日中線-1


明治時代の頃、東北本線のルートの他に「野岩羽鉄道」という東北縦貫鉄道の構想があった。
上野からまっすぐ北上し今市市から山王峠を越え田島町を経て会津若松市に至る、(現在の野岩鉄道会津鬼怒川線のルート)
会津若松から喜多方市を経て北上し大峠を越え米沢市に至り、現在の奥羽本線のルートに繋ぐという広大な鉄道構想だった。
しかし日光那須連山と飯豊連峰を抜けるため難工事が予想されたため、現在の東北本線のルートに決まったという。
その名残というべき鉄道が1938年(昭和13年)に開業した日中線だった。
喜多方から日中温泉(現在の日中ダム付近)まで工事が進んだが、熱塩まで線路を敷いた段階で戦争のため工事が中止になり、喜多方-熱塩間11.6キロの日中線として1938年8月18日開業した、戦後延長工事されることは無かった。
開業当初はC12形蒸気機関車の牽く列車が1日6往復あったが、漸次少なくなり1948年からは朝1往復、夕方と夜の計3往復の混合列車(客・貨列車)に短縮された。
1970年からはC11形蒸気機関車が入線し、C12形蒸気機関車は日中線から姿を消した。

下記は熱塩駅の1974年当時の時刻表
熱塩発07時02分(622レ)喜多方行き。
熱塩発16時51分(624レ)喜多方行き。
熱塩発19時17分(626レ・終列車)喜多方行き。
何と線名とは逆に日中は全然走らない日中線だった。
終点の熱塩駅には転車台が無いため、朝の622レはC11のバック運転になり、逆に午後の624・626レは正常運転で喜多方に戻るという変則運転だったが、写真を撮る鉄道ファンにとっては絵がらが変わるので好都合だった。
当時1日3往復の不便な日中線を利用する客は、喜多方に通学する高校生などで、ほとんどが平行して走る会津バスを利用したため、乗客の少ないのどかなローカル線だった。
1971年の日中線の経営成績は、収入1200万、経費6300万、損益5100万の赤字路線だったが、同年に国鉄が出した2425億円の損益に比べれば微々たる数字かも知れない。


喜多方駅で降車した乗客は私を含め10人だった。 C1163  1974.6.9



624レを牽いて喜多方に戻ったC11215は、
最終の625レを牽くまでのしばしの時間に給水と石炭を整えていた。 
 1974.5.11



座席の背もたれも床も全部木製のオハ61の車内、
戦前の木製客車の鋼体化改造だけあって、よくゆれるため私は嫌っていた客車だった。
村松駅 C1180  1973.8.21



小学生の鉄道ファンがずっと外の景色を見つめていた。

外を覗くとC11の影が一緒に走っていた。
村松-上三宮間 C11215  1974.4.15



上三宮駅の手前にある押切川橋は、日中線では唯一絵になる鉄橋だった。
C1163  1974.11.6



子供達は汽車が大好きだ。
加納駅 C1163  1974.11.7



「道草」 加納駅 C1163  1974.11.7



「ちょっとだけだぞ」子供達は先を争そって運転席に入っていった。
加納駅 C1180  1974.7.14



この日は加納駅でワムを3両ほど増結した。
日中線に限らず当時のローカル線では混合列車が多かった。
加納駅 C11215  1974.5.11


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