蒸気機関車の歴史

1776年英国のJ・ワットによって蒸気動力による蒸気機関が発明され、産業革命の原動力となりました。
産業革命の過程で輸送需要が最も高まったのは石炭です、製鉄に不可欠なコークスの原料であり、ほとんどの工場のエネルギー源が石炭でした。そして石炭輸送の幹線になっていたのがイギリスでは運河でありました。
鉱山で採掘された石炭は馬車で運河まで運ばれ船で工場まで運ぶわけですが、運河を掘る工事とその資金は膨大になり採算がとれなくなる問題が生じ、新しい交通手段の開発が要求された時代でもありました。
蒸気動力を車両に使う研究は最初は道路上で試みられましたが、車両は相当の重量となり舗装のない当時の道路ではささえることが出来ず車輪が埋まってしまい失敗に終わりました。
大きな車両重量を負担出来るのは鉄のレールを敷いた鉄道とせざる得なかったのです、その時から蒸気機関車の歴史が始まったのでした。

最初の蒸気動力による機関車がレールの上を走行したのは、1804年南ウエールズのペニダラン(Penydararan)という町にあった鉄工所の構内にあった軌道上です。この蒸気機関車は英国人のR・トレビックの手によって創られた約4.5トンの車両重量で、大きなハズミ車を有し、いくつかの歯車を経て車輪を駆動するといった不恰好な形態でしたが、構内の入れ換え作業用で時速6キロ程度で動いていました。

その後、長距離でも走行できる本格的なSLを制作したのがG・スティブンソンです。彼は1825年イングランド北部のダーラム州にあるストックトン〜ダーリントン間(S&D鉄道)61Kmに世界最初の蒸気機関車による鉄道が営業開始されるのに先立ち「ロコモーション号」を制作しました。全長9m 機関車重量6.5tトン動輪直径1219mm ボイラ圧力1.7Kgの性能で、小形ながら90tの列車を時速20キロで運転出来ました。
S&D鉄道は後にノース・イースタン鉄道に合併され、その路線はそのまま現在のイギリス国鉄となっております。「ロコモーション号」は現在もダーリントン駅構内に大事に保管されています。
ロコモーション号は煙管が短いため煙突が真赤に灼熱し、煙突から火炎を吹いて走ったので、このSLを火竜と呼んで恐れられていました。また設計の未熟さと工作技術の幼稚さがボイラやシリンダの破裂事故をまねき、多発したためSLは危険な乗物と見られていたようです。

4年後の1829年リバプール〜マンチェスター間にリバプール・マンチェスター鉄道が建設されたが、依然としてSLは信頼性が低かったため、使用する機関車を懸賞募集し、競争運転を行ってその成績により採用を決めることになりました。
機関車に対する要求性能は重量6.1t以下、蒸気圧力3.5K以下で、20tの列車を16キロ以上の速度で牽引するのが条件でした。
歴史的な競争運転に参加したのは5両のSLでした、2両は要求性能を満たせず失格、2両は故障のため走行を残念、残ったのがG・スティブソン制作の「ロケット号」でした。
ロケット号は20tの列車を平均速度22キロで牽引し、単機運転時の最高速度は50キロというすばらしい成績で優勝し、同鉄道の採用が決まりました。
ロケット号の構造は、本格的煙管式ボイラーに火室を設けて効率を高め、燃焼を助勢するためのブラスト装置、ボイラの左右に配したシリンダ機構等の合理的な設計と余裕のある安全設計で制作したため、SLに対する危惧を一掃し、その後の蒸気機関車の設計の基本となるすばらしい構造を持ったSLでした。
すなわちG・スティブンソンのロケット号蒸気機関車こそ、そのすぐれた性能と輝かしい功績から見て、歴史的に蒸気機関車の第1号と称すべきでしょう。

レールの幅(ゲージ)について
1435ミリのレール幅は、イギリスの荷車の車幅が1435ミリだったことに由来します。その荷車が産業革命期には炭鉱の中で使われ、狭い坑道の中でぶつからないよう、坑道の中に木の枠のレールが敷かれたのが始まりでした。それを人が牽き、馬が牽き、重い荷車では木の枠では耐えられず、鋳物の鉄が敷かれるようになって荷車⇒貨車になり、SLが牽いたのでした。
当然スティブンソンは1435ミリを標準ゲージと考え蒸気機関車を造りました。
法律で標準ゲージを1435ミリと決めたのは、1846年8月のイギリス議会でした。


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