湖畔を走るC56


30年以上も前の話です。
北陸のとあるローカル線のトンネルで、必ず「ポー。ポッ。ポー」と汽笛を3度鳴らしてトンネルに入るSLの貨物列車がありました。
その貨物列車の機関士が、トンネルの上にある病院に入院している末娘を励ますための汽笛なのでした。
娘は不治の病で寝たきりの生活を続けていましたが、窓から見た世界、その小さな季節の移り変わりを詩にたくし生きようとします。
日に日に不自由になる体。松葉杖から車イス、そして最後には寝たきりになるのですが、「生きたい、死ぬもんか」と詩につづり続けます。
最後の夏。そのローカル線もSLの客車がキハに置き換わります。
そんな日、担当の医者はあと数日の命と機関士に話しました。
機関士は最後に残ったSLの貨物列車の運転を志願します。
「父ちゃんは明日から朝5時50分のSLでこの下を通るから、汽笛でオ・ハ・ヨーと合図するから」と娘を励まします。
娘は力無くうなずきます。
翌日から機関士は「ポー。ポッ。ポー」と毎朝休まずに、汽笛を3度鳴らし続けました。
娘は目覚まし時計を枕元に置いて、最後まで頑張ります。

休まず早朝から働いた機関士が2週間後に倒れます。
非番の日も働いたための疲労です。
翌日の朝。娘は「父ちゃんのポーが・・・」と言い残して静かに息を引き取ったのでした。
機関士は、娘の生きる望みを自分が絶ったと思い泣きくずれたそうです。
葬儀が終わり。憔悴した機関士がSLに乗務します。
SLが病院の下のトンネルに近ずきます。
機関士は汽笛のフックに手をかけようとした時です。
機関助士が「ポー。ポッ。ポー」をやったのでした。
機関士は「君は・・・」と言葉に詰まります。
機関助士はニッコリとうなずき「先輩が休んでいる間は、皆でやりました」と話しました。
機関士は涙目をゴーグルで隠し、何度も「ありがとう」とうなずいたそうです。

そのローカル線からSLが消える日まで、その病院の下のトンネルだけは、汽笛を「ポー。ポッ。ポー」と3度鳴らしてから入ったそうです。

翌年に娘の詩集が出版されました。
作家の松本則子さんが、娘さんの手記を「父ちゃんのポーが聞こえる」という本にまとめました。そして映画になりました。
1971年9月に封切られた「父ちゃんのポーが聞こえる」です。
東宝作品で監督・石田勝心。主演 吉沢京子、小林桂樹。
撮影地・城端線・七尾線、共演C56123号機・他でした。




梅小路区  1999年4月
北びわこ号の前日、朝イチで新幹線に飛び乗り「梅小路蒸気機関車館」に開館に間に合った。
C56160号機の出庫を撮影出来たのはラッキーだった。



梅小路区  1999年4月
この日は明日にそなえ構内試運転の日だった。
私も明日にそなえ午後からロケハンに出発した。



米原駅 9241レ  1997年4月
発車を隣のホームから狙う。



田村付近 9241レ  1999年5月
前日ロケハンして決めていた、田村駅近くの忠魂碑の丘から田村駅の進入を狙う。



田村付近 9241レ  1999年5月
忠魂碑の丘からの琵琶湖を入れた風景はすばらしい。
沿線でここが一番琵琶湖が近いようだ。



田村−長浜間 9241レ  1999年5月
忠魂碑の丘から500ミリで長浜方面を狙う。



河毛付近 9243レ  1999年5月
勾配を強調するため、500ミリにTC-1.4を付け700ミリで撮影してみた。



河毛-高月間 9241レ  1997年4月
直前におばあちゃんと孫(左下)がやって来た、川岸に降りた方が絵になったかも知れない。


私は中学2年生の時、「とうちゃんのポーが聞こえる」を映画館で観ました。
滅び行くSLが、力いっぱい汽笛を鳴らして娘をはげます姿。
感動しました、そしてちょっぴり泣きました。
映画を観て、かわいいC56が好きになりました。
会津にはC56形蒸気機関車はいませんでしたが、
C11,C58,D51などまだまだいっぱいSLが走っていました。
それ以来、ひんぱんに会津機関区に通うようになりました。
おかげで「会津のけむり」を最後まで撮影することが出来たように思います。

梅小路区のC56160号機が、毎年「SL北びわこ号」を牽引して北陸線の米原〜木ノ本間22.6キロを走っていると聞いて、
いてもたってもいられなくなり新幹線に飛び乗ったのは、1997年4月のことでした。



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