季刊・東ティモール 1号(October 2000)

連れて行かれた子どもたち
インドネシアの孤児院にいる東ティモール人

Timor's stolen children abandoned

オーストラリアの新聞「ジ・エイジ」紙、2000年10月25日
リンゼイ・マードック
The Age, 25 Oct., by Lindsay Murdoch



 インドネシアに連れて行かれた東ティモール人の子どもが多くいるといいのは言われていた。その実態を描いたこのメルボルンの新聞「ジ・エイジ」の記事はめずらしいものだ。(同じ記者の同様の記事はシドニー・モーニング・ヘラルドにも掲載されている。)

 ネルシア・エマクラダ・デ・ネルシオは、数十人の子どもを預かる中部ジャワの孤児院のベッドの縁に座り、ぼろぼろになった写真を握りしめていた。今やその写真だけが彼女と家族をむすびつける絆なのだ。彼女の家族は、数百キロも離れた西ティモールのごみごみした難民キャンプのどこかにいる。
 親について聞くと、7才になるネルシアは写真を誇らしげに掲げ、父親の名前はアントニオだと言った。母親の名前は思い出せない。
 昨年インドネシアが東ティモールから撤退したときの騒乱の中で、西ティモールに逃れた両親から引き離され、中部ジャワの貧しい孤児院に入れられたネルシアのような子どもは130人もいる。
 本紙が人道援助関係者などから聞いたところによると、こうした子どもたちはインドネシア派の東ティモール人によって、インドネシアとの再統合を求める政治活動家として教育するために連れてこられたのだという。
 人道関係者は、昨年東ティモールで騒乱がピークに達したとき、その後西ティモールのキャンプから、連れ出されたこうした子どもたちは1000人ほどいて、ここの子どもたちはその一部だと考えている。彼らはまた、多くのこうした子どもたちがインドネシアの工場、プランテーションで厳しい労働をさせられたり、売春を強要されたりしてはいないかと心配している。
 本紙はこのうち130人の子どもを見つけた。年齢は7才から17才、カトリックのシスターとボランティアが食事、衣服、薬などの世話をしているいくつかの質素なシェルター孤児院に暮らしている。
 子どもたちの多くは深いトラウマをかかえており、3年間は親に会いに帰れないと言われている。たとえできたとしても、ジャワに戻って教育を続けなければならないとも言われている。
 ある孤児院では、57人の少年が雨漏りのするひとつの屋根の下で暮らしている。23人の少女は小さな家の3つの部屋に寿司詰めにされている。80人の子どもに対してトイレは4つだけ、なべは数個しかない。
 人道援助関係者や国連職員は、西ティモールのキャンプにいた親たちは、ジャワでよりよい教育を受けるためと説得され、混乱の最中、未来への不安もあって子どもたちの出発を了承したのだと言っている。
 中には(承諾する)書類を目の前に突き出されサインさせられたと国連に訴えた親もいる。この親子の引き離しをアレンジした人物が使う論理は、かつて白人オーストラリア人がアボリジニの子どもたちを親から引き離したときの論理と似ている。こうしたひき離しは国連子どもの権利条約の精神に違反するものだ。
 一方、泣きじゃくる子どもたちは西ティモールからフェリーで連れてこられ、昨年11月、あるいは暮れのクリスマス・イブに、スマラン市のカトリック教会に預けれらた。教会に事前の相談はなかった。
 孤児院のシスターたちは、子どもの多くが悪夢にうなされ、ひどくうち沈んでいると言う。孤児院は深刻な資金不足をかかえながらも何とか基本的な教育を与え面倒を与えようと努めている。
 教会は子どもたちが政治的に利用されるのを恐れ、彼らを連れてきた人物の訪問を制限している。
 スマラン司教事務所のパウルス・ムジラン氏は、教会は東ティモールの政治には関わり合いたくなかったのであって、だまされた気分だと語っている。
 「われわれは子どもたちの面倒をみるのが仕事だ。この子たちについて何か企んでいる者がいるのはよくわかっている。政治的な思惑をできるだけおさえるため、連れてきた人物と子どもたちとの接触をできるだけおさえるようにしている」と彼は言う。
 その連れてきた人物というのは、西ティモールの難民キャンプでの暴力・迫害に責任をもつ民兵と深い関係にある。
 そのうちの一人、オクタビオ・ソアレスはジョクジャカルタを拠点とするよく知られた東ティモール人学生活動家だ。彼は訪問中の西ティモールから電話で、昨日、また子どもたちをジャワに送って適切な教育を受けさせる手はずを整えたと語った。
 「彼らは戦争ですべてをなくした。国もなくした。子どもたちには未来をなくしてほしくない。正直言うと、子どもたちをジャワへ連れてきたとき、計画は何もなかった。幸い、カトリック・シスターたちが面倒みてくれることを了承した。本当に自発的にだ。ぼくを責めないでくれ。本当に人道的目的だけでやってるんだ。」
 ソアレス氏は、子どもたちを訓練して民兵や兵士にしたて、東ティモールに戦闘のため送り返そうなどといった政治的目的はないと言った。「それは単純すぎる、おろかしい。もしそういう邪悪な目的をもっていたら、子どもたちを移動させて勉強させるより、武器を買った方がいいじゃないか」と。
 彼は少なくとも1000人の東ティモール人の子どもに教育を与えたいと言う。「少なくとも9年間の教育を施して、大きくなったとき、自分たちの政治的権利のために闘える完全でりっぱな人間になってほしいんだ。」
 彼はもっと多くの東ティモール人の子どもをジャワに連れてきたいと言う。「計画は遅れている。両親からの正式な承諾が必要だからだ。子どもを誘拐したと言われたくないからね。かなり多くの親が子供をジャワに勉強に連れていってくれとぼくに言うんだが、十分な金がないんだ。」
 彼は130人の子どもたちをジャワに連れてくる資金を政府がスポンサーとなっている「ナショナル・フォスター・ペアレンツ・プログラム(GNOTA)」から得たと言う。このプログラムはスハルト元大統領の義理の娘(二男の妻)ハリマ・バンバン・トリアトモジョがスタートさせたものだ。
 ソアレス氏は、アビリオ・ソアレス元東ティモール州知事の甥にあたる。元知事といえば、昨年の暴力・破壊に関与したとして容疑を受けている人物で、彼の妻が「ナショナル・フォスター・ペアレンツ・プログラム」の東ティモール担当議長になっているのだ。
 多くのインドネシア派東ティモール人グループが東ティモールが再びインドネシアと統合されるという希望を捨て去っていない。民兵の指導者たちは東ティモールの分割を求め、そこをインドネシアに戻して、独立に反対した人々が住めるようにしたいと考えている。
 「20年以上かかろうと、東ティモールをインドネシアに戻そうという計画がある。そのためにこの子たちを使う計画だ」と、オクタビオ・ソアレスを知るある人は言った。
 スマランの南50キロにある聖トマス孤児院にいるフランシスコ・ティルマン(12)は本紙に対し、自分は不幸で、家族が恋しい、とくに5才になる妹のジュリエッタにはさよならもいえずに来てしまったと語った。
 「家に帰りたいと言ったらオクタビオ(ソアレス)はひどく怒った。」そう言って彼は後ろを向いて涙をこらえた。「親に手紙を書いたけど、返事はこなかった。」
 人道援助関係者は、こうした子どもの両親の多くは子どもの居場所を知らないと推測する。子どもたちが書いた手紙の大半は返事が返ってこないのだ。
 同じ聖トマス孤児院にいるアルダ・ペレイラ(13)は、家族にとても会いたいと言う。「3年後にしか会えないの」と彼女は言う。
 しかし、アルダの父、アガビオト・ドス・サントスは、6月16日、子どもを返してほしいという手紙を書いていた。「もし子どもがそこにいたくないのなら、孤児院に両親に子どもを返すよう頼んだ方がいい。お願いだ。子どもたちを私たちに返してほしい」と彼は手紙に書いた。その手紙はアルダにも届いていた。
 聖トマス孤児院のシスター・マリア・フランシーヌは、子どもたちは慣れるのに苦労していると語る。「ある時雨が降って雷が鳴ったとき、一人の子が『伏せろ』と叫んだの。そうしたらみな机の下にもぐりこんでしまったわ。」
 孤児院に着いたとき、マラリア、結核などの病気にかかっていた子どももいる。「多くの子どもが彼らの言葉(テトゥン語)で話しているわ。よく叫んだり、けんかしたりしている」とシスターは言う。
 しかし先週末、めったにない教会の2日間のキャンプで、聖トマス修道院の子どもたちは13才になるパウリナ・ソアレスのことをいたく気遣った。別な孤児院の子どもが、軍人だったパウリナの父親が2ヶ月前に死んだと言ったのだ。彼女はひどく狼狽して食べようとしなかった。ほかの子たちがゲームなどの活動に誘おうとしたが、彼女は宙を悲しく見つめたままだった。
 子どもたちを2度訪問した国連難民高等弁務官事務所のスタッフは、本紙に対して月曜日(10月23日)、両親と連絡をとり家族再会を手配したいと語った。
 しかし9月6日に3人の国連スタッフが殺され、国連や国際的な援助団体がすべて西ティモールから引き揚げてしまったため、計画は前へ進んでいない。
 「家族の一体性の原則がここでは重要だ。UNHCRはこの子たちと西ティモールないしは東ティモールにいる親たちとの再開の努力を支援するつもりだ」とUNHCRのディリのスポークスマン、ピーター・ケスラーは言う。
 数はわからないが西ティモールから東ティモールにもどっている親もいる。すでに6家族がディリのUNHCRにジャワから子どもを連れ帰ってほしいとの依頼を出している。国連は彼らの子どもたちがジャワの130人の中にいることを確認している。
 ケスラー氏は、UNHCRは12万人が事実上の人質となっている西ティモールでの活動ができないため、難民へのアクセスがあるインドネシア人の援助関係者に子どもたちの親を捜してほしいと依頼している、またUNHCRは東ティモールに戻った親たちを捜すと言った。
 ジャカルタにいる人道援助ワーカー、ソニ・コドリ氏が本紙に語ったところによると、両親から引き裂かれて東西ティモールからインドネシアに連れてこられた子どもたちは1000人にのぼるだろうとインドネシアのNGOは見ているらしい。
 「その子たちが工場やプランテーションで過酷な労働をさせられたり、売春をやらされたり、ひどい扱いを受けているのではないかと心配しているが、証拠をえるのが難しい」と彼は言う。
 2ヶ月前、コドリ氏は東ティモール人の子どもが連れてこられていると聞いて、東ジャワのシトゥボンドにある孤児院をたずねた。彼は早朝に着いたが、管理者が付近にいなかったので7才ぐらいの少年にどこから来たのとたずねたら、「東ティモール!」と答えた。
 しかし12才ぐらいの別な少年が近づいてきて、その子を殴った。「おまえはクパンからだろ!」とその年上の少年が言った。そしてその子は中へ引きずり込まれた。その後管理者に聞いたら、この孤児院には東ティモールの子どもはいないと言われた。
 UNHCRはイエズス会難民サービス(JRS)があるカリマンタンの孤児院に16人の東ティモール人の子どもがいることをつきとめたと聞かされた。
 コドリ氏は、いかなる状況であれ子どもが親から引き離されるというのはまちがっていると言う。
 「この子どもたちは自分の親、自分の文化から連れ去られ、他人の影響下におかれている。国連機関とインドネシア政府は彼らの親を捜し出し、家族再会を果たすようただちに策を講じるべきだ。私はこの子たちがある特定の政治グループの餌食になりはしないかと大変心配している。」


[訳者注]

 この記事に登場するオクタビオ・ソアレスはかなりファナティックな統合派の活動家としてよく知られている。彼の父、ジョゼ・フェルナンド・オゾリオ・ソアレスはアポデティの事務局長だったが、1976年1月に、オクタビオ自身の記述によれば、フレテリンに処刑された。オクタビオはジョクジャカルタにあるガジャマダ大学で医学を学んだ。「東ティモール学生運動/スタディー・クラブ」を1996年12月につくり、ラモス・ホルタのノーベル平和賞受賞に反対するキャンペーンを展開した。ホルタをオスロまで追いかけて、先々で抗議行動を行っている(といっても1人か2人で)。またジュネーブの人権委員会にも顔を出し、インドネシアの立場を弁護する東ティモール人としてインドネシア政府代表団と一緒に行動し、ロビー活動したりしている。

(訳・松野明久)


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