

 どこにもなにもありはしない!そして本当になにもわかりはしないのだ!世界の裏側の斜面で石たちの声が転げ落ちているだけなのだ。

 求道者のいなくなったちっぽけな遊星の表面で存在でも非存在でもない時間の濁流がゴーゴーと音を立てているだけなのだ。

 そんな思いに駆られて、ナユタはある日、ふとエシューナ仙神にこう語りかけた。

「かつて、パキゼーは、人生には何の価値もなく、生まれてきたことはなんの喜びでもない、と言いました。それが、この世界の一切を悟りきった賢者の真摯な言葉でした。そして、同時に、パキゼーは、死する運命を担った人間だけでなく、神にとっても、この世界に存在することの本来的意義はないと言いました。実際のところ、私は何の因果か、この世界に存在することとなりましたが、この世界で存在し続けることの意味は見い出せておりません。エシューナ様はどうお考えですか?」

 このナユタの質問に、エシューナ仙神は軽く微笑んで言った。

「まったく、パキゼーの言った通りじゃよ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、神々はその本質を見ようとせず、喧噪と欲望の中で心を軋ませている。わしが森にいるのもそのためじゃ。ナユタ、パキゼーは真理を見通した。そして、伝えた。その真理はまことに苦いものであるな。」

 ナユタがうなずくと、エシューナ仙神はさらに続けて言った。

「明日、遺跡に登ろう。」

 この突然の言葉に、ナユタは驚いて、

「遺跡、ですか?」

と聞き返したが、エシューナ仙神は、からからと笑って言った。

「そうだ。遺跡に登って音楽を奏でるのだ。おまえはまだ遺跡に登ったことがあるまい。ともかく、楽器を担いでついてくるがいい。」

 そう言って、エシューナ仙神は遺跡に登る準備を始めた。

 次の日、エシューナ仙神はナユタにサントゥールを担がせ、自らは太鼓や笛をもって、近くの遺跡の上に登った。

 遺跡の上に登ると森全体が見渡せた。すべての方向にどこまでも広大な緑の森が続いており、そのところどころから、石でできた遺跡が森の上に顔をのぞかせていた。この広大な風景がナユタの心を打った。

 ナユタは尋ねた。

「ここは遺跡なのですか?」

「ああ、そうじゃ。ここが森になる前、ここには壮大な神々の都市があった。だが、その都市は廃れ、森に飲み込まれ、仙神たちの住処となったのじゃ。今わしらがいるのはこの都市で最も高かった神殿の上だ。そして、あそこに見えるのが第二神殿だ。」

 そう言ってエシューナ仙神は西の方向にひときわ高くそびえる別の遺跡を指差した。ちょうど、夕暮れであった。真っ赤な太陽が西の地平線に沈もうとし、その赤い光が延々と続く森の上にくまなく降り注ぎ、壮大な静けさが横たわっていた。

 エシューナ仙神は神殿の頂上にある祠で祈りを捧げ、ナユタもそれに倣った。

 祈りを捧げ終わると、エシューナ仙神は次のように言った。

「ナユタ、そこにある小石を投げてみろ。」

 ナユタが言われるがままに小石を森に向かって投げると、エシューナ仙神は諭すように言った。

「なあ、ナユタ。今投げた石の軌跡をどう思う。その軌跡はおまえが望んだような軌跡になったのではない。ある法則に基づいて、決められた軌跡を描いただけだ。そのことに思いいたしたことがあるか?」

 このエシューナ仙神の言葉にナユタが考え込んでいると、エシューナ仙神はさらに続けた。

「投げられた石はこの世界を支配する法則に従って決められた放物線を描いて飛ぶ。水はある温度まで下げれば凍るし、ある温度まで上げれば沸騰する。恣意によって、水が凍る温度や沸騰する温度を左右することはできない。すべてはこの世界に普遍している法則に拠っているのだ。だが、その法則は、なぜそのようになっているのであろうな。そしてまた、いったい、いつ、誰が、法則をそのようなものとしてこの世界に設定したのであろうな。」

「それについては、誰も知らないでしょう。いかなる神も、たとえ聖仙といえども、そのことについては答えられないでしょう。」

「そのとおりだ。それはそのまま、この世界はなぜ存在するのか、なぜこのような形で存在するのか、なぜこのようになっているのか、誰も知らないということだ。いったい、どれほどの昔からそうなっているのか、この宇宙がそもそもいつから存在することになったのか、その前はどうなっていたのか、いかなる神といえども知りえない。そして、我らはそのような世界の中に、なぜ存在することになったかも分からず、ただ、存在している。まさに、この冷徹な法則の支配する宇宙に投げ出された存在と言っていい。なんのために存在しているのか、この世界が存在する意味や目的は何なのか、何一つ答えることはできぬ。」

「そして、この時間はいったいいつから始まったのか。いったいいつまで続くのか?世界はいつ始まり、いつ終わるのか、それもまったく分かりません。」

「その通りだ。なあ、ナユタ。今日は、そのことに思いをいたして音を奏でようではないか。この世界の外に流れる真なる音を釣り上げること、それが音を奏でる真の目的であるかもしれぬな。」

 日が沈み、あたりをひんやりとした静寂が支配した。うす暗くなりかけた空に宵の明星が輝いた。眼下の鬱蒼とした茂みから獣の呻きがこだまし、鳥の羽ばたきが虚空を渡った。

 エシューナ仙神は楽器を取り上げ、演奏を始めた。清新の響きが広大な森と大空にこだました。その音にナユタが加わった。ナユタは孤独者の魂の焼け付く荒野で繰り返し繰り返し沸き上がってくるかのような無数の韻律を紡ぎ出した。それは、この大地の上で形となることのなかった無数の試みに思いを馳せ、消えゆく旋律の上を駆けてゆくナユタの想念そのものだった。

 ふたりは延々と演奏を続けた。音の世界は淡々とけれど宇宙に眠っているあらゆる音を掘り起し、そして拾い上げるかのように変幻し、延々と鳴り響き続けた。それは、誰もいない荒野で満天の星を見上げるなにものでもない者たち、この巨大な宇宙の底でうごめく唯一者から切り離された者たち、もはやどこにも己を投げかけることのできない者たちに捧げる音楽であった。

 夜になり、星が輝き、月が煌々と森を照らした。けれど、滔々とした音楽は止むことなく鳴り響き続けた。誰も見ていなかったが、その響きは宇宙にこだまし、さざ波のようにかすかな音が宇宙のあらゆる神々の心に降り立った。混沌とした宇宙の中で太古の時間が光を放ち、形とならないものたちが光を放ち、宇宙の風が荒れ騒ぐ相念の割れ目から即興となって噴き出してくる。夢が食い荒らされる世界の底で、預言者の声の渦巻く荒野に新しい風が吹くのを神々は感じた。

 辺境の神々は心が洗われるような思いを経験し、都ではルガルバンダやカーシャパがその響きに不吉なものを感じた。

 ベルジャーラに難を逃れたユビュもその響きを耳にした。ユビュはその響きに目を覚まし、かつて地上でバルマン師の音楽に耳を傾けた時のことを思い出して、つぶやいた。

「あの時、あの響きから途方もない世界の可能性が弾けた。そして今また、今度はナユタが新しい響きを奏でている。きっと世界が新しい相に進む予兆に違いない。その中心にいるのはきっとナユタなんだ。」

 遠くムカラの地で新たな拠点づくりに尽力していたバルマン師もその響きを耳にした。バルマン師は天を仰いで涙を流して語った。

「再び光がやってくる。現実の中での欲望に依拠したこの淀んだ世界に、再び、絶対者の咆哮が吹き荒れ、求道者たちの朗誦が風の中を舞おうとしている。この響きは聖なる響きであるが、大地に巣食う亡者たちには弔鐘となって聞こえるだろう。」

 そして、バルマン師は楽器を取り出し、ナユタからのかすかな響きに合わせて音を連ねた。

 夜が白み始めると、エシューナ仙神は演奏をやめた。しばらく、ナユタがひとり、サントゥールを響かせ続けた。ナユタが演奏を終えた時、東の空から太陽が昇り始めていた。

 地上に強烈なきらめきを伴って朝日が放射され、一切の存在者が目覚め始めているかのようだった。生命が鼓動を始め、とめどもなく降り注ぐ光の粒の中で、すべてが無垢で純粋な存在だった。なにもかもが喜びに満ち、何ものかを目ざして飛翔を始めようとしているかのようだった。

 けれど、その朝の新鮮さに心動かされることもないかのように、エシューナ仙神は言った。

「これで良い。いいか、この音楽を忘れないことだ。この世界をよく見渡してみるがいい。どの神々もみな自らのために必死に生きており、その集積としてこの宇宙が形成されている。けれど、それは、言ってみれば、宇宙という舞台で、何かを演じているに過ぎない。ある神は自らの定めと使命によって演じており、また、別の神は自らの目標や欲望に基づいて演じている。だが、みな戯れに過ぎぬ。わしがこうしておまえに語っているこの行為そのものも戯れに過ぎぬ。そして、そのことをパキゼーは見抜き、尊い悟りへと至った。そしてまた、バルマン師の音楽もおまえの音楽もそのことを踏まえているはず。だから、ナユタ、そのことを今一度思い致すがいい。それが道を拓くことになろう。だから、どんな苦境の時もこの響きを忘れてはならない。」

 ナユタがその言葉をかみしめると、エシューナ仙神はさらに言った。

「さて、これからのことだが、バラドゥーラの元に帰るのもよいが、その前に、アシュタカ仙神を訪ねてはどうか。アシュタカ仙神は、謙虚ではあるが、真理を見抜く目を持っておる。何が得られるか分からぬが、一度訪ねてみるといい。」

 この言葉に従い、ナユタはエシューナ仙神の元を辞すと、アシュタカ仙神を訪ねたのだった。

 

 ナユタがアシュタカ仙神を訪ねると、仙神は穏やかな言葉で語りかけた。

「汝がナユタか。宇宙一の英雄がわしのところに来るなど、まるでありうべきことでもないが、遠路より来た客は歓迎いたそう。」

 そう言ってナユタを招き入れた仙神は比類なき知性と深甚な学識にふさわしい威厳を湛え、その眼光は炯々として鋭かった。

「ありがとうございます。」

 ナユタはそう言って頭を下げ、次のように語った。

「私はこの宇宙で自らの信じた道を歩いてきたつもりですが、今世紀の動乱の中で、たいへんな苦境に陥っております。これから森を出て、ルガルバンダとの戦いに赴きたいと思っていますが、道は見えておりません。教えを授けていただくべく、こうしてやって参りました。」

「そうか。だが、わしは一介の森の隠者にすぎぬ。汝に教え諭すべきことなどあるようにも思えぬが、ひとつ教えてはもらえまいか。汝は自分自身を発見しておるだろうか。自分自身に出会っておるだろうか?」

「それはどういうことを意味しているのでしょうか?」

 アシュタカ仙神は答えた。

「おまえは孤高の神として宇宙を駆けてきた。崇高な使命に従って道を歩んできたのかもしれぬ。だが、真のおまえとは何なのか、それを考えたことはあるか?」

 ナユタが考え込んでいると、アシュタカ仙神はさらに続けた。

「なあ、ナユタ、真理は自分自身に出会うことによってのみ開示されうるということを知っておるかね。」

 ナユタは鸚鵡返しに言った。

「真理は自分自身に出会うことによってのみ開示されうる。」

「そうだ。真理は、自分自身と遊離した別の次元にあるのではない。自分が、この宇宙の中で、あるいはこの無の中でどういう存在なのかということと別の領域に真理があるわけではない。だから、真理は、自己の存在の本質と向き合うことによってのみ、発現し、見られうるのだ。」

 ナユタが考え込んでいると、アシュタカ仙神は諭すような口調で続けた。

「少し別な話をしよう。話が逸れるが、パキゼーがあの悟りを開いた時代、創造された世界がどのように動いていたか知っておるかね。おまえはパキゼーしか知らぬかもしれぬが、実は、あの時代、地球の上では、さまざまな場所で、さまざまな思想が揺籃し、勃興しておった。唯心論から唯物論まで、倫理を軸に考える者から法を軸に考える者まで、ありとあらゆる思想が沸き起こっておった。詭弁に近い弁論術を得意とする者もいたし、権威主義者もいた。神秘主義者もいたし、相対主義者もいた。」

「それは少しは知っています。バルマン師やバラドゥーラ仙神の元でさまざまな巻物を読んで学びましたので。」

「そうか。それなら話は早い。彼らは哲学者、思想家、宗教家として、新しい考えを説いた。そして、その一人であるパキゼーは『解脱への道』を明かした。そういったものどもの根底にあるものは何だと思う。」

「それは、時代の混乱、社会の混乱とか流動化ということでしょうか?」

「もちろんそれはある。だが、そういったことによって誘起されたあることこそが重要なのだとわしは思っている。」

「そういったことによって誘起された重要なこと。」

 そう鸚鵡返しに言って考え込むナユタにアシュタカ仙神は言った。

「そうだ。それまで、人間たちは、この宇宙の中で、この創造された世界の中で、自分は誰なのかを知らず、また、知ろうともしなかった。自分自身に出会っておらず、自分自身を発見していなかったのだ。だが、あの時代、そのことが初めて問いかけられた。それまで、人々はただ欲望に突き動かされて生きてきただけだった。だが、あの時代、優れた哲学者たちは、この世界の中で自分とは誰なのかと問い、この世界の中での自分自身の本質に向き合おうとしていたのだ。別の言葉で言えば、人間たちは、その創造された世界の中での自分たちの限界を知ったということだ。そして、それこそが先に言った『真理は自分自身に出会うことによってのみ開示されうる。』ということなのだ。だから、あの時代は、人間が人間自身の意味を問うことに目覚めた時代でもあったのだ。」

「そう言った意味では、パキゼーも自分自身に出会うことによって真理に至ったのでしょうか?」

「そのはずだ。たしかに、パキゼーはそれについて何も語っておらぬし、それに関することは何も言い伝えられてはおらぬ。しかし、わしには、パキゼーは、自分とは何か、この冷徹な宇宙の中で自分とはどういう存在か、この虚無を本質とする世界の中で為すべきことは何なのか、ということどもを自己の本質と照らし合せて突き詰めることによって、一切は空という真理に行き着いたとしか思えぬ。もし、自分自身に向き合うことがないなら、自分の周りの世界の中で自分が依拠できるものが見出されるだろう。自分自身に向き合い、その自己の本質が依拠するものが実に何もないということを見抜いたことによってのみ、一切が空であるという洞察に至り、法が輝いたのだと確信しておる。」

「パキゼーは道を求め、道を見出し、そして道を広めました。それに対して、私は未だ道を見出さず、迷いの内に留まっています。そういう意味では、私はまだ私自身に出会っていないのでしょうか?」

「そうかもな。」

 短くそう言って、さらに仙神は続けた。

「おまえはバルマン師の元で音楽を学び、エシューナ仙神のもとでさらに音の修業を積んだというが、それはおまえが真のおまえ自身と出会うために良かったのではないかな。ほんとうのおまえ自身、自分が何のためにここに在るかということを自分自身の存在の本質から問い詰めてみると良いかもな。」

「確かに私はバルマン師の元でそれまで知らなかった世界に目覚め、世界の深淵にまなざしを凝らし、真音を求める中で、未知なるもの、涯しないものへの道を感じ取ることができました。そして、それは私自身の心の奥底に響き、そして私の中からひとりで出てこようとする何かと共鳴し、私を何か別の次元にいざなってくれるように感じました。」

 仙神はうなずき、次のように言った。

「おそらく、そこに、おまえ自身の道があるのではないか。おまえは類まれな武神であり、宇宙を駆ける英雄ではあるが、おまえがおまえ自身となる本質はそれだけではないということではないかな。」

 仙神はいったん言葉を切り、ちょっと間をおいて、さらに語った。

「エシューナと共におまえが響かせた音をわしも耳にしたが、宇宙の中に、ひとり孤独に佇むおまえ自身が響いてくるように思えたよ。おまえはそもそも孤独の神、孤高の神だった。おまえには、真理を見つめる真摯なまなざしが宿っておるとわしは信じておる。」

 ナユタは噛みしめるようにこの言葉を聞いたが、小さな声で尋ねた。

「しかし、それでは、私はこの森に留まっていれば良いのでしょうか?今、神々の世界では、ルガルバンダが心ある神々の心を砕き、清新の響きが消えた世界を作り出しています。そして、欲望と闘争が渦巻く世界が大地を覆い尽くしています。」

 この言葉に小さくうなずいて、アシュタカ仙神は言った。

「おそらく、この森にはおまえが求める空間と時間があるだろう。だから、外の世界で、ルガルバンダと覇権を争うことは必要ないのかもしれぬ。ただ、おまえの道はそこに通じておるのでないかな。それがおまえの道であるなら、戦うよりほかあるまいな。だから、おまえは戦に赴くがいい。だが、それがすべてではないことも、また知らねばならぬかもな。」

 そう言うと、アシュタカ仙神は諭すようにさらに続けた。

「無知なる者はいかなるものによっても満たされず、日々、心を悩ませ、不安におびえ、苛まれる。だが、知恵ある者はそうではない。汝のような賢明な者は、真理に目を開き、心を開き、邪悪に満ちた世界から離脱する道を見出すことができるはずだ。心身とも打ちひしがれるような危難に陥っても、どんな苦難に見舞われても、己を見失うことはないはずだ。」

 そう言うとアシュタカ仙神は、

「ついてくるがいい。」

と言って立ち上がり、庵の外にナユタを連れ出した。

 既に日が沈んでいた。アシュタカ仙神は森の中の小さな広場にナユタを導いた。

「見上げてみるがいい。」

 そうアシュタカ仙神は言った。ナユタが空を見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。静かな森の静寂の中、無数の星々の輝きにナユタは心を奪われたが、アシュタカ仙神はこう語りかけた。

「なあ、ナユタ。星々はなぜ光っているのであろうな。」

 しばらく沈黙が続いたが、アシュタカ仙神はこう続けた。

「星がなぜ光っているかはわしにも分からぬ。だが、星はただ光っている。何かを求めるでもなく、何かの目的のためでもなくな。なあ、ナユタ。汝は宇宙一の英雄だ。それに対してわしは何ものでもない。だが、まさに、わしは何ものでもなく、何も求めておらぬ。何も求めず、ただ、森の中で生きてきた。汝の生き方のまさに対極にあるかもしれぬ。汝は求めすぎておるのかもしれぬな。」

「求めすぎている。」

 そうナユタがつぶやくと、アシュタカ仙神はさらに続けて言った。

「そうだ。そして、世の神々は喧噪に包まれ、心を軋ませて生きておる。それにしても、おまえの拠り所となるものはどこにあるのであろうな。だが、ともかく、おまえは旅立つであろう。それがおまえの道だからな。だがな、戦いが終わったとき、おまえはきっとここに戻ってくることになるだろう。その時を待っておるよ。おまえの真の道は、おそらく戦いの中にはないだろうからな。」

 混沌とした言葉の中に、心の奥底に沁み透るような言葉がしたたり落ちているかのようだった。アシュタカ仙神に会ってナユタが感じたのは、これほどの知恵と洞見をもった賢者が、しかし、なんと静かに森に引き籠もって、つつましく、ひそやかに、地味に生きているかということだった。日々の生活で、仙神は弟子も持たず、なんら自らの教えを授けることもなく、ただ、淡々と生きているのだ。それに比べれば、自分はなんと求めすぎていることかとも思え、半ば恥じ入るような気持ちでもあった。

 だが、それが自分の道。求めすぎているとしても、それが自分の道なのだ。

 この広大な空間に、ひとつの音が、そして無数の音が響き、ひとつの光を金色の鳥がもたらすのをナユタは感じた。

 この頭上のはるかなる黒い宇宙では、無数のつぶやきが流れ去り、地上では新しい夢が土に還り、古びた古文書に書き記された呪文が広野の祭壇の上で干からび、宇宙的な文字の列は黒ずんだ石板の上で風化している。

 けれどナユタはその宇宙で渦巻いている何かを感じた。それは、土塊を蹴り、飾り立てられた祭壇に灰を投げ、息絶えた夢の数々を曼陀羅に描き込む何ものでもないものたちの試み。神と羅刹が踊り狂う曼陀羅の宇宙の中心で永劫の業火を喜悦に満ちた心で眺めるシヴァ神の試みなのだ。

 結晶化していない宇宙の鼓動がかすかにうち震えていた。

 ナユタは静かに深々と頭を下げて言った。

「いただいた言葉を十分には理解できていないかもしれませんが、胸に刻んで道を行きたいと思います。」

 

 アシュタカ仙神との不思議な対話を終えると、ナユタは久しぶりにバラドゥーラ仙神の元に帰還した。

 ナユタを迎えると、バラドゥーラはすぐに言った。

「世はいろいろと騒がしいようだ。ルガルバンダの軍勢はマーシュ師の館にも押し寄せ、マーシュ師とユビュは行方知れずらしい。」

「えっ?」

とナユタは絶句した。

「そうですか。そんなことになっているとは。ここでお世話になっておりますが、いつまでもここに留まっているわけにはいきません。」

「そうだな。もう一度、おまえの力を試す時が来たようだな。だが、もうしばらく待つがいい。またいろいろと知らせが入ってくるだろう。わしも森に隠遁を続け、世間のことにはとんと興味を失っておったが、おまえが来てから、放っておけなくてな。ウダヤ師からもいろいろと知らせが入ってくる。少しだけでも力にならせてもらうよ。」

 実際、バラドゥーラ仙神はさまざまな情報をもたらしてくれた。ユビュとマーシュ師がベルジャーラに潜み、シャルマがウバリートで戦力を蓄えているとの情報も得られた。プシュパギリがベルジャーラに合流したこと、バルマン師とギランダがムカラで新たな拠点作りを進めていることも分かった。

 バラドゥーラ仙神は言った。

「ナユタ、まずはベルジャーラに行くがいいだろう。だが、ルガルバンダはユビュらがそこにいることに気付いていないはずだ。だから、おまえは密かにベルジャーラを訪ねねばならん。そして、ユビュを動かすことだ。」

「分かりました。」

「そして、ユビュの合意が得られたら、ユビュとともにヴィカルナ聖仙、ナタラーヤ聖仙を訪ねるがいい。」

「ヴィカルナ聖仙とナタラーヤ聖仙をですか?」

 驚いたように聞き返したナユタにバラドゥーラ仙神は落ち着いて答えた。

「そうだ。前回の創造の際にもおふたりを訪ねたであろう。今回もそれが必要だ。かつての戦いでおまえはヴィカルナ聖仙を訪ね、ユビュはナタラーヤ聖仙を訪ねた。そして授かった神器はムチャリンダとの戦いで決定的な役割を果たした。だが、今、おまえたちがもっておる神器はマーヤデーバだけだ。」

「そのとおりです。ヴィカルナ聖仙から授かったサーンチャバはパキゼーの入滅の際にただの金属の塊になりました。ユビュのマーダナもそのとき石と化し、タンカーラがどうなったかは分かりませんが、創造がなされていない以上、タンカーラは何の意味も持たないでしょう。」

「その通りだ。そして、マーヤデーバはルガルバンダとの戦いでは決定的な役割を果たすことはできなかった。ナユタ、再びこの世界の根幹を問う戦いを行う時、必ずや神器が必要となる。」

「この時代においてもですか?」

「そうだ。依然として、神器は超越的な力を秘めておるはず。だから、ナタラーヤ聖仙とヴィカルナ聖仙を再び訪ね、神器を授かることが必要なのだ。今回はおまえがナタラーヤ聖仙を訪ね、ユビュにヴィカルナ聖仙を訪ねさせてはどうかな?」

「しかし、どのようにしてヴィカルナ聖仙とナタラーヤ聖仙を訪ねたらよいのでしょうか。かつてユビュがナタラーヤ聖仙を訪ねた時には、バルマン師から授かった石板を祭壇に並べて、瞑想の中でナタラーヤ聖仙への道を辿ったといいます。しかし、もうその石板はありません。」

「ナユタ、心配することはない。ヴィカルナ聖仙もナタラーヤ聖仙もかつてのヴィカルナ聖仙やナタラーヤ聖仙ではない。かつてふたりは闇の中に引き籠ってしまっていたが、前回の創造はふたりを再び現実の世界に引き戻したはずだ。瞑想の中で道を探すだけで道はたやすく見つかるだろう。」

「分かりました。そのようにいたします。」

「そして、もう一つ、ヴィクートも絶対に動かさねばならぬ。宇宙広しと言えども、ヴィクートほど理想を堅持し、常に高邁な気持ちを忘れず、品位と善意に溢れた神はおらぬ。強い義務感と為すべきことに対する真摯で倦むことのない熱意、それは静かな熱狂と言っていいほどだ。今こそ、そのヴィクートの力が不可欠なのだ。」

 そう言うとバラドゥーラは奥から一本の三叉戟を持ってきた。バラドゥーラはそれを取り上げて言った。

「これは、トリシューラと言ってな。ヴィクートからもらったものだ。前にも言ったように、わしはかつてヴィクートとともに武術を習っておったが、ある時、どちらが武術が上か勝負することになった。わしが勝負を求めたのじゃが、若くて競争心に煽られておったのじゃな。ヴィクートは最初勝負することを断ったが、わしがしつこく言うと、しかたなく勝負に応じてくれた。そして、その勝負でわしは初めてヴィクートの強さを知った。たしかに武術の技量そのものではわしの方が上であったかもしれぬ。だが、ヴィクートは心の面で完全にわしを上回っていた。ヴィクートの心はまったく揺らいでいなかったのだ。わしは負けを認めた。」

「戦わずして負けを認めたのですか?」

「そうだ。打ちかかろうにもどこにも隙がなかった。その心はまったく風のない湖面のように、澄んで透明だった。わしが負けを認めると、ヴィクートはただ一礼してその場を去った。その後、再び仲間として修練に励んでいたのだが、わしがひとり旅立つ日が来た時、彼が渡してくれたのが、このトリシューラだ。そのとき彼はこう言ったよ。『あの日、もしおまえが打ち掛かっていたら、自分が負けていたろう。おまえの殺気は何ものをも切り裂かずにはいられないほど澄んで純一だった。だから、おれはこれを贈りたい。』そう言ってこのトリシューラをくれたのだ。それはなんだと聞くと、彼は、危急の際にきっと身を守ってくれると言った。今こそ、これをヴィクートに返す時だ。トリシューラはシヴァ神の神器でもある。ナユタ、これをヴィクートに渡してくれぬか。」

「分かりました。このトリシューラを渡して、力を貸してくれるよう真摯に頼みましょう。」

 

 このような会話を交わした後、ナユタはバラドゥーラ仙神の元を辞し、秘かにベルジャーラにやってきた。

 ナユタが単身、ベルジャーラに現れると、あまりの突然のことに皆びっくりしたが、マーシュ師もプシュパギリもそしてユビュもナユタの来訪をただただ喜んだ。

 マーシュ師は言った。

「ナユタ、待っておったよ。いつかは来てくれると信じていた。ウダヤ師からおまえが森に入ったことは聞いておった。ともかく足を洗い、くつろぐがいい。話さねばならぬこともたくさんあるしな。」

「ありがとうございます。森にいたとはいえ、世の状況は聞き及んでおります。マーシュ様とユビュがここに逃れてきていることも聞いておりましたし、プシュパギリが再び私たちの力になってくれていることも聞いています。シャルマがウバリートで勢力を蓄え、バルマン師とギランダがムカラで新たな拠点作りに取り組んでいることも聞いています。これからのこともいろいろ相談せねばなりません。」

 次の日から、ナユタはマーシュ師、プシュパギリ、シャンターヤ、ユビュと議論を重ねた。若いイルシュマも議論に加わった。だが、これからどうするかは難しい問題で、簡単に答えは出なかった。

 そんな中、ナユタが言った。

「ルガルバンダへの不満は世の底流に渦巻いています。しかし、ウバリートやムカラの拠点で着々と勢力を蓄えているだけではルガルバンダの支配を覆すことは簡単にはできないでしょう。実は森にいる間にエシューナ仙神から音楽を習いました。特に学んだのはサントゥールという楽器で、ここにもそれを持ってきています。一度、耳を傾けていただけないでしょうか。」

 マーシュ師が答えた。

「以前、おまえが奏でた響きは遠くここまで聞こえてきた。楽器があるというなら、ぜひ聞かせてくれ。」

「分かりました。では、準備させていただきます。エシューナ仙神は、バルマン師とともに音の道を探ったそうです。バルマン様がいらっしゃらないのが残念ですが、ぜひお聞きください。」

 その夜、ナユタはサントゥールを準備した。ナユタは楽器の前でしばし目を閉じて気息を整え、それから最初の音を奏でた。

 小さなさざめくような音の波に始まり、宇宙から釣り上げてきた真音の列が続いた。遠い世界の夢がしとしとと現実の世界にしたたり落ち、結晶化し、そして、滔々とした時間の渦の中に拡散してゆくような音楽。宇宙の中心に潜むたった一つの聖なる音が、時間の中に展開される多面世界の中で幾重にも反響され、不可思議な相をもった存在の本質と共鳴するような音楽。そんな音楽をナユタは響かせた。

 マーシュ師は深く心を鎮めてその音楽に聞き入り、プシュパギリは微動だにせずその音楽に浸り、ユビュは弥勒菩薩のような無表情さでその音に耳を傾けた。

 ナユタが最後の一音を響かせ終わったとき、最初に口を開いたのはユビュであった。

「あのとき、この響きがはるか遠くから響いてきて、私の心を波立たせました。そして、かつて、地上に生まれ変わったバルマン師とパキゼーが出会った日に聞いた響きを思い出しました。この現実の世界はあまりにも醜く、私はこれに立ち入ることを拒否して今日に至りました。そして、未だに私は力によって戦うことが真の道であるのかどうかたいへん疑問に思っています。ですが、ナユタ、この音楽が私に呼びかけ、いざなってくれました。その音が呼び起こす世界こそが本来の神々のあるべき世界であり、ルガルバンダの支配する世界はそれとはあまりにもかけ離れています。ナユタ、私は決意しました。私は再び赤い羽根飾りのついた黄金の鎧兜を身にまとい、ルガルバンダの支配を打ち倒すために共に戦います。」

 ユビュのこの言葉を聞くとマーシュ師は目頭を押さえ、プシュパギリにいたっては、うつむいてぽたぽたと涙を落とした。嗚咽を堪えきれないプシュパギリのそばで、ナユタは震える声で言った。

「私は森で多くのことを学びました。そして、これからのことについて、バラドゥーラ仙神より教えを請うて参りました。その教えに従い、私はナタラーヤ聖仙をお訪ねしたいと考えています。そして、バラドゥーラ仙神はユビュにはヴィカルナ聖仙を訪ねてもらうと良いと言われました。さらに、この戦いにはヴィクートの力が絶対に不可欠です。マーシュ様、ヴィクートを訪ね、この聖戦に参加するよう説いていただけませんか。」

 ユビュもマーシュ師もその提案に同意した。こうして、ムカラのバルマン師、ウバリートのシャルマと緊密に連絡を取る一方、ナユタがナタラーヤ聖仙を、ユビュがヴィカルナ聖仙を、そしてマーシュ師がヴィクートを訪ねることとなったのだった。

 

 ナユタはナタラーヤ聖仙と会うため、かつてユビュが行ったのと同じように、祭壇の前で祈りをささげた。すると自然と道が開け、その道はかつてユビュがマーダナとタンカーラを授かった山の頂上へと続いていた。ナユタは遮られるものもなく山頂に達した。山頂にはかつてユビュが訪れた祠があった。

 ナユタは祈りを捧げた。するとそこに現れたのはナタラーヤ聖仙であった。

「ナユタ、よく来たな。」

 そうナタラーヤ聖仙は声をかけた。

「お久しぶりです。今、下界では大変な混乱が起きています。前回の創造で光を発したパキゼーの教えがもろくも砕け、殺伐とした争いが渦を巻いています。ナタラーヤ様、この世相の中で何をなすべきか、教えを請いに参りました。」

「下界のことは知っておるよ。まことに残念だが、これが現実ということだな。大地では賢者たちの思索の破片が燃え尽きて灰のように降り積もっている。まるで世界の半分が欠け落ちたかのようだ。そして今、宇宙はルガルバンダの覇権に覆われている。ひとりの神の覇権によって宇宙が支配されたなど宇宙開闢以来ついぞなかった。これは宇宙にとって途方もない危機であるかもしれぬ。ナユタ、おまえがルガルバンダに対抗し、覇権によって成り立つ世界からの脱却を目指すなら、わしはおまえに力を貸そう。」

「ありがとうございます。私は前回、前々回の創造の際には、その創造のあるべき姿をめざし、自分がなすべきと考えたことをなしてきました。それに対して今回の混乱はただ、神々の世界の中の争いでしかありません。それゆえ、当初、私はこの争いから距離を取ってきました。しかし、世界がこのような恐ろしい状態に陥っているのを目の当たりにし、世界の再興のために立ち上がらねばならないと覚悟を決めました。」

「ナユタ。ルガルバンダは権力と権勢を求める者たちを統合し、その者たちの欲望を糾合することで権力を築き上げている。だが、その世界は、言ってみれば、決して満たせないものを目ざす世界であり、すなわち、無限の欲求を崇敬しているとも言える。だから神々はその世界の中で、欲求に沿って競い合い、その結果は、真に求めるものを手に入れるのではなく、より多く得ること自身が追及されている。かつての清貧の世界では、モノはなかったが、それを不満には思わなかった。だが、今はより多く欲求を満たすことにすべての神々が汲々としている。その結果としてさまざまな軋轢が生まれ、その軋轢を抑え込むために、ルガルバンダは威圧と恐怖をてこにして覇権を維持しており、さらに、自分たちに反する者たちを蔑み虐げることでその権力基盤を強化している。このような世界にあって、おまえたちは何をよりどころとするのか。」

 この問いは、ナユタに、ウパシーヴァ仙神との問答を思い起こさせた。ナユタは答えた。

「私は権力も覇権も求めてはおりません。かつての平和な宇宙、神々のまごころによって秩序が成り立つ世界を復興させたいだけです。ただ、今の私はルガルバンダとの戦いに敗れて流浪し、仲間もバラバラになっています。しかし、これからユビュ、ヴィクートなどの協力を得て反攻の時を得たいと考えております。」

「ナユタ、善悪は別として、ルガルバンダは明確な価値基準を打ち出している。そして、それは、神のあるべき姿は何かという思考ではなく、富と、その富を導く権力そのものに価値を置くというものだ。それゆえ、それを認める者たちにとっては、極めて明瞭な基準と言えるだろう。かつての神々の世界のように、多様なものが混在する世界ではないからだ。だから、ルガルバンダが構築する世界に参画する者たちにとっては、みな自らの得るべきものが明確に思い描け、それを目指してその世界に参画し、ひいては、ルガルバンダに付き従い、その覇権を支えておるのだ。おまえがルガルバンダに対抗するためにはルガルバンダの描く世界像に対抗する別の世界像が必要だ。」

 ナユタがうなずくと、ナタラーヤ聖仙は続けた。

「そのためには、まず、ルガルバンダの価値観がもたらした世界像の本質を知らねばならぬ。ルガルバンダの構築する権力構造では、その頂点に近づくほど多くの利益が得られ、逆に底辺に行くに従い、不満が増大する構図となっている。しかも、現在自分がいる場所を保持するため、あるいはより上の場所を目指すためには不断の努力が必要で、その努力を怠るものはすぐに下の層に蹴落とされる。そのため、この構図の中で神々は常に心を尖らせねばならず、心はますます荒びはてる。それゆえ、少なからぬ神々が心の中に反感を宿している。ただ、ルガルバンダの威圧の前に身をすくめているだけだ。ナユタ、おまえは多くの神々に共感される世界像を打ち出し、それを拠り所にせねばならぬ。それがなければ、この戦さには勝てぬ。」

「分かりました。」

 ナユタが短く答えると、ナタラーヤ聖仙は諭すように言った。

「たしかに、宇宙には、創造を巡る意見の相違や争いが常にあった。わしやヴィカルナ聖仙が創造を行ったころにも異論や反感はあったが、戦火を交えるような争いは存在しなかった。しかし、前回の創造の際には、意見の相違は神々どうしの争いに発展し、武力によってヴァーサヴァは退場させられた。そして、今回は、創造に関してではなく、ただ単に、神々の世界の中の勢力争いが武力による争いとなって沸き起こった。これは宇宙のたいへんな危機と言わねばなるまい。だが、いや、だからこそ、今、混乱の中を駆け抜ける峻烈な叫びが大気を切り裂かねばならないのだ。」

 そう言うと、ナタラーヤ聖仙はナユタの前に法螺貝を置いた。

「これはパンチャジャナという。」

「パンチャジャナ?」

「聖なる法螺貝だ。この宇宙を支えるヴィシュヌ神の持ち物だったものだ。戦場ではこれを吹いて戦うがいい。」

「ヴィシュヌ神はこの宇宙の創造の根幹をなす神と聞いていますが、未だその存在を確認した者は誰もいないとも言われています。やはりヴィシュヌ神はおられるのですか?そしてまた、そのヴィシュヌ神の聖なる神器がどうしてここに?」

「ヴィシュヌ神は宇宙の創造の起源にかかわる聖神であるが、その存在は隠されている。ヴィシュヌ神は、宇宙の大海の中でアナンタの上に横たわり、四つのユガのすべてを超越しておる。八十六億四千万年がブラフマーのただの一日であり、そのブラフマーの百年で大宇宙が融没して一切が原初の領域へと帰滅する宇宙の周期のすべても、ヴィシュヌにとっては一瞬の幻影にすぎない。だから、なぜここにヴィシュヌ神のパンチャジャナがあるか、それについて語るべきものは何もない。ただ、それがおまえに授けられるというその事実に、我らには測りがたい意味が潜んでいると理解すべきだろう。」

 この言葉にナユタが頭を下げて答えた。

「分かりました。このパンチャジャナを携えて戦いに赴くことに致します。」

 ナタラーヤ聖仙はさらに一本の槍をナユタに差し出した。

「ナユタ、これはただの槍ではない。パシュパタという。パシュパタは最終兵器とも呼ぶべき威力をもっている。ひとたび、この槍を放てば、大地は一瞬で炎に包まれ、湖は瞬時に干上がるだろう。そこにいる者たちは、みな黒こげとなり、いかなるものも生きながらえることはできぬ。これをおまえに授けよう。」

 ナユタはパシュパタを恐る恐る受け取ったが、ナタラーヤ聖仙をまじまじと見つめて言った。

「こんな恐ろしい武器を手にしたことは未だかつてありません。これはどのように使えばよろしいのでしょうか。」

「ナユタ。わしはパシュパタをおまえに授けた。どう使うかはおまえが決めることだ。」

 ナユタがこのナタラーヤ聖仙の言葉をどう受け止めればよいか分からずにいると、ナタラーヤ聖仙はさらに言った。

「ナユタ、この世界は矛盾に満ち、暗い奇怪な叫びが常に宇宙の中心で反響している。創造を巡ってさまざまな異論やいさかいが生じてきたが、そもそもこの世界そのものがまるで真理からほど遠い茫漠たる無限の中に浮かんでいる。」

 そう言うとナタラーヤ聖仙は、さらに声を落して静かに語りかけた。

「世界には実にさまざまな存在者が生きておる。蛇の神ナーガは大地の奥深く水の底の広い宮殿に住んでいるし、怪鳥ガルダは巨大な灰色の海の上を飛び回っている。暗黒の地に住む鬼神ラクシャーサは存在者たちの肉をむさぼっているし、妖艶な美貌を持つ水の精アプサラスも悪霊ヤクシーも死を肩にぶら下げている。そしてこの宇宙はブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌの三神によって支えられ、宇宙に混乱が起こったときにはヴィシュヌがクリシュナの姿を借りて我々のところに降りてくると言われている。」

「では、クリシュナは現れるのでしょうか。クリシュナは前回のヴァーサヴァの創造の最後で、私たちの元に降り立ち、私たちを導いてくれました。そのクリシュナが再び私たちの元にやって来るのでしょうか?」

 だが、ナタラーヤ聖仙は唇をかみしめ、表情を崩さず首を横に振って言った。

「いや、クリシュナは現れないだろう。」

「クリシュナは現れない。」

 そう鸚鵡返しに言ったナユタに、ナタラーヤ聖仙は続けた。

「そうだ。クリシュナは現れぬ。そして、今後、気の遠くなるような未来のすべての時間を通して、クリシュナが現れることはないかもしれぬ。」

「それはなぜですか?」

「クリシュナは、世界が清算されるべき時、世界が新たに再創造されるべき時、つまり、世界の節目節目で現れる。だが、世界はもはや再生する力を失ったかもしれないからだ。」

 この言葉はナユタに強い衝撃を与えた。ナユタは顔をこわばらせ、絞り出すような声で言った。

「世界が再生する力を失ったとしたら、私たちはどうすれば良いのでしょう?」

 だが、ナタラーヤ聖仙は静かに言っただけだった。

「ナユタ。わしに言えることは、己を信じよということだけだ。おまえは宇宙を駆けてきた。そして、おまえの中には真実が宿っているはず。それを信じる以外いかなる道があると言えようか。」

 ナタラーヤ聖仙のこの言葉を聞くと、ナユタは噛みしめるように言った。

「かつて、パキゼーは、この世界は生きるに値しないと言いました。そして、その認識こそパキゼーの悟りの源泉であるのだと思います。そして、パキゼーは、生きるに値しないのは創造された人間の世界だけでなく、神々の世界もだと言いました。私はなぜだか分かりませんが、この世界に存在することとなり、この世界で活動しています。しかし、それが私にとってどういう根源的な意味を持つのか、私にとってこの世界に存在することがどう喜ばしいことなのか、私には分からずにいるのです。」

「その通りかもしれぬな。誰もが、自らがなぜ存在するかという問いについて考えてもみず、ただ、投げ与えられた状況の中で動いているにすぎぬ。いや、動かされているにすぎないのかもしれない。そして、この世界が存在することにいかなる意味があるかは、いかなる神も知りえない。だがな、ナユタ。その答えは最後まで得られぬかもしれぬが、今は、ひるむことなく戦うしかない。今、宇宙は危難のときだ。優柔不断な日和見は何も生み出さぬ。清新の世界を取り戻すことを、わしも含め心ある多くの神々が望んでいる。それができるのはおまえとユビュしかおらぬ。新しい世界の光が現れることを信じておるよ。」

「ナタラーヤ様、ありがとうございます。お言葉を肝に命じ、道を進みたいと思います。」

 ナユタはそう答え、パンチャジャナとパシュパタを授かって帰還したのだった。

 

 一方、ユビュはかつてナユタがヴィカルナ聖仙を訪ねたのと同じく、たったひとりで暗黒の宇宙の中、究極の闇を求めて、ひたすら真っすぐに旅を続けた。長い孤独な旅の後にユビュはかつてナユタが訪ねた古びた石組みでできた入り口にたどり着いた。そこから長い洞窟を下ってゆくと、突然、まばゆいばかりの空間が開けた。聖者にのみ見える閃光によって作られた闇の世界の都、遠い昔、天界の建築師カーランジャが設計し、丹精込めて築き上げたという都にユビュは驚嘆した。

 歩いてゆくと、かつてナユタを誘惑した天女たちが口々に話しかけてきた。

「ユビュ様、ようこそ。いつかはいらっしゃるとお待ちしていました。」

「豪華な食事と香り豊かなお酒があります。さあ、一緒に参りましょう。」

「私たちはあなたにかしずき、若くて凛々しい殿方が相手をしてくれます。」

 ユビュが無視して歩き過ぎると、後ろから天女たちが悪態をついた。

「その先を行っても何もないわよ。私たちを無視したらろくなことはないのよ。」

「気取った高慢ちきな女ね。だから女は嫌いよ。」

 しばらくすると鸚鵡が話しかけてきた。ナユタから聞いていた通りだった。

「知りたいことがあるなら、おれが教えてやるよ。おれはこの世界のことは何でも知っているんだ。」

 鸚鵡の言葉も無視すると、鸚鵡はぱっと飛び立って上から蔑むように声をかけた。

「おまえなんかさっさと帰った方がいい。かつては王女だったかもしれないが、今は、落ちぶれた婢女同然じゃないか。」

 その声も無視して、ユビュは歩いていった。その先にはナユタから聞いていた大きな扉があった。

「この扉ね。」

と思い、その扉に手をかけたその時、後ろから声がした。

「ユビュ。」

 驚いて振り返ると、そこに立っていたのはヴィカルナ聖仙であった。ヴィカルナ聖仙はユビュを扉の中に招き入れ、そして言った。

「前回の創造は幾多の争いを引き起こしたが、神々が行ってきた幾多の創造の中で最高のものであった。幾多の神が偉大な創造、高貴な創造を目指して努力したが、パキゼーが見出し得たものを生み出した創造は存在しなかった。わしが行った創造、そしてナタラーヤ聖仙が行った創造も前回の創造の足元にも及ばない。なぜ、これほどのものであったか分かるか。」

「考えますに、私の父ヴァーサヴァが行った創造がヴィカルナ様やナタラーヤ様の創造以上であったとは思えません。ブルーポールは立てましたが、それがあの創造をすばらしいものにした源とも思えません。」

 ヴィカルナ聖仙は首を横に振りながら答えた。

「今にして分かったことは、真の創造は設計して生み出すものではないということだ。前回の創造の最大のポイントは、ヴァーサヴァの創造に対してムチャリンダの反発があり、さらに、そのムチャリンダに対するナユタやおまえの対立があったということだ。すなわち、あらかじめ描かれた創造に対する挑戦と反撃、そしてそれらがさらに作用しあい、最終的にパキゼーの教えが得られたのだ。」

「分かるような気がします。でも、その創造によって得られたものが永続せず、今、醜い争いが起こっています。」

「その通り。最高の創造と最高の教えの後に、神々の世界でも未だかつてなかったような最低の時代が到来している。残念だがそれが現実だ。だが、それもパキゼーが末法の世の到来を予言したとおりのことが起こっていると言えもする。」

「その通りかもしれません。ヴィカルナ様、この現実をどのように理解し、そして、私はどのように歩んでいけばよいのでしょう。」

「ユビュ、おまえがこの乱世にあってもなお、ひたすらパキゼーの教えを守り通そうとしてきたことはまことに尊い。おまえがもしこれからもそうするというなら、わしはそれで良いと思う。ただ、この世界に対しておまえがなんらかの責任を感じ、あるいは、おまえにできることがあると思うなら、それを為すのもまた良いだろう。」

「パキゼーの法を輝かせるためにも、この世界に対して何かをなさねばならないのかもしれません。ただ、何をなせば良いのか、あるいはどのようになせば良いのか、それが分からないのです。」

「そうかもしれぬな。でもなユビュ。かつてナユタと初めて会ったとき、わしはこう言った。『光を見ない者は傲慢にも光がないとか、光が消えたとかいう。しかし、光は厳然とある。そして、光を見る者には燦然と輝いている。』とな。その言葉の意味はあの時も今も変わっていない。それが、おまえの問いに対するわしの答えだ。」

 そう言うと、ヴィカルナ聖仙はユビュをシヴァ神の像のある部屋に連れて行った。かつて、ナユタがサーンチャバを授かった部屋だった。

 ふたりはシヴァ神に祈りをささげた。すると、かつてナユタが訪れた時と同様、シヴァ神の像が踊り始めた。喜悦に満ちたその踊りは長く続いた。

 ヴィカルナ聖仙は言った。

「シヴァ神はただ踊り続ける。世界の破壊をただ永劫の時の中で踊り続ける。それに対して、我らは有限の時間の中で戯れているだけ。」

 そして、シヴァ神の踊りが止んだ時、その足元にあったのはブルーポールだった。ヴィカルナ聖仙は驚き、そして言った。

「世界の破壊を踊るシヴァ神がブルーポールを授けられた。これを掲げて戦えということであろう。」

 ユビュはブルーポールを手に取ると、ヴィカルナ聖仙に言った。

「前回の創造の際に父ヴァーサヴァがうち立てたブルーポールはパキゼーの悟りとともに帰滅しました。そのポールをシヴァ神が再びこうして授けてくださったことには重い意味があると思います。でも、ヴィカルナ様。ヴァーサヴァの創造はナユタとムチャリンダに否定され、ヴァーサヴァはムチャリンダによって退場されられました。その創造を支えるものとして立てられたブルーポールにはいかなる力が残っているのでしょうか?」

 この問いかけにヴィカルナ聖仙は重い口調で答えた。

「このブルーポールにどんな力が秘められているのかはわしにも分からぬ。だが、一つ言えることは、先ほど言ったようにブルーポールが支えたあの創造はとてつもなく偉大だったということだ。たしかにあの創造はナユタやムチャリンダをはじめ多くの神々から批判された。実際、ヴァーサヴァの考えに問題があったことを指摘することは難しくはない。だが、一つの明確な事実は、あの創造だけが、かつてのどんな創造も生み出すことができなかったものを生み出したということだ。」

「パキゼーの悟りですね。」

「そうだ。そして、その悟りは、創造の当初の設計によって生み出されたのではなく、むしろ、ヴァーサヴァの創造の本質的欠陥によって生み出されたとも言える。ヴァーサヴァの創造は矛盾に満ちた世界を生み出し、解き難い難問の中に人間を放り込んだがゆえに、パキゼーの悟りを生み出すことができたのだ。ナユタやムチャリンダが指摘した問題こそが、パキゼーの悟りを生み出したとも言えるだろう。」

「父はそれを想定していたのでしょうか?」

「いや、そうではあるまいな。むしろ、ヴァーサヴァの創造は、ナユタやムチャリンダが指摘したとおりの問題を露呈したと言うべきだろう。だが、それによってこそパキゼーの悟りを生み出されたという点こそまさに創造が生み出した壮大な逆説と言っていいだろう。そして、ブルーポールはその創造を支えるためのものだった。帰滅してしまっている前回の創造の遺物にすぎぬこのブルーポールにいったいどんな力が残っているかは分からない。だが、おまえがヴァーサヴァから授かったブルーポールを今、シヴァ神が再びおまえに授けられた。その意味は重くそして深いだろう。これを掲げて戦う時、きっと何かが起こるだろう。」

 ユビュは大きくうなずいて言った。

「ヴィカルナ様、ありがとうございます。これを授けてくれた父ヴァーサヴァはすでに永劫の円環の中に旅立ち、そして私たちは今こうして混迷の時代を生きています。このポールを授かったことを心に刻み、これを掲げて戦うことを誓います。」

 ヴィカルナ聖仙はさらに言った。

「そうだな。今、大地は軋み、嘆き悲しんでおる。真理が消え、青春の息吹きが消え、そして、世界は闊達さを失って危機に瀕しておる。この戦いはこの宇宙の帰趨を決める戦いとなるだろう。かつて神々の間で創造を巡ってさまざまな軋轢があったのは事実だ。わし自身がそれに加担して来たのも事実だ。だが、今、創造についてではなく、神々自身の在り方、宇宙の在り方自身が問われている。おまえがパキゼーの法に従おうとしていることは尊いが、残念ながら、パキゼーの法では神々の道は開けなかった。その道は、もはやわしやナタラーヤ聖仙ではなく、おまえたち自身で道を切り開かねばならない。ユビュ、きっと道は開けるよ。」

 そう言うとヴィカルナ聖仙は静かな笑みを浮かべて優しくユビュに語りかけた。

「ユビュ、世界のためにおまえのなすべきことをなすが良い。だがな、その後はパキゼーの法に戻るもよし、おまえの好きな道を歩むといいだろう。今、世界はおまえを必要としているが、世界が一新された後は、仮に世界がおまえを必要としたとしても、おまえがその必要とされるものにならねばならないわけではない。そしてそれはまたナユタにも言えるだろう。ナユタは道を見出し、そして道を見失うだろう。だがともかく、おまえはおまえ自身の道を歩くのだ。」

 ユビュは静かに頭を下げた。

 そして、ヴィカルナ聖仙の不思議な言葉を胸に、ブルーポールを携えてヴィカルナ聖仙の元をあとにしたのだった。

 

 ユビュとナユタがそれぞれヴィカルナ聖仙とナタラーヤ聖仙を訪ねている頃、マーシュ師は、ビハールのはるか東方の僻地に隠遁するヴィクートのもとを訪ねていた。

「久しぶりだな。パキゼーの教えを守っているのは尊いことではある。だが、宇宙のこの危難の時、おまえの武神としての力が求められているのではないかと思ってな。」

 そう、マーシュ師は切り出した。

 この言葉にヴィクートはしばし考え込み、しばらく無言だったが、ようやく重い声で答えた。

「かつてパキゼーは、『私は世間とは争わない。』と言いました。また、『いずれ教えが廃れる末法の世が到来する。なぜなら世の中はこの尊い法とはかけ離れて存在しているからだ。』とも言いました。そして、今、その通りのことが起こっています。しかし、だからと言って法の本質が失われたわけではありません。法は依然として高貴な光を放ち続けています。」

「たしかに、その通りだ。だがな、ヴィクート。ナユタのことを思い致してくれぬか。ナユタはこの混迷の宇宙にあって、再び強い決意で困難な戦いに挑もうとしている。ナユタは一度はルガルバンダに敗れたが、しかし、彼は決して諦めてはいない。わしは何としてもナユタを手助けしたい。なぜなら、この宇宙に再び真の平和と秩序を回復するには彼の力が不可欠だからだ。そしてまた、ユビュも困難な状況に追い込まれ、ついに起つことを決意した。おまえも分かっていようが、ルガルバンダは、力にものを言わせた覇権主義と権威主義によって恐ろしい恐怖を宇宙に植え付けている。だが、残念ながらルガルバンダに対するにはナユタとユビュだけでは到底無理だ。だからわしはこうしてわざわざおまえを訪ねてきたのだ。」

 ヴィクートが答えた。

「たしかに、ルガルバンダの行いはパキゼーの法とはまさに真逆のものでしょう。」

 そして、ヴィクートはしばし虚空を睨んで考え込んでいたが、意を決したように再び口を開いた。

「マーシュ様、わざわざ、ここまでお越しいただきほんとうに恐縮です。私はナユタに会うことにしましょう。すべてはそれからです。」

 この言葉にマーシュ師は喜んだ。

「おお、そうしてくれるか。ここまで来たかいがあったというものだ。」

「それで、ナユタは今どこにいるのですか。」

「ナユタは今、ナタラーヤ聖仙に会うための旅に出ておるが、じきにベルジャーラに戻るだろう。おまえもわしと一緒にベルジャーラに行き、そこでナユタを待たんか。」

「分かりました。そうさせてもらいましょう。」

 ヴィクートはそう返事すると早速旅支度を始めた。

 こうして、マーシュ師はヴィクートを伴って帰還したのだった。

 

 マーシュ師がヴィクートを伴って戻ると、既にナユタもユビュもベルジャーラに戻っていた。ヴィクートの姿を目に留めると、ナユタは駆け寄ってヴィクートの手を取り、振り絞るような声で言った。

「待っていたよ。ヴィクート、なんとしても力を貸して欲しい。」

 ナユタの目が真っ赤なのを見ると、ヴィクートはただこう言った。

「私はパキゼーの教えを守り、ひとり隠遁していました。今にしても、それが正しかったと信じています。ですが、今日、お会いして、私の決意は固まりました。ともに戦いましょう。」

 ヴィクートは、ナユタと会って問おうと思っていたさまざまなことを何一つ言わなかった。歴史の強い意志がヴィクートをして新たな戦いに駆り立てたとしか言いようがなかった。

 ナユタは、ヴィクートの言葉を聞くとバラドゥーラ仙神から預かったトリシューラを持ってきた。

「これはバラドゥーラ仙神から預かってきた。これを渡して欲しいと言われてな。」

 その三叉戟を見て、ヴィクートは驚き、そして言った。

「どうしてこれをあなたが。」

 その問いに、ナユタはバラドゥーラ仙神のもとにいた時のことを語った。それを聞いてヴィクートは悟ったように言った。

「バラドゥーラの意志を理解しました。ありがたくいただきます。これをもって戦場に出ることに致しましょう。」

 トリシューラを受け取ると、ヴィクートは虚空を見つめて言った。

「神々の踏みしだく冷たい石たちの上で、陶酔しきって踊り狂う鬼神たち。その足元で、おびえたまなざしで空を見上げる虐げられた者たちの声。けれど、私は、荒ぶれる荒野で石を削る賢者たちのまなざしにただただ頭を垂れ、世界を砕こうとする超在者が破り開いた喪の領域に、未知なるものへの小さなつぶやきを投げ入れる。求道者たちの声をもう一度、この空なる世界に反響させるために。石たちの上に新しい夢を刻み込むために。」

 歴史が大きく渦巻き始めた瞬間だった。

 

 次の日から、ヴィクートはさっそく情報をかき集め、ナユタやプシュパギリと何度も議論を重ねて策を練った。情報の収集に力を発揮したのはイルシュマだった。イルシュマはバクテュエスからついてきた仲間たちを各地に派遣し、さまざまな情報をとって来させたのだった。

 そんな情報に基づき、ヴィクートは言った。

「ルガルバンダの治世の基本は、武力にものを言わせた強圧の恐怖政治と中央集権による経済発展です。経済発展には多くの神々が喜んでいますが、恐怖政治に対しては、特に抑圧される側の者たちを中心に大きな不満と反発を生み出しています。このため、帝国内にはさまざまな綻びが生じ始め、反ルガルバンダの機運がいたるところで芽生えています。それらを組織せねばなりません。シャルマはウバリートに拠点を作り、バルマン様とギランダはムカラで拠点作りを進めていますが、さらにいくつかの拠点作りが必要です。ルガルバンダの都ビハールからはるか東方にドルヒヤという場所があります。私はここを拠点に勢力を蓄えたいと思います。」

「分かった。ぜひ、そうしてくれ。それで、ドルヒヤはどんな場所なんだ?」

「ルガルバンダの都ビハールの北方から東方にかけて大河ヴォルタが流れていますが、ヴォルタの向こうには広大な平原が広がっています。一言でいえば、不毛な荒野で、夷狄の蛮族が住んでいます。ドルヒヤはそんな荒野の中に点在するオアシスの一つで、ルガルバンダの勢力はほとんど及んでいません。まず、ここで兵を集めたいと思います。」

 これはウパシーヴァ仙神がナユタに授けてくれた策とまさに符合するものだった。ナユタは大きくうなずいたが、プシュパギリは敢えて口を挟んだ。

「だが、ヴォルタ河の向こうは野蛮な夷狄たちの地方だ。気性も荒く、粗野で礼節も知らないとか。そんな地方で大丈夫か?」

 だが、ヴィクートの考えは揺らがなかった。

「たしかにそうだ。だが、同時に、反骨心と自立心も豊富だ。勇猛でもある。ルガルバンダはヴォルタ河畔のマカベアに大きな駐屯拠点を置いて徐々に夷狄の部族に対する支配を拡大し、県令なども次々に送り込んでいるが、ルガルバンダ支配に対する反発も小さくない。納税も貢ぎ物も使役負担もありがたくないことだからな。」

「彼らの力はどうなんだ?」

「着実に力をつけている。ルガルバンダの進出で彼らが結束を高めている面もあるし、中原の神を軍事顧問として迎え入れて、武器の調達や戦闘技術の習得も図っている。そして、ルガルバンダ世界と接触する中で、中原の豊かさに惹かれ、ルガルバンダ支配への反発だけでなく、ヴォルタ河を渡って豊かな世界に住みつきたいという願望も強まっている。だから、各部族は族長の元に結束し、部族長たちは定期的に会合を開いて結束を交わしているということだ。」

「では、彼らの力をあてにできるんだな。」

「ああ、そうだ。だが、今のままでは駄目だ。実際、ルガルバンダの個別撃破戦略によって、マカベアに近いところから、夷狄の部族は次々に屈しており、現状では、守勢に立たされていると言わざるを得ない。彼らの力を真の力にするためには、各部族を統合して率いるための御旗と彼らを糾合する者が必要なのだ。だから、ルガルバンダの抑圧政治を打ち倒し、真の自由と平等と平和を打ち立てようという理念、そして、それを率いる神が必要なのだ。」

「それはナユタだな。」

「そうだ。だから、時期が来れば、ナユタにドルヒヤに来て欲しい。そして、彼らの力を結集して起ち上がり、ヴォルタ河沿いの都市マカベアを落とす。そしてヴォルタ河を渡れば、ビハールまでは一直線。一気にビハールへの進撃の道が開けるだろう。」

 このヴィクートの説明にプシュパギリも納得し、ヴィクートはドルヒヤを目指して旅立っていった。

 

 ナユタ側が着々と戦いの準備を進める間も、ルガルバンダは都ビハールで栄華を誇っていた。

 ルガルバンダ紀元二十六年、この年行われた閲兵式も壮観この上ないものであった。ルガルバンダは黄金づくりの玉座に坐し、周囲には、ヤンバー、ルドラ、カーシャパなどの重臣が華麗な姿で並んだ。そして、玉座の下の大道を戦士たちが行進した。槍兵、弓兵が六十人横に並び、さらに騎兵が堂々と行進した。

 ルガルバンダは勢力拡大にも余念がなかった。圧倒的な武力を背景に、ヤンバーとカーシャパは宇宙の中を駆け巡り、ルガルバンダの勢力を広げていった。しかし、ルガルバンダ帝国の支配を嫌う神々、シュリーやムチャリンダの残党など数限りない者たちがルガルバンダの支配に抵抗しており、これらひとつひとつを鎮圧するには労力を要した。特に、宇宙の辺境に行けばいくほど、抵抗が強かった。シャルマのいるウバリートやバルマン師のいるムカラまではとても兵力を振り向けられなかった。

 そんな状況の中、ルガルバンダが気にしていたのは何といってもナユタの動向であり、ユビュの動向であった。ナユタの動向はどうしてもつかめず、ユビュについても、マーシュ師の館を急襲した後の動向がつかめなかったが、ようやく、リュクセスが、マーシュ師の館の北西にあるバクテュエス地方にユビュがいるらしいとの情報をもたらしてくれた。

 ルガルバンダはヤンバーとカーシャパを呼んで言った。

「ユビュはバクテュエスにいるらしい。ナユタの行方はまだ分からないがな。」

「バクテュエスとはどこですか?」

 そうふたりは聞き返した。

「バクテュエスを知らぬのも無理はない。ここビハールから北西に遠く離れた辺境の小さな街の一つにすぎぬからな。その周囲は我らの力が必ずしも十分には及んでおらぬ。貢物は納めておるが、支配はそこの者たちが行っており、情報が入らぬのもそのためだろう。まず、その地方の支配力を確保せねばなるまい。自治に委ねるのではなく、明確な支配を確立しなければならぬ。」

 ルガルバンダの言葉を受けてヤンバーが言った。

「では、私が行きましょう。大軍でもってすれば、遠い辺境の地とはいえ、平定することはさして困難なはずはありますまい。」

 だが、リュクセスは用心深く言った。

「ヤンバー大将軍にご出陣いただけば、平定は容易でしょう。また、素直に我が帝国の支配に服さないとどうなるか知らしめる意味でも、見せしめとして現地の支配者を処罰するという考え方もありましょう。しかし、力尽くで無理矢理服従させるだけでは、反感を彼らの心の内に燃えたぎらせることになるだけです。辺境の地には辺境の地の論理があるものです。大軍を見せつけ、帝国から派遣する県令を置き、しかし、あとは不問に付して従来通りの生活を許すことが肝要かと思います。」

「ちと、生ぬるいのではないか。」

 ヤンバーはそう言ったが、ルガルバンダは慎重にリュクセスの言にも配慮して言った。

「帝国の領土をできるだけ少ない労力で広げ、労力を掛けずに支配による果実を得ることこそ、政の要。その果実は我らのものになるのだからな。バクテュエスにはリュクセスも一緒に行ってくれ。」

 ルガルバンダの言葉を受けて、さっそく大軍が組織され、ヤンバーはリュクセスを伴って軍を発した。ルガルバンダ紀元二十六年夏の終りの頃だった。

 ベルジャーラのナユタらのもとにも、ヤンバーの軍がこの地方にやってくるという報がもたらされた。今のわずかな兵力では勝ち目がないことは明らかだった。

 ナユタは言った。

「密かにここを出て、別の拠点に移るしかない。私はヴィクートのもとへ行こう。ユビュはマーシュ師とともにシャルマがいるウバリートへ行くと良い。それから、プシュパギリには、できることなら新しい拠点を作って欲しいのだが。」

 この意向に沿って、プシュパギリは答えた。

「分かりました。では、出身地のヤズディアに戻って拠点作りを進めましょう。ヤズディアには旧知の者も多く、ルガルバンダをよく思わない者たちを糾合することが可能ではないかと思います。ヤズディアは、ビハールのはるか南東に位置し、大河ヤンベジのほとりにあります。ヤンベジ河の向こうには夷狄の野が広がっています。夷狄の者たちから兵を募ることもできるかもしれません。また、ヤズディアはヴィクートがいるドルヒヤの南方でもありますので、ヴィクートとの連携も可能かもしれません。」

 これに頷いてナユタが言った。

「それから、イルシュマだが、しばらくこのあたりに潜み、バクテュエスの状況など探ってくれるか。それからウバリートに合流して欲しい。」

 イルシュマが軽く頭を下げて答えた。

「分かりました。あとのことはお任せ下さい。お世話になった長老のことなども気になりますし。」

 ナユタが笑いながら付け加えた。

「分かっているとは思うが、絶対に危険な真似はするなよ。今はまだそんな時期じゃないからな。」

 イルシュマが頷くと、ナユタが言った。

「では、皆、よろしくな。しばらくみな散り散りになるが、それぞれ勢力を集め、決起の時を探るとしよう。」

 こうして面々は夜陰に紛れ、わずかな手勢とともにそれぞれ落ち延びていったのだった。

 

2015212日掲載 / 最新改訂版:2024314


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第4巻