<大統領選 2>

大統領が決まって、どうなるのか

シャナナとフレテリン

松野明久


 4月14日、大統領選が行われ、その結果、シャナナが有効投票の82.7%を獲得して圧勝した。選挙は予想された通りだったといっていい。問題は、その間、フレテリンとシャナナの関係がさまざまに言われたことで、それは何を意味するのか。そしてできあがった政治地図は、これからどうなるのかということだ。

シャビエルの健闘

 シャビエルも17.3%獲得し、彼のキャンペーン中の様子からして、これはかなりな健闘と言わなければならない。各県別得票をみると、彼の出身地であるアイレウでシャナナを抜いて67.45%もとっていて、これは理解できるとしても、マヌファヒ、アイナロ、ディリ、マナトゥトゥ、バウカウでも高い。これは、昨年の制憲議会のときのASDT(社会民主協会)の得票パターンとほぼ一致する。唯一違うのはバウカウで、制憲議会では0.36%(全国区)しかとれず、ASDTとしてはラオテンの次ぎに票がとれない県だったが、今回は14.16%とれて13県中5位に浮上した。
 出身地の支持は別として、ASDTに対する支持というのがどういうものか、はっきりとしたことはわからないい。ただ、ディリ、マナトゥトゥ、バウカウといった北岸地域に支持が厚いということは、都市化された教養層の選択が影響していると見ることもできる。実際、シャビエルのイメージは穏健な理論家といったようなもので、独立闘争がはじまる前の1970年代初頭、彼が何をし、どのようなことを書いていたかを知る世代にとって、彼はまだまだカリスマなのだ。
 シャビエルは、マカオのセミナリオを卒業した。当時の東ティモール人にとっては最高のエリートコースだ。だが神父にはならず、学校を開いて後進を育て、一人で反植民地闘争をやっていた人物だ。彼の当時の新聞投書を読んでもなかなかりっぱな文章で、ラモス・ホルタやマリ・アルカティリがやや若気の感情論になりそうなところを、彼は先輩らしい落ち着いた骨太の論理で納得させるようなところがある。
 彼はASDTの設立者としては名をつらねていない。先輩格であった彼は、若手にさそわれてに参加した。彼は各地で独立運動を説いて回り、有能な演説家となった。そして独立宣言とともに、東ティモール民主共和国の大統領となった。
 彼が大統領を追われることになったのは、1976年、「インドネシアと交渉しようとした」という理由で、フレテリン中央委員会によって拘束されたときだ。それから1年後、彼はインドネシア軍に捕らえられ(自分から投降したという説もあるが)、バリに司令部をおくインドネシア軍第9管区(ウダヤナ)の司令官となったダディン・カルブアディの使用人になったと言われている。インドネシア軍に捕らえられたときの写真がある本に出ているが、ガンジーのようにやせ細った彼が(歩けないのか)インドネシアの兵士にかかえられている姿はとても痛ましい。その後、インドネシア政府に利用され、一時は統合派のグループに入れられて国連ロビーなどをさせられたこともあった。
 こうしたかなりネガティブな経歴にも関わらず、東ティモールの政界に復帰し、これだけの支持者を集めているというのだから、考えてみたらすごい。

シャナナとフレテリン
 ---- 対立の第一ラウンド

 フレテリンにとって、シャナナとシャビエルを比べてみれば、まだシャビエルの方が近い。それでシャビエルには制憲議会副議長のポストを与えた。しかし、大統領選ではフレテリンはどちらも支持しなかった。
 フレテリンがシャナナを嫌っているのは、ひとつは歴史的経緯からだ。むしろシャナナの方がフレテリンを嫌っているといってもいいかもしれない。お互い、なのだ。
 シャナナが1987年末にCNRM(マウベレ民族抵抗評議会)をつくり、みずからフレテリンを離脱して、レジスタンス全体のリーダーとなっていったことはみな知っている。フレテリンもこの路線に表向き従っていたから、問題はそれほど表面化しなかった。しかし、水面下では闘争の原理にかかわる大きな変化がおきていた。
 シャナナは当初からフレテリンの中では穏健派に属していた。穏健派といえば、シャビエルも、ラモス・ホルタもそうだ。当時の左派で生き残っているのはマリ・アルカティリ、ロジェリオ・ロバト、マウフヌぐらい。シャナナはUDTの回し者か、と叱責されるほどフレテリンのラディカルな指導部とは距離があったらしい。
 シャナナは、インドネシア軍侵攻後、フレテリンがUDT・アポデティ党員、さらにはフレテリンの指導部が「反動的、封建的」などと烙印をおしたフレテリンの革命路線についていけない仲間たちを処刑、粛正したりしたことに相当ショックだったようだ。自伝でもそれとなく書いている。
 それで1978年末にニコラウ・ロバトが戦死し、フレテリンが壊滅してしまったとき、シャナナはこのことを神の采配によるものと、むしろ祝福すらしている。そしてその後リーダーシップをとると、徐々に脱フレテリン路線、民族統一路線をすすめていく。1987年12月、「イデオロギーの転換」と題する書簡において、彼はフレテリンの方針は最初から「政治的小児病」におちいっており、周囲の状況を考えずに、自己過信し、革命路線をつきすすんできたと厳しく批判した。
 一方当時フレテリンは、ひそかに「マルクス・レーニン主義政党」たることを内部で誓っていた。ただこれは公表されず、また実態としても、山中を逃げ回る中で、ほとんど実現されなかった。おそらくこの80年代初頭のフレテリンの急進化は、シャナナが進めたCRRN(民族革命評議会)への対応だったのかもしれない。
 とりわけ難しかったのは、リスボンに拠点をおいたフレテリンの海外代表部で、そこにはアビリオ・アラウジョ(現在国民党)を筆頭にマリ・アルカティリ、ロケ・ロドリゲス、ラモス・ホルタなどがいたが、ここは東ティモール内部の民族統一路線に容易にしたがわなかった。あくまでフレテリンの指導のもとに独立闘争を闘う方針をつらぬこうとしたのだ。CRRNを無視してリスボンでUDTと「民族主義連合」をつくり、フレテリンを維持したまま別な民族統一戦線をつくろうとした。1987年のCNRM結成に際しても、シャナナから海外のフレテリン代表部は「レジスタンス海外代表部」となり、マルティニョ・ダ・コスタ・ロペス(追放された神父)、モイゼス・ド・アマラル(UDT)、アビリオ・アラウジョ(フレテリン)のトロイカ体制をとるよう指示されたが、フレテリンはこれを無視した。
 とくに頑固だったのはアビリオ・アラウジョで、自分はフレテリンの党首だと言い張り、シャナナのリーダーシップを認めようとしなかった。ラモス・ホルタはそこを飛び出し、シャナナの海外でのスポークスパーソンとなった。
 アビリオは、突然インドネシアと近くなり、スハルトと面会したりして、急速に独立運動から離れていった。それには彼のビジネスの利権があったとみられている。フレテリン海外代表部は彼を解任し、マリ・アルカティリとジョゼ・ルイス・グテレスの共同指導体制をとることになった。
 こうした経緯から考えても、フレテリンは常にフレテリンの指導のもとに民族解放闘争をやりたいという強い願望があり、民族統一路線によってフレテリン色を抑制しなければならないのを快しとしなかったことがわかる。

シャナナとフレテリン
 --- 対立の第二ラウンド

 住民投票が終わり、独立が決まった。2000年8月のCNRTの大会は、シャナナを総裁に、ラモス・ホルタとマリオ・カラスカラォンの二人を副総裁に選出した。このとき、フレテリンは副総裁ポストはいらないのではないかと提案して、指導部が右派でかたまるのを防ごうとした。結局、CNRTは継続したものの、フレテリンやUDTまでもがかなり非協力的な態度をとったため、事実上機能しなかったといっていい。
 フレテリンにとって、国連(暫定行政)との協力そのものが問題だった。国連はそれまでの経緯から考えて、CNRTを東ティモール人の代表組織とみなし、それとの協力で暫定統治をすすめようとしていた。しかし、CNRTはUDTなども含めた中道右派の指導部になっており、国連がプロモートしようとしている政治的なラインがみえみえだった。フレテリンが快く思わなかったとしても不思議はない。フレテリンはCNRTの解散を求め続け、それは2001年、制憲議会のキャンペーンを前に、実現した。
 そのあとがフレテリンの天下となったことは、説明するまでもない。これに危機感を抱いたドナー(援助国)たちは、さかんにシャナナを説得して、フレテリンの対抗馬として政界に出るようしむけた。また、インドネシアもそれに便乗して、シャナナなら相手としていい、などとフレテリンがカチンとくるようなシグナルを送った。要するに、国際社会(インドネシア、オーストラリア、主要援助国)はシャナナをプロモートしたが、フレテリンにしてみれば、あからさまな内政干渉の動き方にうつっただろう。
 フレテリンの経済政策がかなり民族主義的になるだろうというのは、今からでも予想できる。それは先進国にはまずいことで、国際社会の意向をくみ取ってくれるシャナナにがんばってもらいたいと、ドナーたちは思っているだろう。
 また、シャナナがスローガンとしてかかげる和解も、ドナーにはありがたい。東ティモールがインドネシアと仲良くなっていくことは地域の安定、ドナーの利益にとって必要なことだ。民族主義的な傾向の強いフレテリンがインドネシアとどこまでうまくやっていけるか、もっとはっきりいえば、東ティモール侵略を反省しないインドネシアをどこまで受け入れられるか、読めないのだ。その点、シャナナなら、すでにあちこちでインドネシアでの裁判は関心がないとか西ティモールにいる民兵たちには恩赦を与えるから帰ってこいとか言っており、ドナーの思惑に一致する。
 最近では、東ティモールの人権関係者のあいだで、シャナナの評判はすこぶる悪い。かつては人権や民主主義をいっていたのに(これは指導者はみな同じ)、ここにきて和解という名のもとに、正義の確立をないがしろにしているとみなされている。

これからの展望は?

 まず懸念されるのは、フレテリンの「ゴルカル化」。ゴルカル(職能集団)はスハルト時代のインドネシアの与党翼賛組織で、理念も政策もなく、ただ政府への支持を選挙で演出するために存在した。フレテリンは本来ゴルカルとは違うが、制憲議会選挙で「ひとり勝ち」したフレテリンが、与党病にかからないとも限らない。
 その兆候として、フェルナンダ・ボルジェス財務大臣が4月22日、突然辞任を表明した。彼女はフレテリンでも何党でもなく、テクノクラートとして入閣していた。本来ならフレテリンの単独政権も可能な選挙結果だったが、国連の強い意向から、財務・外務などを中心に非フレテリン系の人材が採用されたのだ。
 彼女は、辞任の理由を「グッド・ガバナンス(良き統治)と透明性の欠如、政府における個人的な意思決定過程」としたが、それは内閣を場として、早くも汚職、政治的誘導が行われていることを示唆している。そして財務大臣はそれに対して無力だということも。
 ボルジェスの辞任について、彼女と再々にわたって衝突してきたとされるマリ・アルカティリは、辞任の理由を「彼女の度重なる世銀との不和」が理由だと述べた。これは彼女の言っていることとはまるでちがう。
 さて、シャナナには何ができるか。シャナナにできることは限られている。大統領は議会や国(国民)に対してメッセージを発することができるが、政府や内閣に直接に伝えることは手続きとしてはできない。したがって世論を動かして、それが政府を動かすということしかできない。
 問題は、何を言うかだ。今やシャナナはこれといった主張をもたず、実現すべき理念ももっていない。今では正義については「やらなくていい」が彼の主張なので、彼がやるべきことは何か、という問いは難しい。貧困撲滅や開発といったことは人びとが彼に期待することだが、彼にはそうした権限はない。シャナナはこのまま「正義なき和解」の推進者として、たいしたこともしないまま、シンボルとして雲の上のような存在になっていくのだろうか。それとも、もうひとふんばり、正義、民主主義、人権などのために、がんばる現役政治家をめざすだろうか。あるいは、噂されるように「ドナーの人形」になってしまうのか。★


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