只見線を走った汽車たち。
只見線の歴史は1926年(大正15年)10月15日、会津若松〜坂下間の開業に始まる。
当時走っていた機関車は、明治生まれの輸入機関車2120形B6)タンク機関車5両で木製2軸客車を数両を牽いてトコトコと走っていた。B6形機関車には発電機が無いため夜になると車内は真っ暗、硫酸利用の充電式電池による小さな電灯が、1つだけ心細く光っていたという。
1928年(昭和3年)11月20日、坂下〜柳津間が開業にともない2500形(アメリカ製B6)2両、2900形(B6を1−C-1の軸配置を改良機)3両が増備されたが、坂下〜塔寺間の3キロにおよぶ25パーミルの急勾配は、B6形機関車には大変酷な運転だったようで登りきれずに何度も後戻りした列車があったという。
1932年C12形蒸気機関車が誕生するとさっそく只見線に投入され1935年(昭和10年)までにB6形機関車に替わり7両配備され只見線の主力機関車となった。
B6形の只見線運用期間は短かった。
1936年(昭和11年)5月には、C5674号機(1942年供出、戦後ビルマで行方不明)が会津区に新製配備されC56形蒸気機関車が初めて只見線に入線しC12形と共通運用に入った。1938年2月にはC56形130・131・132号の3両が新製増備され只見線で活躍したが、1941年3月釜石区に転出したため会津の地で活躍したC56形の運用期間は5年と短かかった。
1941年(昭和16年)10月28日、柳津〜宮下間が開業し併せて転車台も宮下駅構内に設置された。
1942年(昭和17年)11月1日、新潟側の小出〜大白川間が開業。
C11形蒸気機関車の只見入線は1946年(昭和21年)4月のC11323・324号の新製配備に始まる。同時期C10形蒸気機関車も只見線入線をはたしており、戦後は貨物の増加、旅客列車の増結などのため、C12形からC10形・C11形に只見線の主力機関車が移っていった。
C12形機関車は1955年までにC10形・C11形にすべて置き替えられ只見線から姿を消した。
只見線でのC12形の運用期間は以外と長く20年間におよんだ。
1956年(昭和31年)9月20日、宮下〜川口間が開業し併せて川口駅構内に転車台が設置された。
1956年4月1日の会津機関区SL配備表によると、C10形8両、C11形15両、C12形2両(日中線用)、D50形17両(磐越西線、若松〜郡山間用)、D51形1両、計43両もの蒸気機関車が配備されており、会津機関区のSL黄金時代だった。
C10形は1962年(昭和37年)6月、C104号機が廃車になったのを最後に只見線から消えていった。
C10形機関車の只見線での運用期間は約17年間だが、晩年は只見線のダム工事用の機材運搬用の臨貨レが主な仕事だった。
以後1974年(昭和49年)10月31日の只見線無煙化までの12年間は、C11形蒸気機関車だけの独占運用区間になった。
1963年(昭和38年)8月20日、川口〜只見間開業し併せて只見駅構内に転車台が設置された。
1969年(昭和44年)9月30日、小出〜大白川間のC11形の運用がひとまず終了したが、1970年の冬季と翌1971年の冬季に一時的だがC11形が復帰運転した。理由は客車に暖房用の蒸気を供給するためだったという。
1971年(昭和46年)8月29日、只見〜大白川間開通により、会津若松〜小出間135.2キロ全線が開通した。
1972年(昭和47年)10月1日、若松〜川口間客レ2仕業、若松〜宮下間客レ1仕業に残っていた、C11形の引く旅客列車がDC化された。
1974年(昭和49年)10月31日、若松〜只見間貨レ1仕業(若松〜川口間の臨貨レ1仕業も時々走っていた)、若松〜坂下間貨レ1仕業がDL化され只見線の無煙化が完了した。
只見線でのC11形蒸気機関車の運用期間は、1946年4月〜1974年10月間の28年6ヶ月間におよび、前期6形式の中で最長期間を走ったことになる。
私もそうだが、ほとんどの鉄道ファンは只見線=C11という印象が強いのは、蒸気現役時代の晩年までC11形がすばらしい只見線の風景の中を走った、その勇姿がまぶたに焼き付いているからなのではないだろうか。


 第3只見橋を渡った列車は、長いトンネルを2つ抜け早戸駅に着く。 
早戸から水沼にかけたは、ゆったりと流れる只見川に沿って走り水沼駅にすべり込む。
水沼駅を出たC11は、約500メートルで第4只見橋(水沼橋)にさしかかる。

第4只見橋は上部アーチ橋で、国道側にお立ち台があった。
C11204  1974.8.4


第4只見橋を渡った列車は、上り勾配を力走して中川駅に到着する。
中川-川口間の只見川は、川幅も広く雄大に流れる。

中川-川口間 C11192  1974.8.29




川口駅には、大きな材木の積み出し場があった。
材木をクレーンでトラ(中央の貨車)に積み込む作業は、当時は日常的に行われていた風景だったが、
C11254がその向こう側で、入れ換え作業をしていたので狙ってみた。
  1974.9.16




川口駅は、下流の上田ダムで堰き止められた只見川が湖のようになっており、美しい駅だった。
入れ換え作業をするC11192  1974.8.29



川口駅を発車するC11192、右端に給水塔と転車台が見える。
遠くに見えるのは道路橋。
1974.8.29



川口駅を発車したC11は、約1キロ先の第5只見橋を渡り本名駅に到着する。

第5只見川橋は、会津では良く見かける上部アーチ橋だ。
C11254  1974.8.20



本名駅を出た列車は、左にカーブし本名ダムの前に架かる第6只見川橋を渡り只見へと向かう。

本名ダムと第6只見川橋。
臨貨460レ C11254  1974.9.16
  
只見線の歴史は、水力発電の歴史でもある。
電源開発のためにダムを建設し、その資材を運ぶために只見線は延びていった。
発電所建設は、只見川の流れを大きく変えた。
ゆったりと流れる只見川と川筋をぬうように走る只見線。
そこには人間が創り出したすばらしい鉄道風景があった。


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