季刊・東ティモール 1号(Oct. 2000)

UNHCR職員、3人殺害される!
確認されない民兵の武装解除と解散



 9月6日、西ティモールのアタンブアで国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)職員3人が民兵に殺害された。安保理はただちに決議を採択し、民兵の武装解除と解散をインドネシアに求めた。しかし民兵に断固たる措置をとることのできないインドネシアは武装解除をだらだらとのばし、53億ドルの援助への影響をうまく回避した。そして本当に民兵が武装解除され、難民は脅迫から解放されたのか、確認しようのないまま、インドネシア政府による難民帰還登録が始まった。

オリビオ・モルクの死

 UNHCR事務所襲撃の引き金となったのは、オリビオ・メンドサ・モルク(45)という民兵のリーダーが9月5日、何者かに殺された事件だった。オリビオはかつてスアイを中心とした民兵組織「ラクサウル」の司令官で、このラクサウルこそ、昨年9月6日のスアイ教会の虐殺事件を引き起こした民兵組織だ。オリビオは9月1日にインドネシア検察庁が発表した容疑者19人の中にいた。
 誰が彼を殺したのか。当局の取り調べで自白されるのをおそれた彼の仲間(民兵かインドネシア軍)の犯行か、国連のミレニアムサミットに出席中のワヒド大統領に恥をかかせるために反ワヒド派(軍守旧派)がしくんだのか。警察はアロイシウス・ベレックという西ティモール人を黒幕と見た。
 オリビオは喉を掻ききられ、性器を切り取られていた。遺体が5日夜に発見される夜、民兵たちはベレックの村を襲撃し、69戸の家に放火し、2人を殺害した。

国連を襲撃

 6日朝、オリビオの遺体を運んでいた群衆の一部が隊列を離れて、アタンブアのUNHCR事務所を襲撃した。クパン(西ティモール)警察署長のジュレファル大佐は「数が多くて鋭利な武器をもっていた。止めるのは難しかった」と語る。しかし、あるクパンのタクシー運転手は、軍も警察も殺害を脇に立って見ていたと言った(Sydney Morning Herald, Sep 9)。
 殺されたのはプエルトリコ出身でアメリカ国籍のカルロス・カサエレス、エチオピアのサムソン・アレガヘイェン、クロアチアのペリル・シムンゼの3人。カルロスは襲撃の直前友人に電子メールを送り、「われわれは餌のようにここに座っている。武器もなく、ただ波に襲われるのを待っているのだ」と襲撃の予感をつづっていた。彼は7日には事務所を去るつもりで、仕事を仕上げるためにわざわざ残った。仕事とは、翌日クパンで行われる予定だった難民帰還をこれからどう進めるのかについての会議の議題づくりだった。
 クパン警察署長のジュレファル大佐は、UNHCRに対して襲撃の4時間前と直前と2度、事務所から退去するよう警告を発したと言っている。しかし、UNHCRスタッフは、確かに襲撃の警告は受けたが同時にインドネシア警察が保護するとの保証も受けていたと言い、くいちがいを見せている(Sydney Morning Herald, Sep 9)。

安保理派遣団を拒否

 ニュースはただちに世界を駆けめぐった。
 8日に開かれた国連安保理は決議(1319号)を採択し、インドネシア政府に対し民兵の武装解除と解散をすみやかに実施するよう求めた。この時、安保理は3分間議論した後、全会一致でこの決議を採択したと言われる。安保理は西ティモールへ派遣団を送ることも決定した。
 しかしインドネシア政府はこの派遣団に反対した。理由は派遣団は外国の干渉と国民にみなされるというものだった。確かに、高まった外国からのインドネシア非難に対し、インドネシアの主権が脅かされているなどという偏狭なナショナリズムを鼓舞する発言が相次いだ。ワヒド退陣を狙う政治勢力に利用されかねないとの危惧があった。
 インドネシアの安保理派遣団拒否という態度を応援する政府がいくつかあらわれた。まずフランスは、ワヒド政権に信用をおいており、ワヒド大統領と協議することなく何ものも決められないと表明した。続いて中国が、インドネシアの承諾なくして派遣団は送れないとの見解を明らかにした。こうして派遣団は延期された。
 ところがインドネシア政府は派遣団を延期するだけではなく、派遣団の構成にも口を差し挟んで、少しでもインドネシアに有利な派遣報告にしようと狙っている。10月19日、日本の河野外相と会ったシハブ外相は日本に派遣団に参加してほしいと要請した。決してインドネシアの悪口を言わない日本が入れば、派遣団の意見にも影響を与えられる。河野外相は前向きに検討することを約束した。
 派遣団は11月13-19日にインドネシアを訪問することになっている。

世銀、アメリカの圧力

 事件が発生した6日、ニューヨークでは国連ミレニアムサミットがまさに開かれようとしていた。あいさつに立ったコフィ・アナン事務総長は、冒頭で、数時間前にアタンブアの事務所が襲われ、スタッフ3人が殺されたことを告げた。クリントン大統領は準備された演説を始める前に、インドネシア政府にこうした人権侵害を終わらせるよう求めると発言した。そしてサミットは1分間の黙祷をささげた。(Reuters, Sep 6)
 8日、ウォルフェンソン世銀総裁は、ワヒド大統領あてに書簡を送り、「来月のCGI(インドネシア援助国会合)において援助供与国に民兵問題と難民問題が解決したと報告したい」というやんわりとした表現ではあるが、援助とこの問題を結びつける考えを述べた。
 アメリカは自国民が犠牲となったこともあって、かなり強い調子でインドネシアを非難した。とくにコーエン国務長官はインドネシア訪問を前に、繰り返し民兵の武装解除・解散を求めた。
 オルブライト国務長官も、13日、メガワティ副大統領にあてて書簡を送り、エウリコ・グテレスを逮捕すること、難民キャンプをひとつひとつ回って武装解除し難民帰還を進めること、民兵指導者たちを裁くことなど具体的な措置を提案した。

拝外主義をあおる政治家たち

 しかしインドネシア国内では、海外からの圧力に主権を犯されたとナショナリズムをあおる政治家も登場した。
 まずマフド国防治安相だ。彼は8月の内閣改造で初めて内閣入りしたが、それまでジョクジャカルタにあるイスラム大学の国際関係論の教師で、国際的にはほとんど知られていなかった。
 マフド国防治安相は、9月14日、アタンブア事件の背後にはある国の諜報機関が関係していると記者会見で発言し、オーストラリアを暗に批判した。彼は、国連が東ティモールでの国づくりに失敗したため東ティモール人がインドネシアとの再統合を求めている、国際社会をそれを阻止するために、インドネシアを悪者にしているのだという独自の理論を展開した。また彼は、先の国連決議は「無効」であり、国際社会はインドネシアをもっと公平に扱うべきだとも述べた。(AFP, Sep 14)
 アメリカはとりわけ攻撃の対象になった。
 9月15日、スラバヤのアメリカ領事館に「民主青年連合」と「バラディカ・カルヤ青年グループ」を名乗る約150人の若者が押し寄せた。若者たちは領事館の鉄門を飛び越えて中に入り、旗を引きずりおろして燃やした。バラディカ・カルヤという団体は国軍と関係がある団体らしい。「アタンブア問題で国軍を責めるな」「アメリカと国連がアタンブア問題に責任がある」などと書かれた横断幕をかかげていた。この行動はコーエン国務長官がインドネシア訪問を前に、マニラで民兵武装解除・解散を求めたことへの抗議だった。(AFP, Sep 16)
 この事件についてはのちに「軍恩給者子弟フォーラム(FKPPI)」東ジャワ支部のガトット・スタントラという人物が容疑者としてつかまった。同じくつかまっているスゲン(ベチャ引き)によると、ガトットは彼に127万5000ルピアを渡し、彼はそれでベチャ引きを1万ルピアで雇ってデモ隊をつくったということだ。(Jakarta Post, Sep 27)
 コーエン国防長官は9月18日にジャカルタを訪問し、正式に民兵の武装解除・解散を要求した。すると19日、数十人のデモ隊がジャカルタのアメリカ大使館前でアメリカ国旗を燃やした。
 アミン・ライス国民協議会議長(信託党総裁)、アクバル・タンジュン国会議長(ゴルカル総裁)もアメリカ批判で声を揃えた。アミン・ライスは「われわれはこの招かれた客人に断固たる返答を与えなければならない。ウィリアム・コーエンが百人、いや千人かかってこようと、主権を守るというわれわれの決意をゆるがすことはできない」と語り(AP, Sep 19)、国際社会で認知されるためには「虎のごとく」振る舞わなければならない、クリントン大統領に大使の交代を求める手紙を書くなどと息巻いた。(Detikworld, Sep 26)
 8つのイスラム系政党がつくる「イスラム政党フォーラム」は、20日、アメリカ製品のボイコットを呼びかけた。開発統一党(PPP)、月星党、正義党などが含まれている。
 第9管区司令官キキ・シャナクリ少将は、東ティモールに来ていた米海兵隊600人が西ティモールとの国境付近にいるのは疑わしいなどと発言。米兵士をのせたヘリコプターが国境侵犯をしたと言った。そしてアタンブアを訪れたとき、シャナクリ少将は国境侵犯は4度もおきており、米軍には処罰を求めるとまで言った。これを引き継いで、マフド国防治安相は「米軍が侵入したら攻撃する」と息巻いた。
 これに対しロバート・ゲルバート駐インドネシア米大使は、25日、「シャナクリ少将はうわさをねつ造しているだけだ。彼は自分の任務に専念すべきだ」「かつてオランダ人記者(サンダー・トゥネス)が殺されたとき、シャナクリ少将は射殺されたわけではないと言った。しかしそれはまちがっていた。記者は射殺されていたのだ。彼は自分の仕事がうまくいかないから、他人を責めるのだ」と反論した。(Indonesian Observer, Sep 26)
 シャナクリ少将は、もうコメントしないと言って議論をうち切った。しかし27日にはジャカルタの米大使館前で大使の追放を要求するデモがあった。
 
犯人逮捕

 では事件の犯人は見つかったのか。
 11日、警察はモルク殺害の鍵となる人物としてアロイシウス・ベレックの名前をあげた。モルクはベレックがモルクの運転手から金を無理矢理奪おうとしたため、ベレを警察に連れていったことがあり、ベレの手下たちがそれに怒ってモルクを殺したということらしい。(AFP, Sep 11)
 UNHCR職員殺害については、事件の翌日、7日には15人が逮捕され、12日にはさらに5人が追加で逮捕された。9月21日ダルスマン検事総長は逮捕された13人(モルク殺害関連で7名、UNHCR職員殺害関連で6名)の中には軍人が含まれていると語ったものの翌日警察がそれを否定するなど、数字にも内容にも、混乱がみられた。
 10月中旬、インドネシア警察はUNHCR職員殺害の容疑者として6人を送検すると発表した。それによると6人はすでに罪を認め、捜査も75%を終えているという。(Indonesian Observer, Oct 13)
武装解除

 肝心の武装解除はどうなったのか。
 インドネシアは9月19日になって、22~24日を自発的な武器供出の期間とし、その後に強制的な武装解除を行うと発表した。23日には、「ハリリンタル」の12人が3台の車でやってきて7挺の自動ライフル、9個の手榴弾発射機、485本の手製銃、4個の手榴弾、687個の弾丸を提出した。(AP, Sep 23)
 24日(日)には、メガワティ副大統領、ウィドド国軍総司令官、ユドヨノ政治治安調整相、マヘンドラ法相、シャナクリ第9管区司令官が立ち会う中、数百挺もの武器の提出がなされた。武装解除式が終わったあと、昼前にメガワティらはジャカルタへの帰途についた。一方、警察は意図的にエウリコを警察署に留め置き、メガワティに会わせまいとした。これに怒ったエウリコ率いる民兵が武器を再び手にして、さらに武器を返せと気勢を上げた。オブザーバーとして来ていた国連スタッフ2人は警察暑内の1室に逃げ込んだが、命の危険を感じたとのちに語っている。彼らによると少なくとも12人の民兵が武器をもって警察署を出ていき、警察はそれを見ていて何もしなかった。(Sydney Morning Herald, Sep 26)
 24日の夕方までに、900挺以上の銃が押収されたとのことだ。しかしそのうち自動ライフルは43挺しかなく、手榴弾と手榴弾発射機はわずかだという。そしてユドヨノ政治治安調整相は民兵がまだ武器を多数もっていることを認めている。(Australian Financial Review, Sep 26)
 そして25日(月)。強制武装解除に入る予定の日、インドネシアは自発的提出の期限を27日まで延ばした。翌26日に、国連安保理は国連オブザーバーが脅威にさらされたことを遺憾とし、インドネシアに民兵武装解除・解散をあらためて求める声明を発表した。
 ところでインドネシアのウィビソノ国連大使が安保理にあてた書簡によれば、インドネシアはそれまでに888挺の手製銃、34挺の標準銃、4個の手榴弾、1000発の弾丸を集めたという。(AFP, Sep 26)
 そして28日(木)。インドネシア警察は強制的な武装解除を開始したと発表した。しかし報道によれば、クパン近くのノエルバキのキャンプでは、警察が金属探知器をもって一戸一戸を調べてまわったが、たったの1個の武器も発見できなかったし、アタンブアからの連絡によれば何の活動も見られないという。インドネシアのアンタラ通信社ですら、その日午後2時まで何の活動も見られないと伝えている。(AFP, Sep 28)
 29日になって、警察は合計16個の武器を集めたと発表した。すべて自主的に提出されたものだという。(AP, Sep 29)
 30日、エウリコ・グテレスはクパンの警察署にあらわれて、ピストル1丁と74個の弾丸を手渡した。その日、ブラジルに行く飛行機の中で(28日)、ワヒド大統領が「グテレスのような人間は、法律を犯していたら逮捕しなければならない」と言ったとの新聞報道がなされていた。(Indonesian Observer, Sep 30)
 こうした失望させる結果を受けて、インドネシアは新たに10月17日を締め切りとして再び武器の自発的提出を求めることにした。17日は東京でCGI(インドネシア援助国会合)が始まる日で、結局、それまでに民兵問題の解決を見ることは事実上できなくなった。
 8日(日)、11日からニューヨークで行われる安保理会合で説明を行う予定のシハブ外相はアタンブアを訪れ、国連を説得する十分な「弾薬」(=材料)が揃ったと豪語した。
 17日の締め切りを迎えた西ティモールでは、警察が「まだわれわれは武装解除を続けている。締め切りはなくなった」と言っていた。しかも当局の正式な発表としてではなく、匿名希望の警察官のことばとして。
 一方、東京で開かれていたCGIで、リザル・ラムリ経済調整相は「軍の増派などすでに多くのことがなされた。われわれはまだ武装解除の努力を続けている」と報告した。締め切りについての言及はなかった。そして武装解除を確認できないまま、53億ドルの資金援助がインドネシアに約束された。
 最終的には23日、ユドヨノ政治治安調整相は、民兵たちがもっている武器は100-200になりこれで41%~91%の武装解除が終了した、UNHCR職員殺害の容疑者7人は捜査が終わり次第裁判にかけられる、すぐに帰還のための登録が始まると語り、安保理決議の主要な要求は満たしたと主張した。そして安保理派遣団は11月13日に、登録作業や押収した武器を見ることができると。
 アメリカの人権団体「ヒューマンライツ・ウォッチ」は10月24日、難民たちの自由が確保されていないとして、インドネシア政府に登録作業(19日開始予定)を中止するよう求める声明を出した。インドネシア政府は難民の移住先としてウェタル島、スンバ島、ブル島などをあげている。

エウリコの逮捕

 エウリコ・グテレスは、民兵組織「アイタラク」のリーダーとして、逮捕・裁判が望まれていた人物だが、インドネシア政府が発表した19人の容疑者リストからも抜け、武器の不法所持についても一旦は裁判にかけられたものの「治安要員か民間人かの地位が不明」というわけのわからない理由で無罪となるなど、インドネシアにおいて軍およびその関係者がいかに「免責」の特権を享受しているかを示す例となっていた。その理由は、彼がメガワティ率いる闘争民主党青年部のリーダーだからだ。
 ワヒド大統領は武装解除が遅れていることに対する国際社会の不満を懐柔するため、エウリコは逮捕されるべきだと発言した(9月28日)。10月2日検察庁が彼を人道に対する罪の19人の容疑者リストに加え、4日警察は彼を逮捕した。容疑は9月24日の武器提出の際、部下を率いて武器を取り戻そうとしたことだった(刑法160条)。この罪では6年の刑の可能性があり、訴追期限は20日間だということだ。
 しかし同日、アミン・ライス国民協議会議長は彼の逮捕を遺憾とすると発言。エウリコを友人と呼び、(独立運動の盛り上がる)パプア人に対して悪い例になるなどと語った。アクバル・タンジュン国会議長も彼のインドネシアへの奉仕を考慮に入れ、減免措置を求めると語った。
 結局、エウリコの逮捕はスムーズに進まなかった。逮捕の翌日、彼の弁護士は、逮捕が逮捕状を見せることなくなされ、逮捕状は警察に着いてから見せられたという手続き上のミスについて裁判所の判断を仰ぐと発表した。
 この「前裁判」制度(pre-trial)については説明がいるだろう。インドネシアではオランダの司法手続きを継承して、実際の裁判に入る前に、逮捕などの事前手続きについて被告が不満をもつ場合、その点について司法の判断を仰ぐことができる。これを「前裁判」と呼んでいる。これで手続きが違法だったりすると、裁判そのものが行えない。
 さらに弁護士は、彼に課される6年の刑について、投獄ではなくて「市外外出禁止」措置にするよう警察に求めた。彼がインドネシア派の指導者だからだという理由らしい。
 9日になると、ジャカルタの警察本部に50人の彼の支持者が集まり、エウリコの釈放を求め、釈放しなければ警察を占拠すると気勢をあげた。エウリコは支持者との面会が許され、紅白のはちまきを渡されたとき涙したという。
 10日、国連暫定行政機構はエウリコの身柄引き渡しを求めた。かつてインドネシア政府とのあいだで結んだ引き渡しに関する覚書にもとづく請求だ。インドネシアは12日に拒否すると発表した。
 11日には、インドネシア警察は弁護士の留置措置停止願いを受け入れ、エウリコを留め置かない方針を打ち出した。すでに尋問が終わり、被疑者からこれ以上の情報をえる必要がなくなったという理由だ。
 一方、すでにふれたように、かつて武器不法所持で裁判にかけられ無罪とされ検察側が控訴していた件について、最高裁判所は10月12日、再審を命じる決定を出した。エウリコはクパンでの裁判中軍服を着たり普通の服を来たりして登場し、裁判官は彼が軍人か民間人か不明なため武器所持について判断できないとしていた。最高裁判所は、この地方裁判所の裁定は不適切であり却下するとしたのだ。
 そして23日(月)、ついに裁判所はエウリコの釈放を命じた。彼が逮捕されたとき逮捕状は出されておらず8時間後に出されたこと、さらに十分な証拠もないのに逮捕したことが理由だ。しかし警察はこの命令にしたがわず、彼を釈放せず、警察署敷地内にある証言者保護施設に移して、警察の言うところの「市外外出禁止」措置とした。エウリコの弁護士はこれにクレームを出している。エウリコは妻と子どものいるクパンに戻りたいと。もちろんクパンでは再審の公判がまっているわけだが。

民兵の離反

 武装解除の圧力が強まる中で、インドネシア軍との協力関係を離脱し、国連に協力すると言い出す民兵が4人あらわれた。彼らは、ジョアニコ・セザリオ(バウカウ拠点のアルファ・セラ司令官)、ドミンゴス・ペレイラ、カンシオ・ロペス・デ・カルバリョ(マヒディ司令官)、ネメシオ・ロペス・デ・カルバリョ(カンシオの弟)だ。4人はインドネシア軍による口封じの暗殺を恐れ、10月14日付けで安保理に手紙を出し、54人の民兵の国連による保護を求めるかわりにインドネシア軍による犯罪を告白すると伝えた。また手紙は、武装解除を国連が監督すること、エウリコを国際法廷で裁くことを求めている。
 
 シャナクリ少将は、軍が統合派民兵を暗殺しようとしたことはないと言い、彼らを「日和見主義者」(実に正しいが)と呼んでクールに構えている。
 実際、彼らの行動の動機はもっともらしいが、その主張がかなり危ういため、今ひとつ信用されていない。例えば、ネメシオは、民兵は東ティモールに戻るための提案としてファリンティルと同様に収容地域(カントンメント)を与えられ、双方が同時に武装解除し、将来の東ティモール軍を双方のメンバーから構成してはどうかと言っている(Kompas, Oct 16)。また4人は、昨年の住民投票直前、8月20日にジャカルタからハビビ大統領、ウィラント総司令官、ダミリ第9管区司令官がディリにやってきて、そこでハビビ大統領が「もし自治案が負けたら、東ティモールを西から東まできれいにして、蟻以外何も残っていないようにしてくれたまえ」と焦土作戦を命令したと言っている。さらにエウリコからは、のちに手紙を彼らが「個人的」にやったことだとして批判されている(AFP, Oct 19)。
 ただセルジオ・デ・メロ特別代表は「手紙はまじめなようだ。しかるべく保護されることを望む」とコメントしている。
 同様に、インドネシア側の「意図」に不安を感じ始めたのか、アビリオ・オゾリオ・ソアレス元東ティモール州知事も、インドネシアの国内裁判より国際法廷を望むと発言した。彼はインドネシア検察の出した容疑者19人(のちに23人)の中に含まれている。(Jakarta Post, Oct 18)
 しかし国際社会の反応は鈍く、彼らは10月21日に再び安保理に手紙を出し、統合派組織「東ティモール戦士連合」(UNTAS)指導者たちがお金をもらって彼らを迫害していると訴えた。

スラバヤで始まった和解

 こうした動きと関連して、10月24日、「東ティモール戦士連合」(UNTAS)と東ティモール民族抵抗評議会(CNRT)はインドネシアのスラバヤで協議した。CNRT側からはパウロ・アシス・ベロとフランシスコ・ソアレスが、UNTAS側からはフィロメナ・オルネイ(事務局長)ら5人が参加。西ティモールのビジネスマン、フェルディ・タノニが仲介し、統合派が東ティモールに帰る枠組みを話し合った。CNRT側は、CNRTは統合派のためにいくつかのポストを用意していることを伝えたという。

(松野明久)


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