<コーヒー>

「ディリ通信」より転載

カフェ・ティモール
危機におちいるその栽培、そして農家

和田等(ディリ在住)


 東ティモールの最大の輸出品として知られるとともに、栽培の過程で化学肥料や殺虫剤を使わない有機栽培として世界的な認知を得ているティモール・コーヒー(カフェ・ティモール)。ポルトガルの植民地時代の1970年代前半には、コーヒーの生産は全体の45%を占めたほどだ。現在、東ティモールでは45,000のコーヒー栽培農家が存在するが、一家族5人として計算すると、全人口の4分の1以上にあたる22万5000人がコーヒーに依拠して生活していることになる。コーヒーの主な産地はエルメラ、リキサ、アイレウ、アイナロ、サメの標高800メートル以上の高地。これは、ポルトガル植民地時代の1890年代半ば以降に葉さび病によって標高1000メートル以下にあるコーヒーの木がダメージを受けたことが主因となっている。

価格下落とコスト上昇

 その東ティモールのコーヒー農家が今、ピンチに立たされている。というのも、コーヒーの国際価格の下落により、カフェ・ティモールの売値も下落しコーヒー農家の見入り画急減しているからだ。1997年にアジア経済危機が深刻化する前には、ティモール・カフェの炒る前の加工済み豆は1キロあたり12,000ルピア(当時のUSドル換算で2〜3ドル)の売値がついていたのに、2001年には1キロあたり0.45USドルにまで下がってしまったのである(未加工のコーヒーの実の売値は1キロあたり0.12USドル)。
 その一方で、インドネシア時代に政府の補助を受けていたディーゼル燃料の価格がインドネシアからの独立が決定して以降、4倍近く(1リットルあたり4500ルピア、43セント)にあがったため、コーヒーの運搬コストが上昇、コーヒーの主産地エルメラからディリまで(約50キロ)を往復する車両にかかる経費は80USドルとなり、1回の運搬に200キロ以上のコーヒー豆を車に積まないと引き合わないという状況になっている、まさにダブル・パンチだ。
 この結果、コーヒー栽培をあきらめ、仕事をも求めてディリに流れ込む農家が続出、ポルトガル時代には年に2万トンに達したコーヒーの輸出が、2001年から2002年にかけては2000トンから2500トンに減少するとの調査結果(カフェ・ティモール協同組合・有機コーヒー協同組合・全国協同組合事業協会による)もある。この数字は2000年の輸出量(約1万トン)の最大80%減となるもので、その激減ぶりがわかる。一方、カフェ・ティモール協同組合(CCT)によるコーヒーの輸出量は2000年が5800トンだったのに対して、2001年の収穫期の輸出量は5600トンで、この時点ではまだコーヒー価格の値下がりの大きな影響は出ていなかった(ちなみに主要な買い手は米国のスターバックス)。

質の向上とPR

 こうした中、ティモール・コーヒーがより高く売れるようにするため、東ティモール行政府農業省と全国協同組合事業協会(NCBA)はともに、講習やワークショップを実施し啓発を通じたコーヒーの採集・加工過程における質の向上につとめている。コーヒー栽培農家45,000世帯のうち17,000世帯を組織するNCBAは、米国国際援助局(USAID)による東ティモール経済復興・開発プロジェクトの一環として、USAIDからの資金援助を得て「100%有機」をセールス・ポイントにした上質の「カフェ・ティモール」を売り出し、国際市場への浸透を図っているところだ(現在、「カフェ・ティモール」は世界11カ国に直接輸出されている)。NCBAでは、この売上の利益の一部をクリニックの運営経費にあて、コーヒー生産農家の家族の健康維持にあたっている。すでに3つの「クリニック・カフェ・ティモール」が設立され、医療ケアを実施しているが、NBCAではさらに14のヘルス・クリニックの設置に向けての作業をすすめている。つまり、「カフェ・ティモール」を買うことによって、コーヒー生産農家の健康の維持に役立つことになるというわけである。東ティモールに来訪された方はぜひ「カフェ・ティモール」をお買い上げあり。パッキングもしっかりしていて、その辺でビニール袋に入れて売られているものとは「一味違う」コーヒーである。
 最近のティモール・コーヒーの世界へのPRとしては、3月6日〜8日にかけてスペインのバルセロナで開催されたヨーロッパ食品業界の主要展示会で、デルタ・カフェが東ティモールのコーヒーを積極的におこない、「コフィ・アナン国連事務総長が率先して呼びかけている道義的・社会的責任を果たそうとする民間企業推奨キャンペーンに呼応するような好例を示した」と、ラモス・ホルタ外相の手放しの絶賛を受けた。デルタ・カフェはこの展示会の期間中にスペインで2番目の大手紙「ラ・バングアルディア」にティモール・コーヒーを宣伝する全面広告を出すなど、その知名度の向上につとめたことがホルタ外相にいたく気に入られたようである。いまのところ、東ティモールにはほかに国際市場に売り出せる産物などないから、コーヒーの売り込みに熱を入れるのは当然といえば当然の話ではあるが ............. 。

東ティモールのコーヒー栽培史

 ところで、東ティモールにおけるコーヒーの歴史をほんの少しだけたどってみる。東ティモールにコーヒーが最初に持ち込まれ、ポルトガルのジョゼ・ピント・アルコフォラダ総督がコーヒーを植えたのは1815年のことにさかのぼる。1860年までには、すでにディリとスラウェシ島のマカサール(ウジュン・パンダン)との間で活発なコーヒー取引がおこなわれていたことが記録されている。その後、1894年から1908年の間に総督をつとめたジョゼ・セレスティーノ総督の時代に東ティモールのコーヒー産業は大きな発展を印す。1899年に同総督らが設立したソシエダーデ・アグリコーラ・パトリア・エ・トラバーリョ社(SAPT)が東ティモールでコーヒー栽培に最善の場所(エルメラ地区のファトゥベシにおける9000ヘクタールの用地)をおさえ、東ティモールの高品質コーヒーの生産を実質的に独占するにいたった。同社が財政危機に瀕した期間中の1934年に日本政府が同社に資金投入し、第二次世界大戦までに日本政府は同社の40%の株式を持つまでにいたるも、第二次世界大戦後、ポルトガル政府は戦争賠償として日本政府が保有していた同社の株式を接収する。その後インドネシア侵略時まで、同社の株式はポルトガル政府の40%のほか、バンコ・ナショナル・ウルトラマリノ(BNU)が7.619%を保有、残り52.381%をティモール人一族が所有するという構成となった。
 1975年にインドネシアが東ティモールに侵略するとSAPTの不動産と資産はインドネシア国軍幹部に接収され、その後、インドネシア国軍幹部によるグループが設立したPTデノック・ヘルナンデス・インドネシアがコーヒー取引やその他の貿易を独占。これに対して、米国の協同組合による非営利連合組織であるNCBAとUSAIDがインドネシア政府に国軍による東ティモールのコーヒー独占を廃止するよう強力にはたらきかけた結果、1994年にコーヒー取引に対する公正な競争の道を開く東ティモール知事令を引き出すにいたった。またUSAIDから680万USドルの資金援助を得た NCBAは、協同組合の育成に乗り出し、1995年に800世帯でスタートした協同組合への加入世帯数は現在17,000世帯に達し、「クリニック・カフェ・ティモール」の設立・運営をも手がけるにいたっている。★


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