著作権・大阪東ティモール協会

制憲議会選挙、始まる

松野明久


 8月30日の制憲議会選挙に向けていよいよ動き出した。東ティモールでは初めての民主的な選挙ということになり、暴力も心配される。7月15日に選挙キャンペーンが始まったばかりでまだ争点もはっきりとは見えてこない。とりあえずできる整理をしておきたい。

登録と準備

 6月23日に終了した東ティモールの住民登録では、人口が737,800人で有権者は約38万人という結果が出た。西ティモールの難民は含まれていない数字だと思われる。制憲議会選挙は全国区比例の75議席と地方区13議席(各県定数1)の合計88議席をめぐって争われる。
 6月24日を締め切りとした政党登録では16政党が届け出を出し、6月27日締め切りまでに届けられた候補者から「独立選挙委員会」が書類などの不備を含む候補資格を検討した結果、全国区候補者は968人(うち無所属が5人)、地方区候補者が96人(うち無所属が11人)と確定した。資格を認められなかったのは全国区で27人、地方区で46人もいた。
 東ティモールの抵抗勢力の統一組織であったCNRT(東ティモール民族抵抗評議会)は6月9日に正式解散。また暫定的な議会の役割を果たしてきた国民参議会(NC)も選挙キャンペーンの初日、7月15日に正式解散した。マリ・アルカティリ(経済)、アナ・ペソア(内務)、ジョアォン・カラスカラォン(インフラ)の3人は選挙活動に参加するため内閣を辞任。ラモス・ホルタ(外務)とフィロメノ・ジェイコブ(社会)は閣僚としてとどまり選挙活動には参加しないと述べている。
 セルジオ・デ・メロ特別代表によれば、選挙後の9月15日に制憲議会が発足するが、それと同時に新たな内閣を任命することになるという。(ただしそれまでは辞任した3人の後任が一応任命され仕事をすることになっている。)

国民統一協定

 選挙に参加する政党は暴力の再発を防ぎ、平和的に選挙を終了させるため「国民統一協定(National Unity Pact)」に署名することになった。しかし起草段階で国民党(PNT)が留保を表明し、7月8日の署名の日にはさらに「パレンティル」(国民共和党)があらわれなかった。結局この2政党を除く14政党が署名した。署名を拒否した理由は明らかではない。署名式にはセルジオ・デ・メロ特別代表、ベロ司教、シャナナ、ラモス・ホルタ外務担当閣僚が出席した。
 協定は、1999年8月の住民投票の結果を無条件に認めること、2001年の制憲議会選挙の結果(独立選挙委員会が発表するもの)を尊重すること、暴力に訴えないことなどを内容としている。これによってインドネシアとの統合を求める政治的主張は事実上できなくなった。また協定にシャナナを大統領候補として推薦する一文を挿入する提案があったが、これは却下された。

選挙キャンペーン

 選挙キャンペーン期間は7月15日から8月28日までとなっている。
 初日にサッカー場で集会を開いたフレテリン(東ティモール独立革命戦線)は5000人の支持者を集め、24年間におよぶインドネシア支配で命をなくした同士たちに黙祷を捧げたのち歌と踊りのイベントになった。マリ・アルカティリ事務総長は「われわれの今回の公約は唯一つ、人びとを解放するために独立を回復することだ」と語った。UDT(ティモール民主同盟)のジョアォン・カラスカラォン総裁は記者会見を開き、UDTは貧困、無知、汚職、不正義、政治的虚偽と闘うと語った。(Lusa, July 16)
 7月17日、ラモス・ホルタが司会をつとめた政党討論会がディリで行われた。マウベレ人民党とASDTは欠席した。
 7月18日、UDTは新聞「スアラ・ティモール・ティムール(東ティモールの声)」に全面広告を掲載した。スローガンは「人民の、人民による、人民のための」で、広告料は500米ドルだそうだ。(Lusa, July 18)
 7月19日にはフレテリンはリキサで集会を開き数千人を集めた。ルオロ総裁、アルカティリ事務局長、ロジェリオ・ロバトらが参加した。ロジェリオはフレテリンの第2代党首で1978年12月にインドネシア軍に射殺されたカリスマ的な伝説的指導者ニコラウ・ロバトの弟でポルトガルに亡命していた。(Suara Timor Lorosae, July 20)
 ちなみにニコラウ・ロバトはまだ生きているとの噂が広まっており、ベロ司教はこれをいさめている。(殺されたファリンティル司令官のダビド・アレックスについても同様の噂があった。)
 7月20日には、UDTの車が集会の行われることになっていたサメに行く途中で石を投げられ損傷を受けるというできごとがあった。UDTは偶然かも知れないと言いながらも、警察に届け出た。もしこれがUDTを狙った投石だったとすると、最初の選挙がらみの暴力ということになる。(Lusa, 20 July)

不穏な動き

 選挙キャンペーンが始まったころ、インドネシアのデンパサールからのムルパティ便でASDT宛の荷物が届いたが、中には200着もの迷彩服が入っていた。この荷物は押収されたが、東ティモール内で軍事訓練をやっているグループがあるとの噂があった時期なので心配された。ラモス・ホルタは外国からの支援は明らかに国民統一協定に違反しており、シャビエル・ド・アマラルはこの荷物について説明しなければならないと批判した。今にいたるまでASDTからの釈明はない。(Sydney Morning Herald, July 16)

有力な政党

 各政党の背景や主張についてはこれから徐々に明らかになるだろうが、今の時点で参考にできるものとしては、オーストラリア海外援助審議会(ACFOA)人権事務所のパット・ウォルシュ氏による報告書『東ティモールの政党と政治団体』(2001年4月)がある。(この報告書は「Timor Today」のホームページからダウンロードできる。http://www.timoraid.org/timortoday/)これをもとに若干のその後の情報を加え、整理してみた。

 フレテリン:1974年9月に結成。社会民主主義を掲げ、識字教室や保健医療プログラムを実践して支持を拡大した。ポルトガルに「東ティモール人民の唯一にして正統な代表」たる認知を求め、独占的交渉権、即時独立承認を要求した。1975年11月28日「東ティモール民主共和国」(RDTL)の独立を宣言。インドネシア侵略後、インドネシアに抵抗する唯一の勢力だったが、1978年末以後、シャナナが指導した脱イデオロギー・大同団結路線の下で抵抗勢力が「脱フレテリン」化する中、フレテリンは「ひとつの勢力」に甘んじることになった。しかし抵抗運動を貫き通したシンボル的存在であり、大量得票が予想されている。
 総裁のル・オロはオッス生まれでインドネシア占領下ではファリンティル(東ティモール民族解放軍)の政治委員。テトゥン語とポルトガル語はできるがインドネシア語はできないらしい。事務総長のマリ・アルカティリはイエメン系アラブ人でディリ出身。RDTLの政治担当相で1975年以来、モザンビークのエドゥアルド・モンドレーン大学で国際法を講じながらフレテリンの外交活動に従事した。その他、モザンビークから帰国したアナ・ペソア、オーストラリアから帰国したエスタニスラウ・ダ・シルバ、ポルトガルから帰国したロジェリオ・ロバトなどが指導部にいる。アルカティリはフレテリンの指導部にはインドネシアに奉仕した者はふさわしくないと述べ、東ティモール州知事をつとめ社民党党首となったマリオ・カラスカラォンへの対抗意識を見せている。
 党員・賛同者の登録が終わり、その数は15万人にのぼると言われている。2001年の5月に大会をもち複数政党制にもとづく民主主義を確認した。スローガンは「フレテリンは人民であり、人民はフレテリンである」というもの。昨年の大会で、24年間のフレテリンの失敗と不寛容を反省するために内部的な真実和解委員会を設立することを決定している。また人権条約の批准については、女性の権利、子どもの権利、ILO条約には言及しているが、A・B規約(社会権規約、自由権規約)については批准すると言っていない。

 社会民主党:2000年9月20日に設立された中道勢力。マリオ・カラスカラォンを総裁とし、住民投票の際東ティモールにおけるCNRTのスポークスパーソンとなっていたレアンドロ・イザーク(元UDT)が副総裁、オーストラリアから帰国したアジオ・ペレイラ(元フレテリン)が国民参議会議員(すでに解散)、CNRTの欧州代表としてブリュッセルにいた若手のザカリアス・ダ・コスタ(元UDT)が事務総長、ジョゼ・エドゥアルドとジェルマノ・ジェスス・ダ・シルバ(元フレテリン)が事務次長。ラモス・ホルタやシャナナも彼らに近いと考えられているが、ホルタ自身はそのことを強く否定している。フレテリンのライバルになると予想される。
 社民党はスローガンによる大衆動員的な政治を排し、制度・政策・情報・マネージメントといった実務的なレベルで勝負したいと考えている。世界人権宣言、法の支配、個人の平等と権利、死刑廃絶といったものへの言及は、そのリベラルな思考を反映しているが、社会主義的なフレテリンへの対抗意識をあらわしてもいる。しかし、女性の権利を保護するといいながら、中絶に反対するという政策も掲げており、カトリック教会の保守的な政策への妥協もみられる。

 UDT:1974年5月11日に結成。フレテリンとの対抗意識が強く、1975年8月11日にクーデターを起こし、ポルトガル政庁内からの左派将校の追放を求めたが、フレテリンの反撃にあってインドネシア領に逃げ込んだ。ジョアォン・カラスカラォンら独立派はその後亡命して海外で独立運動を続け、マリオ・カラスカラォンやロペス・ダ・クルスら統合派は東ティモールにおけるインドネシア占領体制の中にポジションをえていった。(ちなみにマリオとジョアォンは兄弟。)フレテリンとは海外でも長年角逐が続いた。内部にいたレアンドロ・イザークやマリオ、海外にいたザカリアス・ダ・コスタなどが社民党になってしまったためかなりな戦力不足はいなめない。
 現在の総裁はインフラ担当閣僚をつとめた(すでに辞任)ジョアォン・カラスカラォン、副総裁はフランシスコ・リー・アシス・ニコラウ、事務総長はドミンゴス・デ・オリベイラ(オーストラリアから帰国)。
 2000年8月9-11日に大会を開き、400人が参加した。そこでは二期までつとめられる大統領制、中央集権制、慣習法による村落レベルの問題解決のための年長者の役割、元ポルトガル・インドネシア政府公務員および元ファリンティル兵士・その遺族・孤児への恩給などが政策として決定した。また、マルクス・レーニン主義が厳しく批判され、75年8月のクーデターは反フレテリンではなく反共産主義だったとしてその正当性が再確認された。(これには驚かされる。反共主義という思想的言い訳はともかく、クーデターという政治暴力に訴えたことが非植民地化プロセスを破綻させ、インドネシアの侵攻を招いたという歴史的役割について自覚がないようでは、多くの東ティモール人に受け入れられないのではないか。)

 社会党:ティモール社会主義協会(AST)から発展してできた政党で、事務総長をつとめる有能な指導者アベリノ・コエリョ・ダ・シルバの支持者が集まっている。党首はペドロ・ソアレス・ダ・コスタ・マルティンス、副党首はメリシオ・ホルネイ・ドス・レイス、事務局次長はアントニオ・マヘル・ロペス、スポークスパーソンはネルソン・コレイア。若者が中心で、労働者・農民の権利擁護が目下の主たる活動領域。
 抵抗運動時代は脱イデオロギーをかかげて国民団結を呼びかけたシャナナに対して、イデオロギー(この場合マルクス主義)と独立後の構想の重要性を主張したため、CNRTとの関係はよくなかった。在インドネシア東ティモール人学生の地下組織だったレネティル(Renetil)からは抵抗運動の分派的行動とみなされがちだった。ポルトガル共産党、オランダの緑の党、オーストラリアの社民党(マックス・レイン)、インドネシアの民主人民党(PRD)との関係をもつ。
 2000年2月に最初の全国大会を開た。政策としては、複数政党制をかかげ、英語・ポルトガル語の公用語化(英語も入れるのはめずらしい)、テトゥン語の発展、男女平等と離婚の権利、売春・一夫多妻制の廃止、死刑廃止、10年以上の刑罰の廃止といったところが特徴的か。アベリーノは「協同組合と平等のためのマウベレ協会」(Instituto Maubere ba Koperasi no Igualdade)という一種のコンサルタント団体の理事をつとめている。

 ASDT:フレテリンの分派で、フレテリン初代党首フランシスコ・シャビエル・ド・アマラルが率いる。シャビエルは1974年のASDT(フレテリンの前身)創設時、アルカティリ、ラモス・ホルタらより1世代上の反植民地主義者として知られた存在だったため、ASDT党首に迎え入れられた。しかし、インドネシア侵略後、フレテリンを率いるリーダーシップをもたず、インドネシアとの交渉を提唱したため(つまりは穏健派)危険視され、1976年9月に山中においてフレテリン党首の座を解任されている。以後インドネシア軍に捕まったか投降したか、いずれかはっきりしないが、インドネシアの軍人の監視下でバリ島に暮らし、インドネシアとの統合を主張するグループとして国連ロビーに参加したりしていた。
 住民投票後、再び公的な場面に登場するようになったシャビエルは、奇妙なことだが、フレテリンの中の穏健派というよりは、初期フレテリンのラディカリズムを継承する人物としてふるまっているように思われる。
 はっきりとした政策はわからないが、CDT - RDTL(東ティモール民主共和国擁護人民委員会)と名乗る先鋭的な反CNRTグループにかつぎだされている。これはクリスティアノ・ダ・コスタというインドネシア軍に何度も捕まった経験をもつ元地下活動家で亡命してのちオーストラリアの大学で勉強した。主張は、東ティモールの独立は1975年の独立宣言を発した民主共和国(RDTL)の復活でなければならず、したがって国連暫定行政は無効であり、住民投票から独立までのプロセスをすすめたCNRTとそれへのフレテリンの参加を非難している。国民党党首のアビリオ・アラウジョがこのグループのスポンサーになっており、そこを通じてインドネシア国軍につながっているとの懸念がもたれているが、本人たちはインドネシア軍との関係は否定している。

 キリスト教民主党(PDC):2000年8月5日にディリで結成。総裁はアントニオ・シメネスで、フローレスの神学院出身。副総裁はジョゼ・ゴメス・セレノでソロ(スラカルタ)で農業を学んだ。事務総長のアルリンド・マルサルはプロテスタント牧師で、インドネシアの占領に批判的な立場からの国際的なスピーカーとして知られていた。人権団体ヤヤサン・ハックの設立にも関わった人物だ。このように指導部はカトリック/プロテスタントの指導者が混在している。政策は、権力集中型の大統領制よりも分散型の政治制度、「自由で積極的な」(インドネシア外交のスローガン!)外交といったところが特徴的か。

 ティモールキリスト教民主党(UDC/PDC):1998年3月14日、リスボンで結成。上のキリスト教民主党と区別しにくいが、こちらはカトリックだけの政党。ポルトガルの社会民主中央党(CDS)を通じて、欧州のキリスト教民主党のネットワークと関係をもつ。いわば、上のキリスト教民主党が多分に東ティモール的文脈でつくられているのに対して(やや進歩的と見られている)、こちらは欧州の、とくにポルトガルの保守的なカトリック・イデオロギーを擁護する系譜に属する。ポルトガル革命の左傾化に対する強烈な反発を内包する。総裁はビセンテ・ダ・シルバ・グテレスで元教師。事務総長はアレシャンドレ・マグノ・シメネス、NCメンバーとしてアンセルモ・ダ・コスタ・アパリシオ(すでに辞任)。

 コタ(KOTA):1974年11月、エルメラのリウライ(王)ジョゼ・マルティンスとレアォン・アマラルによってつくられたが、インドネシアへの併合の道具に使われた政党。ジョゼ・マルティンスはその後、インドネシアを裏切って国連で証言したが、再びインドネシアの諜報部と接近し、1997年インドネシアを訪問したとき謎の交通事故死をとげた。趣旨としては君主主義擁護をかかげ、東ティモールの伝統的支配層の権限を保持しようというもの。現在はレアォン・アマラルが総裁だが、実質的にはクレメンティノ・ドス・レイス・アマラルが指導者。彼は7年間インドネシア国家人権委員会委員をつとめた経験があり、東ティモールの人権問題についてインドネシア外交を手助けした。事務総長のマヌエル・ティルマンはマカオで長く弁護士をしている東ティモール人。もはや君主制の復活を主張しないとしている。

 アポデティ(APODETI):1974年5月、インドネシアとの統合を主張する政党として結成されたが侵略後は解散。住民投票後、アポデティは常に住民投票を支持してきたのであり、強制的な併合には反対だったと主張。1999年の住民投票の結果を受け入れ、CNRTに参加した。総裁はフェデリコ・アルメイダ・サントス・コスタをはじめロスパロス、バウカウなど東部出身者が指導者。


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