<大統領選 1>

東ティモール大統領選挙の監視をおえて

2002年4月25日
大阪東ティモール協会、文珠幹夫

選挙監視参加者
高塚、野々口、福武(SHARE)、山西(山形国際ボランティア)、伊藤(PARC)、和田、文珠


 東ティモールの初代大統領(注1)を選出する大統領選挙が2002年4月14日(日)に行われた。昨年の制憲議会選挙と同様に大阪東ティモール協会として選挙監視に参加した(注2)。今回はSHARE、山形国際ボランティア、PARCなどの協力を得た。監視参加7名はディリ県、エルメラ県、マナトゥトゥ県で選挙監視に当たった。

候補者

 大統領選挙では2名が立候補に名乗りを上げた。

● フランシスコ・シャビエル・ド・アマラル氏
1935年12月3日トゥリスカイのフルル村生まれ。元高校教師。1974年フレテリン創設に参加。インドネシアの侵略後、インドネシアとの融和を主張したため76年にフレテリン中央委員会に拘束。77年にインドネシア軍に逮捕。2001年ASDT(東ティモール社会民主協会:フレテリンの前身)を再び創設。党首となる。今回はASDTとPARENTILの公認を受けている。

● カイ・ララ・シャナナ・グスマオ氏
1946年6月20日マナトゥトゥのラレイア生まれ。ポルトガル植民地時代は農林省の公務員。1974年、ASDT創設に参加。75年、フレテリン中央委員になる。インドネシア侵略後山岳部で抵抗運動を続ける。1979年のフレテリン、ファリンティル壊滅後、リーダーになる。81年、CRRN(民族抵抗革命評議会)議長。87年、CNRM(マウベレ民族抵抗評議会)議長。92年インドネシア軍に逮捕される。逮捕後も刑務所から抵抗運動を指導。98年CNRT(ティモール民族抵抗評議会)議長。今回は無所属で立候補、9政党から推薦を受けている。
 アマラル氏は早い段階から出馬を宣言していたが、シャナナ氏の立候補届出は届出締切り時間ぎりぎりでなされた。最大政党のフレテリンがシャナナ氏の立候補に難色を示した経緯があったからである。シャナナ氏とフレテリンの関係がぎくしゃくしている様子が全有権者の前に明らかになった。昨年の制憲議会選挙時多くの有権者はフレテリンの代表をシャナナ氏と誤解していた状況があったと多くの東ティモール人が話している。
 「フレテリンへの投票はシャナナ氏への投票であった」と言うのである。また、フレテリンが棄権を呼びかけていると言う噂も随分耳にした。そのため選挙に混乱が予想された。

選挙キャンペーン

 シャナナ氏の圧勝が予想されたためか、選挙運動はそれほど盛り上がりを見せなかった。ディリ市内で見た限り、候補者の選挙ポスターも目立つほど多くなく、特にアマラル氏のポスターは探すのに苦労するくらいしか見かけなかった。シャナナ氏の選挙事務所も、ここが選挙事務所と教えられなければそれと判らない。日本なら選挙ポスターや「必勝」と書かれた張り紙が所狭しと張ってあったり、運動員が忙しく動いている姿を見受けるが、ここでは運動員らが椅子に座って議論をしているだけである。シャナナ氏が事務所に来るときだけ数十人の運動員が詰めかけ配付資料などの搬送に忙しく働いていた。そしてシャナナ氏の後を追っかけているマスコミが大勢来訪していた。
 4月11日、東ティモール大学で両候補の討論会が行われた。会場の教室は100人ほどで超満員となるほどで小さく、入りきれない聴衆が騒ぐトラブルもあったが、大した混乱もなく行われた。教室に入れなかった約1000人が中庭に集まったが、両候補が現れるのを辛抱強く待っていた。教室前の廊下も中の様子を見ようとする人でごった返していた。何とか教室に入ったものの蒸し風呂のような暑さであった。マスコミなどからの質問に両候補は誠実に答えていた。しかし、誰の目から見てもアマラル氏の生気が乏しいことは明らかであった。休憩時間ではシャナナ氏がアマラル氏を気遣ってコップに水を注いで差し出したりしていた。約3時間程度の討論会終了後、両候補が中庭に姿を見せた。学生などから質問が飛んだ。両候補と言いたいが質問の大部分をシャナナ氏が答えた。アマラル氏は相当に疲れていたらしく、用意された椅子に座ったまま疲れた表情を隠さなかった。数日前、アマラル氏は病院に入院し治療を受けていたと、会場にいた知り合いが教えてくれた。最後、互いに抱擁し健闘を称え合った。
 4月12日、ディリ中心部のプラムカ広場でシャナナ氏の最後の選挙集会が開かれた。いつものように「ラリー」と呼ばれる車を連ねた列が市内をねり歩き会場に向かった。一時市内は交通麻痺状態になった。炎天下、会場には1万人を越える人が参加していた。
 集会には推薦した9政党の代表らに混じって、マウ・フヌ氏やフレテリン代表のル・オロ氏も顔を見せていた。またクリスティーナ夫人や赤ちゃんも参加したため、東ティモール人より海外マスコミ陣の方が興奮していたように思えた。

選挙当日

 13日、選挙前日は「冷却期間」で選挙運動はできない。ディリを始めエルメラ、マナトゥトゥは静かであった。投票所は既に準備が出来ていた。投票所は鍵が掛けられ有権者が並ぶためのロープが張られていた。
 14日、高塚、野々口、福武はエルメラ県Poete 1, Poete 2, Humboe, Licapat, Fatubolud投票所で選挙監視に当たった。最初に訪れたPoete 1では時間通り午前7時から投票が始まった。昨年の制憲議会選挙と違って時間前に長蛇の列をなすことなく、スムースに投票が行われた。投票時間の少し前に教会でミサがあったためと思われる。ミサ後、とぎれることなく人々が投票に訪れた。ミサでは棄権をしないようにとの話があったらしい。昼前には、ほとんどのところで有権者が投票を終えたと思われた。昼過ぎに投票に来る人はまばらだった。選挙スタッフは手慣れた様子で選挙事務を行っており、トラブルもなく投票が行われた。しかし、規則は厳格に守られていた。監視員の中に、IDカードを持たずに入室しようとしたが入室を拒まれ注意を受けていた者がいた。東ティモール人の監視員(両候補関係者とナショナル・オブザーバー)は全ての投票所で見かけたが国際監視員は2カ所で見ただけあった。4時、再びPoete 1に戻り終了事務に立ち会ったがなんの問題もなく終了した。
 ディリ県は山西(Nazare 1, Mascarenhas)、和田(Bebonuk, Beira Mar 1, Beira Mar 2, Malinamuk)、伊藤(市内状況)が投票所と市内を見て回った。MascarenhasやMalinamuk投票所は7時の定刻に投票が始まったが、教会のミサが7時前にあったためか並んでいたのは数人だけであった。選挙スタッフはトレーニングが行き届いていたため、問題もなく選挙事務をこなしていた。監視員の中には監視員用のTシャツと帽子を身につけていたがIDカードをつけていなかったので選挙ブースへの入室を拒まれた者がいた。しかし、別のブースでは入れたところがあった。本人確認が2重(身分証明書にシールを貼る、投票後指にインクを付ける)であったため二重投票はなかった。しかし二重投票しようとして捕まった者がいるとラジオで放送されていた。投票は昼過ぎにはほとんど終わっていた。2時過ぎにはBeira Mar 1投票所で一部ブースの投票箱が閉じられ、1カ所のブースのみでの投票となっていた。昨年の投票で問題となったベコラ刑務所での投票であるが、今回は258人の収監者中250人が投票した(8人は有権者登録していなかったもよう)。
 マナトゥトゥ県は文珠がSauとAiteas投票所の監視に当たった。Aiteas投票所は7時の定刻に投票が始まった。ここもミサが7時前から近くの教会で行われたため、有権者は投票所ではなく教会に向かって歩いていた。ミサ後、三々五々投票にやってきた。列は数人程度並ぶだけで投票はスムースに行われていた。両投票所とも警備にあたる東ティモール人警官の数は5〜6人程度でありCIVIPOLは各1人であった。有権者の中には身分証明書をなくなしたのか、有権者証明書(A4の用紙に名前、写真、有権者番号など記載)を持ってくる人もいた。Aiteas投票所に8時過ぎ車椅子の女性がやってきた。5人程度列を作っていたが優先的に投票ができた。介助も問題なく行われていた。選挙スタッフは女性と男性の比率が1:2くらいで男女を問わずてきぱきと事務を行っていた。11時くらいにはほほ投票は終わっていたようである。2時過ぎには1カ所のブースを残し、他のブースの投票箱は閉じられた。国際監視団では当会以外でEU、日本政府監視団とカーター・センターが監視に参加していた。
 総じて今回の選挙は問題もなく無事行われたと総括できる。東ティモール人スタッフのみでの初めての選挙であったが、訓練が行き届いていたのか昨年の制憲議会選挙よりスムースに事が運んでいた。前回の経験が良く生かされていたと思われる。投票所が少し増えたが、どの投票所でも投票ができる体制になっていた。登録台帳と照らし合わせるのでなく、身分証明書で投票が出来るようになっていた。二重投票防止策はすぐれていた。身分証明書に投票済みシール(糊が強く簡単にははがせない。はがしても糊が残る)を張ることと、指に可視性のインク(水で洗うとより黒くなる)をつけさせた。
 前回は時間通り始まらない投票所があったが、今回そんな投票所があったとは聞かなかった。また、投票時間を過ぎて来る投票者への取り扱いが厳格となった。しかし、ほとんどの投票所が昼前迄に大部分の投票を終えていたため、投票時間後のトラブルは耳にしていない。
 二者択一の大統領選挙であったが、一人あたりの投票時間は前回の3分の1以下であった。有権者も少し選挙になれてきたようでもあった。

選挙結果

 フレテリンが棄権を呼びかけたらしいとの噂が流れた(具体的証拠はなし)が、投票率は86.3%と昨年の制憲議会選挙より5%ほど落ちたが、それでも高率の投票率であった。有効投票率96.36%。シャナナ氏の得票は有効投票中82.69%。アマラル氏17.31%。シャナナ氏の圧勝であった。以下に全体と各県別の得票状況を示す。★

注1)1975年当時実質的に政権を担っていたフレテリンが11月28日に独立宣言を行った際、シャビエル・ド・アマラル氏が大統領に選ばれた。これを初代大統領とする意見もある。
注2)1999年8月30日に行われた「住民投票」において、東ティモールに自由を!全国協議会はIFET(国際東ティモール連盟)の一部として投票監視に参加。

表1. 投票結果

投票総数 有効投票 有効投票率(%) シャナナ アマラル
得票数 得票率(%) 得票数 得票率(%)
全体 378,548 364,780 96.36 301,634 82.69 63,146 17.31
アイレウ県 15,506 15,031 96.94 4,893 32.55 10,138 67.45
アイナロ県 20,878 19,936 95.49 12,883 64.62 7,053 35.38
バウカウ県 41,583 39,629 95.30 34,019 85.84 5,610 14.16
ボボナロ県 32,329 31,253 96.67 28,413 90.91 2,840 9.09
コバリマ県 23,441 22,404 95.58 19,930 88.96 2,474 11.04
ディリ県 78,544 76,128 96.92 62,168 81.66 13,960 18.34
エルメラ県 39,248 37,775 96.25 33,300 88.15 4,475 11.85
ラウテン県 22,744 22,105 97.19 20,893 94.52 1,212 5.48
リキサ県 20,232 19,481 96.29 17,302 88.81 2,179 11.19
マナトト県 15,406 14,762 95.82 12,250 82.98 2,512 17.02
マヌファヒ県 17,599 17,102 97.18 10,050 58.77 7,052 41.23
オエクシ県 24,655 23,966 97.21 21,903 91.39 2,063 8.61
ビケケ県 26,383 25,208 95.55 23,630 93.74 1,578 6.26


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