著作権・大阪東ティモール協会
East Timor Quarterly No. 8, July 2002

番組評(2)

『東ティモール・独立の闘い』
オーストラリア・ショート・プロダクションズ制作(2000年)

(2002年7月7日、NHK BS1放送)

 文珠幹夫


 1999年4月半ば、大阪で東ティモール支援団体の会議が開かれていた。携帯電話が鳴った。オーストラリアからだった。
 「今、カラスカランの家を民兵らが襲っている」
 緊迫した声が流れてきた。その会議には東ティモールの独立運動家ジョアン・カラスカランさんが参加していた。彼の甥が殺されたと、その電話は伝えた。
 1999年5月5日、国連は東ティモールで「住民投票」を行うことを決定した。国連が仲介し、ポルトガルとインドネシアの協議によるものであったが、そこに東ティモール人の姿はなかった。ポルトガルとインドネシアとの妥協の産物とは言え、「住民投票」時の治安をインドネシア警察に任せたのである。東ティモール人が「鶏の番を狐に任せるようなものだ」と反発したが、彼(女)らの要求は聞き入れられなかった。
 オーストラリアの取材チームは、1998年から山岳部FALINTILの拠点に入り、撮影と地域の司令官らにインタビューを続けた。1998年インドネシアでは、独裁者スハルトが経済危機を収拾できず退陣した。その後を受け、大統領になったハビビが東ティモールを「東ティモール人が望むならインドネシアから切り離してもよい」と発言。東ティモール問題解決の姿勢を見せることで国際社会からの経済援助を得ようとした。それに反し、インドネシア軍はハビビ発言に反発を強め、密かに東ティモールを不安定化させる行動に出た。内戦を偽装し、大規模破壊工作の準備を始めたのである。
 ドキュメンタリーではその状況を様々なインタビューを通して伝えている。インタビューの中で、併合派であったトマス・ゴンサルベスもインドネシア軍の計画に驚愕し、インドネシア軍の秘密文書をFALINTILに密かに流したことを話している。
 それを受けた(獄中にいた)シャナナ司令官は、FALINTILにインドネシア軍の挑発に乗らず、山岳部に留まり、自重するよう命令した。山岳部の各地域の司令官もそれを守った。
 当時、インドネシア軍が民兵を急造し、それを使って「住民投票」を潰すだけでなく、「内戦」状態を捏造し、独立派を壊滅しようとしていたことは、海外の支援者の中でも知られていた。そして誰もが、特にシャナナ司令官や地域のFALINTIL司令官、兵士らは、東ティモール人に多大の犠牲が出ることを予測していた。そしてその通りインドネシア軍は実行した。
 皆我慢を続けた。その忍耐強さは驚嘆に値する。24年間の努力を、多くの犠牲となった人々の無念を無にしたくなったのだ。1999年4月、私はウラル・レイク司令官(写真)にエルメラのある場所で密かに会ったことがある。彼が、犠牲者が出ているが反撃できない状況を苦しそうに話していたのが記憶にある。
 インドネシア軍や民兵の残虐行為も記録されている。ただNHK-BS放送では、予告編で流されたが本編で放送されなかった場面があった。若者がインドネシア軍に小突かれた後、射殺された場面である。なぜカットされたのだろうか。★


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