独立後初の暴動で死者
抗議行動が煽動され暴動に発展

文珠幹夫

 2002年12月4日、首都ディリで警察に対する高校生の抗議行動が暴動に発展し、警官の発砲で死者2名、負傷者25名が出た。外国人経営のスーパーマーケットなどが放火・略奪にあった。さらに、マリ・アルカティリ首相私邸などが焼き討ちにあった。高校生の抗議行動がなぜ暴動に発展したのか。その原因には不可解な部分が多い。


暴動になった経緯

 事の発端は前日の12月3日、ディリ市内の「11月28日高校」(独立宣言の日をその名前にした高校)で、ある殺人事件への関与が疑われた高校生が警官に逮捕されたことにあった。
 その逮捕が強引であり、法的な手続きが杜撰であったことから、同級生らは逮捕された生徒の釈放を求め、警察署へ抗議と国会に警察の逮捕の不当性を訴えに向かった。
 一部国会議員は学生らの訴えを聞く姿勢を見せたが、高校生らの抗議を見に集まった群衆が膨れ上がったため、警備に当たっていた警官が威嚇の発砲と催涙ガスを発射。高校生らは四散した。
 一旦は収まったかに見えたが、翌4日、高校生らが警察署と議会にデモを行った。群衆も参加し、前日より大規模な抗議行動となった。その中から議事堂に向け投石をする者が出た。警官は威嚇でなく、デモ隊に向かって発砲を行った。その結果、死者2名、負傷者25名がでた。
 その後、群衆の一部が議事堂近くのスーパーマーケットなどに対して放火・略奪を始めた。その周辺の外国人経営の(そして外国人がよく利用している)商店等も投石・略奪を受けた。さらに議事堂からかなり離れた、イスラム教のモスク近くの民家や、マリ・アルカティリ首相私邸などが放火され、マイクロファイナンス(少額貸し出し銀行)が略奪にあった。この暴動で12名が放火の容疑で、77名が器物破損・略奪の容疑で逮捕された。
 これが暴動の事実関係の概要である。しかし、なぜ抗議デモが焼き討ち・略奪など暴動に発展したのであろうか。
 過去、デモや抗議運動はいくらもあった。それらは暴動に発展することなく、ほとんどが整然と行われた。暴動となったのは今回が初めてである。少しその背景などを分析してみたい。
 事件後、NGO9団体が「東ティモール市民社会諸組織」の名で出した声明では(1) 12月4日の暴力は計画的であった、(2)この暴力には政治的意図があった、(3)その目的と計画を知らずに、多くの若者が利用された、(4)無責任な治安当局者の振る舞いがこの暴力のひきがねとなった、ただし治安は、国連、この場合UNMISET、とりわけ国連文民警察とPKFの権限のもとにあったのであるから警察だけが悪いのではない、と結論づけている。

権力争いが背景か?

 予兆とも言うべき事件が、11月25日バウカウで起こっている。バウカウ警察署に押しかけたデモ隊に対し、警官が発砲し、デモ隊の1人が死亡したのである。しかし、この事件に関し関係者の処分はおろか、調査結果も発表されていない。そして12月4日の暴動が起こった。
 これら2つの事件には関連があり、その背後には東ティモール政府内での権力争いがあると言われている。警察長官パウロ・マルティンスvs.内務大臣ロジェリオ・ロバトとダビデ・シメネス内務省民間防衛局長との反目である。
 パウロ・マルティンスはインドネシア支配時代、インドネシア警察の幹部としてインドネシア軍と協力し人々を弾圧する側にいた。UNTAET統治時代、彼は警察長官に任命された。不可解な人事と言われている。彼は就任時「私はインドネシア軍をスパイするために警官になった。私は独立派であった」と表明したが、ほとんどの人は信用していない。また、新たに警察官に採用されたかなりの者がインドネシア支配時代に警官だった。
 一方、ロジェリオ・ロバトは、フレテリン創設以来のメンバーで、初代党首のニコラウ・ロバトの弟であるが、モザンビークに長くいてかんばしくない噂がつきまとう。ダビデ・シメネスは、粗末な扱いを受け不満を持つ元ファリンティルのメンバーや失業中の若者、帰還した元民兵などを裏で組織し、裏社会で力を持とうとしていると噂される。ロジェリオ・ロバトやダビデ・シメネス、特にダビデ・シメネスは警察権力をに握らんと欲しているとの噂が絶えない。そこで、ことあればパウロ・マルティンスを追い落とそうと画策していると言われる。そして今回の高校生の抗議行動を利用しようとしたのではないかというのである。抗議デモ現場から相当離れたアルカティリ首相私邸が焼き討ちされたのはその“力”を見せつけるためであったとも言われている。焼き討ちのためガソリンを用意し、人を煽り、火をつける。さらに煽り、群衆を略奪に駆り立てる。この一連の動きは単純な自然発生的暴動とは異なる。首相私邸の焼き討ち容疑で逮捕された実行者の一人は、ダビデ・シメネス局長と近い関係者で、既に供述をしているらしいなどと言われている。

不満はたまっていた

 しかし、マリ・アルカティリ首相やシャナナ大統領の対応もどこか及び腰である。何かを恐れていると見られても仕方のない対応であった。
 ただ、このような暴動に煽動されやすい経済的、政治的状況があったことも指摘しておかねばならない。煽動しようとしても人々が煽動されなければ暴動にはならない。1999年の住民投票後、インドネシア軍と民兵による大破壊の後、すでに3年以上が過ぎた。海外からの多額の援助があったが、復興は思うように進まず、多くの援助が外国人商人、企業家によって「奪われ」、その恩恵に人々は与れなかったと思っている。失業率は高止まりしたままである。解放闘争の英雄ファリンティルの元メンバーらは実に粗末な扱いを受け続けた。その一方で、政府要職についた者の汚職が噂され始めている。不満は充満していた。
 国会議員18名は、今回の暴動、特に国会に向かっての投石はダビデ・シメネス局長の指示によるものと非難の声明を発表している。ところが、政府関係者の中から、この事件を利用し政敵を攻撃しようとするものが出てきた。ある野党の幹部らは、以前からロジェリオ・ロバト、パウロ・マルティンス、ダビデ・シメネスらの更迭を要求していた。今回の暴動の事態収拾に走り回ったにもかかわらず、その彼らを「暴動の黒幕だ」等との噂をまき散らしたと言うのである。さらに、彼らは「次はお前の番だ」との脅迫を受けている。そして1月16日、マヌエル・カラスカランが暴漢に襲われ軽傷を負った。
 UNMISETと東ティモール政府は今回の暴動の調査を行い、報告書を作成したと伝えられるが、それはまだ発表されていない。不可解である。★


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