季刊・東ティモール No. 2, January 2001

<歴史>

バリボの死
1975年侵攻時のジャーナリスト殺害事件


 1975年10月16日、インドネシア軍は東ティモール人統合派武装勢力をひきつれて、西ティモールから国境をこえ東ティモール内のバトゥグデから攻撃をしかけた。この時、取材していたオーストラリアのテレビチームの5人が殺された。オーストラリア政府は彼らの存在を知っていた。知っていてそのままにし、知らなかったとしらを切った。



 

 「バリボの死」と呼ばれるこの事件は、オーストラリア政府が自国のジャーナリストを犠牲にして国益を守ろうとしたスキャンダルとして、またそのことをひた隠しにしようとしてウソにウソを重ねた醜悪な外交的失敗として、今でもオーストラリアではしばしば記事がでる。
 というのも、未だその真実が明らかにされないからだ。オーストラリア政府は、この事件について事前に知っていたこと、そして事後にそれを隠蔽しようとしたことについて、未だ情報を完全には開示していない。

『バリボの死、キャンベラのウソ』

 「Death in Balibo, Lies in Canberra」という本が2000年に出版された。著者はオーストラリア国立大学(ANU)戦略防衛研究所のデズモンド・ボール教授と、『スハルトのインドネシア』の著者として知られるシドニー・モーニング・ヘラルド紙のハミッシュ・マクドナルド記者だ。通信傍受の分野に詳しい専門家とバリボ事件を25年来追いかけているジャーナリストの組み合わせで、驚くべき内容の本ができあがった。
 この本は、バリボ事件についてのもっとも妥当な仮説、「インドネシアは10月16日のバリボ攻撃の前にそこにオーストラリア人記者たちがいることを知っていた。そして自らの侵略行為を隠蔽するために彼らを殺害した。オーストラリアは、インドネシア軍の攻撃とジャーナリストの存在の両方を事前に知っていたし、インドネシア側に連絡をとれば彼らの殺害を防ぐこともできたが、実際には何も手をうたず、事件後、事前には知らなかったとウソを言った」という仮説を論証しようとしている。
 結論から言って、その試みは、たぶん、成功している。決定的な証拠は、オーストラリア政府が未だ公開しない、当時のインドネシア軍、フレテリンの通信傍受記録にある。ここではそうした資料が使えないものの、あとは資料公開をまって理論を実証するだけ、つまり理論的な「王手」をかける段階まで論証しているといえる。

バリボ攻撃の再構成

 インドネシア軍は10月初めには、東ティモールと国境を接する西ティモールの北海岸、モタアインに拠点を構えていた。10月8日、国境をこえてバトゥガデのフレテリン・ポストを攻撃しフレテリンを駆逐。そこにインドネシア軍(と統合派東ティモール人)は通信傍受設備をおき、ディリを中心としたフレテリンの通信を聞いた。
 バリボ攻撃は10月15日深夜11時ごろ迫撃砲によって始まった。そして艦砲射撃、機関銃、手榴弾による攻撃が続いた。バリボへの侵入は夜明け頃で、その後(午前6時ごろ)テレビ・チームの5人は捕まり射殺された。射殺の経緯については、同行していた統合派東ティモール人たちの証言がいくつかある。ただ彼らもはっきり見ているわけではない。バトゥグデで作戦を指揮していたダディン・カルブアディ(大佐)は殺害を知ってすぐにヘリコプターでバリボへ飛び、帰ってきて、ジョアォン・カラスカラォンに「彼らはフレテリンと一緒に戦っていたオーストラリア人を殺した」と言ったという。


インドネシアは知っていた

 ジョゼ・ラモス・ホルタが世話をしていたオーストラリアのテレビ・チームのことは、フレテリンの通信からインドネシア軍は知っていたはずだ。当時インドネシア側にいた東ティモール人たちのその後の証言がそれを補強している。
 決定的な証拠は、バリボ攻撃の直前にかわされたジャカルタのベニー・ムルダニ(少将)とバトゥガデにいたダディン・カルブアディ(大佐)の通信をオーストラリアが傍受した記録だ。
 この傍受記録は公開されていない。ただそれを見た関係者が何人かおり、その人たちの証言から話は構成されている。あるオーストラリアの元諜報分析官によると、ムルダニは「目撃者なんかいてはだめだ」と言い、それに対しダディンは「心配ご無用。彼らはわれわれのコントロール下にあります」と答えたらしい。

オーストラリアも知っていた

 この傍受記録の作成は攻撃開始の5時間前だったことがわかっているが、攻撃開始が何時だったかによって結果はちがってくる。もし15日夜11時(東ティモール時間)の迫撃砲をもって開始とするなら、メルボルンで夜8時までに記録はできていた。ジャカルタでは夕方5時だ。オーストラリア政府が介入するのに十分な時間があった。
 しかし、この傍受記録は、それが作成された防衛信号局(Defence Signals Directorate)の部屋を出ることはなかった。もし政府がインドネシアに対しジャーナリストのことで注意をうながせば、オーストラリアの通信傍受能力がインドネシアに知られてしまい、その後の傍受が出来なくなる。それを恐れた防衛信号局が、政府指導者にすら知らせなかった可能性が高いのだ。
 その後、午前6時45分に傍受された「死者の中に4人の白人がいる」というダディンの通信は政府に届けられた。これで政府はテレビ・チームの死亡を確信したが、報道機関が報道するまで「知らない」ふりをした。
 ダディンはジャカルタに彼らの遺体を燃やしたことを報告し、「彼らは灰になった」と言った。これで証拠はなくなったも同然だった。そしてオーストラリア政府はその後、「彼らはクロスファイアー(銃撃戦)で亡くなった」とのインドネシアの主張を繰り返すことになったのだった。★

(松野明久)


Desmond Ball and Hamish McDonald, Death in Balibo Lies in Canberra, Allen & Unwin, 2000. ISBN 1 86508 369 0


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