著作権・大阪東ティモール協会
East Timor Quarterly No. 8, July 2002

書評(1)

「1999年」を問う5冊

イアン・マーティン著『東ティモールの自決』
リチャード・タンター他(編)『苦い花、甘い花』
ジョン・マルティンカス『汚い小さな戦争』
ハミッシュ・マクドナルド他著『テロの達人たち』
ドン・グリーンリース、ロバート・ガラン著『救援』

Ian Martin, Self-Determination in East Timor: The United Nations, the ballot, and international intervention, International Peace Academy Occasional Paper Series, Lynne Rienner Publishers, 2000.
Richard Tanter, Mark Selden, and Stephen Shalom (eds.), Bitter Flowers, Sweet Flowers: East Timor, Indonesia, and the world community, Rowman & Littlefield Publishers, 2000.
John Martinkus, A Dirty Little War: An eyewitness account of East Timor's descent into hell, 1997-2000, Random House Australia, 2001.
Hamish McDonald et al, Masters of Terror: Indonesia's military and violence in East Timor in 1999, Canberra Papers on Strategy and Defence No. 145, Strategic and Defence Studies Centre, Australian National University, 2002.
Don Greenlees and Robert Garran, Deliverance: The inside story of East Timor's fight for freedom, Allen & Unwin, 2002.


住民投票から今年で3年。すでに本はいろいろと出版されている。中でも参考になる5冊をここに紹介する。これらの本を読んでもなお、わからないことは多い。しかし、著者たちの情熱はなかなかのものだ。


イアン・マーティン

 イアン・マーティンはUNAMET(国連東ティモール派遣団)を率いた国連事務総長特別代表で、この本は、住民投票(正式には直接投票)実施の現場責任者による記録という性格をもつ。5月合意から多国籍軍介入まで、内部の議論の展開も含めて、描かれている。インドネシア政府のあいまいにして非協力的な態度、インドネシア軍の混乱した事態への関与については率直に書きつつも、当然予想されることながら、結論としては、住民投票は実施されるべきであったし、またあのようにしか実施することができなかった、となっている。
 歴史的な判断としては、そうなのかも知れない。しかし、われわれが知りたいのは、なぜ5月合意においてもっとちゃんとした治安体制が組まれなかったのか、そして住民投票にいたる時期、劇的な治安の悪化を受けてもなおその点が改善されなかったのか、ということだ。
 これについては、次の2点が記述から浮かび上がる。
 まず、第一に、国連のもつ立場の弱さだ。
 インドネシアを住民投票実施につなぎとめておくために、国連はインドネシアに非常に気を使った。まず、5月合意において、国連は治安についてインドネシアを追いつめなかった。治安を国連が管理するということになれば、インドネシア国軍にとっては許し難い妥協だ。ハビビ大統領はすでにインドネシア国内において苦しい立場に追い込まれている。著者は、「インドネシアに対する国際的圧力でハビビやウィラントが国際的な平和維持軍を受け入れたかどうかは疑問だ」と書く。オーストラリアは軍事介入はしない方針だったし、アメリカもインドネシアに圧力をかけすぎて合意が破綻しないよう国連に注文をつけていた。
 住民投票後の暴力についても、あれほどの規模になるとは思わなかったにせよ、ある程度予想されていた。しかし、インドネシアは投票後の時期も、インドネシアが完全にその主権を放棄するまで、インドネシアが治安に責任をもつといって譲らなかった。UNAMETは投票前に文民警察官と軍事連絡要員の増員を求めたが、ニューヨークからは「非現実的」との回答が返ってきた。それを行うためには安保理によるさらなる追加予算承認が必要で、そのためにはアメリカ政府が議会からの了承をえなければならなかったからだ。つまり、事務的に「間に合わない」。実際、安保理が投票後の国連の活動のマンデートを承認したのは8月27日のことだった。そのとき、コフィ・アナン事務総長は、安保理に対して、インドネシアが投票後の治安をきちんと管理できない場合、国連は重大な事態に直面するだろうと告げていた。つまり、国連は警告したが、国際社会、とくに大国が動かなかった、ということか。
 第二の点として、国連はインドネシア政府を相手としていたが、決して国軍との直接的な交渉はしていないということだ。できなかった、と言うべきだろうか。インドネシア政治を知る者にとって、政府と国軍が同じでないことは常識だ。国連だってそれくらい知っていた。しかし、国連は主には外務省を通じてインドネシア政府と連絡をとっていたが、国軍についてはまともに対応していない。ここで、軍事連絡要員は何をしたのか、という疑問が生じる。これについては、ほとんど記述がない。
 考えられることは、軍事連絡要員はまさに軍事の専門家であって、インドネシアの政治を理解していなかった可能性がある。そういう彼らにとって、インドネシア軍は到底手におえるものではなかっただろう。
 要するに、国連も、各国政府も、インドネシア国軍が相手だということは理解しながらも、決してそれとの対決をしようとしなかった。確かに、それは大きな政治的リスクだ。しかし、政治的な建前がどうであれ、あの場合、暴力と騒乱のルーツはインドネシア軍にあり、インドネシア軍をどうするかが最大の課題だったはず。誰もがそれとの対決を避けていた、ということであり、その結果があの殺戮と破壊だった。

リチャード・タンター他編

 これは、『Bulletin of Concerned Asian Scholars』(2000年1・2合併号)という雑誌をそのまま本にしたもので、内容的にもほとんど同じだ。ただ、コンスタンシオ・ピントの学生運動についての回顧やチャーリー・シャイナーの選挙監視報告が加わっている。
 ここで最も興味深いのは3人のUNAMET政務官の寄せている文章だ。UNAMET本部のジェフリー・ロビンソン、ボボナロ県のピーター・バルトゥ、エルメラ県のヘレン・ファン・クリンケンの3人で、いずれもそれぞれの観察に基づいて、当時の状況、インドネシア軍の関与、民兵の動きなどについて率直に記述している。
 中でも詳しいのはピーター・バルトゥのものだ。住民投票にいたる期間のボボナロにおける統合派民兵の構造や行動について、概略的ではあるが、一通りのことを記録している。民兵組織「ハリリンタル」の指導者、ジョアォン・タバレスも、実際には民兵組織の下部の構造は把握していないことが多く、インドネシア軍が組織的に民兵を指揮していた。民兵組織は、忠誠のレベルによって3段階ぐらいに分けることができ、国軍が8月半ばに投票後の騒乱を計画していた時、その計画に参加しようという意思をもっていたのは最も強い忠誠心をもつグループぐらいなものだった。投票後アタンブアに住むという計画が、あまり好まれなかったらしい。

ハミッシュ・マクドナルド他

 『テロの達人たち』というのは、インドネシア軍の指導者や民兵指導者たちをさす。この本は、1999年の破壊・殺戮の責任者は誰か、という問題について、できうる限りの論拠を提示してそれに迫ろうという試みであり、大いに参考になる。
 中心をなすのは、インドネシア国家人権委員会の東ティモール人権侵害調査委員会の報告書の英訳だ。これは2000年1月31日に作成されたもので、その要約はすでに発表されていた。ただ、完全な報告書(インドネシア語)は公表されなかった。ここでは完全版の英訳が提示されており、原文ではないにせよ、大いに参考になることはまちがいない。
 この報告書は、インドネシア軍の関与を認めたものとしてすでに有名だが、本文において証拠がきちっと提示されているわけではない。もしそれをやろうとしたら、膨大な文書証拠を添付した、分厚い起訴状のようなものにならざるをえないだろう。そういったところまで知りたいのはやまやまだが、ここでは彼らの結論だけ読んで満足するしかない。
 次なるこの本の読みどころは、「主要な容疑者」と題して、インドネシア軍将校、民兵指導者など一人一人のプロフィールならびに容疑を洗っている部分だ。容疑者は合計119人にのぼり、この部分は本の全体の3分の1を占める。これを書いているジェリー・ファン・クリンケン、デイビド・ブルシエ、ダグラス・カメンはいずれもインドネシア政治の専門家であり、よく調べている。
 また、1999年の破壊・殺戮について、その一般的な概略を必要としている人には、ジェームズ・ダンの報告書がここに含まれているので、参考になるだろう。ジェームズ・ダンはUNTAETの検事総長からの依頼で人道に対する罪に関して概略の報告書を作成した。それがここに全文掲載されている。

ジョン・マルティンカス

 著者はオーストラリアの通信社APの記者として、住民投票を取材した。彼は1997年から東ティモールを取材するようになり、若者、ゲリラ、一般の市民たちと交流しながら、東ティモールの問題を描き続けてきた。それがここに1冊の本となって結実した。
 この人びとの側に立った記述が彼の持ち味といったところだが、紛争の論点についての掘り下げた調査報道ではない。そうした部分は他の本に期待しよう。
 ただ、通常の本からだとこぼれおちてしまいそうな、小さなエピソードがいくつも書かれている。とくにアンテロ・ダ・シルバが率いた学生連帯評議会の活動について、詳しい。
 この学生連帯評議会が住民投票に向けて果たした役割は非常に大きいいものがあるのだが、紛争史の概略からはどうしてももれてしまう。それは彼らが、CNRTでもなければフレテリンでもなく、またゲリラでもない、それに民兵でもないからだ。要するに、紛争の当事者として認められた政治的指導者ではないからだが、しかし、東ティモール社会のダイナミックスにおいては重要な要素だったことは誰しもが認めるところだろう。こうした点について、マルティンカスの視点は確かなものがあると思う。

ドン・グリーンリース、ロバート・ガラン

 ドン・グリーンリースはオーストラリアの「保守的な」という形容詞がよくつけられる新聞『ジ・オーストレイリアン』紙のジャカルタ特派員だ。この本は、そうした新聞の記者らしく、政府筋の情報が随所にちりばめられていて、往々にして自己弁護的な政府関係者の発言だからどこまで信用できるかという問題はあるにせよ、今までにない内部の話がわかって、なかなか参考になる。
 ただ、著者もそうしたところを意識しているのか、事態の展開についての一般的な解説はミニマムにおさえてある。そうしたところが、背景をよく知らない読者にはわかりづらいかも知れない。
 ハワード首相がハビビ大統領に書簡を出すまでの、オーストラリア政府内の議論の展開がかなり克明に記述してある。それによると、オーストラリア政府はスハルト政権が倒れた頃から、インドネシアと東ティモールについての政策転換を模索し始めた。ダウナー外相は6月(スハルト政権崩壊は5月21日)から、インドネシアについての外務省内での週1回の非公式ミーティングを始めた。当時、国連事務総長特使のジャムシード・マーカーが、当時開催されていたいわゆる全包括対話ではなく、シャナナなども含めた紛争解決に現実に有効な交渉枠組みを提案していたが、これにダウナーは関心をもっていた。オーストラリアの情報筋を通して、ハビビ大統領の周辺はすでに東ティモールを手放す用意があるとの分析が伝わってもいた。これらが、ニュー・カレドニア方式(自治を数年行って住民投票を行う案)の提案へと収斂していった。それからオーストラリア外務省は東ティモール人指導者を含む各方面の意見をひそかに調査し、自決権行使がなされなければ紛争は終わらないという結論をハワードに提示した。
 ハワードは何らかの自決権行使をハビビに提案する書簡をまずは12月にファックスし、続いて1月17日にオリジナルを届けた。その書簡を読んだハビビは1月21日、自治案が拒否された場合東ティモールを「分離する」とのメモを書き、5人の閣僚に回した。しかし、ハビビの外交顧問によると、1月16日の時点で、ハビビはこうした考えを固めていたという。
 1月27日のインドネシアの閣議では、アラタスとウィラントがこのハビビ提案について論じ、いずれもそれを支持した。アラタス自身、おどろくほど反対がなかったと述懐している。ただ、それまであった反対はタイミングについてであって、1999年秋に予定されていた国民協議会(MPR)前に住民投票をやればハビビ政権はおしまいだというのは明らかだったから、その後に行うよう提案する閣僚がいたようだ。
 こうして「歴史的な決断」はなされた、ということになる。書いてある限りにおいては、事実なのだろう。しかし、これではまったく「賢明な政策判断」という印象が残り、その後の展開、とくにインドネシア政府の相当に非協力的な態度は説明できなくなる。
 ハビビの決断に対するインドネシア国内の反発は大きく、国軍の現場兵士、退役軍人を中心に「バックラッシュ」があったと著者は書く。そしてウィラントなど、国軍指導層の責任についてはほとんど書いていない。さらには、ウィラントやフェイサル・タンジュン(政治治安担当相)は「愛国的な任務をやっているとしか感じていなかっただろう」などとまで書いている。
 ただ、国軍については、通常の指令系統の他に、「不可思議なもうひとつの」作戦があり、それはハビビも承知して行われていたとの、国軍関係者の証言を採用している。そして「ウィラントがダブル・ゲームを演じていたとは思わない」とのフォルトゥナ・アンワル(ハビビの外交顧問)の言を引いている。
 しかし、ここまで書いてしまうと、納得より疑問が先に立つ。彼らは何とでも言えるからだ。もう少し説得力ある発言の引用でないと、この場合、有意味ではないだろう。★

参考

これらの他にも次のような出版物があり、いずれも住民投票についてのさまざまな知見を与えてくれる。

James. J. Fox, Dionisio Babo Soares (eds.), Out of the Ashes: Destruction and Reconstruction of East Timor, Crawford House, 2000. オーストラリア国立大学(ANU)では東ティモールについてのリレー形式の講義を開始した。これはその講義の関係者を含む執筆陣によるもので、東ティモールの概略だ。
Tim Fischer, Seven Days in East Timor: Ballot and bullets, Allen & Unwin, 2000. オーストラリアの元副首相兼貿易相がオーストラリア政府の住民投票監視団に参加したその記録。
Damien Kingsbury (ed.), Guns and ballot boxes: East Timor's vote for independence, Monash Asia Institute, 2000. 住民投票についてのものではあるが、いろいろなテーマの論文がおさめられている。モナシュ大学のアジア研究所の出版物。シャナナ、ベロ司教も書いている。
Peter Chalk, Australian Foreign and Defense Policy in the Wake of the 1999/2000 East Timor Intervention, RAND, 2001. アメリカの民間のシンクタンクの研究者による題名通りのテーマの研究。非常に薄い本で、簡潔なのはいいが、あまり掘り下げているとは言えない。
Lansell Taudevin, East Timor: Too Little Too Late, Duffy & Snellgrove, 1999. 著者は1996年から東ティモールでのオーストラリアの援助プログラムに携わった人。1999年3月には東ティモールを出ているので、住民投票にいたる決定的な時期に東ティモールにはいなかったが、それまでの3年間は日記風に詳しい。

(松野)


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