著作権・大阪東ティモール協会
East Timor Quarterly No. 9, October 2002

どうすればいいのか
ファリンティル退役者たちの困窮

松野明久


 ファリンティル退役者たちが、その後の処遇をめぐってデモをしたのは5月16日、独立の4日前のことだった(前号参照)。その後も、彼らは処遇の改善を訴え続けている。そして彼らの運動は、今や、CPD-RDTL(東ティモール民主共和国・人民擁護委員会)というラディカルな政治グループと合流し、新たな展開を見せている。


ファリンティルの処遇問題

 ファリンティル退役者たちは、本来なら民族解放の英雄として讃えられてもいいところだ。しかし、国連暫定行政(UNTAET)も、独立した東ティモール政府も、彼らに対しては意外と冷たい。
 国連暫定行政時代、ファリンティルはアイレウに宿営地(カントンメント)を与えられ、そこに閉じこめられていた。治安の責任は国連平和維持軍(PKF)にあったため、ファリンティルは活躍する場を与えられなかった。地形もよく知らず、ことばもわからない国連軍に対し、ファリンティルは、自分たちも治安維持に参加させてほしいと、繰り返し要求していた。
 ロンドンのキングズ・カレッジの防衛研究所チームが出した報告書によると、当時、ファリンティル兵士は1500人いたが、アイレウの宿営地には800人ぐらいしおらず、残りの700人は家に帰らされていた。しかし、その800人も名目的な数であり、実際には300人ぐらいしかアイレウにいなかった。国連から約束されていた食糧・薬などが不足していたためだ。
 ファリンティル兵士たちは、おそらく、ディリでの凱旋パレードぐらいしたかっただろう。それも許されなかった。彼らはアイレウにいて、ポルトガル語を習ったり、コンピューターの使い方を教わったりして、時間をつぶしていた。
 このころから、帰郷したファリンティル兵士のドメスティック・バイオレンスが問題になりはじめた。また、フラストレーションのたまった兵士が、アイレウで発砲するという事件をおこしたりもした。
 2001年2月、ファリンティルは解散した。同時に、アメリカの援助庁(USAID)などが資金提供してできた「ファリンティル再統合支援プログラム(FRAP)」がつくられた。これは国際移住機構(IOM)が実施を受けもち、ファリンティル退役者に向こう1年間毎月100米ドルを支給するというものだ。(Timor Post, Feb. 21, 2001)
 ファー・イースタン・エコノミック・レビュー誌(2002年7月4日号)によれば、世銀・アメリカ・日本などが、1300人の元兵士の社会復帰のため、265万ドルを提供したとされる。(果たしてこの2つは同じものかどうか?)
 ファリンティルが解散した後、国防軍(FDTL)の採用試験が行われ、650人が採用された。
 ちなみに、国防軍は2大隊1500人の正規兵と1500人の予備兵から構成される。これらが完成するのは2003年になるそうだ。
 ところが、採用試験について、すぐに不満が出た。当局側は、健康状態と年齢が基準だったと主張したが、採用にもれた元兵士たちは、縁故主義(ネポティズム)だと批判した。

L7と「聖家族」

 2000年の中頃、宿営地での状況を不満として、ファリンティルの中のあるグループがアイレウを出て、バウカウに拠点をおくようになった。「聖家族(Sagrada Familia)」と呼ばれるこのグループは、L7というコードネームをもつファリンティル司令官、エリ・フォホ・ライ・ボート(本名:コルネリオ・ガマ)をリーダーとし、カトリックとアニミズムが混淆したような、魔術信仰をもっている。例えば、魔術によって自分の体を敵に見えないようにできるなど。「聖家族」はいつごろ結成されたのかはわからないが、少なくとも、1998年末にはマスコミに登場している。その時は、宗教組織と書かれていた。
 2001年になると、国連暫定行政は、この「聖家族」とCPD-RDTLが関係をもっているとみなすようになり、2001年2月26日にリキサでの殺人事件を、「聖家族」によるシャナナ率いるCNRT(ティモール民族抵抗評議会)に対する攻撃ではないかと疑ったりしている。(Sydney Morning Herald, Mar. 17, 2001)
 日本では、NHKが放送した「東ティモール『暗黒の9月』の記録〜アグスが遺したビデオテープ」(2000年11月25日)の中で、インドネシア人記者アグス・ムリアワンが寝起きをともにしたファリンティル司令官としてL7は登場しているので、覚えている人もいるだろう。
 L7は、自分には5000人の支持者がいると豪語する。今でもバウカウは彼のグループの拠点だ。しかし、彼の支持者の中には「似非」ファリンティルも相当いると噂される。ファリンティルに入っていたことはあるが、実はそれほど長くいたわけではない者や、ほとんど闘っていない新参者たちのことだ。仕事を見つけるのが難しい東ティモールで、就職機会への期待から運動に参加しているのだ。
 独立後、7月末になって、L7は内務省付きの防衛担当顧問というポストを与えられた。独立と同時に内相となったロジェリオ・ロバトとの旧知の関係からだと考えられている。ロジェリオは「ファリンティル退役兵の会」を率いている。
 しかし、どうやら、このL7に対する懐柔をもってしても、ファリンティル退役者たちの不満はおさまっていない。たったの一人だけにポストを与えても、根本的な解決にはならないのだ。

分裂したファリンティル創立記念日

 8月20日、ディリ市内の民主主義広場(旧スカウト広場)では、約5000人のファリンティル退役者やその支持者が集まって、ファリンティル創設記念日を祝った。政府は、この日、政府庁舎前でファリンティル創立記念行事を行うことになっていたから、これは政府に対する当てつけだ。彼らは、2日前、約100台のトラックを連ねて東部からはるばるディリまでやってきた。
 この集会を主導したのは、ファリンティルというより、むしろCPD-RDTLだ。その指導者アントニオ・アイ・タハン・マタックは、壇上から、ファリンティルの復興、1975年憲法の復興などを訴える、熱烈な演説を行った。
 CPD-RDTLの主張は、この間の東ティモール人の闘争は1975年に独立宣言を発した東ティモール民主共和国(RDTL)の「防衛」だったのであり、したがって、占領者がいなくなった今、その1975年に独立した国家体制が「復興」されるべきだというものだ。つまり、憲法、政治体制、軍組織など、すべて当時のものを採用すべきだと言っている。
 しかし、それは、フレテリンが一党支配体制のもとで革命路線を追及するということになるわけで、かなり時代錯誤的な主張だ。実際、このグループの支持者は非常に少ないと考えられている。
 また、このグループは、住民投票は必要なかった、国連の暫定行政は認められないと主張し、それに協力したシャナナ率いるCNRTを敵視した。それでシャナナの暗殺計画があると話題になったとき、CPD-RDTLがまっさきに疑われたりした。
 民主主義広場での、迷彩服を着た(武器は携帯していなかった)ファリンティル退役者たちの集会には、ベロ司教とラモス・ホルタ外相が出席し、あいさつをした。ホルタ外相は、暴力を避け、政府と対話するよう呼びかけた。
 一方、政府は夕方、政府庁舎前でファリンティル創立記念式典を行った。こちらはポルトガル風のフォークダンスが踊られるなど、なごやかな雰囲気につつまれていた。しかし、政府庁舎と民主主義広場は、ほんの200mほどしか離れていない。政府の式典参加者には、どことなく、苦々しく思っているような感じが見てとれた。

「国民的対話」

 ファリンティル創立記念日の翌日、退役者たちは、政府庁舎の前でデモをした。出てきたラモス・ホルタ外相は、「国民的対話」と称して、シャナナを含む指導者たちが彼らと面会することを約束した。
 そして22日、東ティモール大学脇にある体育館(GMT)で、シャナナ、マリ・アルカティリ、ラモス・ホルタ、ルオロ(国会議長)など主たる政治指導者が揃って出席したところで、対話が行われた。しかし、そこにCPD-RDTLの指導者たちはあらわれなかった。
 翌日、シャナナはCPD-RDTLの指導者たちと個別に対話を行い、そこで大統領主導で委員会をつくることが合意された。その後、委員会は2つつくられることになり、ひとつは1975年から79年まで、もうひとつは1980年から99年までのファリンティル兵士の名簿を作成することになった。名簿をつくった後どうするのか、はっきりとはわからないが。
 この「国民的対話」という大統領主導の対応について、賛否両論がわきおこった。
 社会党(PST)のペドロ・ダ・コスタ議員は、シャナナの対応を「適切なやり方」だとして評価した。
 コタ党のマヌエル・ティルマン議員は、国は政府、大統領、議会といった機関によって運営されているのに、デモをしたからといって大統領が介入していては、政府や議会の権威はどうなるのか、と批判した。ただしその後、コタの党首、クレメンティノ・ドス・レイス・アマラルは、ティルマン議員の意見は個人のもので党のものではない、と述べている。
 ルオロ国会議長(フレテリン党首)は、そもそもCPD-RDTLは不法な団体であると言ってはばからず、国民的対話に出席したものの、質問に答えないなど強い抵抗を示した。また、同じくフレテリンのグレゴリオ・ダ・クニャ・サルダニャ議員(フレテリンの青年組織オジェティル代表)は、民主主義広場の集会に参加しないよう、呼びかけた。

アミコ大尉の辞任騒ぎ

 国防軍兵士のドミンゴス・ダ・カマラ大尉、通称アミコ大尉が、7つの理由をもって辞表を提出するという「騒ぎ」が、9月初めにあった。
 アミコ大尉は、L7などとも親しい関係にあり、アイレウの宿営地時代から、シャナナに対して兵士たちの処遇について訴えていた。今回の辞任も、このところの退役者の要求に呼応した「抗議」と受けとめられた。
 もっとも本人は、「政治状況」の他にも、国防軍兵士としての待遇がよくないこと、今や軍人は尊敬されなくなったといった理由をあげてはいたが。
 彼は、元ファリンティル兵士たちをビケケのカレレク・ムティンに集めて住まわせることを提案した。
 また、国防軍兵士となった者たちで、銃弾を体に残していないのはハクソロク大尉ぐらいなものだ、そんな中で訓練を受けている、政府はそうした銃弾を摘出してやるべきだとも述べた。
 彼は、辞表の扱いが宙にういていた間、カンプン・アロール(モスクのあるディリの海岸地区)で「不運」(Sorti At)というバイク修理場を始めた。兵士としての月給は85ドルだそうで、それではとうていやっていけないらしい。
 タウル・マタン・ルアク総司令官とロケ・ロドリゲス国防長官は、彼の辞任を了承した。しかし、その後、最高司令官たる大統領がアミコ大尉を説得したため、結局、アミコ大尉は9月末には軍に復帰した。(STL, Sep. 16, 17, 23)
どうやって解決するのか

 9月11日、フレテリンの創立記念日。
 民主主義広場に、フレテリンとASDTの指導者・支持者たちが集まり、式典が行われることになっていた。しかし、集会が始まる前に、500人はいるかと思われるファリンティル退役者が迷彩服を着て、広場に整列していた。明らかに、フレテリン指導者に対するアピールだ。彼らが中央部分を占拠していたために、フレテリン支持者たちはむしろわきにおいやられていた。
 フレテリンの指導者たちは約2時間遅れで到着し、集会はやっと始まった。フレテリンは、元ファリンティル退役者たちを追い出すことはできなかった。
 確かに、政府は金がない。しかし、それだけではないだろう。政権をとったフレテリンにとって、ファリンティルは1987年以降、もはやフレテリンとは関係がない。ファリンティルの方から「縁」を切ったのではなかったか。今更、彼らのめんどうなどみれない。そんな感情が残っているのかも知れない。
 政府の既定の方針であるはずの『国家開発計画』(National Development Plan)の国防部門には、元ファリンティル兵士の支援が政策としてあがっている。しかし、2002/2003年度の国家予算をみると、国防部門に関連の予算はない。実は、労働・連帯長官の下に退役者部門(Veterans' Affairs)が今年度中に設置されることになっている。予算は54000ドル。それで6人のスタッフを雇用する。目下の必要性は、以下の3つとされている。
 ●功労者の認定
 ●退役者の窓口となる部局の設置
 ●職業訓練など開発への参加促進
 しかし、実際には、大統領府が退役者のリストづくりをすることになりそうだ。
 今回の展開を受けて、政府は今、退役者を対象とした短期の雇用プログラムを考えている。どうやら、植林など、一時しのぎの「公共事業」になりそうだ。
 問題は、そうした短期的な対応では、解決しないだろう。退役者が求めているのは、まず第一に、レジスタンスの闘士としての認知であり、そして何らかの生活保障なのだ。金のない政府にとって、元兵士だけ特別扱いするのは確かに難しい。しかし、何にもしていないに等しい今の状況は、まともではない。元兵士の社会復帰は、紛争後の平和構築にとって必要不可欠なプログラムなのだ。★


情報活動9号の目次ホーム