論評

古沢希代子
「インドネシアの民主化と東ティモール和平の行方---フェルナンド・デ・アラウジョさん、ヘルミ・ファウジさんに聞く」
出典:アジア太平洋資料センター「月刊オルタ」1998年8/9月号


 インドネシアによる東ティモール併合宣言から22年目の7月17日(註1)、ノーベル平和賞受賞者のベロ司教が、ジャカルタでメガワティ元民主党党首と「ナフダトゥールウラマ(NY・註2)」のワヒド総裁と会見した。両氏は、東ティモールの帰属の決定には住民投票が必要であるという司教の立場を支持し、司教と連携して問題の解決に努めると表明している。すでに、「ムハマディア(註3)」のアミン・ライス総裁は住民投票支持の態度を明らかにしており、従来「併合容認」の発言がめだったメガワティ氏の今回の動きによって、民主化運動の中心的指導者の間で東ティモール問題に関する足並みがそろった感がある。
 今回の政変を契機にインドネシア人と東ティモール人の関係はどう変化したのか。「東ティモール全国スピーキングツアー」(主催:東ティモールに自由を!全国協議会、協力:アムネスティ・インターナショナル日本支部)で来日した活動家、フェルナンド・デ・アラウジョさん、ヘルミ・ファウジさんの二人に聞く。

■チピナン刑務所の友

 東ティモール人のフェルナンド・デ・アラウジョ(32才)は、今年3月に釈放されるまで6年4ヶ月、ジャカルタのチピナン刑務所に収監されていた。罪状は「国家反逆罪」。1991年11月、インドネシア軍によるサンタクルス虐殺事件(註4)に抗議するデモをジャカルタで組織し、逮捕された。現在はインドネシアで活動する東ティモール人青年組織のまとめ役だ。 6月26日に来日した アラウジョの最初の仕事は外務省の担当者との会合だった。意外なことに、彼が最初に切り出したのは、同じ刑務所に収容されていた9・30事件(インドネシアにおける1965年の共産党「クーデター未遂」事件。事件後、シンパとみられた50万〜100万人ともいわれる人々が虐殺された))関連の長期囚の処遇に関する要請だった。
 「30年以上服役している彼らはすでに老人で病気持ちだ。中には足腰が立たず、ひとりではトイレにもいけない者もいる。私はこういった囚人の水浴びの手伝いをした。スハルトが退陣したというのに彼らは顧みられない。私が出所する時、彼らは『どうか我々を見捨てないでほしい。日本へいったら自分たちの状況を語ってほしい』と語った。この人たちには釈放されても世の中に影響を与えるような活動をする力はもうない。ただ知人に見守られて息をひきとれるというだけだ。『人道的配慮』という一点で彼らを釈放することは可能なはずだ。日本からもインドネシア政府に釈放を働きかけてほしい。」
 スハルト政権下、社会的不満が高まった時に、公正な裁判もないまま、あたかもみせしめのように処刑されていった9・30事件の死刑囚たち。いまだに根強い差別の対象である9.30事件関係者の赦免問題を東ティモール人が取り上げたのである。
 アラウジョによると、チピナン刑務所はいわば「政治学校」だ。所内では労働運動や政治運動の活動家がアチェ、イリアン・ジャヤの独立運動家や東ティモール人活動家と出会い、互いの問題について理解を深めている。海外講演の際「スハルトを独裁者とよばわりした罪」で実刑をくらった元国会議員のスリビンタン・パムンカス(当時は開発統一党員、現在は「インドネシア民主連合党〔PUDI〕」を率いる)は、収監中、東ティモール抵抗運動の指導者、シャナナ・グスマォンと親交を深めた。5月26日、釈放されたスリビンタンとムフタル・パクハハン(インドネシア福祉労働組合〔SBSI〕指導者)はグスマォンを含むすべての政治囚の釈放をムラディ法相に求めている。出所後、スリビンタンはジョゼ・ラモス・ ホルタ(ノーベル平和賞共同受賞者、東ティモール民族抵抗評議会〔CNRT〕特別代表)と組んでオーストラリアを講演旅行することになった。

■東ティモール自決権への連帯 

 アラウジョの来日は予定から大幅に遅れた。スハルト退陣後、 ジャカルタでは東ティモール人も行動を起こしたが、「先輩格」のアラウジョは若者たちを心配して付き添うことになったためだ。6月12日には1800名の東ティモール人がアラタス外相との面会を求めて外務省前に終結し、軍によって暴力的に解散させられた(註5)。その後、一部の参加者がキリスト教青年団体の建物を占拠しウィラント国軍司令官との面会を求めた。この時、軍の包囲を突破してアラウジョたちの様子を確かめに行ったのがインドネシア法事扶助人権協会(PBHI)のヘルミ・ファウジ(32才)である。
 ヘルミ・ファウジは学生時代、「中核農園システム」(商品作物栽培推進のための国家プロジェクト)への強制加入によって、自給的な農業を解体させられていった農民たちの支援運動に取り組んだ。当時、影響を受けたのはスーザン・ジョージの著作。インドネシアの農村がラテン・アメリカやアフリカの農村とつながった感じがしたという。 東ティモール問題に「気づいた」のは、80年代の終わり頃。海外留学や在外研究を終えて帰国したインドネシア人が東ティモール問題に関する英語文献を持ち込んだのだが、彼はそれらの文献と国内で流布されている情報とのギャップにショックを受けた。以後は独自の情報ルート確保に努めたという。 次のステップは1991年のサンタクルス虐殺事件だった。彼は世界各地から虐殺の目撃者がかけつけたジュネーブの国際連帯会議に参加した。インドネシアからは初めての参加者だった。
 ヘルミ・ファウジがスタッフを務めるPBHIの主たる活動は人権啓発と政治犯に対する法律扶助だ。ファウジいわく、「スハルト政権下では裁判の中立性などあてにはならないから法廷闘争一本やりでは社会に影響を与えることはできない。むしろ、9.30事件、イスラム政治犯、東ティモール、イリアン・ジャヤといった問題に関しては、人々に真実の情報を提供して、体制が押した〈烙印〉、なすりつけた〈汚名〉の威力を弱めていくことがより重要だと思った。今後こういう活動はさかんになるだろう。」
 「タブー」への挑戦。6月15日、PBHI、独立ジャーナリスト協会(AJI)、チュッ・ニャ・ディン女性協会、青年弁護士協議会などから構成される「東ティモール問題の平和的解決のための連帯」が、国会内で国軍会派と面会し、東ティモールからの軍の撤退と住民投票の実施を求めた。今回議員(軍人)たちは即答を避けたが、市民の中の声をとどけるためにこういった会合を続けたいとファウジは語る。
 「東ティモールは独立してもインドネシアの脅威にはならない。アチェやイリアンは別途に解決しなければならない問題だ。これからは住民との対話が重要だ。インドネシア解体など、ありもしない想定でアチェやイリアン問題に蓋をしてきたことこそ間違いだ。」

  

■分断工作に抗して

 ハビビ政権になってもまったく変わらない体質。それは「当事者(東ティモール住民)抜き」で一方的に物事を決めようとする、インドネシア政府の家父長的手法だ。ハビビ大統領による「自治付与」提案はその典型例だ。アラウジョは行く先々で強調した。
 「和平プロセスの一段階としての『自治』ならばよい。しかし最終決着としてのものなら、とんでもない話だ。東ティモールの運命を決めるべきは住民だ。ベロ司教やシャナナでさえない。」
 この間、東ティモール人を苦しめているのはインドネシア軍による分断工作だ。脅迫によって人々を「統合賛成」デモに動員する。軍が村人を殺害した後死体を放置してそれを「抵抗派ゲリラ」のしわざと吹聴する。インドネシア軍が自ら訓練し養成した東ティモール人私兵部隊を今後どう動かすかも不安材料だ。今回の「併合記念日」を前に、「ニンジャ」と呼ばれるテロリスト集団は、対立感を煽るため、多数のインドネシア人移民を脅して東ティモールから退去させた。また、香港の「アジア・ウィーク」誌は、スハルト政権末期の暴動の際に発生した華人女性への集団暴行事件について、「実行犯」はこれらの東ティモール人だったという記事を掲載している(註6+訂正及び追加説明)。
 人々を混乱させ、傷つけ、信頼関係を引き裂く。どの紛争地でも和平推進派はこの伝統的軍事戦略と闘ってきた。アラウジョの語気が強まる。
 「日本、米国も、EUも、マスコミも、東ティモール人の問題解決能力をうんねんする前に、インドネシア軍を我々の目の前からどけてほしい。」

(註1)7月17日
 この日、東ティモールのディリでは、州政府主催の「統合記念式典」が行われたが、住民の多くが「併合」に抗議する黒服を着て外出を避けたため、流血の事態は回避された。今回の住民の対応は学生運動指導者のよびかけに応えたものだ。また、インドネシア駐留軍のスラトマン司令官は「近く駐留部隊(約12000人)の削減を開始する計画がある」と語った。
 一方、ジャカルタではジャムシード・マーカー国連事務総長特別代表が獄中にある抵抗運動指導者、シャナナ・グスマォンと会見し、インドネシアと東ティモールの旧宗主国ポルトガルが、相互に第三国を利益代表として連絡の強化を図ることが検討されていることを伝えた。(7月17日付『朝日新聞』による)

(註2)ナフダトゥール・ウラマ(NU)
 伝統社会に根をはったインドネシア最大のイスラム教団体。信徒数3000万。

(註3)ムハマディア
 インドネシア第二のイスラム教団体。信徒数2800万。NUに比べて近代派とされ、教育や社会福祉分野で活動している。

(註4)サンタクルス虐殺事件
 1991年11月、東ティモールで発生。国軍によるデモ隊への発砲と軍病院での負傷者殺害などで約200名が死亡。犠牲者の遺体は未だに返還されてない。

(註5)各地から集まった東ティモール人の後方支援はインドネシア人が行なった。

(註6+訂正及び追加説明)「華人女性への集団暴行事件について、実行犯はこれらの東ティモール人だったという記事を掲載している」という記述は誤りでした。お詫びして訂正します。7月24日のアジアウィーク誌には、5月14日の出来事に関するドキュメントの部分で、「軍の仕事をしているある民間人によると、暴動があった前の週に、特殊部隊の訓練を受けた数百人の青年が東ティモールからジャカルタに投入された。彼らはチャーター機でディリからジョクジャカルタに飛んできた」と書かれています。暴動挑発やレイプ等の実行犯は、東ティモール人の可能性もありますが、「東ティモールで訓練を受けたインドネシア人」の可能性もあります。いずれにしても、黒幕は、軍の特殊部隊で、東ティモールがこのような任務の「実践訓練地」となっているということになります。7月15日のAFP通信は、国軍筋は、この時期「軍の訓練を受けた数百名の青年が東ティモールからジャカルタに投入された」ことを認めたと伝えています。 

(ふるさわ・きよこ/PARC運営委員・恵泉女学園大学教員) 


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