<調査報告>

東ティモールにおける日本軍性奴隷制〈第4回〉

〈女性国際戦犯法廷〉東ティモール調査チーム 古沢希代子

 スアイで会ったひとりの女性のことが忘れられない。
 ある男性は、彼女を村長の命令でラバライの「慰安所」に連れて行ったと語っている。また、彼女の弟は、強制労働から逃れるために姉(彼女)のいる慰安所に身を寄せ、下働きをして過ごしたと言っている。
 しかし彼女に「日本軍は村の女性を連行したか」「村の人に暴力をはたらいたか」と私たちが尋ねると、「そういうことはなかった」と答え続けるのだ。ふと見ると彼女の腕には精巧な入れ墨があった。彼女に聞くと、その入れ墨は結婚の時に施すもので、日本軍の侵攻を知った村長が一計を講じ、村の娘たちは入れ墨をして既婚者を装うことになった。彼女は「入れ墨をした女性は連行されなかった」と言った。
 私たちはそれ以上の質問はしなかった。ただ最後に、近いうちに〈日本軍〉が東ティモールにやってくることを伝えた。ただし今度は日本兵が「自ら」道路の建設や補修に従事するために。
 すると彼女はうって変わった勢いでこう言った。「はやく逃げなくては」。


 ジーン・イングリスが昨年スアイで得た知見は興味深いものだった(連載第3回を参照)。とくに、日本軍に女性を差し出すことを拒んで殺されたふたりのリウライについて詳しく知りたいと思った。もし真実なら、これは日本軍が女性の供出を〈強制〉したという明白なケースではないか。
 12月26日、私たちは「民衆経済発展委員会」という東ティモールのNGOの車に同乗させてもらい、アイナロ経由でスアイに向かった。街角にはクリスマスのクレシェ(馬やと馬ぶねの中で眠る赤子のキリストの模型)が残っていた。 

◆リウライ・マルセロのこと

 スアイのUNTAETに勤務するある青年は「学生連帯評議会」(1998年から東ティモール全土で住民投票推進のキャンペーンを展開した学生グループ)の元活動家だ。大戦中は彼の祖母も日本軍に連行されて軍人の性の相手をさせられた。彼は一晩でリウライ・マルセロを知る人を探し出してくれた。
 リウライ・マルセロの家はスアイのカミナサという村にあった。前号でマルセロはスアイ・ロロのリウライだとお伝えしたが、スアイ・ロロのリウライはヘルモスで、カミナサのリウライがマルセロだった。
 ポルトガル領ティモ-ル(出所:Timor 1942) 翌日私たちはカミナサを訪れた。
 最初に会ったアリピオ・ボンさんからリウライ・マルセロの妻がまだ生きていることを知った。私たちが「是非会いたい」と告げると、すぐ彼女のもとに人が送られた。
 アリピオ・ボンさんと話しているとアフォンソ・モニツさんがやってきた。このふたりは、戦後カミナサのリウライとなった人の娘たちと結婚した。リウライ・マルセロには子どもがいなかった。新しいリウライがこの事態にどう関係したかはリウライ・マルセロの妻が現れてから明らかになる。とりあえず今はアフォンソ・モニツさんの話だ。彼によると、リウライ・マルセロは西ティモールのベトゥンの出身だが、血統的には「東」である。なぜなら彼は「東」で起きたドン・ボアベントゥーラの対ポルトガル反乱の時、ボアベントゥーラに加勢し、その後「西」へ逃げた者の血筋だからだ。当時リウライとなる適当な人物が不在だったカミナサでは、住民がマルセロの人柄をみこんで西のベトゥンから彼を招いた。処刑後、リウライ・マルセロの遺体は人々の手によってベトゥンに運ばれ、葬られた。

◆処刑したリウライの妻に魔手をのばす

 まもなくリウライ・マルセロの妻、ウェヘルミナ・ホアタエさんが到着した。まず大事なポイントの確認から。ウェヘルミナさんは夫が日本軍から何を要求されていたか知っていただろうか。彼女は次のように述べた。
 「夫が家で私に語ったことは〈日本軍から女性を差し出すように命令されているがその命令に従いたくない〉ということだった。そしてある日、日本軍から夫に召喚状が届いた。夫はそれに応えるため正装して出かけた。それが夫を見た最後になった。」
 リウライ・マルセロの処刑は「悪しきこと」の幕開けだった。処刑後、日本軍の軍人は、ウェヘルミナさんの写真をもって彼女を探しまわった。日本軍の慰安婦にするためだった。しかし村の人々は一致団結して日本軍にニセの情報を流し、彼女が見つからないようにした。日本軍による執拗な捜索は、彼女の義理の姉にあたる女性が連行され、慰安婦にされたところで止まった。その女性は、東ティモールにインドネシア兵補協会の支部ができた時、元「慰安婦」として登録している。その後終戦までウェヘルミナさんをかくまったのは彼女の兄弟だった。戦後ポルトガル行政が復活すると、その人がカミナサのリウライになった。 
 次に登場したのは、当時リウライ・マルセロの従者だったパウリノ・セランさんである。リウライ・マルセロが日本軍から召喚された日、セランさんはシリの箱を持って付き添った。セランさんは処刑の現場も目撃している。セランさんによると、リウライは連れていかれる時は縛られていなかった(前号のマリアノ・アマラルさんの話との相違点)。リウライを連れに来たのはナイ・セランというティモール人のボンベラ(日本軍協力者)で、このナイ・セランとともにボボナロに赴いた。銃殺される時、リウライの両手は縛られていた。その場には沢山の人が集まり事態の成り行きを見守った。
 これはどう考えても無抵抗の民間人を処刑する光景だ。日本軍は途中で逃亡もせず召喚に応じたリウライ・マルセロをどのような名目で殺害したのか。セランさんによると、銃殺の前に罪状の説明のようなものはなかった。
 リウライ・マルセロが死ぬと、日本軍はボンベラを使って女性たちを狩り集めた。この時使われたボンベラは土地の者ではなかったらしい。さらに日本軍はリウライの妻に魔手をのばそうとした。
 ところで、私の手元にある資料を見るかぎり、戦後に実施されたBC級戦犯裁判でこの事件は扱われていない。今回の調査では、話をしてくれたすべての人に連合軍の「戦犯捜査」について尋ねてみた。しかし、ただのひとりとして「捜査員から質問を受けた」「そういった捜査を目撃した」「捜査について人から聞いた」といった経験を持つ者はいなかった。専門家も指摘するように、BC級裁判では捕虜虐待の追及に比べて住民虐待の追及は軽視されていたのではないだろうか。

◆そして・・慰安婦にされたジェラルダさんの話

 スアイから西に向かうと、車で30分ほどでインドネシア国境に近いティロマールに到着する。私たちはそこで偶然に「インドネシア兵補協会・東ティモール支部」の関係者と出会った。
 彼の紹介によって、元兵補のある老人に会うと、彼はアボ・マルタが入れられたボボナロのマロボの慰安所に女性が集められているのを見たことがあると語った。そこでマロボの写真を見てもらい、彼の見た「そこ」がアボ・マルタのいた「そこ」かどうか確認してもらった。その通りだった。
 彼の出身地であるファトルリックでは、マロボの温泉で病気治療をさせてあげると騙して、マロボの慰安所に連れていかれた女性もいたそうだ。
 次に会ったのがジェラルダ・カルドゾさんだった。彼女は自分の体験を以下のように語ってくれた。 
 「ある日、村に日本人がやってきて男も女も集められた。私はまずスアイまで連行された。スアイでは、昼間はサゴヤシを採る仕事をさせられ、夜になると兵士がやってきた。スアイでは一ヶ月ほど働かされ、次にさらに東のベコに移された。
 ベコでの仕事も食糧づくりだった。ベコでは道路工事に狩り出された他の村の人々といっしょになった。その中から若くてきれいな女性が選ばれ兵士の相手をさせられた。ベコには4ヶ月いた。
  その後ボボナロに移された。昼の仕事は食糧づくり、食事づくり、掃除、そして石運びだった。
 夜になるとひとりひとり別々の部屋に連れていかれ、兵士の相手をさせられた。ボボナロには2年 間いた。自分がいたのはボボナロの町だった。その後もあっちの駐屯地、こっちの駐屯地と連れて 行かれ、終戦まで家には戻れなかった。(次頁に続く)
 ボボナロでは女たちには茅葺きの家が与えられた。しかし、男たちにはそんな家も与えられず、夜は野原で寝るように命令された。女たちの家と兵舎は近かった。その間の距離は10メートル ぐらいだったと思う。ただし敷地は別だった。司令官の名前としては「ノブチ/ノグチ」というのを憶えている。この「ノブチ」の命令で女たちは 水浴びをさせられた。この水浴びでは、「男たち」と女たちがいっしょに裸にされて、「男たち」に女たちの身体を洗わせた。
 「男たち」とは日本軍の兵士のことだ。ティモー ル人の男ではない。ティモール人の男たちは「女の家」に近づくことを厳しく禁じられていた。ある時、マウ・バウというティモール人の男が〈女の家〉に近づこうとして、撃たれて死んだ。 
 自衛隊が来ても私はこわくない。昔、日本の軍隊がここでしたことをきちんと話してあげよう。」
 もし、自衛隊がコバリマ県に展開するならば(実際その可能性はある)、隊員たちがアボたちの話を静かに聞ける機会をつくりたい。日本が国家としてどのように責任を取るべきか、いっしょに考えてもらえたらと思う。

【冒頭で紹介した青年のおばあさまは、東京ヘ行った2人のアボたちのことや私たちの調査についての説明を聞いて下さった。そして愛する孫に励まされ、ビデオカメラに向かってその体験を話してくれた。】


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ベニラレ付近にの残る日本軍の壕/慰安婦もここに入れられていたと語る人もいる(写真:古沢)
◆〈戦利品〉としての女性

 それにしても、である。日本軍も他国の軍隊の例にもれず、女性を「戦利品」として扱っていたことが、これまでの調査で少しずつ明らかになってきた。 バウカウでは、ポルトガル人のピレス中尉(ポルトガル時代のバウカウの警備隊長。日本軍侵攻後いったんは国外へ脱出したが、その後東ティモールに潜入)を逮捕し、ティリに移送した後、バウカウにいた愛人のブランカさんを捕まえて慰安婦にした。
 スアイでは、リウライ・マルセロが処刑された後、その妻のウェヘルミナさんを捕らえて慰安婦にしようとした。 そして、次に紹介するエルダ・サルダーニャさんは、カテキストだった夫を日本軍に殺された後、慰安婦にされ、次に「ミヤハラ」という軍人の「妻」にされた。エルダさんに関する証言を「法廷」に提供したのはバウカウのエルメネジルドさんであるが、今回の調査ではオッスで別の証言者が現れた。 その人はアグスティーナ・ホルナイさん。彼女のゴットファーザー(洗礼時の名付け親)がエルダさんの夫、マリアノ・カルバーリョさんだった。彼女によるとエルダさんは混血で美しい人だった。夫のマリアノさんはカテキスト(カトリックの教理問答師)で、マナトゥトの修道院の学校で教えていた時エルダさんと出会い、教会の許可を得てエルダさんと結ばれた。彼らはその後オッスで暮らした。 日本軍がやってくる時、マリアノさんに危害が及ぶことを心配した両親は(カテキストなので親欧と見なされるからか?)彼をラクルタに呼び寄せた。しかし結局マリアノさんは日本軍に捕まって殺された(手を下したのが日本兵か手下のティモール人かは不明)。ゴッドファーザーの死はショックだった。 その後、アグスティーナさんはベニラレの市場で偶然にエルダさんと再会した。ふたりは抱きあって泣いた。殺害現場を目撃したマリアノさんの弟の話では、彼はいっきに殺されたのではなく、少しずつ傷つけられて放置されるという殺され方だった。エルダさんは「自分は犯された」「慰安婦にされた」と言った。アグスティーナさんが「誰が奪ったのか」を尋ねると、それは「ミヤハラ」軍曹だと言った。 エルダさんは夫の死後、ベニラレ郊外の慰安所に連行され、「ミヤハラ」の「妻」にされ、その関係は「ミヤハラ」が東ティモールを離れるまで続いた。 戦後彼女はその運命をはねのけるように、別の男性と結婚し、子どもをもうけ、 80年代半ばにポルトガルで亡くなった。〈次号へ続く〉















   




(写真/古沢:
 お気に入りのブレスレットを見せるアボ・マルタ。 オランダのハーグから戻ってきて体調を崩してし まったそうです。本当にお疲れ様でした。)

 今号の一言:
 
 「ハーグでは裁判官から何も質問されないから、  もう問題は解決したのかと思った。
  そうかまだなのか。」
  byマルタ・アブ・ベレ 2001年12月30日

 「私は昨日メディアと会った時、
  日本軍がしたことを単純に(simply)
忘れるつもりはないと言った。」
  byマリ・アルカティリ暫定内閣首席大臣
  2002年1月5日



次号の
東ティモールにおける
日本軍性奴隷制
(第5回)は
「女性法廷」
最終判決に関する特集
です。
        





 













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☆オリジナルビデオ販売のお知らせ☆

East Timor Avo Speak Out
東ティモール アボたちは訴える
英語(全11分)
制作:Studio REMEMBER
(東京/スタジオ・リメンバー)
  
「日本軍性奴隷制を裁く〈女性国際戦犯法廷〉」 ハーグでの最終判決で上映された証言ビデオ。〈法廷〉に被害者証言を提供したボボナロ県の4人のサバイバーが登場。東京法廷に参加したエスメラルダさんとマルタさんが東ティモールのクライムシーンから当時の状況を語ります。マルタさんはマロボの慰安所址で自分の部屋だった場所に立ちました。自宅を接収され慰安所に改造されたバウカウのリウライ、エルメネジルドさんの証言も採録。

価格:2000円+郵送料

 お申込先:mm3k-frsw@asahi-net.or.jp
 ak4a-mtn@asahi-net.or.jp

(ハーグでは、同じくStudio REMEMBERが編集した
歴史的背景解説ビデオもあわせて上映されました。)

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