インドネシアにおける東ティモール支援活動の歴史

1998年6月作成

以下はインドネシア人による東ティモール支援といえる活動や出版です。公表されない活動もたくさんあるでしょうし、私たちがつかんでいない活動もあるだろうと思います。

1974年

11月10日 「首都カトリック青年世代運動」(Gerakan Angkatan Muda Katolik Ibukota)が、インドネシア司教会議に対し、東ティモール情勢についての声明を提出。共産主義の脅威をとくインドネシア政府の宣伝を批判し、東ティモールの独立がインドネシアの脅威となるのはインドネシアの体制がおかしいからだと主張。ジョージ・アディチョンドロは声明の執筆者の一人。

1984年

ロンドンに拠点をおくインドネシアの人権に取り組む団体「タポル」のカルメル・ブディアルジョとリム・スイ・リオンが『東ティモールに対する戦争』(英語)を共同執筆。リムは華人系インドネシア人。この本は『地図から消された東チモール』(ありえす書房)として日本語にも翻訳された。リムは亡命インドネシア人として東ティモール支援運動の世界的な推進役となる。

1987年

11月 第5回NFIP(非核独立太平洋会議)を機に、東ティモールについてのアジア太平洋協議が開かれ、リム・スイ・リオンが参加。

1991年?

8月 国連非植民地化特別委員会で、ハシュルル・ジュナイディがインドネシア人として初めて東ティモール人の闘いを支援する陳述を行う。

[サンタクルス虐殺(1991.11.12)]

11月14日 ジャカルタでインファイト(INFIGHT)、人権擁護協会、「正義を掲げる連盟」の3団体が国会を訪れ、野党民主党の4人の議員と面会し、議会としての独自の調査団を組むべきだ、軍総司令官に彼自身が認めた50人の死者名簿を公開するよう迫るべきだなどと申し入れた。

11月14日 インドネシア司教会議は、人命の損失を遺憾とする声明を発表。また軍の行き過ぎた弾圧を非難した。

11月18日 ジョクジャカルタ学生連合(Ikatan Mahasiswa Yogyakarta)は3日間の会議で住民投票を求めるなどの内容の東ティモールに関する声明を全会一致で採択した。

11月19日 ジャカルタで東ティモール人・インドネシア人合同のサンタクルス虐殺に抗議するデモが行われる。

11月20日 プリンセン氏(人権擁護協会)、ヨピー・ラスット氏(新人生協会:政治囚を世話する団体)、アマルティウィ・サレー(法律扶助協会)の3人がディリに独自調査に出発しようと試みるが、当日国家安定調整庁の呼び出しをうけて出発できなかった。

11月20日 カトリック・パラヒアンガン大学(バンドゥン)で、ジャカルタでの東ティモール人学生の逮捕に抗議して学生デモが行われる。

11月20-21日 パラヒアンガン大学で開かれた全ジャワ学生会連絡会の総会は、東ティモール問題について討議し、11大学の名において、インドネシア軍の撤退と東ティモール人の自決権行使などを求める声明を採択した。声明はまた人権についての国際的圧力は干渉ではなく連帯だと言明。

1992年

1月 大衆誌『ジャカルタ・ジャカルタ』(1992年1月4-10日号)が国家調査委員会の結論(軍は自己防衛のために発砲した)とくいちがう証言を多数のせる。それが理由でアジダルマ編集長など3人が解雇。

2月 人権団体インファイトが東ティモールについての報告書『殺戮を成功裡に行う:ディリ虐殺とインドネシアにおける政治権力ゲーム』(英語)を出版。

2月 ジュネーブで開かれた東ティモールについての国際連帯会議にインドネシアからヘルミ・ファウジが参加。人権委員会対策などを話し合う。

2月4日 「東ティモール人弁護のための合同委員会」設立。サンタクルス虐殺およびそれに抗議したジャカルタでのデモ関連で起訴された東ティモール人の弁護のための団体。

1993年

7月22-29日 ポルトガル・オポルト大学主催第5回東ティモールシンポジウム「東ティモールとインドネシア:自由、自決、民主主義への道」に、ジョージ・アディチョンドロ講師(サティアワチャナ大)他数人のインドネシア人が参加。

12月 人権・民主グループ「ピジャル」(Pijar)などの活動家たちがサンタクルス虐殺を含む4つの流血事件についてスハルト大統領の責任を求めるデモを国会議事堂前で展開。イェニ・ダマヤンティ他20数名が逮捕、数名が大統領侮辱罪で最高6年の有罪判決。

1994年

ジョージ・アディチョンドロ著『東ティモール:インドネシアの知識人が声をあげる』(英文)がオーストラリアで出版される。

ジョージ・アディチョンドロ著『ラメラウ山の影で』(英文)がオランダで出版される。

5月31日-6月2日 アジア太平洋東ティモール会議(APCET I)、マニラで開催。インドネシア政府の圧力に屈したフィリピン政府の妨害にもかかわらず開かれ、ラフラン・ナシディックなどインドネシア人も参加。

9月 東ティモールの抑圧状況をテーマにした短編小説集、セノ・グミラ・アジダルマ著『証言者(Saksi Mata)』が出版される。(アジダルマはジャカルタ・ジャカルタの元編集長)

1995年

3月27日 オポルト大学主催第6回東ティモールシンポジウムにおいて、タポルのリム・スイ・リオンは「シャナナはジャカルタの若者たちのアイドルになっている」と発言。ポルトガルの新聞に大きく取り上げられる。

1996年

2月 オポルト大学主催第7回東ティモールシンポジウムにムフタル・パクパハン(インドネシア福祉労働組合活動家)が出席し、東ティモールでの住民投票を支持する。また民主人民党(PRD)傘下にある東ティモール支援団体のウィルソンも同シンポに参加。

アブプリヤディ・サントソ著『血の跡:東ティモールにおける悲劇と裏切り』(インハム協会・ピジャル出版)が出され、東ティモール作戦における軍の関与について明らかになる。

7月 社会研究アドボカシー協会(ELSAM)が『今日の東ティモール抵抗運動の根と平和の展望』を出版。これはジェリー・ファン・クリンケン(シドニー大学)の論文のインドネシア語訳で、人道・人権活動で名高いサンディアワン神父が序文を書いている。

11月  第2回アジア太平洋東ティモール会議(APCET II)、クアラルンプールで開催。マレーシア政府の介入で暴徒が会議場を襲撃。多数逮捕。ピウス・ルストリラナンなどインドネシア人も参加したが、強制送還された。

1997年

4月 国連人権委員会で、インドネシアの人権活動家チームが東ティモールにおける女性への性的暴力についての短いレポートを配布。

12月7日 侵略記念日に、数人のインドネシア人青年が法律扶助協会の敷地内で東ティモール連帯のハンストを行う。

12月14日 インドネシア最大のイスラム団体「ナフダトゥル・ウラマ」の青年組織は、サラティガで東ティモールについてのセミナーを開催しようとして、当局の妨害に会う。国家人権委員会の東ティモール人委員を招く。

1998年

3月2-5日 第3回アジア太平洋東ティモール会議、クアラルンプールで開催。インドネシアからヘルミ・ファウジなどインドネシア人、東ティモール人がともに参加。

3月11日 「東ティモール人のための連帯フォーラム」結成。社会研究アドボカシー協会、法律扶助人権協会、法律扶助協会、独立ジャーナリスト協会などのNGOや個人からなり、東ティモールを非自治地域とみなし、問題の解決には東ティモール人の自決権行使が必要だとする立場をとる。

4-5月 民主派の指導者のひとりでイスラム団体ムハマディア議長のアミン・ライスが、東ティモールの住民投票を支持する発言を米国、ヨーロッパで行う。

4月15日 インドネシアの人権活動家チームが、ジュネーブの人権委員会で「インドネシアと東ティモールにおける強制的失踪」のワークショップを開催。

5月7日 「インドネシアの開発に関する国際NGOフォーラム」(INFID)がドイツのボンで開催され、東ティモールについての声明を発表。人権の改善、交渉の進展などを求める。

5月8日 ジャカルタ教育大学で、学生たちがスハルト大統領の罪を裁く模擬裁判を行い、東ティモールにおける虐殺をその罪とのひとつとしてあげる。

5月26日 チピナン刑務所から釈放されたスリ・ビンタンとムフタル・パクパハンが「すべての政治囚」の釈放を求め、法相から肯定的な返事をもらう。「すべての政治囚」はシャナナを含む。

6月15日 法律扶助人権協会、独立ジャーナリスト協会、チュッ・ニャ・ディン女性協会、青年弁護士協議会などインドネシアのNGOが国会をおとずれ、国軍会派と面会し、東ティモールからのインドネシアの撤退と住民投票を求める。


情報活動ホーム