制憲議会特集(1)

フレテリン大勝!
ただ、予想よりは少なかった


松野明久

フレテリンは強い

 8月30日に行われた制憲議会選挙は、フレテリンの大勝に終わった。定数88議席のうちフレテリンは55議席を獲得し、憲法承認に必要な60議席にはとどかなかったものの過半数(44)を大きく越える勝利となった。とくに地方区については、定数13議席のうち候補者をたてなかったオイクシを除いた12議席を獲得した。(表1)
 その後6議席をとったティモール社会民主協会(ASDT)と2議席をとったキリスト教民主党(PDC)との協力関係ができあがり、これによって63議席がいわば事実上の「与党」となった。
 ただ、フレテリンが80%を獲得するなどと豪語していたのからすると、少ない。フレテリンは議席にして64%、全国区得票率で57.37%しか獲得できなかった。全国区得票率が80%を越えたのはバウカウだけで、アイレウの21.15%、アイナロの27.56%、エルメラの31.94%といった得票率はかなり低かったと言わなければならない。(表3)
 もちろん全国区も県別得票率はその県の有権者数との関係において見なければならない。県別の有権者数をあらわした表3を見ると、ディリは有権者数が78000人を越える大選挙区で15000人強のアイレウの5倍近い。ディリ、バウカウ、エルメラ、ボボナロ、ビケケなどを制することが政党にとっては重要といえる。そしてフレテリンはそのうちエルメラを除くディリ、バウカウ、ボボナロ、ビケケで高い得票率を維持した。(表2)
 また表2からは、フレテリンの全国区得票率と地方区得票率のあいだに相関があることも見て取れる。地方区は政党名をかかげての選挙とはいえ、原理的にいえば立候補者個人を選ぶものであり、政党がどれだけ有権者の判断要因となりうるかが注目されたが、結局、人びとは立候補者個人よりも政党を選んだということができるだろう。バウカウ、ビケケ、リキサ、ディリ、コバリマはフレテリンの安定した地盤だ。(表4)

民主党と社民党はのびず

 フレテリンのライバルと考えられていた民主党(PD)、社民党(PSD)はのびなかった。二つとも都市中間層の支持があると思われたが、ディリやバウカウといった都市部をかかえた選挙区で有意味な得票をあげていない。民主党の場合、エルメラ、コバリマ、ボボナロ、マナトゥトゥ、ラオテンで支持が厚い。社民党はオイクシ、エルメラ、ボボナロ、ラオテンで票をかせいだぐらいであとはまったく精彩がない。コーヒーの産地エルメラは社民党党首でコーヒープランテーション所有者、マリオ・カラスカラォンの地盤と考えられる。

ASDTの意外な得票

 社会民主協会(ASDT)は泡沫政党と見られていたが、大健闘した。党首フランシスコ・シャビエル・ド・アマラルの生まれ故郷のアイレウでは52.31%(全国区)を獲得し、フレテリンに21.15%という屈辱的ともいえる敗北を強いた。その他、アイナロ、マヌファヒ、ディリ、マナトゥトゥではいずれもフレテリンに次いで2位(全国区)に食い込む健闘ぶりだ。ただラオテン、バウカウ、ビケケの東部3県では極端に人気がなく、アイレウを中心に東ティモールの中部を縦断する地区に地盤が限定されているという特徴をしめしている。ただ、ASDTはフレテリンと政策的には近いものをもっているので、共通の支持者を分け合っていると見ることができる。

無所属候補は惨敗

 全国区の無所属候補は5人、そのうち女性の3人は大いに注目されたが、結果は惨憺たるものだった。全国区無所属候補は5000票獲得すれば当選と決められていたが、マリア・ドミンガス・フェルナンデス947票、オランディナ・カエイロ779票、テレザ・マリア・デ・カルバリョ711票という結果に終わった。男性無所属候補者2人はいずれも1400票台を獲得したが、それでも5000票にはほど遠い。
 女性3人については団結して1人に候補をしぼればよかったのにと言われていた。しかし結果を見ると、合計しても2437票にしかなっていない。

女性議員の割合

 女性候補者は全部で24人当選した。これは議席の27%にあたり、国際的な平均からするとまずまずの結果だといえる。最大党のフレテリンでは55人中17人、30%とこれもまずまずの成績。社民党は6人中3人、50%とりっぱな成績。問題なのが民主党で6人中女性は一人もいない。若者のレジスタンス活動家が中心になってつくられた政党で民主主義や人権には敏感なはずだが、実態は「男の子」党。(表1)
 論議をよんだのは社会党(PST)だ。1議席のみ獲得し、名簿1位として議員となった女性候補者アナ・セイシャスが健康を理由に辞退した。本人は長く椅子に座っていられないなどといった理由を述べているようで、本当に健康が良くないのかどうか多くの人が疑っている。代わって名簿2位だった男性候補者が議員になった。社会党は名簿上位に男女同数の候補者をたて、しかも女性を1位においたことを宣伝していたが、いざ1議席となると首をすげかえたものと思われる。
 またUDTで当選したイザベル・ダ・コスタ・フェレイラも内閣の人権顧問となって議員を辞職した。これで女性議員は2人も減ってしまった。

フレテリンの「意外な少なさ」の原因は?

 フレテリンはふつうの選挙でいえば大勝利をおさめたわけだが、「以外と少なかった」とみなす人も少なくない。
 インドネシアが侵略する前、ポルトガルが非植民地化を進める過程で1975年に行った地方選挙ではフレテリンは55%を獲得したと記録されている。ライバルはUDT(ティモール民主同盟)だった。今回の選挙ではUDTは8.72%(全国区)しか獲得できずもはやフレテリンのライバルではなかった。
 注目したいのは、フレテリンの55%という数字は今回のフレテリンの全国区得票率57.37%と奇妙にも一致するということだ。フレテリンの支持というのは案外その程度のものだったのかも知れない。それを80%は獲得するといったフレテリン自身の宣伝や、レジスタンスはすべてがフレテリンだったかのような誤った理解が流布し、フレテリンの支持率がかなり高く予測されてしまった可能性がある。
 もうひとつの仮説は、フレテリンは選挙戦が始まったころは圧倒的な支持を集めていたが、その後選挙キャンペーンがすすむにつれ、民主党、社民党、ASDTといった政党がのびたというものだ。社民党や民主党の活動家たちと話をすると、そうした「感触」を得ているとの説明をしばしば受けた。その理由は、フレテリンの「フレテリンは人民、人民はフレテリン」といった傲慢なスローガン、レジスタンスを続けたのはフレテリン以外にはないという独善的な言辞、心理的な圧力や強圧的な動員といった手法にあると言われていた。「フレテリンのゴルカル(スハルト時代の翼賛政党)化」やフレテリンが一人勝ちすることを懸念する声はよく聞かれ、人びともそれに「気づき始めた」というわけだ。
 とくに話題となったのは、フレテリンの指導者が「選挙日(8月30日)の翌日、フレテリンは東ティモール全土をそうじする」などと語って、他党を震え上がらせたことだ。「そうじする(dasa rai)」はインドネシア時代、軍が独立運動を掃討するときに使ったことばだそうで、フレテリンが圧勝した場合、対立者の粛正を行うのではないかと多くの人が不安を訴えた。選挙監視に来ていたカーターセンターや国連が設置したメディア仲裁委員会もこの表現を問題にし、フレテリンの指導者はマスコミからさかんに質問されていた。
 フレテリンはこれに対し「これは文字通り掃除することを意味しており、選挙の後、気分一新するためだ」と弁解したが、不信感は拭えなかった。なぜなら、フレテリンの指導部にはレジスタンスで功労のあった者たちにポジションを与え、インドネシアに協力した者たちを新政権・行政のポストから閉め出すという考えをもつ者がいるからだ。実際、フレテリンに期待していることとして、対インドネシア協力者への懲罰を口にする者もいた。
 はたして選挙が終わった翌日、フレテリンの活動家たちが町中に繰り出し、ゴミを集めて燃やしている姿が目についた。これがあらかじめ計画されていたことなのか、指導者のつじつま合わせに末端の党員が動員されたのか、今もってはっきりしない。
 また、フレテリンは闘ってきたのはフレテリンだけだという主張もかなりアグレッシブに行っていた。例えば、3人の全国区無所属女性候補のうちマリア・ドミンガスとオランディナ・カエイロはそれぞれフォクペルス(東ティモール女性連絡協議会)、エトウェイブ(暴力に反対する東ティモールの女たち)という人権擁護団体のリーダーをつとめてきた活動家で、紛争下における女性に対する性暴力やドメスティック・バイオレンスの被害者に対する具体的な支援活動でよく知られている。彼女たちが共同でサンタクルス墓地前で街頭演説会を開き、女性の権利擁護の活動をしてきたことを訴えると、早速翌日、フレテリンは「24年間、東ティモール人の女性の権利を擁護してきたのはフレテリンだけである」といった声明を発表した。
 ただ、こうした選挙戦の詳細をメディアもあまり届かない地域で、また届いたとしてもメディア・リテラシー(メディアを読む・聴く・見る力)の低い住民がどれだけ知りえたかと聞かれれば、答えは心許ない。ディリのNGO関係者、抵抗運動の若い世代からはフレテリンに対する懸念の声がしばしば聞かれた。しかし彼らは少数派であり、上に述べたようなフレテリンに対する懸念が得票率を下げたとは考えにくい。たとえ下げたとしてもほんの少しであっただろう。★


情報活動販売ホーム5号の目次