会津にシゴナナが復活する、それも毎週土日の定期運行だ。
このビッグニュースを、私は複雑な思いで聞いた。
「シゴナナは撮りたいが会津では」

故郷の蒸気機関車は、私の中では特別な思い出。
好きだった会津線の桑原。
良く通った日中線。
SLがいっぱいいた会津若松の機関庫。
私の脳裏の中ででは、みんなずっと昔のままで、
生き生きと煙を上げている汽車たちがいすわっていた。
そう、いつでも夢想することが出来た。
25年前の「あの朝」以来、そこを訪ねるのが怖かった。
ダムの底の桑原。
線路の無い日中線。
SLのいない機関庫。
もしそこに立って、現実を見てしまったらと考えただけで怖かった。
「あの朝」以来ずっとさけていた。
「そっとしておいた方が、いつまでも夢を見ていられる」
そう、毎年冬にデゴイチが会津で走っているのも無視していた。
「会津に行って雪の中を走るデゴイチを撮りたい」
でも行けば夢が壊れる。
それが怖かった。
ずっとためらっていた。

シゴナナの事で、迷いがふっきれた。
「最後になるかもしれない、デゴイチを撮りに会津へ行こう」
「そう機関庫に行き現実を直視しよう」
「そして夢から抜け出そう」
「シゴナナを撮ろう」
と思った。


「峠道」 中山宿付近 D51498  1999年2月


「雪原を行く」 猪苗代付近 D51498  1999年2月
 



「見えない発車」 磐梯町 1999年2月




「吹雪の爆走」 東長原付近 1999年2月




「転車台」 会津若松 1999年2月

25年ぶりに会津若松の機関庫を訪れた。
石炭の焼けた臭い。
潤滑油と蒸気の香り。
そしていつも煙が漂っていた懐かしい機関庫は、
四半世紀の時の流れにも変わらずそこにあった。
水色に塗り替えた柱のせいか、こぎれいに見えた。
気動車が並んでいた、DD14が2両大きな車体をちじこませるようにいた。
いっぱいいたDD51やDE10はどこに行ったのか?
茶色い客車、黒いラッセル車もいなかった。
ED77が16両もいた電気機関車の整備庫には、
ラッセル装備のDE15が2両いるだけでガランとしていた。
C58が忙しく動いていた、貨物ヤードには貨車も見えない。
給炭塔もガットレンクレインもすべて消えていた。
昔と変わらないのは、機関庫と転車台だけだった。



「記念写真」 会津若松 1999年2月

「記念写真を一緒にいいですか?」
整備を終えたデゴイチの前で、機関士さんを囲んでの撮影会が始まった。
1990年2月6日に「SL磐梯会津路号」が、デゴイチで運転されてから10年間。
会津の冬の風物詩になったデゴイチ。
こんなに愛されたデゴイチの、今日が最後の運転だった。

1999年2月7日 さかい


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