著作権・大阪東ティモール協会
East Timor Quarterly No. 8, July 2002

独立特集(2)

もう一つの独立式典記念日
抗議と鎮魂と団結と

文珠幹夫(文と写真)


メガワティ大統領インドネシア軍人墓地訪問抗議集会

 口を手ぬぐいで覆い沈黙した人々が蝋燭の明かりに照らされている。独立式典が催れた5月19日夜、インドネシア大統領メガワティ・スカルノプトリがディリに到着した。
 メガワティは式典会場に直行せずに、先ず「スロジャ英雄墓地」を訪問した。東ティモールを侵略したが、返り討ちにあって死んだインドネシア軍人の墓地である。その隣は、1991年インドネシア軍による大虐殺があったサンタクルス墓地である。
 「スロジャ墓地」を後にしたメガワティはサンタクルス墓地には向かおうとはしなかった。墓地周辺は朝から厳しい警戒下に置かれていた。口を手ぬぐいで覆った人々は、抗議の声を上げることのできない犠牲者に代わってインドネシアとメガワティへの抗議の意志を表したのである。
 メガワティの独立式典出席を巡って、インドネシア国内で政治抗争がらみの議論があった。インドネシア軍は強固に反対・抵抗した。政治エリートたちもメガワティ政権揺さぶりのため反対した。そんな中、シャナナ大統領(このときは就任前)が直接招待状を手渡しにジャカルタを訪問した。メガワティは数時間だけの独立式典参加を決断した。反対者への対応が「スロジャ墓地」訪問であった。しかし、メガワティ到着に合わせるかの如くインドネシア軍はディリ沖にに軍艦6隻を遊弋させ「威嚇」した。
 国際社会に対し外交的得点を得たい思惑と、インドネシア国内での保身と言う妥協の東ティモール訪問であった。そこには東ティモールの人々への謝罪の意志は見て取れなかった。
 シャナナ大統領にエスコートされ式典会場に姿を現したメガワティは、緊張し表情は強張っていた。ラモス・ホルタ外相が「東ティモールで死んだインドネシア軍の(しばらく間があり)英雄が葬られている墓地の訪問を終え到着したメガワティ大統領」と紹介したとき、式典会場のみならず雛壇上のVIPからもブーイングが起こった。

次は経済的独立を

 独立式典の祝賀ムードが高まる中、祝賀の陰に隠れてしまいそうな問題を呼び覚ますデモが行われた。世界中から政治的には独立を認められた。しかし、経済的にはしばらくの間海外の援助に頼らざるを得ない。貴重なティモール・ギャップの石油・天然ガスはオーストラリアなどが横奪を狙っている。独立を果たしたとは言え問題は山積している。
 独立式典に先立って東ティモール・ドナー会議が開かれた。東ティモール政府は期待以上の援助を受け取ることができた。会議後の記者会見で、アルカティリ首相やホルタ外相はほっとした表情で記者らの質問に答えていた。厳しい質問も飛んだが、政権運営に自信を示す答弁であった。
 政権担当者とは異なり、今後の東ティモールの状況を憂える野党PST(ティモール社会党)は早急に経済的自立を目指すべきだと考えデモを行った。海外の援助は「慈善」から出るものでないことも示したかったようだ。
 隣国オーストラリアは、インドネシア不法軍事占領時代、スハルト政権とティモール・ギャップに眠る石油と天然ガスを山分けしようとしていた。オーストラリア政府は、スハルト政権が倒れると手のひらを返したように東ティモール政策を180度転換し、東ティモール独立支持に回った。石油・天然ガス利権が欲しかったからである。
 このデモには、西パプアの独立運動家やオーストラリア人、日本人活動家も参加していた。東ティモールの闘いが、世界中の支援組織に支えられたことを忘れず、西パプアやアチェの問題解決への支援・連帯を表明もしていた。
 デモは東ティモール政府庁舎(このときはまだUNTAET庁舎)へ向かったが、途中警察の規制でエキスポ会場に向かった。東ティモール初のエキスポはオーストラリア政府の援助を受けて開催されていた。デモがエキスポ会場に到着したころ、オーストラリア・ハワード首相がタイミング良く訪問していた。ハワード首相は、デモを指揮していたPSTアベリーノ・コエーリヨ書記長からオーストラリア政府への要望書をオーストラリア・ミッションを通じてではあるが受け取ったとのことである。(ちょっとした感想:何処やらの政府では考えられないことである。)

サンタクルス虐殺犠牲追悼デモと集会

 5月20日を迎えるまでどれほど多くの人々が犠牲になったことか。その人々の無念の思いを東ティモールの人々は知っている。未だに行方不明、いや「行方明確」(光州事件を扱った韓国の映像作家ホン・ソンダム氏の言葉)な家族を持つ人も多い。
 独立式典の余韻の残る5月20日正午近く、ディリの町中を数十台の車とバイクによるデモ(ラリーと呼ばれている)が、モタエル教会近くの公園からゆっくりとサンタクルス墓地に向かった。沿道の人々や海外からの式典出席者は拡声器から流れる追悼の言葉に耳を傾け、車の横に張られた横断幕を見つめていた。独立式典で華やいでいた東ティモールの人々は、犠牲となった人々に思いを馳せているのか静かに車列を見守っていた。外国人は、東ティモール人の華やぎが急に静寂に変わったのにやや戸惑いながらも、東ティモールの人々が受けた傷の深さを今更ながらに感じていたようだ。
 サンタクルス墓地に到着すると、PSTアベリーノ・コエーリヨ書記長がサンタクルス虐殺犠牲者を始めとする多くの犠牲者を追悼する演説を行った。東ティモールを支援してきた各国の支援者がそれに続いて演説を行ったが、インドネシアの東ティモール支援団体も追悼の言葉を述べた。
 サンタクルス墓地内には犠牲となった家族が手向けたのか、既に多くの花が祭られていた。犠牲者の母親が涙を浮かべながら花を添えた。

FALINTIL退役者デモ

「暴力を止めよう」と書かれたバッチを胸に付けた人が独立式典を警備していた。式典で年輩の元FALINTILメンバー100名ほどが雛壇に上がり、人々から感謝と栄誉を称える拍手を浴びた。彼(女)らの顔には深い皺が刻まれていた。
 UNTAETとPKFは、解放闘争の英雄であるFALINTILのメンバーを実に粗略に扱った。多くのメンバーは新しく創設された東ティモール国防軍(注1)に採用されなかった。国連始め国際社会は、独立した国で元ゲリラがその後の不安定要因になった事を知らぬはずは無い。しかし、山から下りてきた彼(女)らに就職の斡旋はおろか、生活の保障も与えず、ほったらかし同然に放置した。彼(女)らに不満はあったろうが、我慢を続けた。
 独立式典を数日後に控えた5月16日、ディリで数百人の元FALINTILメンバーのデモがあった。皆、粗末な服装であった。デモは声を上げるでもなく静かに整然と行進していた。横断幕に書かれた要求は彼(女)らの不満を表すものではなかった。「団結と統一」と書かれていた。★

注1:東ティモールは当初、非武装の国を目指したが、インドネシアの脅威から軍を創設することになった。国防軍への採用の条件は厳しく、採用されたのは若者が中心であった。


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