<連載>

東ティモールにおける日本軍性奴隷制(第8回)

古沢希代子

 昨年12月、「アジアフォーラム」という市民団体の招待(協力:東ティモールに自由を!全国協議会)でマルタ・アブ・ベレさんが再び来日した。アボ・マルタ(マルタおばあちゃん)はまだ生理もない幼い頃日本軍の慰安所で無理やり働かされた。アボは正味二日間の滞在中、議員連盟との会合、大学での講演、市民集会での証言、交流会と精力的に日程をこなした。
 集会の運営は「フォーラム」の若いメンバーが担った。ひとりでも多くの人にアボの話をきいてもらおうと走りまわった。今回の来日には息子のミゲルさんもつきそった。ミゲルさんは語った。「とてもつらい事実だけれど、これはうちのアボだけに起きたことではないのです。うちのアボのためだけの闘いではないのです。」
 アボの話に耳を傾ける大勢の若い人たちと息子の励まし。ノーベル平和賞受賞後来日したラモス・ホルタ現外相は、日本政府の冷淡な対応に怒って「二度と日本にはこない」と語ったが、アボはスッキリ言い切った。「大丈夫、必要ならまた行くから」。


レジスタンス魂(その1) - アボ・マルタとその家族

 アボ・マルタとは2000年12月の「女性国際戦犯法廷」以来のつきあいである。アボはいつも体調をおして動いてくれるので、アボが「東京法廷」から戻った後やハーグでの「最終判決」から戻った後はアボの具体が心配でマリアナまで会いに行った。首都のディリ以外は電話が復旧してないのでいつも突然の訪問になる。アボは最初に訪ねた時は亡くなった弟の家にいたが、次の時は息子のミゲルさんの家にいた。今回も最初の日は弟さんの家だったが、次の日は別の息子の家に遊びに行っていた。どうもアボは気分次第であちこち移動するようだ。アボの家族には、その都度、報告やら相談をしてきたが、何か金銭的な成果を約束するわけでもない私たちの調査活動に彼らはとても協力的なのだ。
 亡くなった弟さんの家には姪のエルメリンダさんがいる。普段畑仕事に精出す彼女はお菓子づくりの名人でもある。彼女の家を訪ねる時はなぜかいつも年末年始なので毎回お正月用の焼き菓子をご馳走になっている。このエルメリンダさんもミゲルさんといっしょにアボのつきそいで日本に来てくれた。2001年9月にアボとマロボの慰安所址に出かけたとき(本誌第5号連載第3回を参照)、同行をお願いする一番上の息子さんを見つけるために道案内してくれたのは、ミゲルさんの妻、ルシンダさんだった。
 アボは日本に来て仕事が一段落すると「畑」のことが気になり出す。早く帰って世話をしなくてはと言う。当たり前のことであるが、アボは「元従軍慰安婦」だけの存在ではない。アボの家族のこと、彼らの生活のこと、少しずつだがおしえてもらっている。
 アボは戦後結婚し、7人の息子をもうけた。アボは東京の集会やその後の交流会で夫について触れた。やさしい人だったこと。「家庭内暴力」はなかったこと。よく働く人だったこと。
 「男は顔で選んじゃだめだ、まじめに働く人かどうかがポイントだ」と女子学生たちに力説した。息子たちの話によるとアボの夫はアボを市場でみそめたそうだ。その夫は1980年代に病気で亡くなった。
 アボの長男、マウサさんは1975年のインドネシア軍侵攻の際、FALINTIL(東ティモール民族解放軍)に参加し、その後山の中で死んだ。4番目の息子のタイボエさんは1975年に病気で死亡した。1979年には7番目の息子を病気で亡くしている。今生きているのは、2番目のアポナリオさん、3番目のフランシスコさん、5番目のミゲルさん、そして6番目のジョアンさんだ。2001年9月にマロボまでの道中でアボのハーグ行きを相談したのは生きている子どもたちの中で一番年長のアポナリオさんだった。下のふたり、ミゲルさんとジョアンさんは、1999年の住民投票の頃はCNRT(ティモール民族抵抗評議会)のメンバーだった。投票後は民兵やインドネシア軍の標的になる危険があったため、投票をすませるとすぐ西ティモールに避難した。そして・・アボは、インドネシア侵攻の時と同じように山に逃げた。
 今回の来日で東ティモールのメディアもアボの活動に本格的に注目し始めた。アボの体験が東ティモールのメディアにのることについてアボと家族の人たちに相談すると、本人からも、そして息子たちからも力強い「イエス」が返ってきた。誰もアボの体験を恥じていない。そしてアボの「語り」は「闘い」だと言う。そう躊躇なく言い切る彼らは不当なことと「闘ってきた」人たちだった。アボはそういう彼らの母だった。

ドミンゴス・ダ・クルスさんのお話

 アボが日本に来た時、ミゲルさんから、日本軍占領時代を知る老人がひとりマリアナにいることを聞いた。次にマリアナを訪ねる際にはその人に会いにいこうと約束した。
 その老人はルシンダさんの実家のむかいに住んでいた。そこで、ポポヨン君をつれたミゲルさん、ルシンダさん、そしてジョアンさんといっしょにお話をうかがいに行くことになった。通訳として日本カトリック司教会議東ティモール事務所の徳恵理子さんに同行していただいた。
 その老人、ドミンゴス・ダ・クルスさんは、日本軍が来た時、子どもではなかったが結婚はまだだった。日本軍の命令で道路建設や畑仕事をさせられ、「キヲツケ」「ヤスメ」「コンチクショウ」といった日本語を憶えている。ドミンゴスさんによれば、若い力のある者はすべてクーリーとしてかり出されるので、村には老人しか残らず、満足に田畑の耕作ができない。そのため村の食糧不足は深刻だった。それでもクーリーはイモやトウモロコシなどの食糧を持参しなければならなかった。アイナロ、ズマライ、バリボからも人が集められ工事に従事させられたが、彼らも食糧は持参した。食糧がなくなると村に帰って取ってくるように命じられた。ボボナロにいた日本軍の司令官は「トゥアン・マシン・ミダール」と呼ばれていた(「トゥアン」はインドネシア語で「旦那様」、「マシン・ミダール」はテトゥン語で「砂糖」。この将校の名前は「佐藤(さとう)」だったのではないか)。副官は「コバヤシ」、その下に「カンダ」という兵士がいた。「カンダ」はクーリーたちに食べさせるからと言って村人からイモを取っていったが、クーリーたちには渡さず自分たちで食べていた。(この「マシン・ミダル」なる将校の名をきくのは二度目である。連載第2回でカルリーリョ・シャビエルさんのお話を紹介したが、彼の姉が、ボボナロのマリ・ライ村から連行され仕えさせらえた軍人の呼び名が「マシン・ミダル」だった。)
 ドミンゴスさんにはいっしょに道路工事をさせられたある女性から打ち明けられた話があった。その女性は、「絶対に誰にも話さないでほしい、自分が話したことが知られたら何をされるかわからないから」と語った。だからドミンゴスさんは最初この話に触れなかった。その女性は、自分は日本軍の複数の軍人にマロボに連れていかれ、順番にレイプされ、その後工事現場に戻されたと語った。ドミンゴスさんは、東ティモール人の男性はマロボの温泉と慰安所には近づけないので目撃したわけではないが、そこには、日本軍から「ボニータ(きれい、かわいい)」と思われた女性たちが住まわされ、軍人たちが「ピクニック(休暇、休養)」でそこを訪れる際に相手をさせられたことを人々から聞いていた。
 村からクーリーや女性を集めるには日本軍の命を受けた東ティモール人が中に入る場合が多い。そういった東ティモール人には自らすすんでその任を果たしたわけではない者もいる。そのひとりをドミンゴスさんはごく身近に知っている。彼の父親である。彼の父親はガル・サプルという小さな集落の長で村人に信頼されていた。そのため「日本軍に見込まれて」マロボの慰安所に送る女性の徴集に協力させられた。戦争が終わると、ポルトガル人は日本軍協力者を特定するため村で聞き込み調査を行なった。彼の父はその結果裁判にかけられて有罪となり、アタウロ島の監獄に送られ、そこで亡くなった。
 これは予期せぬ展開だった。終戦後行なわれたBC級戦犯裁判においてポルトガル領ティモールに関してはひとりの軍人も「住民虐待」では起訴されていない(「捕虜虐待」では起訴がある)。一方、東ティモール人で日本軍に協力し住民に損害を与えた者は戦後ポルトガルの裁判にかけられ、アタウロ島の監獄に送られ、そこで死んだ人も多い。私はこれはフェアでないと思うし日本政府は責任を果たさなければならないと思う、と話し始めたら、ドミンゴスさんから返ってきたのがこの話だった。日本軍が来なければ、父はこんな目に会わずにすんだのに、とドミンゴスさんは語った。

レジスタンス魂(その2) - エルダ・サルダーニャさんとその家族

 連載第4回で紹介したエルダさんの話は以下である。
  エルダ・サルダーニャさんは、カテキストだった夫を日本軍に殺された後、慰安婦にされ、次に「ミヤハラ」という軍人の「妻」にされた。・・
 エルダさんは混血で美しい人だった。夫のマリアノさんはカテキスト(カトリックの教理問答師)で、マナトゥトの修道院の学校で教えていた時エルダさんと出会い、教会の許可を得てエルダさんと結ばれた。彼らはその後オッスで暮らした。
 日本軍がやってくる時、マリアノさんに危害が及ぶことを心配した両親は彼をラクルタに呼び寄せた。しかし結局マリアノさんは日本軍に捕まって殺された(手を下したのが日本兵か手下のティモール人かは不明)。その後、アグスティーナさんはベニラレの市場で偶然にエルダさんと再会した。ふたりは抱きあって泣いた。・・エルダさんは「自分は犯された」「慰安婦にされた」と言った。アグスティーナさんが「誰が奪ったのか」を尋ねると、それは「ミヤハラ」軍曹だと言った。
 エルダさんは夫の死後、ベニラレ郊外の慰安所に連行され、「ミヤハラ」の「妻」にされ、その関係は「ミヤハラ」が東ティモールを離れるまで続いた。
 戦後彼女はその運命をはねのけるように、別の男性と結婚し、子どもをもうけ、80年代半ばにポルトガルで亡くなった。

 今回私は、エルダさんとその殺された夫、マリアノさんの娘であるセリナ・ウルバノ・デ・カルバーリョさんと出会うことができた。セリナさんは現在ポルトガルで小学校の教師をしている。セリナさんは積極的に聞き取りに協力してくれた。
 セリナさんにたどりつくのはそんなに難しいことではなかった。エルダさんは戦後再婚したが、ふたりの息子、ジョアキン・サルダーニャさんはFRETILIN(東ティモール独立革命戦線)中央委員会のメンバーだった。彼はインドネシア軍侵攻後も山の中で活動を続けたがその後戦死。エルダさんはジョアキンの母としてインドネシア軍侵攻の際に捕らえられ、二年間投獄された。エルダさんは、有名な元政治囚として、FRETILIN関係者の間ではよく知られた女性だった。つまりエルダさんは日本軍とインドネシア軍の両方から暴力を受けたのだ。
 セリナさんはママ・エルダとパパ・マリアノについて次のような話をしてくれた。
 まずは、パパ・マリアノについて。
 マリアノ・カルバーリョさんはラクルタのラリネで生まれた。カテキストとしてベルコリ、オッス、ラクルタ、ヴィケケのカトリック学校で教鞭を取った。パパ・マリアノが日本軍に捕まって殺害されたのはセリナさんが生後4ヶ月の時だった。パパ・マリアノは木に逆さ吊りにされて死ぬまで殴られた。命令したのは日本の軍人だったが、実際に手を下したのはボンベラ(ティモール人の協力者)だった。パパ・マリアノは絶命する前に三度神の名を呼んだ。パパ・マリアノといっしょに働いていた人が殺害の光景を目撃した。その人はママ・エルダにパパ・マリアノがどんな殺され方をしたのか語った。セリナさんが大きくなった時、ママ・エルダは「いつか自分の子どもたちにも伝えなさい」と言ってこの話をした。パパ・マリアノがなぜ日本軍に捕らえられたのか理由は定かでない。当時日本軍は教員など読み書きができる東ティモール人を危険視したという説はある。セリナさんは自分の子どもたちを連れて、パパ・マリアノがそこに吊るされて殺された木を見に行ったことがある。パパ・マリアノのお墓はラクルタにある。ラクルタにはパパ・マリアノを含めて日本軍に殺された人々の名前が刻まれている碑がある。  セリナさんはパパ・マリアノの死後ママ・エルダが「ミヤハラ」の「妻」にされると、祖母に預けられディリで育った。ママ・エルダと「ミヤハラ」の子どもはマダレーナという名だったが、まだ小さいうちに亡くなった。
 ママ・エルダは1921年にトゥリスカイで生まれた。父はジョアキン・ダ・クルス・ウルバノ。セトゥバル出身のポルトガル人でトゥリスカイの村長だった。母はティモール人だった。ママ・エルダは色白でとても美しい人だった。パパ・マリアノが殺されアのはママ・エルダが22歳の時だった。パパ・マリアノとの間にはセリナさんの他に兄がいたが、パパ・マリアノの死後すぐに病気で亡くなった。1947年、ママ・エルダはパパ・フランシスコ・サルダーニャと再婚して5人の子どもをもうけた。1975年にママ・エルダがインドネシア軍に捕まって投獄された時、セリナさんは森に逃げていた。ママ・エルダは拘禁中服を脱がされて電気ショックの拷問にかけられそうになった。しかしスイッチが入れられる寸前で停電となり難を逃れた。レイプはなかった。レイプを免れたのはママ・エルダがもう若くはなかったからだと思う。多くの女性がこの時期に監獄でレイプされ妊娠した。ママ・エルダは電気ショックとレイプを免れたとはいえ、目のまわりに真っ黒な痣ができるほどひどく殴られたりしていた。ママ・エルダは1986年に子どもたちふたりとポルトガルに渡り、1989年に亡くなった。ママ・エルダはどんな目にあっても最後まで自分を見失わなかった。
 セリナさんの話はママ・エルダへの迫害や父の違う兄弟であるジョアキン・サルダーニャの死で終わらない。1999年5月10日、住民投票の実施が決まった東ティモールで、セリナさんの息子のひとり、フラヴィノ・ウルバノ・サルダーニャ・リベイロが惨殺されたのだ。遺体の舌と性器は切り取られており、口から瓶のような物をつっこまれたのかノドには大きな穴が開いていた。フラヴィノさんは他の4人といっしょに殺された。彼らを襲ったのは覆面をした者たちだった。フラヴィノさんは当時バリ島の学校に行っていたが、「レネティル」という在インドネシア東ティモール人学生の地下組織の活動に参加し、バリとディリを往復していた。セリナさんもまた子どもを殺される辛酸を味わった。
 セリナさんは1999年の住民投票をディリのベモリにある投票所で行なった。当時国連ボランティアをしていた私の夫がその投票所の管理官を務めたこと、私は国際東ティモール議員連盟の投票監視ボランティアだったこと、私たちが80年代から日本で東ティモール連帯運動に取り組んできたことを伝えると、セリナさんはすごく喜んでくれた。 次回はセリナさんとラクルタを訪ねる。(続く)


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