制憲議会特集(3)

東ティモール第二次暫定内閣

松野明久


 第二次暫定内閣は9月15日発表予定が大幅に遅れて9月20日の発表となった。24人の閣僚は全員東ティモール人。社民党とASDTは参加せず、フレテリンと民主党、そしてテクノクラート系無所属から構成される「包摂的内閣」(Inclusive Cabinet)になった。東ティモールNGOフォーラムの代表、アルセニオ・バーノは最年少の内閣入りで、就任式ではネクタイもしめず、腕まくりしたシャツ姿で宣誓したのがさわやかだった。


国民統一内閣か包摂的内閣か

 セルジオ・デ・メロ暫定行政官は、制憲議会選挙後の組閣にあたっては多くの政党からその比率に応じて閣僚を出す「比例的内閣」(Proportional Cabinet)を提唱していた。しかし、フレテリンは過半数をしめたことでフレテリンがフレテリンとその他の政党から有能な人材を指名して構成する「包摂的内閣」を主張。一方、社民党などはデ・メロの路線を支持して「国民統一内閣」を主張した。
 組閣が遅れたのはフレテリンとデ・メロとの意見調整に手間取ったということだろう。結果は「包摂的内閣」に近いものができあがったが、そのかわり国連が好むテクノクラート系大臣が「無所属」というかたちでかなりな数登場することになった。社民党は参加を拒否した。ASDTについては党首が制憲議会副議長のポストをフレテリンによって与えられたので、それでよしとされたのだろう。
 主要なポストはフレテリンが占め、最も重要な10の大臣ポストはフレテリンが6人、無所属4人という構成だ。民主党は内閣入りしたといっても副大臣2人、計画委員会開発顧問というマイナーな存在。イザベル・ダ・コスタはUDTの候補者として制憲議会に当選したが、辞任して無所属となり人権顧問になる道を選んだ。彼女はタウル・マタン・ルアク東ティモール軍司令官のおつれあい。元人権活動家なので抜擢となった。


多彩な顔ぶれ

 フェルナンダ・ボルジェスはオーストラリアで育った若手世代で、1999年12月には世銀の東ティモール支援会合のためCNRT経済担当として来日。明治大学での市民講演会でメイン報告をしたのを記憶している人もいるだろう。(月刊オルタ2000年2月号、9頁にその要旨。)
 アルミンド・マイアは東ティモール大学学長からの抜擢。住民投票のときはCNRTのスポークスパーソンのひとりとなり、制憲議会選挙では独立選挙委員会の委員をつとめた。
 エスタニスラウ・ダ・シルバは1999年月世銀の東京会合の時は農業担当として来日。市民講演会でその陽気な性格が人気を博しすでに「農業大臣」と呼ばれていたが、それが本物になった。
 フェルナンド・デ・アラウジョは1998年春、ジャカルタのチピナン刑務所から釈放された直後にスピーキング・ツアーで来日した元レネティル(学生の地下組織)事務局長。民主党から制憲議会に当選したが、兼務は難しいとして辞任。おつれあいはフィリピン人研究者でなんとインドネシアが専門(アチェの紛争など)。
 ロケ・ロドリゲスは日本ではファンも多いスピーキング・ツアー・リピーター。これまで東ティモール行政府のいわば防衛長官(Head of Defense Office)をつとめていたが、文教分野の担当となった。無所属となっているがフレテリンと考えていいだろう。★

東ティモール第二次暫定内閣


figure24.jpg

figure62.jpg



主席大臣(=首相)になったマリ・アルカティリとは?


 セルジオ・デ・メロはやがていなくなる。シャナナは大統領になってもシンボル的な存在。つまり、この国の実力者ナンバー・ワンは今ではマリ・アルカティリといえる。しかし、これまでシャナナやホルタのように国際的にあまり取りざたされたことがなく、また本人も本を書いたり記事や論評を出したりしていないため、その考え方がよくわかっていないのがマリだ。


 フレテリンの研究で知られるヘレン・ヒルによると、マリは1948年11月、ディリのイスラム教徒地区アロールでイエメン系の家庭に生まれた。スハルト政権下で大蔵大臣をつとめ、今では「トランスパレンシー・インターナショナル」という政府の透明性をモニターする国際NGOのインドネシア代表になったマリ・ムハマッドとは親戚だというから驚く。
 イスラム学校を出た後、ポルトガル政庁の小学校、リセ(中高課程)を出て、1970年にフレテリンのルーツとなる地下組織創設に加わり、その年アンゴラに留学。1974年にはフレテリンの創設に加わり、中央委員会の政治担当委員となって政治・外交を担当した。妥協しないタフ・ニゴシエーターで、そのためついぞインドネシア政府から招待されなかったとヘレン・ヒルは書いている。(ということは招待されたラモス・ホルタは御しやすいと思われたのか?)
 ラモス・ホルタとは積年のライバルで、フレテリンが出来る前から新聞紙上で論争していた。マリの皮肉たっぷりな批判は当時からの性格。1974-75年当時、フレテリン中央委員会を右派と左派に分けるならば、シャビエル・ド・アマラル(現ASDT党首)、アラリコ・フェルナンデス(インドネシア軍に投降以後不明)、ニコラウ・ロバト(1978年戦死)、ラモス・ホルタたちは右派、マリ・アルカティリ、アビリオ・アラウジョ(PNT党首)、ビセンテ・ドス・レイス(サヘ)らは左派に属していた。インドネシア軍の攻撃を前に独立宣言を発する決断は、マリがモザンビークから帰国した直後になされ、彼の影響が大きかったと見られている。
 1975年独立宣言を発した「東ティモール民主共和国」ではシャビエルが大統領、ニコラウ・ロバトが首相、マリは政治担当大臣になった。シャビエルはシンボル的存在だったし、後にフレテリンから追放、ニコラウは戦死。マリがフレテリンのナンバー・ワンになるのは必然だった。マリはモザンビークのフレリモとのコネクションが強く、侵略後はモザンビークに滞在して独立のための外交を続けた。
 アビリオ・アラウジョをフレテリンから追い出したときも決して自分一人でトップになろうとせず、ジョセ・ルイス・グテレスとの共同代表というかたちをとったり、住民投票後のフレテリンの再編成でも、ルオロを総裁にして自身は事務局長におさまるなど、人気よりも党内システムにおいて事実上の実力者たらんとする傾向が彼においては顕著だ。
 第一次暫定内閣では経済担当大臣をつとめた。ティモール・ギャップについてのオーストラリアとの交渉ではそのタフ・ニゴシエーターぶりが高く評価された。参加予定企業のフィリッピス・ペトロリウム(米)が東ティモールの税金が高いことを理由に撤退をほのめかすと「他にもやりたい企業はある。東ティモールの内政には口をださせない」と一蹴。この辺の強気は若いときから変わらない。「私は圧力をかけられればかけられるほど妥協しないタイプ」とみずから言っている。選挙中のフレテリンの強気も、彼のこうした性格と無縁ではないようだ。★(松野明久)


情報活動販売ホーム5号の目次