論評

古沢希代子
スハルト後の東ティモール問題---「暫定自治」と包括的和平への道
「軍縮問題資料」1998年10月号掲載


 8月5日、東ティモールにおける長い紛争の幕引きを方向づける重大な合意が国連本部でなされた。8月4日、5日の両日、ポルトガルのジェイミ・ガマ外相とインドネシアのアリ・アラタス外相は、コフィ・アナン国連事務総長の仲介で東ティモールの地位について交渉を行なった結果、東ティモールの帰属に関する決定プロセスを棚上げしたまま、インドネシアの提案した「広範な自治に基づく特別の地位」の内容について協議をすすめ、年内合意をめざすこととなった。

 東ティモールは、1975年12月、ポルトガルからの独立の過程で、隣国インドネシアの軍事侵攻を受け、翌年、インドネシアは東ティモールを「第27番目の州」として一方的に併合を宣言した。国連総会は8回の決議で東ティモール人の自決権を支持し、この一方的併合宣言を承認していない。東ティモールは、89年まで一般外国人の立ち入りが許されず、領域全体が監獄のようだといわれた。山間部でゲリラ活動を継続するFALINTIL (東ティモール民族解放軍)から住民の平和的なデモまで、あらゆる抵抗運動の壊滅をめざすインドネシア軍の弾圧は陰惨をきわめ、東ティモールはスハルト前政権による「人権抑圧」の象徴と呼ばれるにいたった。また、冷戦時代にスハルトと蜜月関係にあった日米豪欧が国連決議を支持しないばかりか、紛争の重要局面でインドネシアをその軍事援助、武器売却、経済援助で支え、長い間現地の惨状に目をづぶってきたことから、「西側人権外交のダブルスタンダード」の典型ともいわれた。

 32年にわたりインドネシアを支配し、東ティモールの侵略と併合を指示したスハルト前大統領。内外の批判に耳をかさず、「変化」や「改革」を敵視し、力によって現地住民を抑え続けきたこの老いた指導者の退陣によって東ティモール問題に抜本的解決の道が拓けるのか。本稿では、さまざまな角度から8月5日の合意を検討し、また、東ティモールの抵抗勢力とインドネシアの民主化勢力の動きに注目しながら、包括的和平実現への展望を試論する。 

■外相交渉の到達点

 ポルトガルは東ティモールの旧宗主国であり、その非植民地化に責任がある主体として非自治地域における「施政国(administering power)」の地位を国際法上与えられている。一方、インドネシアは国際的承認のないまま76年以来東ティモールを自国の一州として「事実上」統治を行なっている。この両国の交渉は、国連総会の討議が延期された83年以来、歴代の国連事務総長の周旋によって行なわれてきたが、実質的な進展はほとんど見られなかった。ポルトガルが、80年代中盤から本格化した国内の市民運動を背景に、91年のサンタクルス虐殺事件、92年の国際司法裁判所への提訴(註1)、そして96年のカルロス・ベロ司教とラモス・ホルタ氏(現在CNRT:東ティモール民族抵抗評議会副議長)のノーベル平和賞受賞といった流れの中で、東ティモール人の自決権を唱道し国連による住民投票の実施を支持する方針を固めた一方、インドネシアは「住民はインドネシアとの統合によって自決を果たした。東ティモールの地位は変更不可能」とし、スハルト前大統領はアチェ特別州程度(宗教と教育分野)の自治を与えることすら拒否したからだ。両者の溝は決定的だった。

 しかし、5月21日にスハルト大統領が退陣すると、新政権による動きは急展開した。

 ハビビ大統領は就任後、国連がインドネシアによる東ティモール併合を承認するなら、東ティモールに外交、防衛、金融・財政をのぞくすべての分野での自治を認めるという方針を打ち出した。大統領はまた、東ティモール人政治囚の一部を釈放するとともに、6月24日にベロ司教と会見し、駐留軍の段階的削減と住民に居住や移動の自由を認めるといった改善策を提示。実際、7月28日に第一陣として戦闘部隊400名を東ティモールから撤退させた。では、こういった動きをふまえて、今回の交渉で何が合意されたのか。

 8月5日に発表された共同コミュニケの骨子は以下である。

(1)広範な自治にもとづき特別の地位を東ティモールに付与するというインドネシアの提案について、両国の原則的立場を侵害しないという前提で、より詳細な協議を行なう。国連事務総長特使(アナン事務総長が97年に任命)の仲介の下、高官レベルの協議を頻繁に行ない、年内の合意をめざす。

(2)解決を模索する上で東ティモール人をより関与させる。この関連で内外の東ティモール人代表との協議を頻繁に行なうという国連事務総長の意向を歓迎する。

(3)東ティモール問題のその他の分野に対する考慮を継続する。駐留兵力の段階的削減や東ティモール人政治囚の釈放などにみられる、インドネシアの前向きな動きに留意する。

(4)「全東ティモール人包括対話」を今年10月までに再開する。

(5)今年末までにそれぞれの首都(ジャカルタ、リスボン)にある友好国大使館内に利益代表部をおき、ビザの発給を相互に緩和する。

(6)次回の高級実務者協議を9月末までにニューヨークで行なう。

 注目すべき点は、第一項目の「両国の原則的立場を侵害しないという前提で」という部分である。 今回インドネシアは(追加:協議の条件としては)「併合の国際的認知が自治付与の条件」という前段での主張を引き下げたことになる。これは画期的なことだ。23年にわたる紛争史の中でインドネシアが「併合は規制事実」という前提を留保したことは今だかつてない。一方、ポルトガルの方も「独立を問う住民投票の実施」を交渉の前提からはずした。両者は今回、東ティモールの帰属の決定方法や時期を棚上げし、暫定的に「自治」の中身をつめていくことに合意したのだ。

 しかし、最大の問題は、今後この「暫定自治」の枠組みと中身について住民の意思をどう確認するかである。現在の交渉主体は「国連、ポルトガル、インドネシア」の三者であり、東ティモール人代表の参加は認められていない。東ティモール人の意向をくみ取る方法として今回合意されたのは、国連事務総長が内外の東ティモール人代表と接触をはかること、そして「全東ティモール人包括対話」(95年に開始された国連主催の会議。併合容認、中立、反対と異なる政治的立場の東ティモール人が内外から参加)の早期開催である。

■東ティモール人の反応

 8月7日の朝日新聞の報道によると、この時期ポルトガルのリスボンに滞在していたジョゼ・ラモス・ホルタCNRT(東ティモール民族抵抗評議会)副議長は、インドネシアとポルトガルの交渉合意を歓迎する一方で、「どのようなものであれ最終的な交渉結果は、住民投票で問われなければならない」と述べた。また、ベロ司教もポルトガル政府から勲章を受けるためリスボンに滞在中で、記者団に対して「住民の間にはインドネシア政府から与えられる自治を拒もうという傾向が強まっている」と、独立をめざす機運の高まりを示唆(註2)、「人々は(独立を問う)住民投票を求めている」と語った。

 一方、シャナナ・グスマォンCNRT議長は、7月31日、収監中のチピナン刑務所(ジャカルタ)で共同通信のインタビューを受け、ハビビ大統領の自治提案について「自治権付与で最終決着とするなら拒否する。住民投票で自決権を行使するまでの暫定的なものなら受け入れ可能だ」と述べている。また、駐留軍の撤退には国際的監視が必要だと強調した。

 CNRTは、併合に反対する東ティモール人諸派(註3)の連合体であり、軍事組織のFALINTIL(東ティモール民族解放軍)もその傘下にある。改めて注目すべきは、CNRTが92年に欧州議会で発表した「三段階和平提案」の存在である。パレスチナ暫定自治方式を先取りしたといわれるこの提案は、インドネシアとポルトガルの二国間交渉の行詰りを打開し、東ティモール紛争の包括的解決を実現するために、三つのプロセスを提示した。

 まず第一段階として、政治犯の釈放、国連機関の常駐、武力対立の停止及び段階的武装解除等が行われる。第二段階がいわゆる「自治」期間で、東ティモール人が独自に行政や議会を運営するようになる。東ティモール内の治安管理はこの段階で警察に移管される。そして第三段階で東ティモールの帰属を決定する住民投票が実施されるのだ。グスマォン議長が「和平プロセスの一段階としてなら自治を受け入れる」と述べたのはこの「提案」にもとづいてのことだ。CNRTは、第一段階から第三段階までの期間を5年から10年と想定し、インドネシア政府がその政策を周知させるにも、住民が判断を下すにも充分な時間だと説明する。

 今回の合意の対象となった「暫定自治」の枠組みとCNRTの和平案は類似している。しかし、最も重要な相違点は、住民が彼らの運命を左右する重要な決定にどうかかわれるのか道筋が示されているかどうかという点にある。

■「民族和解プロセス」としての住民投票

 東ティモールの歴史をふり返ってみると、住民にとって自決権の正当な行使がいかに重要か理解できよう。東ティモールは、住民が自ら選び取ったものとしてではなく、ポルトガルの植民地となり、大戦中日本軍に占領されたかと思えば、戦後はポルトガル支配が復活、ポルトガルの独裁政権が崩壊し独立の機運が高まると、今度は隣国インドネシアに侵略・支配された。

 東ティモール人は、本当に長い間、外国人の支配者から「お前は私に協力するのか」と威嚇され続けた。しかし、最後の支配は東ティモール人の心に最も大きな傷をおわせた。

 インドネシアは、FRETILIN(東ティモール独立革命戦線)を共産主義者よばわりし、UDT(ティモール民主同盟)との独立を目指す連合を引き裂き、75年8月、UDTにポルトガル政庁に対するクーデターを起こさせ、FRETILINとの内戦を導いた。さらに、内戦に敗れインドネシア領内に避難したUDTの併 9gGI;XF3<T$?$A$K!V%]%k%H%,%k@/I\$,FRETILNの独立宣言を承認した」という虚偽の情報を与え、交渉による解決に希望を抱いていた彼らを絶望させ「合併請願」を出させた。また、こういった情報操作の痕跡を抹消するため、外務省は「合併請願」の原文を国連発表用に書き改めた(註4)。さらにインドネシアは、75年12月、陸、海、空から東ティモールに侵攻すると、全土を封鎖し、76年5月、37名の住民を選んで「住民代表者会議」を開催させ「合併請願」を決議させた。その後、インドネシアは抵抗派殲滅のために何度も大規模な軍事作戦を展開し、戦闘、飢餓、伝染病で約20万(侵攻前の人口の約3分の1)の住民が命を落とした。この間、東側の介入は皆無だった。

 軍事占領下で生きる東ティモール人にとって、インドネシア国旗に忠誠を誓い、「国会・地方議会選挙」で与党ゴルカルに投票することが「雇用」と「安全」の方便だった。一方、軍と治安当局は、自ら抵抗派の処刑、拷問、強姦に手を下す他、東ティール人をスパイに仕立てたり、軍事訓練と報酬を与えて「ガルダ・パクシ」や「ニンジャ」(註5)と呼ばれるテロリスト集団を培養し、抵抗勢力に対するテロや騒乱の糸をひいた。

 インドネシア政府は「住民投票を行なえばふたたび内戦が勃発する」と喧伝しているが、それはむしろ逆で、国連の監視の下、無記名の全員投票で共通の未来を選び取ることこそ、分断支配に傷ついた住民の「和解」を促す「癒しのプロセス」なのである。また「公正な自決の手段」を奪われたままでは抵抗勢力は決して納得しないだろうし、恒久的な紛争の集結もない。他の紛争地と比較する際、東ティモールのひとつの「救い」は、FALINTILがインドネシア軍のみを攻撃対象とし、東ティモールでもインドネシアでも市民をまきこむような無差別テロを一切行なわないことだ。かつてラモス・ホルタ氏は日本でこう語った。「解放勢力が決してやってはいけなこと。それは抑圧者と同じ手法に手をそめることだ。」

 では、次回の「全東ティモール人包括対話」を利用して東ティモール人自身がそのプロセスを導く可能性はあるだろうか。それは今までのやり方では不可能だ。まず、政治問題は討議できないといったルールがなくなること、また前回まで見られたインドネシア政府の行為、つまり、現地から参加する東ティモール人に圧力をかける、全参加者で練り上げた「合意」を会議後「併合派」の参加者に撤回させるといった行為をやめさせることが必要である。9月に予定されている高級実務者協議ではこの点が明確にされなければならない。

■「暫定自治案」の争点

 もし「暫定自治案」がかなりの程度東ティモール人の権利を保障するものになれば、独立を問う住民投票の前に、この「暫定自治案」自体が住民投票にかかる可能性もあるだろう。帰属決定のプロセスが書き込まれるかどうかが問題だが、その他にも多くの争点が予想される。中心的なものを以下にまとめる。

 インドネシア政府の権限に関して:[外交]東ティモールに関連する問題の扱いや地域・国際会議における東ティモール人の代表権をどうするのか。[防衛]インドネシア軍は対外防衛のみを担当するが、どこまで、また、どのような条件でその活動領域の拡大を容認するか。残留兵力数をどう設定するか。軍の撤退には国際的監視が必要ではないか。[経済]外交と同じ。[司法]インドネシア政府の権限分野に関する法規はインドネシアの法律にもとづくが「東ティモールにおける解釈・適用は地方当局の権限」と明記できるか。

 東ティモールの地方当局の権限に関して:[立法権]立法権は地方議会がもつが、議会法、選挙法、政党法などの関連法規はインドネシアの国内法が適用されるのか。[行政権]行政府の長はどのように選出するのか。直接選挙か、議会による選出か。[司法権]最高裁を含む(またはインドネシア最高裁への控訴権を含む)独立した司法をもつのか。[公共の秩序]東ティモールの法と秩序の維持は地方当局の責任範囲なので、地方当局は独立した独自の警察組織をもつのか。[経済・財政]経済政策策定における協議義務、そして地方当局の課税権限を明記できるか。[社会関連]インドネシア人移民・移住関連の問題をどう管轄するか。移民と現地住民から構成される協議会等の設置が適当か。

■共鳴する民主化と和平

 さて、ハビビ大統領の肩を押し、依然として東ティモール人に高圧的かつ暴力的な対応を続ける国軍との調整に入らせた要因のひとつは、国内世論の動きである(註6)。

 もちろんインドネシア人の取り組みは今に始まったものではない。特に91年のサンタクルス虐殺事件以降、占領下の社会経済状況に関する研究、国際会議への参加、国内でのセミナーの開催、政治囚の裁判及び留守家族の支援、軍が関係する殺害・拷問・強姦・失踪事件の調査、ハンスト、デモ等々、様々な活動が展開されてきた。しかし、スハルト退陣前後には、それらはより組織的となり、また、重要なオピニオンリーダーが東ティモールについての見解を公にするようになった。

 3月11日、PBHI(法律扶助人権協会)、AJI(独立ジャーナリスト協会)、ELSAM(社会研究アアドボカシー協会)などのNGOが「東ティモール連帯フォーラム」を結成し、東ティモール人の自決権を含む人権の支援が掲げた。6月15日、PBHI、 AJI 、青年弁護士協議会、チュッ・ニャ・ディン女性協会などによる「東ティモール問題の平和的解決のための連帯」が、初めて国会内で国軍会派と面会し、東ティモールからの軍の撤退と住民投票の実施を求めた。

 7月17日、もうひとつの画期的な会談が実現した。ベロ司教が、ジャカルタで、メガワティ元民主党党首とナフダトゥール・ウラマ(最大のイスラム教組織)のワヒド総裁(民族覚醒党を結成)と会見したのだ。両氏は、東ティモールの帰属の決定には住民の意思が反映されなければならないとする司教の立場を支持し、司教と連携して問題の解決に努めると表明した。すでに、第二のイスラム教組織、ムハマディアのアミン・ライス総裁(8月中旬新党結成予定)は国連による住民投票の実施を支持すると表明している。いまだに東ティモール紛争の原因を「イスラム・カトリックの宗教対立」と誤解する内外の論者が多い中、イスラム指導者たちの自決権に対する理解は決定的に重要な意味をもつだろう。また、これまで「併合容認」発言が報道されてきたメガワティ氏の今回の動きによって、民主化運動の中心的指導者の間で東ティモールに関する足並みはそろった。

 これらのインドネシア人の声が厚みをまし強くなればなるほど、暫定自治の枠組みと中身をめぐる東ティモール人の条件闘争は有利となり、同時に「東ティモール人とインドネシア人との和解」も加速される。厳しい経済状況と軍や守旧派にいよる反動の可能性の中で、改革派は東ティモールのみならず、スハルトが痛めつけたイリアン・ジャヤやアチェの人々の問題にも正面から向き合おうとしている。人権伸長の主役はすでに当事者たちに移ってきた。「対話」を重視する彼らの努力や彼らの安全を援護する国際協力が急務である。(ふるさわきよこ・恵泉女学園大学専任講師)

(註1)89年に東ティモール南方の未画定国境海域にねむる石油・天然資源を開発するためインドネシアとオーストラリアが共同開発条約を締結。ポルトガルはこの動きを東ティモール人の資源主権を脅かすものとし、国際司法裁判所に対して同条約の裁定受諾条約批准国であるオーストラリアを訴えた。

(註2)6月6日、州政府が東ティモールのディリで「自治付与」に関する政府提案を説明する会を開催すると、1000をこえる若者がつめかけ、会場は独立をめぐる「住民投票」を求める声で埋めつくされた。元併合派だがインドネシアの統治に批判的な元州知事のマリオ・カラスカラォンや元併合派の住民によって昨年結成された「民族和解統一運動」も現在、住民投票の実施を求めていいる。一方、6月12日、ジャカルタでは1800人の東ティモール人が外務省前に集結し、住民投票の実施、政治犯の釈放、軍の撤退を求めた。彼らは出動した軍隊によって暴力的に解散させられ、多数の負傷者が出た。

(註3)政党としてはFRETILINとUDTがともに参加。今年4月、UDTはシャナナを指導者とすることに合意した。

(註4)この「バリボ宣言」をめぐる経緯は、大阪外大の松野明久助教授によって明らかにされ、95年3月の国際会議で報告された。

(註5)7月中旬、大量のインドネシア人移民が国境を越えて東ティモールから退避したと報道されたが、背景にはこれらの暴力集団による脅迫や襲撃あったとの情報がある。

(註6)アラタス外相は軍部も政府の自治案を支持していると述べている。(8月6日「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」誌)

(ふるさわ・きよこ、恵泉女学園大学専任講師)


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