捕らわれの少女、ジュリアナ・ドス・サントス

西ティモールで民兵指導者の性奴隷に


氷山の一角

 1999年9月、民兵の指導者に連れ去られ、西ティモールで性奴隷の状態におかれている少女、ジュリアナ・ドス・サントス(16才)。彼女は数多くいると思われる同様のケースのほんのひとつにすぎない。国連も彼女が自由意思で東ティモールにもどれるよう、インドネシアと交渉を重ねている。しかし、事態は前へ進まない。ジュリアナはすでに民兵指導者の子どもを生んでいる。
 彼女を拘束しているのは民兵組織ラクサウルの指導者、イジディオ・(ム)マヌク。(ム)マヌクには3名の「妻」がいるそうだ。彼女は9月6日にスアイの教会でおきた虐殺事件の目撃者でもある。
 インドネシア側は、軍や警察のいる前で、彼女の意思を確認したところ、西ティモールにとどまると言っていると主張している。しかし、軍や警察や民兵のいるところで、彼女が自由に話せるとは考えられない。
 シャナナ・グスマォンの妻、カースティ・ソード・グスマォンは今年の人権委員会で、ジュリアナ・ドス・サントスの問題を訴えた。

日本でも活動

 日本では、ジョゼ・ラモス・ホルタ暫定内閣外務担当が来日して外務省でNGOとの会合を開いたとき、この問題が話題に出た。ラモス・ホルタはすでに国連や自分自身もインドネシア政府高官とのあいだでこの問題をあげているが、今もって帰還できないでいるといらだちをかくさなかった。
 こうした情勢を受けて、東ティモール議員連盟(懇談会が3月15日に発展解消)代表の竹村泰子参議院議員が、3月18日付けで、外務省に対し、近々西ティモール訪問予定の在ジャカルタ日本大使館職員が西ティモールのインドネシア当局にジュリアナ・ドス・サントスの件につき問い合わせをしてほしいと要請した。要請項目は以下のとおり。

(1) ジュリアナ・ドス・サントスさんのケースは、もし真実なら、重大な問題で、日本政府としても大きな関心をよせていることを伝える。
(2) ジュリアナ・ドス・サントスさんが今どこにいるのか確認する。
(3) なぜ、安全な場所で家族とジュリアナさんを面会させることができないのか、説明を求める。

外務省の返事

 これに対し外務省は、3月28日付けで次のような返答を竹村議員にしてきている。


 東ヌサトゥンガラ警察副本部長との面会の際に本件に言及したのに対し、先方は次のように述べていました。
・「ジュ」は、イジディオ・ムマヌクとともに、東チモールとの国境付近南部のベトゥンに住んでいる。
・昨年11月に「ジュ」と対面したが(イジディオが不在の状態で1時間以上にわたり事情聴取)、その際「ジュ」は「西チモールへの移動は自分の意思、東チモールに戻る意思はなく、そっとしてほしい。」旨発言していた。
・東ヌサトゥンガラ警察としてはUNTAETと協力して、1、2週間内に、「ジュ」と子供を国境まで連れていき、東チモールにいる家族と直接面接させ、東チモールに帰るか西チモールにとどまるかを本人に選択させるとのオペレーションを行う予定である。★



「私は元気よ」:民兵指導者に連れ去られた打撲傷のある少女
シドニー・モーニング・ヘラルド、2001年4月21日
クリスティアニ・トゥメラップ(アタンブア)&リンゼイ・マードック(ディリ)

I'm doing fine, says bruised teenager taken by militia chief
Sydney Morning Herald, April 21, 2001
by Christiani Tumelap in Atambua and Lindsay Murdoch in Dili


 戦利品として誘拐されたと訴えられているその16才の少女は、「私は元気よ」と言い、彼女が産んだ息子の父親である民兵指導者と彼の3人の事実上の妻と一緒にとどまりたいと言って、その悪名高い民兵指導者を擁護した。
 ジュリアナ・ドス・サントスは本紙との短いインタビューで、1999年東ティモールの暴力がそのピークに達したとき故郷のスアイを出る決心をしたのは、彼女と28才になる民兵指導者イジディオ・マヌク(Igidio Manek)が「おそらく(結ばれることを)運命づけられていた」からだと語った。
 「私は誘拐されたのでも逃げたのでもない」と、ジュリアナは言った。シャナナ・グスマォンの妻カースティ・ソード・グスマォンが国連人権委員会で彼女の件をとりあげて以後、初めてのインタビューにおいてだ。
 「紛争のせいで誰もが町を出たわ。だから私もマヌクを捜して、母と祖母と一緒にスアイを出たの」と彼女は言った。
 ぴったりとしたブルー・ジーンズにデニム・ジャケット、金のネックレス、金のイヤリング、金のブレスレットという格好で、ジュリアナは西ティモールの国境の町アタンブアのある政府の役所に現れた。その時彼女は右の目の下に絆創膏をはっていたが、それは打撲傷のように見えた。
 打撲傷について聞くと、「ああ、これはなんでもないわ。ちょっとかゆいだけ。殴られたりしたことはない」と彼女は答えた。
 ジュリアナにはマヌクが付き添っていた。マヌクはインタビューにちょっかいを出し、彼女に対するほとんどの質問について自分が答えるといってきかなかった。
 マヌクはジュリアナのことを「息子の母親」と呼んでいたが、東ティモールへは彼女がそうしたければいつでも帰れると言った。
 「彼女の両親におれは彼女と結婚すると伝えてくれ。結納はいくらでも言われたとおり払うから」と彼は言った。

★     ★

 ジュリアナのおばのドミンガス・サンタ・モウジニョとソード・グスマォンは世界中をキャンペーンして、インドネシア政府にジュリアナを解放するよう圧力をかけてほしいと訴えてきた。
 家族によれば、ジュリアナはマヌクに誘拐されたとき15才だった。マヌクは1999年の東ティモールの最悪の暴力のいくつかに責任があるとされている民兵組織ラクサウルのリーダーだ。
 しかし、本紙記者が年齢を聞くと、彼女は「もうすぐ19才よ」と答えた。
 ジュリアナの家族は、彼女がトラウマにおちいっていると言う。東ティモールで暴力が拡大したとき、ジュリアナはマヌクが彼女の兄弟を殺すのを目撃しているとも。
 国連の調査官に提出された証拠では、数日後、マヌクはスアイの教会に避難していた約200人の虐殺を命じたとされる。そこには神父や修道女も含まれている。
 ジュリアナのおばは、彼女をイラリオ神父の住居に連れていったと言う。この神父はスアイの教会の階段で殺された。
 しかし、マヌクとその仲間たちが神父の住居にやってきてジュリアナを捕らえ、「こいつがおれの妻にしたいやつだ」と言ったと、おばは言う。
 マヌクがジュリアナを連れ去ろうとしたとき、彼女はそれを止めようとしたが、マヌクは空中に発砲した。
 同じ日、マヌクはジュリアナを彼女の母親のところに連れていき、彼女の首に金のネックレスをかけ「これでこの娘は正式におれの妻だ」と言ったという。
 それがジュリアナの家族が彼女を見た最後だった。ソード・グスマォンは今年の人権委員会で、ジュリアナはマヌクとその仲間たちに西ティモールに連れ去られたと語った。
 戦利品としてパレードをさせられたあと、ジュリアナは繰り返しレイプされ、妊娠してしまったと、ソード・グスマォンは訴えた。
 ジュリアナは昨年の11月27日、息子、エルクレス・カルロス・アマラルを生んだ。
 ソード・グスマォンは彼女自身の息子、アレシャンドレを昨年9月30日に出産したのち、ジュリアナと家族の再会を実現するために闘うことを決意した。
 ソード・グスマォンはまた、民兵が支配する西ティモールの難民キャンプで同様の状態におかれている少女・女性たちを自由にするためにもキャンペーンしている。

★    ★

 ジュリアナは本紙記者に、子どもを出産したことはすばらしかったと言い、異なる家に住んでいるマヌクの他の妻たちとも「うまくやっている」と答えた。
 彼女は東ティモールにもどった彼女の母親や家族と連絡をとっているとも言った。
 彼女はマヌクに情緒的な執着があるため西ティモールを去ることはできないと言っている。
 「それに、今では赤ちゃんもいるし。赤ちゃんを連れて移動は難しい。以前は悲しいと思ったわ。でもとにかく、家族に伝えてちょうだい。私は元気にやってるって。私はマヌクと一緒にいて幸せだって。彼は私と結婚してくれるの」と彼女は言った。
 しかし、本紙とのインタビューに立ち会ってくれたイエズス会難民サービス(JRS)と一緒に西ティモールで働いているシスター・クララは、ジュリアナが真実を語っているとは思わないと言った。
 「私は彼女は幸せだと思わないわ。彼女の顔の表情は嘘をつけない。ほっぺたの打撲傷見たでしょう?彼女は大変な状態にあるのよ」とシスター・クララは言った。
 ある(インドネシア)軍の将校は、インドネシア当局はジュリアナの家族の訴えを調査したと言う。「しかし、訴えは証明できなかった」とその将校は言った。
 「ジュリアナ自身が、誘拐されたのではないと言い、マヌクを愛しており、自分の意志で彼と移動してきたと言っているのだから」
 マヌクはインタビューで彼に対する容疑はまちがっていると言った。
 「国際法廷でおれを訴えるがいいさ。無罪を証明してみせるぜ」と彼は言った。★


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