秋の磐越路-2

日本の鉄道橋はイギリスの建築技師ポナール(1881年〜96在職)の指導により、200フィート型トラス・ピン結合橋を導入することにより長良川、木曽川、天竜川などの大きな川に鉄道橋を架けることが出来たため、何のとか東海道線を開通することが出来ました。
明治末期の磐越西線開通には、ポナールの後を継いだアメリカの建築技師クーパーの功績が大きい。
彼は応力などの緻密な理論計算に基ずくアメリカ流の架橋設計で、水量が多く流れが速い阿賀野川の架橋工事をアメリカ製の300フィート型トラス・ピン結合橋を輸入することで実現させました。
中でも難工事だったのが、尾登-荻野間にある釜の脇橋梁(下の写真)だった。当時のこの付近の阿賀野川はダムが無かったので深い谷間に水深が15メートルもある速い流れで中央に足場が作れないため、カナダの建築技師ワデルに技術指導を仰ぎ、日本初の「カンチレバー式」(少しずつ橋を延伸し、橋の中央で双方を連結)で架橋した当時は珍しい鉄橋だったようです。


「秋の釜の脇橋梁」 
この日の阿賀野川はとても静かだった、川面が水鏡になり面白い絵になった。
尾登-荻野間 2000年11月




「秋の飯豊山」
飯豊連峰がうっすらと雪化粧していた。対岸の丘から85ミリで撮影。
山都付近 2003年11月




船岡のお寺から農家の屋根越しに一ノ戸川橋を渡るシゴナナを200ミリで撮影する。
山都付近 2001年11月




明治の頃、磐越西線のトンネルや橋脚を作るため喜多方の三津谷に煉瓦工場が創られました。
三津谷で焼かれたレンガは普通のレンガより硬かったため、現在も崩れることなく磐越西線をささえております。
磐越西線全通後、三津谷のレンガは喜多方周辺の蔵を飾りました。
後世、レンガで創ったアーチ形の窓や洋風のエキゾチックな蔵建築が話題になり、「蔵の街・喜多方」が町おこしになりました。
「喜多方ラーメン」が話題になる前の話しです。

三洋電子の裏山から俯瞰すると、喜多方駅を発車する下り列車を遠望出来る。
濁川橋を渡るシゴナナを600ミリで撮影した。
喜多方付近 2001年11月



「蔵の街を行く」
喜多方-山都間 2005年11月




三洋電子前の桜並木が赤く色ずいていた。
築堤を登るシゴナナを30分の1秒で流し撮る。
喜多方-山都間 2005年11月 (D2X使用)


「紅葉の下で」
堂島-会津若松間 2004年11月



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