季刊・東ティモール 1号(October 2000)

製造された怪物  エウリコ・グテレス
Manufactured monster?

サイス・チャイナ・モーニング・ポスト紙(2000年10月19日)
ヴォーディン・イングランド
South China Morning Post, by Vaudine England



 かつてディリの賭博王などと言われた28才の民兵司令官、エウリコ・グテレス。ロング・ヘアー、野球帽、好んでするミリタリー・ルック、一途なまなざし、支離滅裂な言語、そして類いまれなる残虐さ。「怪物」と呼ぶにふさわしい、かつてのフレテリン・メンバーから統合派武装集団の親分へ転身した男の素顔は?

 長髪のうぬぼれ屋、エウリコ・グレテスは、自分はインドネシアという国家の忠実な僕であるが、今や国家は自分に背を向けていると彼は言う。国家とその軍隊によって育てられ、生み出されたとすら言えるこの男は、これまでスポンサーを喜ばせてきたが、結局、東ティモール独立阻止という商品を納めることには失敗した。
 ジャカルタの警察の留置所に放り込まれたあとも、しゃべり続けている。「これがインドネシアという国なんだ。おれが蜜をもってると、近づいてくる。だが毒をもってると思うや、離れ、犠牲にすらしようとする」と彼は言う。
 昨年8月30日に国連が実施した住民投票で独立が選択されないよう彼は住民を迫害した。それをインドネシアは支援していたと、彼はこの1年言い続けてきた。彼と彼の部下たちは、インドネシア領西ティモールに東ティモール人を連れていき、彼らを捕らえたまま、この13万人は未来に向けての「武器だなどと言っている。
 昨年4月17日、彼が、彼の率いる暴力集団に、独立派のマヌエル・カラスカラォン宅を襲撃するよう命令している、否定しがたいビデオ証拠が存在している。「すべての民兵に命令する。もしやつらが抵抗すれば、射殺せよ。」そうグテレスは言っている。その夜、カラスカラォン宅では十数人が死んだ。グテレスは、今、この事件との関係を否定している。1年前は「あれはやれねばならないことだった」と言っていたにもかかわらず。
 数百人もの東ティモール人が、いかに彼と彼の部下たちが住民投票前に人々の家にやってきて、殴り、家族を殺し、家を焼き尽くしたかについて証言する用意ができている。
 西ティモールのアタンブアでは、3人の国連難民高等弁務官事務所スタッフが殴られ焼き殺された9月6日、彼がアタンブアにいたと証言する人たちがいる。メガワティ副大統領が臨席した9月24日の武装解除式で、グテレスと彼の部下たちは一旦は提出した銃を奪い取り、2人の国連のオブザーバーを命の危険を感じるほどまでに威嚇した。


エウリコ・グテレス

 そしてグテレスは今、インドネシアの世論を二分し、インドネシアが自らの血塗られた過去を受け入れることができないでいる事態に挑戦している。
 この28才の男は果たして愛国主義的英雄なのか、それとも国の恥なのか。彼は裏で糸を引いてはいて
も自らは安全な軍の将校たちに代わって、未だその責任を認めない焦土作戦の責めを一手に引き受けることになるのだろうか。あるいは、彼は時流に乗ってのしあがり、夢にすら見なかったほど裕福になり権力をもつにいたった、単なるばくち打ち、ゆすり屋の用心棒にすぎないのか。
 「彼はわれわれの友人だ。統合派民兵の指導者であり、祖国を失ったのだ。国連にひれ伏して彼を逮捕するなんて、この国は何という卑劣な国なんだ」
 そう言うのは、インドネシアの国権の最高機関、国民協議会議長アミン・ライスだ。
 メガワティ副大統領にいたっては、グテレスを彼女の政党「闘争民主党」の青年組織である「バンテン・プムダ(青年牡牛)」のリーダーにしている。「治安当局は俺がメガワティになど近づけないと思っているだろうが、本当は彼女の携帯電話に直接かけられるんだぜ」とグテレスは言う。
 今年初め、西ティモールのクパンでグテレスが武器不法所持容疑でつかまり無罪放免となったとき(グテレスが民間人か軍人かはっきりしていないからというのが裁判官の弁だが)、彼はジャカルタのど真ん中で闘争民主党によるデモの指揮をとっていた。
 「エウリコは英雄なんかではない。犯罪者だ」と言うのは、(アメリカの人権団体)ヒューマン・ライツ・ウォッチのジョー・サンダースだ。「彼はインドネシアの世論を操作して自分をあたかも犠牲者であるかのように描かせることに成功した。インドネシアの高官たちはそれを傍観している。」
 グテレスはインドネシアがその名において行った残虐行為についてもっているアンビバレンス(二重性)をよく現している。昨年、ドキュメンタリー作家デイビッド・オシーがつくったドキュメンタリーの中で、ノーベル平和賞をとったジョセ・ラモス・ホルタはグテレスが独立派の両親をもつ子どもだったころのことを次のように語っている。
 「彼は実に悲劇的な人間だ。彼は4才のとき目の前で父親を殺された。そしてフレテリンに入った。その後インドネシア軍に捕まりひどく殴られ、拷問されて、インドネシア側についた」
 グテレスの父親を殺したのはインドネシア軍だった。それから何年かたって、10代後半になったこの戦闘的な若者は、1991年11月、サンタクルス墓地(ディリ市)でインドネシア軍が追悼者を百人近く虐殺したとき、デモをした群衆の中にいた。グテレスは捕らえられ、インドネシア警察によって獄につながれた。それが彼の人生を変えた。若きグテレスは、今度は、インドネシアとの統合の熱烈な支援者として現れた。
 1995年、彼は「ガルダパクシ」(統合称揚青年戦線)というスハルトの娘婿であるプラボウォ将軍が独立派への対抗組織としてつくったグループのトップ・リーダーのひとりに採用された。
 このインドネシア政府がすべて資金を与えたガルダパクシは、1995年から1998年後半にいたる時期、独立支持者と思われた者たちに対する攻撃をおこなった。ガルダパクシを解散するよう国際的な圧力、また教会からの圧力が増したとき、グテレスはそれを解散したものの、昨年になって、今度は国軍のバックアップをえて「アイタラク」(棘)という民兵組織をつくったのだ。
 「彼は突然登場したんだ」と統合派スポークスマンだったバジリオ・ディアス・アラウジョは言う。「この若者は突然現れて、確かに若者を、そして群衆をコントロールしていた。ディリの町中をインドネシア国旗をもって練り歩いたのは彼が最初の人間だ。それにテレビでいいコメントもした。それでこいつはわれわれの使命遂行の手助けになるいい奴だと思ったんだ。」
 これといった訓練を受けたこともないグテレスは優しげだがタフな演説スタイルを発達させた。「泣きたくなかったら、独立など望んではだめだ。父や息子をなくしたくなかったら、妻や財産をなくしたくなかったら、独立など望んではだめだ。」
 グテレスはオシーにこう語った。「おれは小さな民たちを、彼らの無知を利用する連中から守ってやろうとしただけだ。連中はずっと苦しんできて平穏に生きたいと思う東ティモール人の運命をもてあそび、その尊厳をもてあそんでいる。」
 昨年、ディリでグテレスは群衆を前にこう演説した。「5万人の兵力があれば、東ティモールなんて一瞬で終わりだ。もしおれが邪悪ならばだが。しかしおれはいい人間だ、いい人間なんだ。」
 インドネシアにはグテレスの考えが彼らと同じであってほしいと思う人が大勢いる。そして、もし彼がうまくたちまわれば、彼は10万人以上の難民たちの未来のリーダーとなるかもしれないのだ。
 今年8月、東ティモールの独立派指導者、シャナナ・グスマォンは和解を押し進めるためグテレスに未来の国防相のポストを与えようとした。しかしグテレスはそれを断った。「なぜって、おれはインドネシア人だからだ。自分の国は裏切れないし、そういう申し出があったからって国を売るわけにはいかない。」
 お返しにグテレスは、もし東ティモールが将来インドネシアに再統合をはたし自治州となったら、シャナナには州知事ポストをやると言った。「大衆もおれも、彼を支持するよ」と彼は語った。
 独立をめぐる住民投票で負けたのは彼の側だったということを思い出すまでは、東ティモール問題の平和的解決は、少数派の統合派の気持ちを理解し、東ティモールを両派で分割する以外にないという彼の主張もあながち理不尽には聞こえない。また彼はインドネシアは彼とその部下数千人を認知し支援することで、民兵の中に(彼という)怪物をつくりだしたことの責任をとるべきだと言うが、これもまちがってはいない。
 「もし解散を強制されても、人々は強制できないと思う。われわれの組織は解散させられたが、われわれを団結させる絆があるんだ。時々、何百人もの部下がおれの家に来る。彼らはまだおれを指導者と見なしている」と先月、彼は「デティックワールド」に対して語った。
 銃を振り回すことで名を馳せたこの男も、今では煙の出る銃をいくつかもつだけだ。
 「今が東ティモールの人権侵害について話を始める出発点だ。もし人権侵害について話し出したら、東ティモールの誰一人として手の汚れてないやつなどいない。東ティモール人の手はみな血にまみれてるんだ。みな汚いんだよ。そのくせ今になってみな、天使だと言わんばかりに、手を洗ってる。もし過去に人を殺したことがないっていうんなら、それを証明してみろ」と彼は言う。
 彼はかつての人権侵害事件も調査するよう求めている。例えば1959年、ポルトガル時代におきた事件では数千人がビケケで殺された。また1965年、1975年にはポルトガル軍が何千丁ものライフルを残していったために紛争を避けられないものにしてしまった。
 また彼は、まずもってバハルディン・ハビビ元大統領が、独立をめぐる住民投票を許したということで裁判にかけられるべきだと考える。
 「ハビビはおれに、神も悪魔も東ティモールの紅白旗(インドネシア国旗)をひきずりおろすことはできないと言った」とグテレスは逮捕されたときに語った。「私はここで闘う。おまえはそこで闘いを続けるのだ」とハビビは彼に語ったそうだ。
 「実際には誰が責任者か、今は言うまい。すべての政治家が取り調べを受けたあとで最後に言おう。そのとき、おれはおれにつきつけられた疑問に答えよう。」
 今までのところ、グテレスの厚かましい主張はうまくいっている。彼が独立決定前の東ティモールで賭博・闘鶏王だったころ、どれほどの富を築いたのか、もし築けたとしてだが、誰も知らない。ただ彼の妻はたくさんの金の指輪をはめ、クパンの新しい家に住んでいる。グテレスはクパンで「ティモール・ファイル」という反独立派の新聞を出している。彼自身は10月4日に逮捕されるまで、ジャカルタの三ツ星ホテル、アカシア・ホテルに暮らしていた。
 先週、ひげものび疲れ果てた目をしたグテレスは警察の留置所から連れ出され、西ティモールから彼の釈放をもとめてやってきた支援者たち30人と面会した。かつてはおべっか使いの連中に胴上げされていたこの暴徒集団の親分は、そのとき、警察で支持者とともに泣いた。支持者たちはそのお返しに指を刺して血を一枚の白い布の上にしたたらせ、忠誠の証しとしてそれをグテレスに差し出した。
 「おれが泣いているのは、今にいたるまで、政府がおれたちの闘争を認知してくれないからだ。インドネシアという国はでかいが、その勇気ときたら小さいんじゃないか」と彼は言った。

(訳・松野明久)


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