制憲議会特集(2)

争点は何だったのか?
 改めて問われた歴史

松野明久


 制憲議会選挙は独立後の議会選挙を兼ねるものだったので、憲法があまり争点にはならず、独立後の政権をどの党に託すのかが焦点だった。しかし、それは独立東ティモールの政策をめぐるものというより、過去24年間が何だったのか、何が正しかったのかについての歴史認識をめぐるものだった。


「復興」(レストラサォン)

 ポルトガル語のRestora豪o(英語でいうRestoration)すなわち「復興」は選挙戦のキーワードのひとつだった。この場合「東ティモール民主共和国(RDTL)の復興」を意味し、フレテリン、社会党(PST)、ASDTがこれを主張した。この主張は、東ティモールの独立は1975年11月28日のフレテリンによる東ティモール民主共和国の独立宣言をもって正式とするというもので、東ティモール人の自決権はそれによって行使されたとみなす。
 これはつまり、1999年8月の住民投票は東ティモール人による自決権行使ではないとする立場だ。独立復興派は、あれはインドネシアを追い出すための仕方ないプロセスだったと解釈する。今の国連暫定行政もフレテリンは不承不承受け入れた。実際、国民参議会(NC)をフレテリンは認めず、フレテリンの主要な指導者はそのメンバーにはならなかった。
 フレテリンは常に単独政権を希求してきた。ポルトガルによる非植民地化過程では、ポルトガルに対しフレテリンを東ティモール人民の唯一正統な代表として認めるよう要求し続けた。そのため住民投票を拒否し、フレテリンのみを交渉相手として主権委譲をせまった。1975年8月11日にUDTがクーデターを起こすと、フレテリンは反撃してUDTを駆逐。こうして東ティモールに残された政治勢力は事実上フレテリンだけになり、11月28日に独立宣言を発すると同時にフレテリンだけで政権を立ち上げた。
 インドネシアへの抵抗運動がシャナナが指導者になって以後主義主張の差を乗り越えて民族統一路線をとり、CNRT(東ティモール民族抵抗評議会)の結成に至ったプロセスは、フレテリンにしてみれば自己抑制を強いられたプロセスだった。国連暫定行政はシャナナとラモス・ホルタを中心としたCNRTの統一路線を推進してきたが、フレテリンはCNRTの早い解散を要求してきた。
 この「独立復興」という考え方は、社会党やASDTにも共通する。社会党にいたっては、1975年の憲法を復活させるべきだとまで言っている。かなり古典的な社会主義を標榜する社会党にあっては、その後のフレテリンはむしろ「変節した」と見えるようだ。確かに、1975年の憲法の方が今回フレテリンが提案していた憲法(2000年党大会で採択した案)より社会主義的だといえるだろう。

国名、国旗、国歌

 また、独立復興派は、国名、国旗、国歌なども当時のものを採用するよう主張している。国名は「Timor-Leste」(ポルトガル語の東ティモールでハイフン付き)、国旗はフレテリンの3色をややかたちをかえたもの、国歌はインドネシア軍に殺されたフレテリンの革命詩人、フランシスコ・ボルジャ・ダ・コスタがつくった「ヒノ・ナショナル(国歌)」ということだ。
 国名がTimor-Lesteということになると、1998年4月ポルトガルのピノシェで行われた抵抗勢力の会議で決定して以後使われているTimor Loro Sa'eというテトゥン語の国名は正式なものではなくなる。これはポルトガル語かテトゥン語かという問題ではない。単にポルトガル語というだけならTimor Lesteというふうにハイフンをつけない。ハイフンをつけるのは「東ティモール民主共和国 Rep彙lica Democrtica de Timor-Leste」という国家の名称においてであり、Na豪o Timor-Leste(東ティモール国民)、Frente Revolucionria do Timor-Leste Independente(東ティモール独立革命戦線)といった呼称においてだ。1974-75年当時、ポルトガル政庁やUDTの支持者たちは東ティモールのことをTimor-Dili、または地理的な意味でTimor Oriental(東ティモール)と呼んでいた。Timor- Lesteとはフレテリンが使っていた呼称なのだ。
 ちなみに、シャナナの自伝・書簡集はTimor Leste - um povo, uma ptria、ラモス・ホルタの自伝はTimor Leste: Amanh em D値iとなっていて、ハイフンがない。これは単に東ティモールをポルトガル語でいっただけという印象だ。つまり、彼らが言及しているのはフレテリンがうち立てた国家としての東ティモールではなくて、地理的な意味での、あるいは領域的な意味での彼らの故国たる東ティモールということだ。
 こうした問題はどうでもいいように思われるかもしれない。実際、東ティモール人が書いたものも必ずしも一貫していない。しかし、東ティモールの政治指導者たちはそれなりにこだわっている。なぜなら、それは独立国の国名にフレテリンのシンボルを残すかどうかという問題だからだ。
 国旗も国歌も同様の意味で、フレテリンをそこに刻印するかどうかという問題になる。
 ピノシェの会議ではファリンティル(東ティモール民族解放軍)の旗を抵抗勢力の旗として使うことになった。1999年の住民投票では投票表紙に独立を意味する選択肢としてCNRT(東ティモール民族抵抗評議会)の旗が使われた。1975年の国旗を正式とすることは、こうした民族統一路線からフレテリンの指導体制へと復帰することだ。
 また、ボルジャ・ダ・コスタの国歌は、国名をTimor-Lesteとしているほか反植民地主義、反帝国主義の闘いに人民が立ち上がるといった内容だ。いかにも(当時の)フレテリンのスローガンである。

国民和解

 一方、「独立復興」に反対なのは社民党、民主党、UDT、コタなどだ。社民党と民主党は本音は反対だが、政党討論会などでははっきりとしたことは言わなかった。「1975年11月28日の独立宣言をふみにじってインドネシアが侵略した」という認識は国民全体に共有されているものであり、そうした心情を逆なでするようなことを言えば選挙結果にはね返るかもしれないからだ。
 民主党は、国民が11月28日を独立記念日と決めればそれに従い、8月30日をそう決めればそれに従う、しかしいずれの場合にももう一方の日も東ティモールの歴史的な日として記憶にとどめるようにすべきだと主張した。
 この考え方は、11月28日はフレテリンの独立宣言日であり、その他の勢力を排除したものであって、国民和解の観点からそれを独立記念日とするのは望ましくないというものだ。また、それは1人1票による住民投票で東ティモール人がはじめて法的に明確にその意思を示したことを自決権の行使とする立場でもある。シャナナが議長をつとめたCNRTは自決権の行使を求めて闘ってきた。住民投票の実施を求め、住民がインドネシアとの統合を選択すればそれに従うとすら表明していた。それは裏を返せば11月28日を独立と決めつけない態度であり、東ティモール人は自決権を未だ行使していないという立場だった。
 ベロ司教もこの立場をとっていた。ポルトガルや国連もフレテリンの独立宣言を認めず、ポルトガルを施政国(administering power)とみなし続け、東ティモール人の自決権は未だ行使されていないという立場をとった。
 フレテリンはこの立場に反対だった。フレテリンにしてみれば1975年11月28日に東ティモールは独立していたからだ。もともとフレテリンは住民投票を行って東ティモールの帰属を決めること自体に反対だった。それは「奴隷に自由になりたいか、それとも別な牢獄に繋がれたいかと聞くようなもの」であり、独立以外は認めない、そしてその交渉相手はフレテリンだけだ、と主張していた。
 民主党に集まった若いレジスタンス活動家たちは、上の世代のお互い妥協しない対立(フレテリンとUDT)がインドネシアに侵略の機会を与えたとの思いがあり、1975年時点の対立が独立東ティモールに影を落とすことを避けたいと考えている。さらに法的な議論をすれば、11月28日の独立宣言は、インドネシア軍の侵略を前にそうした余裕はなかったとはいえ、住民の意思をしかるべき手続きで確認していないという欠陥も指摘できる。(それが国連やポルトガルが認めなかった根拠でもあるだろう。)独立宣言はフレテリン指導部の判断だけで出されたものだった。そうした観点からすれば、11月28日を独立記念日とするのは東ティモールの歴史をフレテリンの歴史とすることになってしまうと考えるわけだ。

大統領をめぐる論議

 もうひとつの争点らしい争点といえば、大統領の地位をどう規定するかだろう。大統領のポストを設置することは国民的合意といっていい。したがって大統領の権限をどこまでにするかが争点だ。
 フレテリンは大統領の権限がかなり弱い「準大統領制」(セミ・プレジデンシャリスタ)を主張した。社民党も準大統領制だが、フレテリンに比べればやや強い大統領ということらしい。強いか弱いかは大統領が閣僚任命権をどの程度もっているかだ。フレテリンの場合、内閣は議会多数派による首相指名で、首相が閣僚を任命する。大統領は儀礼的な行事を行うのみで、事実上の国家の指導者は首相だ。社民党の場合、外交・防衛の閣僚を大統領が指名し、首相と権力を分かち合うかたちになる。フレテリンも外交・防衛を大統領が指名してもいいと選挙中考えを変えたようで、ちがいがはっきりしなくなったが、いずれにせよフレテリンはかなり弱い大統領を想定していることに変わりはないだろう。
 民主党は大統領の強いアメリカ風の「大統領制」を主張した。そして選挙キャンペーン最後日の翌日(8月29日)、全面をつかった新聞広告で「民主党はシャナナを大統領に、ラモス・ホルタを副大統領にする」などと書いた。
 大統領制か準大統領制かはどちらがいいとはいえない問題だが、東ティモールの場合シャナナが初代大統領になるだことが想定されているので、シャナナとの関係がその選択に反映している。シャナナを強く支持する民主党はシャナナ主導の政権を望んでいる。一方、フレテリンはシャナナの権限はできるだけ弱めたい。社民党はその中間で、シャナナを国民統合のシンボルとして強く支持するが、実際の政権運営はテクノクラート志向の社民党にまかせてほしい、といった感じだ。
 大統領を国民が直接選べるのかどうかも論点だろう。フレテリンの昨年の党大会が採択した憲法案では、大統領は国民の直接選挙によるとあるが、選挙中、テレビ質問会でのフレテリン・スポークスパーソンの話では、「フレテリンが圧倒的に勝利すればそれが国民の意思である」とそれを否定するような発言をしていた。国民による選挙ということになるとシャナナが当選するのはほぼまちがいない。しかし議会が選出するとなるとフレテリンの推薦で決められる。
 シャナナとラモス・ホルタは選挙には出馬しなかった。しかし、シャナナは民主党の街頭キャンペーンに数回顔を出し、演説まで行った。その他の政党のキャンペーンには顔すら出していなかったので「シャナナは民主党支持か」などとささやかれた。(もっとも大統領立候補を表明してからは民主党以外の集会にも顔を出したと聞いたが。)
 選挙戦も終盤となった8月25日(土)、ディリでの政党討論会の直後、シャナナは大統領選への出馬を表明した。シャナナは「自分を大統領候補に指名してくれる政党があればそれを受け入れる」という言い方で出馬を表明したわけだが、これはつまり、民主党は自分を大統領に推薦しているがフレテリンはどうかね?と聞いているのも同じことだ。フレテリンの指導者は不快感をかくさず、シャナナが大統領選に立候補するなら真の意味で「無所属」(Independent)でなければならないが、民主党の集会に何度も顔を出したことについてその真意を正したいなどと語った。
 なぜ大統領権限の弱い制度にしたいのかという質問に対して、フレテリンは1975年の独立のときの憲法がそもそも弱い大統領を想定していて原則は変わっていないと言っていた。当時はシャビエル・ド・アマラル(今ではASDTの党首で制憲議会副議長)がフレテリン党首として初代大統領になった。シャビエルのこうした地位は、彼が年長者であって、東ティモールの若い民族主義者たちの間でそれなりのカリスマ的存在であったからで、党内ナンバーワンの実力者では決してなかったという事情がある。また、今のフレテリンは党首はフランシスコ・グテレス(ルオロ)であるが、党内ナンバーワンがマリ・アルカティリであることは誰もが知っている。フレテリンはトップ・ポストには国民的人気のある人物をすえ、実際の権力は党内実力者に与えるというシステムをとっているわけだ。★


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