<巻頭言>

5月20日に独立(主権返還)決定


 東ティモールの独立(主権返還)が2001年5月20日と決まった。
 制憲議会が決議し、国連安保理が了承した。安保理は独立ということばを使ったが、制憲議会は「主権の東ティモールへの委譲」という言い方をしている。制憲議会多数派のフレテリンは独立は1975年11月28日にすでにしたという立場で、それからすると5月20日は独立ではなくて主権返還ということになる。この独立の日をめぐる議論は選挙戦中も行われたが、いまだ決着がついたとは言い難い。今号の「争点は何だったのか」を読んで参考にしていただきたい。
 5月20日は、ティモール社会民主協会(ASDT)が誕生した日だ。その28周年を記念してこの日を独立(主権返還)の日と定めたということらしい。ASDTはその半年後の1974年9月11日、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)と改称した。ASDTは今ではシャビエルを党首とするフレテリンとは別な政党として制憲議会に6議席をえている。
 5月20日に独立(主権返還)を定めたのは、フレテリンのASDTへのプレゼントだ。フレテリンとASDTは、歴史的経緯から対立するものと思っていたら、制憲議会で協力しいわば連立与党をつくっている。シャビエルは議会副議長に選出されたが、これも議会多数派のフレテリンの承諾なしにはありえない。
 このようにしてASDTとフレテリンが、独立というナショナルな意味合いをもつ決定において党の論理を主張してくると、国民的な統一意識にひびが入ることが懸念される。独立記念日、国名、国旗、国歌といったナショナル・コンセンサスの領域にフレテリンとASDTという党派性が刻印されてしまう。一旦決まってしまうと、こういうものは政権が変わったからといって変えるわけにはいかない。
 選挙中、フレテリンのアグレッシブな態度に1975年の政治的対立を思い出すという人がいた。「フレテリンは人民、人民はフレテリン」というスローガンと大衆動員方法に「フレテリンのゴルカル化」を懸念する声も聞かれた。ある若者は「今回はフレテリンに勝たせよう。これまでそのために死んできた人が大勢いるから。彼らは政権を担当する権利があると思う。一回やってだめだったら、次は別な政党に変わってもらえばいい」と言った。
 今はまだ党派を争う前の国の基礎づくりの時代。そこの部分に党派性を深く刻印すると、排除された人たちの気持ちはいつまでもくすぶり続けるだろう。ナショナル・コンセンサスの尊重こそ、今の東ティモールに必要な政治の在り方ではないかと思うのだが。

(松野明久)


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