著作権・大阪東ティモール協会

国軍の関与をどう論証したのか
KPP-HAMのムニール氏に聞く

古沢希代子

 2000年1月に発表されたインドネシア国家人権委員会東ティモール人権侵害調査委員会(KPP-HAM Timor Timur)の調査結果は画期的なものだった。KPP-HAMは、1999年1月以来、東ティモールで吹き荒れた暴力の嵐に関するインドネシア国軍の関与を認め、取り調べが必要な33名の人物としてウィラント国軍司令官(当時)をはじめとして国軍の将校14名を名指しした。この報告書作成の功労者として多くのメディアが注目したのが、人権NGO界から同調査委員会に参加した弁護士のムニール氏だった。今年 6月、日本インドネシアNGOネットワーク(JANNI)の招待で初来日したムニール氏に KPP-HAMの調査や「人道に対する罪」の裁判の見通しについて聞いた。


Q:KPP-HAMの報告書が発表された時インドネシアでの反響は?

 反応はふたつあった。ひとつは、KPP-HAMの報告は国際社会の政治的関心にすりよったものだというもの。もうひとつは、知識人の一部や学生たちによる評価で国軍による人権侵害を明らかにした功績をたたえたものだ。しかし、前者の評者たちも「その他の人権侵害には同じ手法でやってほしい」と述べており、KPP-HAMメソッド(手法)は広く評価されたと思う。新聞も同じようなものだが、どちらの論調にしても扱いはとても大きかった。

Q:そのKPP-HAMメソッドだが、国軍の関与はどうやって論証したのか?

 広範な情報や証拠が存在する。まず人権団体からのデータがある。例えば、 KONTRAS(行方不明者と暴力被害者のための委員会/ムニール氏が代表をつとめるインドネシアの人権団体)は1998年に東ティモールに事務所を開設してから、東ティモール人のコーディネーターのもとで一貫して人権侵害の調査(注)をすすめてきた。 1999年9月末にKPP-HAMが組織された後は、KPP-HAMとしての聞き取り調査も行なった。

Q:物的証拠はあるのか?

 例えば、「コンティンジェンシープラン(住民投票で独立派が勝利したら軍の下に反独立派民兵を組織し難民を大量に西ティモールに「避難させる」という計画)」への国軍の関与を明らかにする証拠としては、ウィラント元司令官自身が署名した文書がある。この文書には同計画のためにインドネシア国軍の傘の下に民兵を組織することが書かれている。それまでインドネシア国軍は民兵の組織化には関与してないと主張してきたが、それが事実でないことがその文書で明らかになった。
Q:どのようにしてその文書を入手したのか?

 KPP-HAMがウィラントを召喚した時、彼自身が携えてきたのだ。ウィラントはその計画を「インドネシアの利益を守るためにやったのだ」と述べており、「国益を守るための行為」で「人道に対する罪」に問われるはずはないと考えていた。彼はその文書を彼の「正しい意図」を証明するものと見なしたが、その文書は彼がその計画に同意を与えたことの動かぬ証拠となった。

Q:その他にはどんな物的証拠があるのか?

 当時陸軍参謀長だったジョニー・ルミンタンから各レベルの司令官に向けた命令書もある。独立派が自分の目的のために住民を利用することを阻止するために軍が「難民」を西ティモールに連れて行くように指示している。また、インドネシア警察の文書もある。独立派が勝ったら難民をつくり出すことを助けろと命じる文書だった。私は1999年9月に多国籍軍が東ティモールに上陸する時にディリに入り、コモロにある東ティモール州警察署などで証拠の収集を行なった。それから、東ティモール州知事と軍司令部による民兵への「給与支払い書」というのも入手している。

Q:その種の文書は処分されてしまったのでは危惧していたが?

 もちろん東ティモールで処分された物もあるが残っていた物もある。また、東ティモールで処分された文書がジャカルタへの報告文書の場合、ジャカルタで残っていた場合もある。

Q:すでにウィラントやザッキー・アンワル・マカリム少将(外務省が管轄する住民投票のためのインドネシア作業チームの治安アドバイザー/元国軍情報庁長官)も訴追リストから姿を消した。検察による訴追予定者の数がどんどん少なくなっているが?

 KPP-HAMの正式な報告書では取り調べを行なうべき人物を170名あげた。公表されている報告書はその要約版である。要約版であがっている人物の数がひとつの基準、それも「上限」として扱われ、その中で誰を裁判所に立たせるかは軍部との政治的かけひきで決められている。残念だ。

Q:スハルト退陣後、インドネシア国内での東ティモール問題に対する認識は変わったか?

 東ティモール政策の誤りを認めているのはNGOと一部の知識人だけだ。軍部はインドネシアが東ティモールを失ったのは国際的陰謀によるものだと思っているし、東ティモールで起こった事態を単なる分離運動と見なしている。メディアは保守的であり、東ティモール独立を法的、道徳的敗北ではなく、単なる政治的敗北としか認識していない。

Q:インドネシアで特別人権法廷が開催される可能性は?

 約20パーセントぐらいだろうか。手続き的には検察の決断次第だが、事実上の決定権は国軍司令官が握っていると思う。

Q:日本政府は「人道に対する罪」が「国際法廷」より「国内法廷」で裁かれる方がインドネシアの民主化を促進する上でより望ましいと考えているが?

 インドネシアのNGOはむしろ「国際法廷」の方が有効だと思っている。「国際法廷」は国際社会の関心の象徴であり明確な圧力になる。国軍がいまだに大きな権力を握る状況の中、国軍に対する国際的圧力が弱くなることはむしろインドネシアの民主化にとってマイナスである。昨年9月の西ティモール・アタンブア事件(難民帰還業務に従事していたUNHCR職員を民兵が殺害)で一挙に高まった国際的関心も今では薄れてきている。外国の政府はインドネシア国家の分裂ばかりを気にしているが、人権問題で国軍に明確な態度を示さなければ、むしろ事態は悪化するばかりだ。★


◆インタビューを終えて

 昨年8月、東ティモールのディリで、ムニールの講演会が開催された。主催は東ティモールの人権団体Yayasan Hakで、東ティモール人の人権活動家が多数集まった。そこでムニールはKPP-HAMの調査権について次のように語った。KPP-HAMはすべての省庁への調査権を持ち、そこには軍の諸機関も含まれているのだが、軍の関係機関への立ち入り調査は護衛のなり手がいないので事実上不可能になっていると。
 インドネシアで正義が行われるためには、メディアや世論の支援とともに議会での突き上げが不可欠だ。それがなくてはムニールのような人権活動家はただの捨て石になってしまう恐れだってある。しかし現在インドネシアでは権力闘争に明け暮れる政治家たちがそれぞれの権力基盤固めに国軍を利用しよう画策している。民主化運動が目指した〈司法の中立性〉〈法の支配〉はもはや風前の灯火である。

(注)NHK教育「ETV特集 ビデオジャーナリストは見た/第一回独立に揺れる島-東ティモールの苦悩」(1999年5月17日放送)が東ティモールにおけるKONTRASの活動を取り上げている。またその他のNGOによる国軍の関与に関する知見については、古沢希代子「東ティモールと予防措置ー国連の説明責任」『PRIME (特集:地域紛争から見えるグローバル化と人間の安全保障)』第11巻(明治学院大学国際平和研究所、 2000年5月)を参照のこと。

ムニールとは?


 1965年、東ジャワ州マラン生まれ。マランのブラウィジャヤ大学法学部を卒業後、スラバヤの法律扶助協会(LBH)を拠点に労働運動の法的支援活動に従事。のちにスマラン、ジャカルタの法律扶助協会に移籍。1998年、スハルト退陣前に学生活動家が誘拐(そしてある場合には殺害)される事件が次々とおこったとき、コントラス(行方不明者および暴力の犠牲者のための委員会)を設立。国軍を相手にずばりとものを言う勇気で一躍人権界のスター的存在に。英文雑誌「アジアウィーク」の「新世紀を担うアジアの若きリーダー20人」に選ばれた。
 東ティモールとの関係は、1991年11月、サンタクルス虐殺後のジャカルタでの東ティモール人学生デモに関連して逮捕されたフェルナンド・デ・アラウジョ(アムネスティ・インターナショナルの良心の囚人。1998年に釈放。スピーキング・ツアーで来日している)、マランのジョゼ・アントニオ・デ・ジェズス・ダス・ネベス(1994年、反国家転覆法)の弁護をしている。またコントラスは東ティモール支部をつくり、KPP-HAMのメンバーをつとめた。住民投票のときは選挙監視員(オブザーバー)として東ティモールに滞在し、制憲議会選挙でも東ティモールのNGOの選挙監視トレーニングのために東ティモールに行く。


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