<子ども>

連れ去られた子どもたち
『ティモール・リンク』第55号、2002年3月、ヘレン・ファン・クリンケン

East Timor's lost children
Timor Link, No. 55 March 2002, by Helene van Klinken


 東ティモール人難民の子どもたちが大勢インドネシアにいる。ただその居場所ははっきりとはわからない。そのうち169人については、統合派の東ティモール人の政治家がやっているハティ財団によって中ジャワに連れて行かれたことがわかっている。おそらく両親のしかるべき承諾もなく、両親は知らされてすらいないかもしれない。このうち123人がカトリック教会に世話されており、46人がジョクジャカルタから40キロ東のある民間施設に入れられている。

アビリオ・ソアレス一家

 ハティ財団(Yayasan HATI)はおそらく1990年代の初め、1975-76年の東ティモール侵略の際、インドネシア軍特殊部隊(コパスス)をたすけた東ティモール人および西ティモール人の「パルチザン(民兵)」のための財団として設立された。理事長はシティ・ヘディアティ(ティティック)・プラボウォ、つまりスハルト元大統領の真ん中の娘であり、彼女の夫は、特殊部隊司令官をしていたプラボウォ・スビアントだ。この財団を長いこと運営してきたのは、プラボウォの子分であり1999年に東ティモールの州知事をしていたアビリオ・オゾリオ・ソアレスの家族だ。
 アビリオは1992年に州知事となってから、その後の民兵組織の原型となった「ガダパクシ」のスポンサーとなった。彼の親族も軍の利益にかなうようなその他の団体のスポンサーとなっている。例えば、彼の甥のオクタビオ・ソアレスは「東ティモール学生運動」をジョクジャカルタで主宰し、マナトゥトゥの民兵組織「モロック」を率いた者もる。アビリオ・ソアレスはまだ1999年の住民投票の結果を受け入れておらず、東ティモールのインドネシアへの「復帰」を叫んでいる。
 アビリオの甥のオクタビオは、今やハティ財団の事務局長だ。彼は、叔父と同様、常にインドネシアとの統合の熱烈な支持者で、ジョクジャカルタのガジャマダ大学にいた学生のころから、統合派の活動に参加していた。1999年から翌年にかけて、オクタビオとインドネシア派東ティモール人の小さなグループは、ジョクジャカルタに住む独立派の東ティモール人に対して「殺す、家を放火する」などの脅迫を行っていた。
 ジョージ・アディチョンドロ(豪ニューキャッスル大学講師のインドネシア人)によれば、1997年、ハティ財団はティティック・プラボウォが設立した二つの会社に投資していた。その二つとはディリテックス・テキスタイル(Dilitex)とマナトゥトゥのヨード添加塩製造工場で、マナトゥトゥといえば州知事一家の故郷だ。ソアレスの義弟のジル・アルベスは、この二つの会社の社長だった。
 東ティモールの独立が決まってから、ハティ財団は拠点をインドネシアに移した。そのホームページによれば、それは2000年4月に設立され、プラボウォが依然として支援しているほか、ザッキー・マカリムも支援者だ。マカリムは、東ティモールの住民投票後の破壊行為の主たる組織者の一人だとされているコパスス(特殊部隊)系の軍人だ。

東ティモールの子どもたち

 123人からなる最初のグループが中ジャワの州都スマランに到着したのは、1999年の末だった。教会は、子どもたちのおかれた状況の緊急性から、世話を引き受けた。その教会の社会福祉団体の長をつとめるブラザー・パウルス・ムジランがオーストラリアの記者リンゼー・マードックに語ったところによると、教会は子どもたちを連れてきた者たちの政治的動機に疑いをもったという。子どもたちは中ジャワの4つの施設に振り分けられた。
 東ティモールの国連ラジオ放送は、中ジャワにいる子どもたちについての詳細を放送した。すると幾人かの親が判明し、16人の子どもに対して14組の両親がみつかった。彼らの全員が子どもを返してほしいと言った。彼らも子どもに手紙でそのことを書いた。2001年の初め、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は子どもの帰還の手配を行った。しかし、3月15日、土壇場でその計画は流れてしまった。ハティ財団が、自分たちに知らせずに、UNHCRが子どもたちと会ったことに、怒ってしまったのだ。マードック記者によると、子どもたちを世話している施設の人たちは、この子たちを行かせてしまうと残りの子たちにハティ財団から圧力がかかるのではないかと恐れている。
 オクタビオ・ソアレスはマードック記者に、子どもたちをジャワに連れてきているのは純粋に人道的な理由からだと説明している。彼はただ助けたいだけなのだと。子どもたちをスマランの孤児院に入れようというアイデアはまったく任意のものだという。しかし、彼はマードック記者に、子どもを連れてくる両親の書面での承諾をえているとも語っている。そして、子どもたちを移そうとするいかなる国際組織の人間も殺すと言っている。
 マードック記者は東ティモールへ行き、何人かの両親にインタビューした。彼によると、財団がいっているような書面での承諾はしていないといっている親がいる。マードック記者があった多くの親は、彼らは騙されて子どもを手渡してしまったと感じている。ただ、ジャワでいい教育が受けられるのならそれはうれしいとも言っている。
 2001年8月、UNHCRは親が東ティモールに帰っている子ども12人を帰還させようとした。18人が帰還できるはずだったが、帰ると言ったのは12人だった。他の子たちは非常に怖がっていた。最後になって一人の子がオクタビオに電話をして帰るのが怖いと言った。それでオクタビオは子どもを空港には連れていかず、彼の家に連れていってしまった。
 ハティ財団は2001年6月、西ティモールの難民キャンプから中ジャワへさらに46人の子どもを連れていき、ジョクジャカルタから40キロ離れたところの民間施設にあずけた。西ティモールのNTTエクスプレス紙(2001年8月22日)によると、ハティ財団親の会という団体がUNHCRを子どもを誘拐しようとしていると非難したという。その記事はミグエル・エピファニオ・アマラルの署名入りだが、彼はオクタビオ・ソアレスの友達だ。1999年、彼はバリで大学生をしており、東ティモール学生運動(統合派)のメンバーだった。彼は親たちを代弁しているというが、彼自身はそうした子どもの親としてリストされていない。
 9月14日、UNHCRは8人の子どものディリへの帰還を行った。施設のシスターたちは、子どもたちは単にデンパサール(バリ)で親に会うだけだとだまさなければならなかった。そうでなければトラウマにかかった子どもたちはジャワを出発しようとしなかっただろう。子どもたちは親に対してよそよそしい態度をとり、2人の子は怒ってディリに行くのを拒否した。シスターたちは子どもが親を拒否したことを憂慮しており、今後ハティ財団が連れてきた子どもたちが家に帰らないというのではないかと心配している。子どもたちが何を言われてそうなってしまったのか、と思っている。ただ、彼女たちは東ティモールに戻った子どもたちはうれしいと聞いている。

結論

 子どもの権利条約の締約国として、インドネシア政府は親と子の再会をファシリテートする義務があり、また子どもの利益が最大限尊重され、子どもがその希望を表明できることを保証する義務がある。また締約国は、不法な子どもの移送を調査し、やめさせる義務、難民の子どもをモニターする義務もある。子どもは両親と一緒に、そして彼らが受け継いだアイデンティティとともに、生きる権利を否定されてはならない。
 問題は中ジャワとジョクジャカルタにいる161人の子どもだけに限らない。インドネシアの他の地域にひそかに留めおかえれている東ティモール人の子どもたちをトレースすることは急務だ。多くの東ティモール人が自由と独立を祝福している一方で、この最も弱い立場におかれた仲間のことを忘れてはならない。

ヘレン・ファン・クリンケンはブリスベーンでインドネシア語を教えている。またUNAMETの政務官もつとめた。これは2001年9月に雑誌『ランタウ』に出た記事を編集し直したもの。また、ティモール・リンクはロンドンのCIIR[カトリック国際関係研究所]の季刊ニュースレター。)


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