著作権・大阪東ティモール協会
East Timor Quarterly No. 8, July 2002

独立特集(3)

傷ついたインドネシア

松野明久


インドネシアの独立を素直に喜べないインドネシア。なにせ、東ティモールの独立はインドネシアの敗北なのだから、しかたがない。インドネシアも大いに傷ついた。はたして、インドネシアがそこから立ち直る道はあるのだろうか。

トーマス・カップの影で

 東ティモールの独立とインドネシアのトーマス・カップ(バドミントン)優勝は、ほぼ同時にあったふたつの出来事だが、5月21日のインドネシアの各紙は、トーマス・カップの方を一面トップに取り上げた。
 クダウラタン・ラッキャト紙、スアラ・ムルデカ紙、デティックコム紙は東ティモールの独立はまったく報じず、コンパス紙、レプブリカ紙(イスラム知識人協会系)はさすがに報じたが、トーマス・カップに次ぐ扱いとなった。
 こうした事態について、東ティモールの独立は「インドネシアの歴史において屈辱的な章」だからだと書くのは、シンガポールのストレート・タイムズ紙だ。(Straits Times, May 22)
 一方、雑誌『テンポ』の世論調査によると、回答者の66%が東ティモールを良き隣人として受け入れたいという考えだ。(Australian Financial Review, May 17)
 この数字を多いと見るか少ないと見るかだが、かりにも一国の独立を認めるかどうかということについて、3割以上が留保するというのは、決しておだやかな話ではない。傷は深い、と見るべきだろう。

メガワティ式典訪問

 メガワティ大統領の独立式典訪問に最も強く反対したのは、国軍だ。中でも東ティモール作戦に参加した元軍人たちは、自らがもらったメダルに火をつけて抗議するなど、激しく抵抗した。
 国民協議会議長のアミン・ライス(国民信託党)、国会議長のアクバル・タンジュン(ゴルカル党)も反対した。しかし、彼らの反対はもともと信念からというよりメガワティに対する政治的牽制球にほかならないから、最後には、反対をとりさげた。「なんだ」というような幕引きだった。メガワティ大統領がディリにあるスロジャ英雄墓地(インドネシア軍の墓地)を訪れるということで、妥協が成立した。
 無視できない抵抗は、現役の国軍兵士の中にあった。
 ウィドド国軍総司令官は大統領から式典参加を誘われていたが、断った。理由は、艦船の上で彼女の警護のために待機するということだったが、本当は国軍内の反発に配慮せざるをえなかったのだ。6月には総司令官は交代することになっていたので、ウィドド司令官は思い切った行動をとってもよかったが、その彼が配慮しなければならないほど、国軍内のムードはおだやかではなかった。
 国軍の反発は、大統領警護と称して、東ティモールを威嚇することにあらわれた。
 まず、4月、国軍は大統領警護のための特別訓練を西ジャワで行った。付近の住民がその騒音にびっくりして起きあがるほどだった。兵士たちはヘリコプターからパラシュートで降下し、着地するやいなや銃を発射する構えだった。住民が「われわれはまた東ティモールを侵略するのか」と、その場にいた大統領警護隊の兵士に聞いたそうだ。(Jakarta Post, May 19)
 大統領警護チームは、5月17日、インドネシア軍の艦船6隻をともなって、ディリ港沖にあらわれた。ラモス・ホルタ外相はただちに4隻について退去を求めた。しかし、2隻のうちの1隻、テルック・サンピット号は医療機材と武装した海兵隊、さらには147丁の武器を運んできたが、港湾当局の許可もないのに、接岸してしまった。2基の大砲をつけた艦船が、UNTAET庁舎の前あたりに接岸したのだから、本来なら大変な騒ぎだ。集まった住民からやじなどが飛ばされたのも無理はない。ラモス・ホルタによれば、東ティモール側が許可したのは15人の武装した大統領警護兵だけだった。東ティモール政府は、国連とインドネシア政府の両方に、この件について抗議した。(South China Morning Post, May 19)
 これらの艦船のひとつに、国軍総司令官のウィドドがいたというのだから、これは国軍をあげてのアクションだったとしか言いようがない。メガワティに対する、東ティモールに対する、そして国連に対する、インドネシア軍の「うっぷん晴らし」だ。
 シャナナは、「一匹のはえもメガワティ大統領には触れさせないのに」と言って、この国軍の行動に失望をかくさなかった。(Jakarta Post, May 19)
 それでもインドネシアのハサン・ウィラユダ外相は、「この種の訪問としては通常のやり方だ」などと言ってのけた。(AFP, May 18)

インドネシアの資産問題

 インドネシア政府の高官が何度か資産問題にふれている。インドネシア占領時代にインドネシアが「保有」していた資産について、それを東ティモール政府に請求するというものだ。
 インドネシア外務省の報道官ナタレガワによると、根拠はいくつかあるという。
 まず、コフィ・アナン国連事務総長がワヒド前大統領に送った書簡に、資産問題は両国で解決するようにとの一文があるらしい。また、東ティモール憲法も、インドネシア資産を国が接収するとは書いてない、という。(Tempo Interactive, May 30)
 インドネシアで資産問題を声高に主張しているのはヤスリル・アナンタ・バハルディンという国会議員だ。彼は電話・電気の設備、土地・建物などについて主張している。現在、インドネシア外務省は資産を算出しているところだ。(Australian Financial Review, June 1)
 ラモス・ホルタ外相は、資産問題を言い始めれば、東ティモールの損失の方がより大きいとして、資産問題を議論しないよう求めた。また、東ティモール外務省報道官のドミンゴス・サビオも、「インドネシアはわれわれの財産を使い、白檀を切り倒し、コーヒー・プランテーションを使った。それに誰が殺された人びとの補償をするのだ。孤児もいるし、誘拐された(行方不明になった)者もいる」と憤慨している。(AFP, May 31)
 7月初めにシャナナがインドネシアを訪問した際、この問題はどうやら議論されなかったようだ。ただ、7月2日、シャナナとの懇談のあと、アクバル・タンジュン国会議長は、「東ティモールにあるのは国の資産だけではない。われわれの市民と民間企業の資産もあるんだ」と語っている。(Laksamana.Net, July 6)
 インドネシア外務省の計算が終わった段階で、新たな展開があるだろう。

「英雄墓地」と傷痍軍人

 東ティモールにはインドネシア軍人墓地がいくつかある。最も有名なのがディリのサンタクルス墓地の隣にある「スロジャ英雄墓地」だ。独立式典の際、メガワティ大統領が訪問した。
 一説には、東ティモールで死んだインドネシア軍兵士は3625人いるらしい。(Jakarta Post, June 7)インドネシアにとって東ティモールは「インドネシア領」だったので、そこで死んだ兵士はそこに埋葬された。
 インドネシアが東ティモールから撤退した後、インドネシア軍墓地は放置され、いつ頃からか、住民がトウモロコシなどを植えていた。メガワティ大統領が訪問するとなって、急遽、作物は除去され、大掃除が行われた。
 メガワティ大統領は、5月の初め頃、「英雄墓地」に眠る兵士たちの遺体をインドネシアに移す考えをもっていた。しかし、その後考えが変わり、独立式典に参加した際、「英雄墓地」はシャナナに管理を依頼した、と本人自ら言っている。理由は、「これらの英雄は両国にとっての英雄だから」だそうだ。(Jakarta Post, June 7)
 ところが、その後、6月になって、東ティモールの政治指導者と会談したバフティアル・ハムシャ社会相は、インドネシア政府はこの問題についてまだ決断しておらず、東ティモール政府としては遺体を移すかどうかはインドネシア政府次第だと言ったと語っている。(Asia Pulse/Antara, June 16)
 一方、メガワティ大統領の独立式典訪問に反対した遺族・傷痍軍人たちは、その後もインドネシア政府に対し、遺体の返還と生活補償を求め続けている。
 彼らは、ジャカルタ郊外のブカシにあるスロジャ団地に住んでいて、約3500人いるらしい。7月初めには、東ティモール作戦で戦死した兵士たちを記念するスロジャ記念碑の建立式があり、メガワティ大統領も出席した。50億ルピア(6600万円)かけ、1400平米を使用するプロジェクトだ。
 しかし、これでは生活保障にならない。
 スロジャ団地で退役軍人会の代表をつとめるスコロ(特務曹長)は、1978年に東ティモールでゲリラに襲撃され、銃弾によって片肺を失った。彼は、18才で東ティモールに配置された。訓練だと言われていたのに、行ってみたら本物の戦争だった。仲間が死んでいくのは辛かったが、命令にはしたがうしかなかった。
 彼は、シャナナはインドネシア人に多大の苦しみをもたらし、多くの未亡人をつくりだした張本人だと言う。彼は、東ティモールの墓地の遺体をインドネシアに移すよう求めてもいる。そうすれば、遺族も頻繁に墓参りができる。
 また、エレン・ラントゥンは、夫は1977年11月19日に戦死したと告げられたが、遺体がどこに埋葬されているのか知らない。それに政府からは何の補償も受け取っていない。彼女がもっているのは、石ころの入った痛ましいブリキの缶がひとつだけで、それが夫の代わりなのだ。壁には、彼女がまだ若かった頃、スハルトと握手を交わしているところを撮った写真を飾っている。
 負傷兵を父にもつヘヌ・スナルコ(29)は、スハルト体制打倒のデモにも参加した。そして、国軍が東ティモールでしたことを擁護するデモにも参加した。彼は、国軍は東ティモールでああいうことをする権利があったと考えており、彼らが国のために闘ったことは忘れてはならないと言う。そして、彼は東ティモール人が本当はインドネシアとの統合を求めていると信じており、独立は国連と西洋の「陰謀」だと言い放つ。(以上、Jakarta Post, May 18, South China Morning Post, May 20)
 国民に、そして何より兵士に、説明できない戦争をした責任は、スハルト政権の指導部にある。あれが侵略であったことを正面から見据えない限り、こうした人びとの考えが改まることはない。そして、その魂は、いつまでも救われない。★


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